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正式名称は 沖縄「建白書」を実現し未来を拓く島ぐるみ会議 と呼ばれる。その事務局が主催して毎週月曜日の朝10時からバス3台を借り切り、先着順で、代金は1000円。11時過ぎに辺野古漁港着、カヌー隊の出発を激励し、「へのこテント村」の現地の人達との交流、そして持参した弁当で昼食をとり、キャンプシュワーブ前の座り込みに合流し集会を持ち、3時30分に現地を出発し、4時30分に出発点の県庁前県民広場前に帰ってくるというツアーの情報を得て早速友人4人と供に参加した。
 今回はそのレポートである。
 予定した9月15日は(月)は「敬老の日」の公休日。「公休日なので、普段仕事をしている人達も参加し多人数になるのでは?」とか「こういう催しはリタイアしたシニアが多いので、彼らは当日〈敬老会〉に出席していて案外少ないかも・・・」いろいろな考えが錯綜する中で「とにかく早めに到着すれば間違いない!」という意見に落ち着いて、朝8時30分、みどり印刷前集合。モノレール儀保駅から出発に決定した。
 県民広場とはパレット久茂地向かいの角地の広場で9時10分に到着し、先着は4~5人で先ずは確実にバスに乗れると安堵した。
 中央手前の護岸に囲まれているのが辺野古漁港、中央の菱形の白い部分がキャンプシュワーブの兵舎群、北東から南西に国道329号が横切っていて、北西部に大きく広がる山林部には訓練場や弾薬庫がある。その左下の集落が辺野古。キャンプシュワーブの向こうに広がるのが大浦湾(最深部40~50M)大浦湾の付け根、写真の左奥に沖縄民謡の代表的抒情歌『二見情話(ふたみじょうわ)』の生まれた二見の集落がある。「二見情話」については、あまり知られていない「物語」がある。最終部の附録に外付けする。
10時出発 
県庁前広場出発。壷川→古波蔵→国場→一日橋交差点を左折して北上、那覇インターから沖縄自動車道を一路名護市辺野古を目指した。今年還暦を迎えた僕だが、本島北部の東海岸は今回で3回目ということで何処をどう通ったのかは説明できない。陽光まぶしく、進行方向左手の金武(きん)や恩納(おんな)の山々の稜線が何と優美なのだろう!と溜息をついた。
 車中では、「島ぐるみ会議」のスタッフや各車両に割り当てられた講師による辺野古基地建設の経緯や現在の作業の進捗状況が詳しく説明され、現場到着までの1時間余はまたたく間であった。
 辺野古漁港到着
 バスは先ず辺野古漁港に着いた。漁港の側の浜辺には当日の海上からの監視活動に当たるカヌー隊(当日は12艇)と、漁港脇にあるテント村で泊まり込んでの活動を続ける現地の人々、100人余がすでに集結していた。
 吾ら那覇からの応援組150人の到着が拡声器から告げられると、大きな拍手と歓声が湧き起こった。砂を踏みしめて高ぶる気持ちを久し振りに感じながら、彼らの集団の輪に加わった。

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 思えば40数年前、祖国復帰の前年の夏、昭和46年(高2の頃)吾ら首里高校は全校生徒と教職員がバスをチャーターして、当時の琉球列島高等弁務官ランパート陸軍中将のいる浦添キャンプキンザーにある米国軍政府庁舎に向け、当時の1号線(現国道58号)を挟んでシュプレヒコールの拳を挙げた事を想いだした。僕にとってその時以来の直接政治行動であった。
 住民の分断を常套手段とする植民地政策が当時あり、また現在まで続いているのだ。何たることだ!

沖縄は日本ではないのか!  日本はアメリカの植民地か!  日本は本当に法治国家か?
米軍政府庁舎、右下は1号線そしてランパート中将
※ 高等弁務官は、アメリカ大統領の承認を得て、国防長官が現役アメリカ陸軍将官から任命した。高等弁務官の権限は強大で、しばしば琉球政府の施策に介入したが、逆にそれが沖縄住民の反発を買い、復帰運動は激化していった。       By Wiki.

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 二つのラウドスピーカーを足元に置いて、連日現場を支えている沖縄平和運動センター議長の山城博治さんのダイナミックな演説を聞きながら「そうだ!その通りだ!」と頭の中はメサイアNO.53『 WORTY IS THE  LAMB  THAT WAS  SLAIN』のアーメンコーラス部分の旋律がフーガの嵐となって鳴り響いていた。(アーメンとは「然り、その通りの意」)
 彼(山城さん)は、当日のカヌー隊に促して、一人一人が自己紹介を行った。12名中、3分の1程が地元沖縄の人、男女比は半々、他は本土各地からの参加、その語り口と内容には「よそ者のセミプロ的政治活動家」という風情は微塵も感じられなかった。むしろ地味で極普通の人達で誰に命じられた訳でもなく自分と向き合い、辺野古の問題を自分の問題としてとらえ、自分で決めて沖縄辺野古の行動へと身を挺してきた、どちらかといえば繊細な感性を感じさせる人々であった。
 その様な事も有り「現場に来て本物に出会い五感で感じ取る事の大切さを知った」自分にとって人生の大きな教訓ともなった。

   キャンプシュワーブゲート前テント村到着
 三々五々、食事の後テント村の住民と語り合う者、木陰に佇む等、思い思いに過ごした後、1時にバスでキャンプシュワーブゲート前に移動した。
 キャンプシュワーブは二つの扇子(せんす)を広げて、その要(かなめ)部分でつなげた形をしていて下の三角形が海に面した兵舎などの施設群、上の三角形森林部に訓練場や弾薬庫がある。その要の繋ぎ部分に国道329号が北東から南西へと横断していてその結節部にゲート(基地正門)はある。
 ゲート前にはアルソック(総合警備保障)のガードマンが30人ほど二列横隊で並び、県警は(その日、特別な行動が予定されていないせいか)1台の小型マイクロバスが在るだけであった。
 すでに150人余の人達が朝から座り込み、それに吾々の150人余の1個中隊が加わった。例によって「那覇からの応援が到着しました」と放送されると、歓声と拍手、指笛の歓喜の嵐の中、テント村の住民となり集会となった。歌を唄いシュプレヒコールの怒りの拳を天に突き上げた。久し振りに『沖縄を返せ!』
を唄った時にはなつかしくもあり、照れくさくもありで笑ってしまった。  固き土を破りて~ 民族のぉ~♪

僕のプラカード 横幅1メートル ユクシ→嘘いつわり フシガリマセン→「やってらんねー」の語感


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山城博治(やましろ ひろじ)
1952年沖縄生まれ。沖縄平和運動センター事務局長。法政大学社会
学部卒業。1982年に沖縄県庁に入庁。駐留軍従業員対策事業・不発弾対策事業・税務などを担当した後、2004年より現職。辺野古新基地建設、東村高江のヘリパット建設反対運動など多くの平和・市民団体と連携、県内外に幅広いネットワークを持つ。沖縄平和運動の象徴的的存在。
(目力〈めじから〉があり、行動力があり、声がデカく、ウーマク〈腕白者〉
沖縄人(ウチナーンチュ)の一典型というタイプで好感を覚えた)