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ミルクウンケー(琉球語 うちなーぐち)直訳すれば「弥勒様のお迎え」とすればいいのだろうか?今年は8月17日(日)午後4時30分、赤田首里殿内(アカタスンドゥンチ)跡の赤田クラブから弥勒様御一行がお出ましになる、僕もバイクに飛び乗り駆けつけた。「ミルクウンケー」については『沖縄タイムス大百科』から以下転載する。

 弥勒菩薩(みろくぼさつ)の化生といわれる中国唐代の禅僧、布袋和尚(ほていおしょう)が、七福神の一つとして京都の祭礼の行列〈風流〉に登場したのは室町時代といわれる。
 首里では350年程前、石川門中の祖、求道 〈ぐどう〉長老により、赤田首里殿内に弥勒面が祀られ、7月14日に泰安所を開き、16日に門中を中心に道ジュネー(行列)があった。赤田マチグチ(赤田市場口、今のウフカクジャー交差点から南に100メートル足らずの路肩一帯は赤田市の跡で沖縄戦まで、食肉、豆腐、野菜、雑穀など、主として食料品の相対売り市場であった。←久手堅憲夫著『首里の地名』より)突き当たり右に直角に曲がるあたりに舞台を設け、その中央に面や胴、衣装一式を安置し、まわりには弥勒御愛子(ミルクウミングヮ、ミルクングヮ)が並び大香炉に香を焚き、東に向かって(←ここ重要)世界風
ユガフ、豊作、健康を祈願した後、祭主の本家、大石川(ウフイシチャー、首里石川の宗家)の家長が面と作り物の胴をつけ、ドゥジン・袴をつけ胸をはだけて大団扇(うちわ)で豊年を招き寄せながら、舞台をしずしずと一周する。

 弥勒面は戦災で焼失したが、平成6年に復元された。 行列は高張提灯一対を持ち、先頭に警護役、弥勒、路次楽隊(ろじがくたい)、ミルクングヮ、赤田の村人の順に、首里殿内跡の赤田クラブを出発して、弥勒節を歌い、且つ奏でながら赤田マチグチに向かう。(赤田市のない今では、赤田クラブの庭に舞台を設え、赤田クラブを出て赤田町の外周を1時間ほどかけて、マチマーイ(街廻り)をした後、クラブの舞台でのウトゥイムチとなる。  転載ここまで。( )の解説は筆者。 

 通り沿いには大人に混じって小さな子を抱いた人や、ベビーカーの赤ちゃんが詰めかけ弥勒の団扇の洗礼を待ち受けていた。2~3歳くらいの子等は弥勒様の大きな顔にビックリして泣き出したり、逃げだす子もいて、見ていて楽しい。今回見ていて、「時代だよなぁ~」と思ったのは、ペットの犬や猫を抱いて待ち受ける人達がいたことだ。でも心優しい吾ら弥勒加那志(ミルクガナシー〈ガナシーは尊称〉は人畜の分け隔てなく、その福の風を送るのでした。

 ミルクのゆったりとした行列が移動するにつれて、笑顔や歓声の波が移って行く、それがやがて赤田町全体を包み込んでいく・・・・・極楽浄土の風が吹いているんだ!この光景を見ながら僕は例によって「俺は今、天の御国にいる!」と呟いたのだった。


ミルクングヮと チャンチャンと ピーラルラー
 ミルクングヮはンカジバタ(百足旗)ムカデの足のようなヒラヒラの付いた三角旗を持っている。保育園児から小学校中学年(3~4年生)の児童からなる。僕のオヤジも2回でたと言っていた。(左写真)路次楽隊の端のメガネをかけた女子中学生が持っているのが「チャンチャン」中華シンバルと名付けておく。 (写真右) 主旋律を奏でるピーラルラー(確かにそのような音色がするが、チャンチャンといい、このピーラルラーといい、琉球の先人達の音色をそのままに、その楽器の名称にするセンスには笑っちゃうのだ)ピーラルラーはチャルメラともいうらしい。思わずインスタントラーメンの外装に描かれた屋台のオジサンを思い出した。「夜鳴きソバ屋」のない沖縄でも、あの「ソラシーラソ・ソラシラソラー」の旋律を思い出す。 チャルメラとあの旋律については面白いので調べて『番外編』を後付けする。

ウトゥイムチ
  赤田町を一周して赤田クラブに帰ってくると、クラブの庭に設えたバンクと呼ばれるステージでのウトゥイムチ(ミルク様への お・も・て・な・し タイムです)歌や踊り、空手の演武などで、ミルク様と下界の衆生との年に一度の邂逅(かいこう)を供に歓び、その幸せを皆で分かち合うのです。直会(なおらい)、沖縄でいうウサンデーです。喜びも悲しみも、そして食べ物も供に分かち合い戴く、そしてその歓びを確認していく事はとても大切な事です・・・・ここをクリック


弥勒菩薩と布袋さん
 今回、友人の一人と「赤田のミルクウンケー」の話しをしている中、「あれは、弥勒菩薩ではなく、布袋さんだぜ!」と意見が一致した。10歳を過ぎた頃から(もの心の付いた頃)から、ミルクの話は父から何度となく聴かされてきたが、布袋だの弥勒だのという話題になった事は無く石川門中でも「肥満体のジーチャンイコール 「ミルク様」と言う考えが固定化されているのだと思う。(ミルク様悪口じゃないのですゴメンナサイ!) とても新鮮な気付きであった。

 弥勒菩薩といえば、京都広隆寺の半跏思惟像(はんかしいぞう)が有名である。(写真左、郵便切手にもなった)。修学旅行で半跏思惟像に初めて出会った時は、その美しさ、静けさに、しばし、動くのもためらわれた記憶がある。それにしても大きなお腹で明るく、豪放磊落な熱血漢、たくさんの子供たちを引き連れて旅をしていた布袋さんと、慈愛に満ちて思慮深そうな弥勒菩薩ではイメージのギャップは甚だしい。

 そこで、この謎を解明しようと弥勒菩薩と布袋さんとの関係をネットで調べてみた。
 インドで生まれ、中国を経て日本に伝来した仏教は、その時代や地域と複雑に絡み合い、変化し、日本の神仏習合まで併せると、とても僕のような凡人には他人に説明などできないと思い知った。そこで、おもいきりハショリ、平ベッタク云えば。弥勒菩薩が一般の衆生を救済する時には垂迹して(本地垂迹説の垂迹)布袋さんの姿を借りて人間世界に現れる化生としての布袋さん・・・というところに辿りついた。布袋和尚は800年代後半に生まれ、916年に没した実在の禅僧である。(神とキリストの関係に少し似ている。)
 弥勒菩薩が七福神の一人となった今、そのご利益は、夢を育て、人格を磨き、円満な家庭を築いて、金運を招福するということで、慈恵(いつくしみ)と和合の神様、予知と金運の神様として信仰されているようである。
 そういえば、七福神のなかの紅一点、弁財天も龍潭の東に、天女橋とともに弁財天堂として県民に親しまれている。



ミルク石川の話(吾等はミルク石川と呼ばれ350年程まえ勝連南風原から来た)

  
~~~~~キャプションにかえて~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
[左]の写真は、昭和50年作成された系図、[中]は系図作成を発起し、お一人で1年かけて東奔 西走した石川 松翁肖像、[右]は巻末の奥付け、編集責任者は作家の石川文一氏(戦場カメラマン石川文洋氏の父君(分家饅頭屋石川)、印刷製本は「みどり印刷」印刷を生業にしていたので石川逢正も委員の末尾にくわえられた。(分家 ゴーグチ石川)
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 350年程前、16世紀(康煕コウキ年間)一人の少年が勝連南風原から首里円覚寺の小坊主として首里に来る、長じて求道長老(ぐどうちょうろう)と呼ばれた(石川門中では親しみをこめて勝連長老(かっちんちょうろう)とも呼ぶ。妻帯できない僧の身ゆえ、勝連から弟を呼び寄せ彼の男児を養子として、求道は首里石川の祖となった。
 求道は「上の毛」周辺の寺屋敷にあった「白蓮院」「青蓮院」など・・・寺の特定はできないがその住職であったので、死後その寺に墓はあった。その墓は「長老御墓チョーロウウハカ」と呼び、石川家のカミウシーミーは沖縄戦までその墓で行われた。
 大寺(ウフディラ)とも呼ばれた円覚寺は尚王家の私寺となっているが、その住職は首里の禅寺の輪番制であったと聴いているので円覚寺の住職も務めたであろう。

 その求道長老が、首里殿内から、たいこく(大国?)に派遣された。大国で皇帝に会い、琉球の教育、信仰の問題を語った。 そこで皇帝は「釈迦」 「孔子」 「弥勒」の掛け軸から一つを選択するように話された。そこで長老は平和を祈願する「弥勒」の掛け軸を戴き持ち帰った・・・(オリジナルは掛け軸)。
 その弥勒の掛け軸はとても価値が高いもので在った為、首里王府に召し上げられ、その際、レプリカとして、今に伝わる弥勒の面と胴、チジン・袴、杖、唐靴など一式が王府から下賜された。(勿論、そのオリジナルは戦災で焼失、現在のものは平成6年の復元のとき作成)それを首里殿内に泰安し、石川門中は弥勒を信仰、その信徒として大石川が「ミルクウンケー」の行事を執り行っていた。

※首里真和志町の渡嘉敷一門には観音信仰があり、その子女は他家に嫁して後も家族に強いる事無く小さな観音像を大切に祀っていたと聴いている。また、辻の遊郭でも裏庭には祠を設け弥勒を祀る習慣があったとも聴く、この様に琉球では門中やギルドのような枠組みで仏教が伝えられて行ったのかもしれないと思った。

石川のミルクはどんな経緯で赤田村全体のミルク様になったのか?

 年代と病名は定かではないが、江戸幕末期にコレラか天然痘の猛威が琉球から九州、西日本一帯を襲ったそうである。その際、石川一門の人々は病気に罹患しにくく、死者もでなかった。(もしくは、圧倒的に数が少なかった)それを見て、これは弥勒信仰の賜物であろうという評判が興り、赤田の村人から大石川に「どうか石川だけの弥勒ではなく、赤田村全体の弥勒様にして欲しい」という要望がよせられた。当時、経済的に逼迫していてミルクウンケーの行事を支えるのに四苦八苦していた(あるいは、沖縄社会全体がそうであったのかも知れない)そこで「渡りに舟と」合議の末その要望に応諾したそうである。
   ※石川の人々のDNAには繁殖力が強く、免疫力の高い要素があるのかもしれない。

 男系組織の氏族の門中制度にあっても、石川の子女達は他家に嫁し、また他家から嫁を迎える・・・・ そのような形で縁者は増えていく。首里三箇に大石川がポツンとあったわけではなく、多くの人々に守られ門中制度も存続してきたのだろうと想うのである。石川ミルク物語を想うとき強く実感する。

 今回は、少し長くなったがネットで収集した那覇市の資料室がまとめた資料と、石川門中に伝わる伝承をつき合わせ、整合性を高め、少しタイムスパンを拡げたもので、資料性も高い良いものが出来たと思う。
また今回は、僕の時代でやっておくべき『僕の仕事』だとも考えた。