1940年12月6日『琉球新報』□共同声明ー光輝ある紀元二千六百年を迎へ大政翼賛運動の力強き発足に當り県下朝刊三新聞社は新体制に即応して来る12月15日より新たに沖縄新報を創刊し三新聞社は欣然その傘下に合同することになりました。新しい沖縄新報は組織ある統制と清新なる計画性を以って県民に対し豊富」なる報道と適切なる指導を以って、高度国防国家の建設へ微力を尽くし、併せて県勢の振興と文化の発展に貢献しやうとするものであります。県民各位もまた本県文化史上この画期的、新新聞の誕生を歓迎しこの快挙を絶対に支持して下さるものと信じて疑ひません 右声明致します 12月6日
                                   琉球新報社 沖縄朝日新聞社  沖縄日報社

1940年12月14日『琉球新報』本山裕児「美しき争ひー映画の魅力 上」15日 下
1940年12月16日『琉球新報』「母カメ 83歳で昨日死去 男 金城松 金城山吉(在南米) 孫 金城安太郎」



1945年4月
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1980年3月ー那覇市企画部市史編集室『写真集・那覇百年のあゆみ1879~1979年』
□琉球週報は米軍の前線部隊が捕虜となった日本人の協力をえながら発行した新聞である。創刊号が出た4月29日は奇しくも「沖縄新報」の終刊号が出た日であった。 参考ー2004年12月大田昌秀『沖縄戦下の米国心理作戦』岩波書店
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1945年7月26日『ウルマ新報』(ガリ版)創刊号
□第二号ー7月26日/第三号ー8月1日/第四号「原子爆弾太平洋戦線に現る」ー8月15日/第五号ー8月22日/第六号(この号から活字)8月22日=翁長良明氏所蔵□沖縄県立図書館は「大嶺薫資料」に入っている。

1945年9月ー外間政彰、ウルマ新報記者


石川時代の琉球新報本社社屋、2階が編集、階下が業務。右の平屋が工務。

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1946年ー前列中央・瀬長亀次郎社長、右が池宮城秀意編集長、2列中央・外間政彰

1948年7月ーうるま新報社、那覇市三区に新築移転

1950年  仲地米子、うるま新報記者
1951年3月 外間政彰、琉球契約学生として上智大学入学→4月 外間政彰、早稲田大学新聞学科転入
         この年、『琉球学生新聞』、日月社『祖国なき沖縄』に関わる
 
 

中央ー又吉康和
1951年9月8日 対日平和条約・日米安全保障条約調印→1952.4.28発効
『うるま新報』は講和会議の締結を機に9月10日『琉球新報』と改題した。


□1951年6月26日『うるま新報』國吉眞哲「声・新聞名改題について」□琉球日報社は6月23日付の同紙紙上に社移転の社告を掲載しその中に「琉球日報」を「琉球新報」に改めて新発足すると述べ6月25日付のうるま新報、沖縄タイムス、沖縄新聞に掲載し同様「琉球新報」として新しく発足する旨述べている。琉球日報が何故「琉球新報」に改題するかの理由については何も述べていないのでその企図は不明である。
(略)
又吉康和、平尾喜一の両氏を始め当時の社員が20数名健在で新聞または他の職場に活動しているが何れも元「琉球新報社員」ということが経歴の重要部をなしまた社会信用の中心にもなっている。又吉康和先生その他旧社員に関係のない琉球日報が「琉球新報」を称することは快いものではない。新聞人の信頼に訴えて琉球日報社長及び同人に再考をお願いしたいと思う。(那覇市三原三区)
来る5月15日は「密約復帰の日」である。那覇市歴史博物館は4月21日から「あれから40年~Okinawaから沖縄へ~」、沖縄県立博物館は9月28日から「本土復帰40周年記念『Okinawaから沖縄へ(仮称)』」が開催される。何れも沖縄の現実を見れば祝賀とは縁遠い。それで、「あれから40年」とか、「Okinawaから沖縄へ」という表記になるのだろう。5月15日には野田首相も来沖するというが冗談としか思えない。
1951年6月28日 元琉球新報社員の沖縄群島知事平良辰雄への陳情書(解決したので使われなかった)

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『琉球新報』1953年1月ー中央・又吉康和社長、左・島袋全発主筆、又吉社長から右一人おいて國吉眞哲。

島袋全発筆跡




1972、73年局長団交メモ



1978年9月13日~18日 琉球新報社 東京大学・明治新聞雑誌文庫 主催「明治の新聞・雑誌展ー近代日本ジャーナリズムの源流ー」デバート・リウボウ

1986年8月13日ー『琉球新報』「『ウルマ新報』創刊号見つかるー故大嶺薫さんが保存。大嶺コレクションを整理していた富島壮英資料課長が発見」

1993年9月『琉球新報百年史』

新城栄徳作成「1893年9月『琉球新報』創刊から現在までの新聞・機関紙相関図」
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2012年1月3日ー『琉球新報』友寄貞丸「辰年に寄せてー『竜頭蛇尾』の民主党」

2012年1月4日ー『琉球新報』「対談 大城立裕さん×知念ウシさん」
2012年1月12日ー『琉球新報』矢部宏治「落ち穂ー米軍基地観光ガイド」
2012年3月4日ー『琉球新報』「新琉球考今沖縄を語るー古謝美佐子(民謡歌手)『母から沖縄戦のことをしょっちゅう聞かされていた。日本軍に対して、いいことは言ってなかった。目の前で見たみたいですよ、沖縄の人を銃剣で殺しているのを。・・・』(共同通信那覇支局)」

2012年3月6日ー『琉球新報』矢部宏治「落ち穂ー基地と原発④前回、米軍機は日本の航空法の適用除外になっているので、どんな『無法な』飛行もできる。(略)それと全く同じ。日本には汚染を阻止するための立派な法律があるのに、放射性物質はその適用除外となっているのだ!」

2012年3月13日『琉球新報』「社説ー公金返還知事謝罪ー不正の付け県民が払うのか」
2012年3月14日『琉球新報』「社説ー思いやり予算ー被災地の復興に充てよ」

2012年3月14日『琉球新報』「社説ー高江着陸帯訴訟ー沖縄に基地を押し付け続ける国の不正義と住民負担の深層に背を向けた、木を見て森を見ない判断と言えよう。(略)これ以上住民の声を封じる愚を重ねてはならない。」

2012年3月17日『琉球新報』「社説ー『捨て石』削除ー沖縄戦の本質から目を覆う暴挙だ」

2012年3月18日『琉球新報』「社説ー改正沖振法ー(略)1972年の日本復帰後、10兆1千億円を超える沖縄関係予算が投入され、道路や公共施設などの社会基盤が整備された。半面、投下された資金の多くは本土に還流した。沖縄関係予算が県内にとどまり地域の発展に直接結び付く仕組みをつくらねばならない。」/27面ー32軍壕・緊急学習会ー消される沖縄戦(上)山内栄さん「軍隊の本質考える場、捨て石は沖縄戦の肝」

2012年3月25日『琉球新報』1面「32軍司令部 説明板、沖縄県が設置」
所感→□誰に対してお調子者のカジノチジは受けを狙っているのだろうか知らないがこれでチジと「沖縄のこころ」は相いれないことが証明された。とにかくも沖縄電力時代の弱みを国に握られているのは間違いない。




1981年9月 沖縄の雑誌『青い海』106号 外間みどり「想像を超えた中国


写真左から外間米子さん、外間政彰氏、新城栄徳

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写真左からN氏、新城栄徳、親泊一郎氏

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写真左から高嶺朝一氏、新城栄徳

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写真左から盛根良一氏、渡口善明氏、新城栄徳、仲宗根将二氏、富田詢一氏




2015年5月18日『琉球新報』


2015年5月 スタジオジブリの好奇心『熱風』「富田詢一インタビュー/沖縄の自己決定権を回復させたい」

伊佐眞一氏と富田詢一琉球新報社長

2015年5月18日『琉球新報』矢崎泰久□いり(西)こち(東風)ー安倍首相の訪米は、まさに無条件降伏への旅であった。それにもかかわらず、帰国して三日間、安倍晋三はゴルフ三昧の日を送った。こいつ、どうなっているのか。(略)オバマ大統領への手土産は、山ほど抱えて行った。集団的自衛権、安保法制化、新ガイドラインなど憲法九条違反項目の中には辺野古新基地も含まれている。TPPの受け入れによる食の破壊と不均衡貿易の拡大。同盟強化という名の隷属の固定化も見逃せない。破綻直前のアメリカを多角的に支えることまでも約束している。

矢崎泰久ー 文藝春秋社社員で菊池寛の秘書役だった矢崎寧之の息子として東京府に生まれる。幼名、矢崎祥夫(さちお)。国文学者物集高量は叔母八重の夫。やはりおばの佐藤碧子は菊池寛の秘書かつ愛人をつとめ、小磯なつ子の筆名で直木賞候補作家となった。父の義兄、石井英之助は六興出版社社長。次男は『週刊アスキー』編集部の矢崎飛鳥。→ウィキペディア

話の特集(はなしのとくしゅう)は、1965年から1995年まで発行された日本の雑誌。ミニコミ誌の草分け的存在である。創刊から休刊まで矢崎泰久が編集長を務めた。また、1967年に設立され1995年に倒産した出版社名でもある。→ウィキペディア