1920年代、琉球史随筆で大衆を喜ばせた新聞人、末吉麦門冬が24年11月に水死した。その追悼文で島袋全発は「友人麦門冬」と題し「私共の中学時代 客気に駆られ一種の啓蒙運動をなしつつあった頃 麦門冬は蛍の門を出でず静かに読書に耽って居た。あの頃の沖縄は随分新旧思想の衝突が激しかったが物外さんを初め私共の応援家も頗る多かった。氏も恐らく隠れたる同情者の1人であったに違いない。其後私が高等学校に入ってから氏と交わる様になったが一見旧知の如くやはり啓蒙運動家の群の1人たるを失わなかった。私共は苦闘して勝った。啓蒙運動とは何ぞと問われたら少し困る。文化運動と云ってもいい。それを近いうちに麦門冬氏が書くと云っていたそうだが遂に今や亡し。該博なる智識そのものよりも旺盛」なる智識欲が尊い。そして旺盛なる智識欲よりも二十年諭らざる氏の友情は更に尊い。私は稀にしか氏とは会わなかった。喧嘩もした。然し淡々たること水の如くして心底に流動する脉々たる友情はいつでも触知」されていたのである。去年の今頃は私の宅で忘年会をした。そして萬葉集今年の山上憶良の貧窮問答「鼻ひしひしに」や「しかとあらぬひげかきあげし」やに笑い した後 矢張り啓蒙運動の話に夢中になった。今年の春は大根の花咲くアカチラを逍遥し唐詩選の句などを口吟、波之上の茶亭に一夜の清遊を試み歓興湧くが如くであった。せめて晩年の往来をしたので良かったと思う。麦門冬氏の如き詩人は多い。氏の如き郷土史家は少ない。氏の如き友情に至っては今の世極めて稀。今や忽焉として亡し。噫」。

全発のペンネーム西幸夫は山城正忠が命名した。山城も追悼文「麦を弔う」を書いている。全発は戦後、東恩納寛惇の『南島風土記』の書評の中で「山城正忠君が上の蔵で初めて歯科医を開業した頃(1917年)、文学青年仲間の末吉麦門冬も居た。私が『お互い沖縄の郷土史もやって見ようではないか』と提唱したら麦門冬君が言下に『郷土史は殆ど研究の余地が無い。大日本地名辞書の琉球の部に全部収められている』と云った」ということを書いている。

1890年の『沖縄県統計書』を見ると、旅籠屋は那覇6、首里19.書肆は那覇と首里で2。写真屋は那覇2、首里2。蕎麦屋は那覇、首里3。古道具屋は那覇2、首里5であった。そのころ那覇にあった主な料理屋は海月、東家、吉武、小徳、京亀、常盤であった。93年9月に『琉球新報』が創刊。94年に日清戦争が始まった。95年には奥島憲順『袖珍沖縄旅行案内』が刊行された。96年、台湾が日本に領有されると、那覇の主な料理屋は台湾に移った。いろは亭、玉川屋、東家は残った。

1900年4月、東京沖縄青年会主催で「平良保一君卒業記念会」があった。その集合写真を見ると、当間重陳、東恩納寛文(寛惇の兄)、伊波普猷、伊波普成、伊江朝助、渡久地政瑚らの、後に沖縄新聞界を背負う面々がいる。この青年会には諸見里朝鴻や東恩納寛惇も出入りした。寛惇はやがて青年会の中心的存在となっていく。当間重陳は1904年に琉球新報記者を経て08年12月に『沖縄毎日新聞』を創刊する。11年、那覇区長に就任した。

濤韻・島袋全発は沖縄県立中学校を1905年に卒業。同期生に伊波普助、勝連盛英、古波倉正栄、佐渡山安勇、安元実発、千原成梧、山城正忠、仲宗根玄愷らが居た。1期先輩に志喜屋孝信が居た。全発は第七高等学校造士館を経て、京都帝大法科大学を1914年に卒業。帰郷して沖縄毎日新聞記者を経て15年4月、那覇区書記、18年、那覇市立商業学校教諭。23年、那覇市立実科高等女学校(27年、沖縄県立第二高等女学校と改称)校長。35年7月に沖縄県立図書館長に就任、40年までつとめた。以上が略歴である。

島袋全発の琉球学の歩みを見る。京都帝大卒業前後のころ、『沖縄毎日新聞』の文芸評論に全発は「解放は破壊と同時に建設であらねばならぬ。破壊のみを以って快なりなすは、無人格、無理想を意味する。破壊には悲しみが伴う。故に建設なき破壊の落ち付くところは、只、茫寞たる悲愁である。頽廃である。灰色の海である。寄るべき港のない放浪である。漂泊である。そこに矛盾がある。昔恋しさの追懐がある」と書いている。

また「民族性と経済との関係を論ず」と題して「特定の統治権に支配せらるる多数人類の団体を国民と云ふ。故に朝鮮人や台湾人や樺太人も皆日本国民であるけれども大和民族ではない。然らば琉球人は何であろう。琉球人はむろん日本国民であるけれども大和民族であるとするのには疑いがある」とも書いている。

1912年2月、伊波普猷は『古琉球』3冊を柳田國男に贈った。柳田は『郷土研究』を創刊した13年の3月に伊波に「琉球の貴重文書の刊行」についての書簡をおくっている。それから程なく沖縄県庁では筆耕に命じて「中山世譜」「球陽」などを写本させた。14年、伊波は真境名安興とともに大味沖縄県知事より沖縄県史編纂委員に任じられている。15年、沖縄県史編纂事務所(真境名安興主任)が沖縄県庁から県立沖縄図書館に移された。沖縄県庁が写本した資料は沖縄図書館の資料と重複する。そこへ伊波、真境名の共通の友人、麦門冬・末吉安恭が出入りする。重複した県庁の写本は麦門冬が貰い受けた。後に麦門冬はそのひとつ「球陽」を南方熊楠に贈る。

1921年6月、新潟県佐渡郡真野村生まれの島倉龍治が那覇地方裁判所検事正として赴任。島倉は在任中、地方文化を重視、人心を一つにするための県社(沖縄神社)の創立を企てた。県社は丸岡知事のとき奥武山に源為朝、舜天王を祭神として祀る計画があった。日比知事のときも尚泰侯爵を加えて祭神としての創立を試みたが何れも実現しなかった。22年1月、島倉は真境名安興らと沖縄史蹟保存会を創立、東宮行啓記念碑をはじめ20の記念碑を建碑。島倉は23年3月に、和田知事の賛成、沖縄県会・首里那覇2市会の賛同、尚侯爵、尚男爵の賛助を得て、内務省より県社沖縄神社創立許可を得た。それを置土産に4月、甲府に転任した。島倉は6月、真境名安興の『沖縄一千年史』を共同名義で日本大学から発行せしめた。



島袋全発(3代目沖縄県立沖縄図書館館長)
真境名安興、島袋全発(那覇高等女学校長)、西平賀譲(那覇高等女学校国語教諭)らが1928年2月に、南島研究会を組織、那覇市立高等女学校に編集事務所を置いて機関誌『南島研究』を発行した。

真境名は発刊にあたって「沖縄県の中等学校に教鞭を執られていた居った、田島利三郎氏や新田義尊氏や黒岩恒氏などが、琉球の過去現在に趣味を持たれて、その歴史や、歌謡言語及び自然科学などの研究をはじめて出して(略)之れが最も高潮されたのは明治の末期からで、即ち畏友伊波普猷氏や、東恩納寛惇氏や、故末吉安恭氏等の研究であったように思われる。これから、古琉球の文化が漸く識者の間に認めらるるようになったが、未だ一般には徹底しないで疑心を以って迎えられたようであった」

続けて「然るに最近に至り、柳田國男氏や伊東忠太博士、黒板勝美博士等の来県があり、これら巨はくを中心として在京諸友は勿論県外の人では畏友鎌倉芳太郎氏などが、その専門の立場からして、熾に中央で琉球の文化を紹介せられ、又南島談話会なども生まれて東都に於ける琉球研究者の機関も出来るようになり、殊に啓明会などの財団法人もその研究に同情されて資金を投ぜられ、これで一層鼓舞されたように思われる」と南島研究の交流機関誌として本誌を発刊する旨を記した。

『南島研究』には史料紹介として、「琉球国中山世鑑」「球陽遺老説伝」「東汀随筆」が連載されている。通信欄には柳田國男、伊波普猷、東恩納寛惇、本庄栄治郎、金城朝永、宮良當壮、富名腰義珍、アグノエルらの来信が紹介されている。1928年5月29日に会員の奥野彦五郎の送別会を兼ねた婚姻風俗の座談会が第二高等女学校で開かれ、太田朝敷、真境名安興図書館長、伊礼代議士、神田主事、第二高等女学校の職員らが参加した。28年7月の『南島研究』3号は「琉球婚姻風俗号」である。巻末の会員名簿には、県内は山城正忠、佐山明、山里永吉、宮里栄輝(県立沖縄図書館)、島袋源一郎(名護校)、仲吉朝宏、島袋寛平、屋良朝陳、島袋慶福、当山正堅、金城増太郎、真栄田義見、志喜屋孝信、山城篤男、園原咲也、伊礼肇、名嘉地宗直(1953年11月26日没)、阿波根朝松、備瀬知範、篠原勇らの名前がある。県外には、中山太郎、金田一京助、仲宗根源和、幣原坦、本山桂月、ネフスキーらの名前がある。



島袋全発は、1930年8月に世界社の饒平名智太郎や南島研究会同人の比嘉時君洞、渡口政興、原義人、金城朝永らの協力を得て『那覇変遷記』を刊行。全発は自序に「即、那覇はもと中山の真和志間切の一部落たる港畔の一寒村であったのが、長虹堤築かれ那覇どまりと呼ばれた。港湾の繁昌につれて、若狭町を凌ぎ漸次拡張して那覇四町となり、近世に至り、又その邑落の起源を異にする久米村、泊を併せ、牧志・垣の花を呑み、逆に昔の真和志一円を包含するの概があり、之を一面から日へば那覇発展記であり反面から観れば真和志縮小記となる」と記している。東恩納寛惇は戦後に発行した『南島風土記』で「ツジは方語頂上の義なりと云う事、既に島袋全発氏の提唱する所で、伊波普猷氏亦これに賛同している」と書いている<

1932年11月7日、沖縄県立沖縄図書館で開かれた郷土研究座談会で真境名安興図書館館長提案の「劇聖玉城朝薫二百年祭」を沖縄郷土研究会主催で行うことを了承した。33年3月12日午後1時、首里城内沖縄神社神前で玉城朝薫の祭典慰霊祭、次いで漏刻門東広場で記念碑除幕式。引き続き城内第一小学校で真境名安興祭文を宮里栄輝が代読、遺族の第二大里校の辺土名訓導の祝詞、太田朝敷首里市長祝詞を高安助役が代読、照屋那覇市長、川平女師校長らが次々祝辞を述べて、最後に親泊政博の記念碑工事報告。閉式後、座談会席上、伊波普猷の玉城朝薫論文を島袋源一郎が代読し午後5時20分ごろ「玉城朝薫二百年祭」を終えた。


1933年8月10日、那覇の幸楽亭で、県民経済生活の向上と精神文化の振興をも促進する目的の下に沖縄県文化協会が太田朝敷を会長に結成された。島袋源一郎は『沖縄教育』9月号に文化協会の仕事を「海外発展の先駆者當山久三氏の銅像建設あり、近頃沖縄文化協会に於いて藷蔗二大恩人野国、儀間両先生(農林行政の功労者として蔡温を加え三大恩人にせんとの議あり)のために社祠を建て(略)猶を文化協会に於いては一方郷土博物館建設の急務を唱道し、速に県立図書館の移転拡張と共に之を断行すえきを絶糾している」と記した。

1933年12月28日に真境名安興沖縄県立沖縄図書館長が死去。島袋全発は新聞取材で「郷土学界は惜しい人を失った。然し真境名さんは思い残すことはないであろう。永く氏が願っていた『沖縄一千年史』も再版されることに決まったし、この計画が氏の生前に確定したのは丁度よかったと思う。昨年12月だったか郷土研究座談会で、その頃やっと久米で発見された『歴代琉球宝案』を図書館に移したいと云って居られたが、それも実現した。また玉城朝薫祭をやりたいと他の人々に同意を求めて居られたが、これもあんなに盛大に挙行された。氏として満足この上もないことだったと察する」と答えている。

真境名安興亡き後、県立図書館は県の学務課長が館長事務取扱を兼ね、1934年1月から35年4月までは栗村虎雄、次は平野薫で35年7月までつとめた。その後を島袋全発が3代目館長に就任することになる。私(新城栄徳)は、1995年12月発行の『沖縄県図書館協会誌』に、島袋全発が『沖縄朝日新聞』(1940年元旦号)に書いた随筆「南窓雑記」を収録した。随筆で全発は「図書館の休館を利用して目録カードを整理していると、伊波先生の筆蹟を始め東恩納寛仁君や島袋盛敏君の色々の先任者の筆蹟に出会って懐かしくまた面白いものがある。真境名さんだけはない。小説戯曲類が、一番痛んで汚れていて、従って書き替えるのも多いが戯曲は翻訳物のわりに日本ものは見られていないようである。国語漢文に関するのもよく使われたらしいが、それに劣らず物理、化学などが痛んでいるのは、受験準備の学生達に大いに利用された痕跡である」と記している。