07/25: 1977年1月 沖縄の雑誌『青い海』№59 安里徳仁「米寿を迎えて」
○1981年4月『オキナワグラフ』「わしゃ91歳のドライバー 100歳まで頑張るヨ 北中城荻堂 安里徳仁さん」
荻道イーヌモーに村有志が建てた安里徳仁琉歌碑「沖縄男児 ひやみかち立てば ならんことねさみ ちばて見しら」
2001年3月 『北中城村史』第3巻(移民・本編) 安里ノブ「安里徳仁とアメリカで暮らした幾年月」
2008年9月15日「人生は日々勉強」92歳の現役女子大生・安里信子さん (比嘉康文)
戦前、沖縄からハワイやアメリカ本土へ移民した人は多い。信子さんの住む荻道の集落も例外ではなく移民の多い地域だ。父母がハワイに移民し、信子さんはハワイで生まれた。祖父の死で一人ぼっちになった祖母が「さびしく暮らしているのは忍びない」「一人でいると、子孫がいないと思われては困る」という理由で、初孫の信子さんは2歳のときに親戚に連れられて帰郷した。尋常高等科を卒業し、産婆養成所を出て看護婦として働いていたが、アメリカ移民として一時帰国した安里徳仁さんと20歳で見合い結婚した。
「当時、周りから勧められてお見合いをした。アメリカ生まれでないと、結婚してアメリカに住めないと言われて、見合させられた。結局、周りの人たちに騙されたのね」と屈託なく笑う。夫とアメリカに渡り、ニューヨークなど各地で働いて、落ち着いたのがシカゴ。豆腐屋やスーパーを経営して一生懸命に働いてた。それが大家さんに信頼され、大家さんの4階建てビルを購入した。それをきっかけに事業に成功した。戦後、沖縄からの米国留学生や米国から国民指導員として招かれた人たちを自宅で歓待した。
信子さんは「お客さんが家に大勢来るので、おいしい料理も出さなければならず、料理学校に通った。その時々で必要に迫られて学んできた。アメリカのハイスクールに入学したのは47歳、アメリカで理学療法士の国家試験に合格したのは57歳のときでした」と話している。戦争で強制的に帰国させられたが、戦後再び渡米した。アメリカには38年間いたが、1975年に引揚げてきた。「英会話には不自由しないが、書くことになると困る。ハワイにいる妹からくる手紙のようにきれいな英語を書きたい」と意欲的だ。
信子さんは現在、放送大学で英文法、英作文を学んでいる。「年だからもの覚えが悪くて……」という信子さんは、テキストの予習・復習に熱心だ。「分からないと、何回でも繰り返してテキストを読む。集中して勉強するので、終わると一度に疲れがでる。でも、知らないことを学ぶというのは充実感があって、楽しいですよ」と話す。放送大学は7年前から在籍し、「分からないことを学ぶのが大好き。ボケ防止にもなるので、有り難い」。これまでに家族論、沖縄文化、郷土芸能、アメリカ史などをの単位を取得している。
2010年3月 『荻道字誌』「人物/安里信子・安里徳仁」
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