1917年(大正6)
1月  『沖縄新公論』創刊
1月  沖縄県立第一中学校学友会『学友會雑誌』第25号□島袋盛範「物理化学の学習に就いて」、安良城盛雄「即位御大典に対する感想」、東恩納寛敷「書/松籟」、宮里栄輝「沖縄の将来」、見里朝慶「日誌の一節」、眞栄田之き「我が家」
1月1日   『琉球新報』鈴木邦義(顔写真)「本県民と国家的観念」、東恩納寛惇「組踊に現れたる組織階級」連載。「大蛇ロオマンスー諸国大蛇物語」(挿絵)。志賀重昴「謹賀新年」

潮座ー懸賞脚本募集(選者 末吉安恭、山田有幹、川崎慶治、又吉康和)

2月  ハワイ沖縄県人同志会結成□常務理事・当山善真、会計・宮里貞寛
3月19日  『琉球新報』「正倉院御物の怪事」
3月20日  『琉球新報』藤島武二「女の顔 私の好きな・・・」
3月21日  『琉球新報』「ペルリに随行した老水夫ー黒船ウアンダリア号の水夫なりしがパトリック、ムアーは本月1日米国シャール養育院に於いて死亡せり年91これにて当時一行中の生残者はポートランドに住むハーデー老人唯一人となれり」
3月26日  『琉球新報』「新女優の初舞台ー中座に於ける多嘉良妙子の音無瀬姫」(写真)
3月27日  『琉球新報』満谷國四郎「女の顔 ー私の好きなー」
4月  『沖縄新公論』末吉麦門冬「画聖自了ーミケランジェロ曰く『予が吾が芸術に妻以上のもの有す』と彼は遂に妻を娶らなかった(略)『是等の人々には祖先もなければ後裔もなし彼等は己ひとりが家系のすべてとなるのである』」
4月2日   『琉球新報』師範旅行生「旅行たより」
4月3日   『琉球新報』東恩納寛惇「修学旅行生及び其の周囲の人々へ」、岡田三郎助「女の顔 私の好きな」
4月5日   『琉球新報』「東町の火事ー両芝居も活動も中止・勇敢な糸満女の活動」
4月13日  『琉球新報』「本県人と米国婦人との結婚ー花婿は今帰仁村生まれの平良幸有(51)」
4月14日  『琉球新報』「寺内評判記ーお里の山口懸でさへ不人気」

4月1日『琉球新報』潮座ー審査発表/2等 上間正雄「史劇・時花唄」(6月21日「汀間と」改題して上演) 3等 瑞慶村智慧「史劇・犠牲者の一族」

4月18日  『琉球新報』梅泉「戯曲 時花唄 3幕5場」連載
4月24日  『琉球新報』「惨ましき露國廃帝の近状」
5月21日  『琉球新報』「尚昌氏夫人百子の方に姫君ご誕生」
5月25日  『琉球新報』「夏の窓飾ー偕楽軒」
6月3日   『琉球新報』「鈴木知事の地方自慢」
6月4日   『琉球新報』「野口英世博士重体」
6月5日   『琉球新報』「哀れ牢獄生活の前皇帝ー痛恨悲惨の境遇に泣くロマノフ皇家の方々」
6月11日   『琉球新報』「首里の孔子講演会ー真境名安興「沖縄に於ける孔子教の沿革」→6月13日『琉球新報』「沖縄に於ける孔子教の沿革」
6月21日   『琉球新報』「方言を使った生徒に罰札ー一中の普通語奨励」
6月22日   『琉球新報』「歯科開業試験に合格したる山城正忠氏は昨日の便船にて帰郷せり」
6月25日   『琉球新報』「文昌茶行(台湾)・林文昌支店久米町に開店」

1917年7月 『日本及日本人』末吉麦門冬「十三七つに就て」 
 膝栗毛輪講第三回中に「お月様いくつ十三七つ」の俗謡の意味に就き諸先生の御意見ありしが、其の意味の尤も明瞭なるは琉球八重山の童謡なるべしと思ふ。この唄の原意は八重山のが保存して居りはせずや、文學士伊波普猷氏の著「古琉球」にも論ぜられ、又八重山測候所の岩崎卓爾氏編「八重山童謡集」等にも出て居る。今「八重山童謡集」を茲に引用して御参考に供すとせむ。
 ○つきのかいしや、や、とぅかみか、みやらび、かいしゃ、や、とうななつ  譯 こは内地にて歌ふ「お月様いくつ十三七ツまだ年若いな・・・・・・・」の原歌なるべし、中央にて意味を失へる歌が西南の孤島にて、その意味を保存せるは注意すべきことなり、琉球群島は宛然古物博物館とも云ふべきか云々
8月  『沖縄新公論』末吉麦門冬「古語と方言に就いて」

9月『沖縄朝日新聞』麥生「不羈と脱心ー異名同人歟」
末吉麦門冬(麦生)「不羈脱心に就いて」□不羈と脱心が異名同人ならん歟と私の書いたのに対し、過日糸満の蓮華院の住持岱嶺和尚より高教を賜ったことを私は深く感謝する。岱嶺和尚も愚説に賛成され、間違い無かろうと云われ更に脱心に就いて語りて曰く「脱心は古波津家から出られた。この古波津が沖縄で算数の名人として有名であった古波津大主を出した家で、脱心は即ち大主の伯父に当たるのである。脱心は其の家の総領であったが、、夙に俗を厭ひ仏道を慕ふて遂に万松院の二世松屋和尚の得度を受けて剃髪したと伝えられている。尚貞王から賜ったという黄色浮織五色の袈裟同色の掛落があって掛落だけは今も私が寺宝として保存している。詩稿その他記録と云っては何も無い。廃藩前までは掛物や巻物などもあって箱一杯色々のものがあったが、悉く虫や鼠に食い散らされて、今日一つも残っていない(略)」と、麦門冬は岱嶺和尚の話を紹介し、矢袋喜一『琉球古代数学』の益氏古波津と諸寺重修記並造改諸僧縁由記の喬氏古波津と合わないのは何故かと疑問を呈している。喬氏だと名乗りは宣であるから、また喬氏は屋宣家だけである。したがって前者が合っている。

9月2日   『琉球新報』「明治大学学生募集」
9月3日   『琉球新報』「波ノ上みはらし(元十八番跡)開店」
9月6日   『琉球新報』「来る20日より若狭町電車通りで開院ー山城歯科医院(山城正忠)」「七福堂(菓子・饅頭)ー辻端道で開店」
9月8日   『琉球新報』「唐美人(石川寅治氏夫人の美術院出品)写真」「一味亭支店(東京てうち生そば、琉球そば)、東古義市場前に開店」「中央大学学生募集」
9月10日  『琉球新報』「秋近し・・・隅田川のほとり 向島白髭より山谷を望むー写真」
9月13日  『琉球新報』「家庭ー珍味お芋料理」「楚南明徳氏葬儀」
9月14日  『琉球新報』「製作室に於ける小杉未醒画伯 写真」
9月18日  『琉球新報』「横山大観氏筆『秋色』院展出品 写真」
9月21日  『琉球新報』「本日より県会議事堂で開催『第四回水産集談会』で講演する岡村博士語る『本県の海草』」
9月23日  『琉球新報』「与謝野鉄幹氏晶子夫人が歌に詠まれた伊波普猷氏と山城正忠氏(9月24日に色紙写真)」
9月24日  『琉球新報』「琉球新報創立第二十五年紀念号」「二十五年前の遊廓ー当時の料理」、山城正忠「薬秘方ーヤマトカナソメ」連載。
9月28日  『琉球新報』「化學工業博覧会開場式 写真」
10月2日  『琉球新報』「飯粒 奇行に富んだ首里の青年歌人摩文仁朝信①が逝いてもう5年・・」
□①一世・大里王子朝亮 二世・大里王子朝彝 三世・新里按司朝隆 四世・大里按司朝頼 五世・大里按司朝卿 六世・大里按司朝宜 七世・摩文仁按司朝祥 八世・摩文仁按司朝健 九世・石原按司朝藩 十世・摩文仁按司朝位 十一世・摩文仁朝信
10月3日  『琉球新報』「東京の暴風被害ー明正塾は幸いにして損害なしと東恩納寛惇氏より護得久朝惟代議士宛電報」「卓上小話ー蔡温と牛肉」
10月4日  『琉球新報』「鈴木邦義『沖縄の開発』(大阪朝日新聞掲載)」
10月5日  『琉球新報』「財界の奇傑ー鈴木商店の金子直吉」卓上小話
10月6日  『琉球新報』「卓上小話ー馬」
10月7日  『琉球新報』「大阪大暴風雨の惨状ー淀川氾濫」「徳之島平天城村土野に大火 370棟を焼く」
10月11日  『琉球新報』「暴風雨概況ー那覇測候所の観測」「暴風雨に弄ばれて運輸丸名護湾に沈没ー船客150名の中50名は助かり死体次々漂流発見」
10月16日  『琉球新報』「高橋琢也氏の主宰せる『國論』沖縄號発行」
10月23日  『琉球新報』「沖縄県立図書館の近況」「潮会の本荘幽蘭と藤川秀奴」
11月23日  『琉球新報』「写真ー県会議事堂」
11月27日  『琉球新報』「写真ー逝ける世界的芸術家佛國ロダン翁」「写真ー聖上陛下の握手を給ひたるハーデー翁」
12月1日  『琉球新報』「初めての女医ー杏フク子女史」
12月7日  『琉球新報』「写真ー退京したるハーデー翁」、山城正忠「歯医者とは」
12月18日  『琉球新報』「和洋あべこべー日本では嫁が姑を怖がるけれども、西洋では夫が姑を嫌がる。/日本では夫の家で結婚の披露をする、西洋では嫁の家でする。/日本では食事中に話をするなと教へ、西洋では盛んに話をせよと教ふ。/日本では立ち食ひを悪い行儀とすれども、西洋では立って食べることをなんとも思はない・・・・」
12月19日  『琉球新報』「小野武夫氏逝去」
12月24日  『琉球新報』「一昨夜の県庁員及記者団大親睦会ー辻花崎で、末吉麥門冬君は内海さんをつかまえて大男会をやろうじゃないかと双肌を抜いて胸を叩く・・・」
12月25日  『琉球新報』「今日は降誕祭ー其の起源」
12月29日  『琉球新報』「新年を待つ・・・雑誌屋の店頭」



1917年8月 『沖縄新公論』末吉麥門冬「古語と方言に就て(2)」
私はこれより各時代に於ける言葉の、沖縄語と同じく、若しくは似ている所のものを時代順に挙げて、沖縄語は日本語なりと云ふ証拠を示したい。先づ奈良朝時代の言語を代表するものとして、萬葉集から抜き出して見やう「わがききし耳によくにるあしかひのあなへくわかせつとめたふべし」のあなへくは、びっこひくと云ふ意味で、即ち沖縄語のなへぐに當る。「葦北の野坂の浦に船出してみ島にゆかむ波立つなゆめ」のなゆめは現に吾等が日常使用している「あんしなゆみ、かんしなゆみ」のなゆみと同じ意味である。沖縄語に心元ないと云ふことを「くくてるさ」と云ふが其の語源はわからない、茲に萬葉にこれと似た言葉がありはあるが、まだそれが直ちに同一のものであると云ふことは断定が出来ない。「春日山かすみたなびきこころくくてれる月夜に独かもねむ」のこころくくは心憂くの意であると解され、てれるは月夜にかかるものとすれば「こころくくてれる」と「くくてるさ」と一緒にすることは出来ないが、唯こころくくくくくくてるさくくは同一であるとしてもよい。


1923年2月 沖縄県立図書館『図書館報』

2014年4月24日



2004年9月23日『沖縄タイムス』新城栄徳「南方熊楠の研究成果続くー『麦門冬』にも注目集まる」
南方熊楠資料研究会の会長・飯倉照平氏の斡旋で『南方熊楠邸蔵書目録』(発行・田辺市南方熊楠邸保存顕彰会)が送られてきた。また、『南方熊楠に学ぶ』(奈良女子大学人間文化研究科「南方熊楠の学際的研究」プロジェクト)が最近発行されるなど、熊楠研究の成果が続く。熊楠は沖縄の新聞人・麦門冬(末吉安恭)と、文通で交流を深めていた。麦門冬が熊楠に送った琉球の史書『球陽』の写本が以前、熊楠の書庫から見つかって話題を呼んだのは記憶にあたらしい。麦門冬の書簡も見つかっており、交流が熊楠の琉球への関心をかきたてたことは予想に難くない。

『南方熊楠邸蔵書目録』の沖縄関係には熊楠が購入した佐喜真興英『南島説話』、折口信夫から贈られた伊波普猷『古琉球』『古琉球の政治』、横山重から贈られた『琉球神道記』に混じって麦門冬からの『球陽』などがある。『球陽』は和古書の部六歴史に入っていて「二五冊二五巻」と記されてある。飯倉氏が後書きを記して「蔵書と南方熊楠資料研究会」についてふれている。、『南方熊楠に学ぶ』では池宮正治氏と崎原綾乃さんが麦門冬の書簡を紹介、解題も書いている。書簡を通して具体的に交流の様子がうかがえる。これらの刊行によって、熊楠伝説がリアルになり、わが麦門冬もいや応なしに研究者の注目するところとなった。


2014年2月5日文化の杜にてー左から崎原綾乃さん、新城栄徳、萌子さん

麦門冬研究は大城立裕、野ざらし延男、岡本恵徳、仲程昌徳の各氏が文学で、書誌では新城安善氏、伊佐真一氏、そして粟国恭子さんが文化人類学の視点でやられてきたが、いかんせん、麦門冬の蔵書があった沖縄県立沖縄図書館や首里市図書館が戦災で烏有に帰したため隔靴掻痒の感は否めない。そこへ熊楠邸から麦門冬が贈った『球陽』や麦門冬書簡が大量に見つかったことでかなり霧が晴れた気分になった。

麦門冬を一口で説明すると、鎌倉芳太郎(人間国宝)が『沖縄文化の遺宝』の中で「末吉は俳諧を能くして麦門冬と号し、学究的ではあったがその資質は芸術家で、特に造形芸術には深い関心を持ち、琉球文化の研究者」であると述べたことに尽きる。鎌倉は続けて麦門冬の分厚い手の感触を懐いながら「この(琉球美術史)研究のための恩人」と強調している。そして、熊楠の「人生は短い、嫌なもンを習うて何が学問じゃ。そがな暇などあるかれ」(神坂次郎)という独学、民間学の大家、無頼派の世界と、沖縄で新聞人仲間で「豪傑」と呼ばれ「彼の史筆は述べるのであって、論ずるのではなかった」(東恩納寛惇)という麦門冬。二人が1918年に文通で出会い「知」の氾濫をたのしむことになる。アカデミックな研究者が読むと尤もらしく「只の遊びだ」と矮小化されてしまう世界ではある。だから麦門冬が登場しない文化人類学は私にとっては無縁の世界である。