12/23: 莫夢忌/『日本及日本人』誌上での末吉麦門冬と南方熊楠
『日本及日本人』赤線内が麦門冬執筆
○この雑誌は、政教社の日本人誌と陸羯南の日本新聞とを継いでいる。これらは元々兄弟のような間柄だったが、1906年、日本新聞社の後任社長伊藤欽亮の運営を不服として、社員12人が政教社に移り、三宅雪嶺が『日本人』誌と『日本新聞』との伝統を継承すると称して、翌年元日から『日本人』誌の名を『日本及日本人』と変え、彼の主宰で発行したのである。創刊号の号数も、『日本人誌』から通巻の第450号だった。雪嶺は1923年(大正12年)秋まで主筆を続けたが、関東大震災後の政友社の再建を巡る対立から、去った。それまでが盛期だった。雪嶺は、西欧を知り、明治政府の盲目的な西欧化を批判する開明的な国粋主義者で、雑誌もその方向に染まっていた。題言と主論説は雪嶺、漢詩の時評の『評林』は日本新聞以来の国分青崖、時事評論の『雲間寸観』は主に古島一雄、俳句欄は内藤鳴雪、和歌欄は三井甲之が担当し、一般募集の俳句欄『日本俳句』は河東碧梧桐が選者で、彼は俳論・随筆も載せた。ほかに、島田三郎、杉浦重剛、福本日南、池辺義象、南方熊楠、三田村鳶魚、徳田秋声、長谷川如是閑、鈴木虎雄、丸山幹治、鈴木券太郎らの在野陣が執筆した。月2回刊、B5より僅か幅広の判だった。たびたび発禁処分を受けた。大正期に入ってからは、三井甲之の論説が増え、中野正剛、五百木良三、植原悦二郎、安岡正篤、土田杏村、布施辰治、寒川鼠骨らが書いて、右翼的色彩も混ざった。1923年(大正12年)の関東大震災に、発行所の政教社は罹災した。雪嶺と女婿の中野正剛とは、社を解散し新拠点から雑誌を継続発行すべきとし、他の同人が反対し、碧梧桐・如是閑が調停したが、雪嶺は去った。以降の『日本及日本人』は、同名の無関係の雑誌とする論もある。1924年年初、政教社が発行し直した『日本及日本人』は、体裁はほぼ以前通りだったが、内容は神秘的国粋論が多くなった。1930年(昭和5年)、五百木良三が政教社社長となって『日本及日本人』を率いた、1935年からは月一回発行になった。(ウィキペディア)
1910年5月15日ー『日本及日本人』第573号 碧悟桐「那覇での社会問題として第一に指を屈せられるべきものは辻遊郭である」
1912年2月ー柳田国男、伊波普猷より『古琉球』3冊寄贈される。
1913年4月ー沖縄県庁でこの程、筆耕に令し『中山世譜』の筆写をなさしめつつある。
1914年7月ー沖縄県知事より、伊波普猷、真境名安興ら沖縄県史編纂委員拝命
1915年1月ー沖縄県史編纂事務所が沖縄県庁より沖縄県立沖縄図書館に移される(真境名安興主任)
1917年7月15日ー『日本及日本人』709号□末吉麦門冬「十三七つに就いて」「雲助」「劫の虫より経水」(南方熊楠と関連)
1917年9月1日ー『日本及日本人』712号□末吉麦門冬「楽屋の泥亀汁」
1918年2月12日ー東京日本橋区本町三丁目博文館・南方熊楠殿、末吉安恭書簡「拝啓 先生の御執筆の十二支伝説は古今東西に渡りて御渉猟のこととて毎年面白く拝読いたし候(略)琉球にも馬に関する伝説、少なからず候み付、茲に小生の存知の分を記録に出でたるものは原文の侭、然らざるは、簡単に記述いたし候間、御採択なされ候はば幸甚に候。失礼には候へど、御ねがひいたし度きこと沢山これあり候につき御住所御知らせ下さるまじくや(略)」(『球陽』『琉球国旧記』引用)
1918年8月15日ー『日本及日本人』737号□末吉麦門冬/しなだれ(輪講第二回中)第70号141にしなだれの解出づるも、その語源に就いては更に考ふべきものなきか、松屋筆記に日本霊異記等を引きて詳しく解釈せり、霊異記の■(門+也)は訓註に「シナダリクボ」と見ゆ「シナダリ」はシナダリの通音也。婬汁はしシタダリナガル、物なればシタダリと云ひ、クボ」は玉門のことにいへりとし、又今昔物語の婬もシナダリと訓むべしと云へり、これに依ればしなだれかかると云ふ語も、■れかかる義には相違なけれど、其の出所の元は婬汁のシナダリよりせしとすべきか。/焼餅の値(輪講参照)竹田出雲の小栗判官車街道(元文3年)に、桔梗屋の常陸といふ女郎が千二百両で身請けされたと聞き、二条樋の口の焼餅屋曰く「千二百両の金目を二文賣の焼餅の数に積って見れば、百五十四萬五千六百といふ焼餅が買われるげな」とあり、焼餅の値が二文づつなりしことが知らる。
1918年10月1日ー『日本及日本人』741号□末吉麦門冬/おかべ(輪講第四回下ノ四)豆腐をおかべといふは、素の婦人の言葉にして男子はしか云はざりしものの如し、少なくとも男子に向かっては云はざりしものの如し。醒睡笑巻之三に「侍めきたる者の主にむかひ、おかべのしる、おかべのさいといふを、さやうの言葉は女房衆の上にいふ事ぞと叱られ」とあり。又風流遊仙窟(延び享元年)に豆腐賦あり「むかし六弥田忠澄愛して今に岡部の名あり」といへるは信じ難し。/土産の説(七一〇号参照)土産は宮笥なりと本居宣長は云へりとの説ありしが、其の以前に井澤幡龍子①のこれを云へるあり、廣益俗説辯遺編第五巻期用の部に「俗説云土産の字をみやげと訓み賜物の事とす、又俗書向上と書けるものあり、今按ずるに土産は其処にて出来たるものをいふ、贈物の事とするは非なり、向上とは低き所より高き所を見あぐるをいふ、みやげとは宮笥と書く、黒川氏云、参宮の人、家に帰りて後祓箱ならびに伊勢白粉、陟のり、弱海布、麩海苔、鰹節、鯨髯器物、編笠、笙笛、柄杓、貝柄杓等のたぐいを方物として、親戚朋友におくるを宮笥といふと記せり、此説を用ふべし」とあり、狂言記の伊勢物語にも「下向道の土産には土産には伊勢菅笠や、萬度祓、鯨物差、貝柄杓、青海苔、布海苔、笙笛買集め」とありて土産の品々は相似たり。
①井沢 蟠竜『廣益俗説辨コウエキ ゾクセツベン 』 広益俗説弁, 序目1巻正編20巻後編5巻遺編5巻附編7巻殘編8巻
1919年1月1日ー『日本及日本人』747号□末吉麦門冬「再び琉球三味線に就いて」/「小ぢよくー近松の栬狩劔本地に『親をだしに遺ふは、物どりの奥の手、ヤイ小童今度は是を喰ふかと、杵振上れば』とあり、小童と云はれたのは男の子なり」/「かんから太鼓ー八笑人三編追加上の巻、頭武『イヨイヨヤンヤヤンヤのお声がたよりぢやァ、是はカンカラ太鼓をかりて行かうか』とあり、此編文政7年の作なりと云へば、その以前既にカンカラ太鼓ありと知るべし。安政3年よりも三十三年前なり。」(吉田芳輝氏提供)
1919年4月ー『日本及日本人』□末吉麦門冬「無筆の犬ー無筆の犬といふ話は早く醒睡笑(元和9年)に出づ。曰く『人喰ひ犬のある処へは何とも行かれぬなど語るに、さる事あり、虎といふ字を手の内に書いて見すれば、喰はぬと教ゆる。後犬を見、虎といふ字を書きすまし、手をひろげ見せけるが、何の詮もなく、ほかと喰ふたり。悲く思ひ、或僧に語りければ、推したり、其犬は一圓文盲にあったものよ』云々」
1919年6月ー末吉麦門冬『沖縄時事新報』創刊に参画
1919年7月15日ー『日本及日本人』761号□末吉麦門冬「琉球風と王子の歌」
1919年3月ー『日本及日本人』□末吉麦門冬/「版摺職工のストライキ」八文字屋の当世誰が身の上②に「今はむかし都は花さかり吉野といへる書物屋に、次郎助とて版行を紙に摺うつす業をして雇はるる者有けり。・・・・・又爰に京都の書物屋いひ合わせて、件の版の手間賃を下直にすべしと一党しけり。其比細工して世わたる者三百余人有ける中に、其日過の者半分有けるが、いとどさへ過し兼たる作料を値切られては猶困窮なり、さればとて外に覚えし所作もなければ、いかにとも為方なしと談合とりどりにて時をうつしけり。次郎助いふやう、此上は力なし、我等待合わせたる銀子あれば各々の中へ進上致すべし。是を●性として余の身過を仕給はんやと尋ねければ皆々喜び、こは過分なるうしろ立、偏に頼みまいらすと、夫より思ひ思ひの小商に取付けり。かくて書物屋にはよしなき事云出し、大きに事を缺ければ漸々に詫事して旧のごとく直しけり」とあるは、今謂ふ労働問題なり。次郎助なる者はストライキの張本人にて、資本家の専横を制するには斯る場合彼の策の外施すべきやうなく、既に昔時に於て、我国の労働者は、学ばずしてストライキが自家防衛作として有効なることを知りしとすべし。当世誰が身の上は小説なれど中に書ける事柄は当時に於て必無と云ふべからず。元禄寛永時代に於てさへ小なる階級闘争は行はれたるを見る。
②当世誰が身の上(八文字屋自笑) 八文字屋自笑はちもんじやじしょう[生]寛文1(1661)? 京都 [没]延享2(1745).11.11. 京都
江戸時代中期の浮世草子の作者,版元。安藤氏。通称,八左衛門。京都麩屋町誓願寺下ルに正本 (しょうほん) 屋を営んだ。元禄期に入って絵入り狂言本の刊行で当て,さらに江島其磧と結び,新機軸の役者評判記『役者口三味線』 (1699) や浮世草子『傾城色三味線 (けいせいいろじゃみせん) 』の大当りによって,以後は評判記,浮世草子の当代随一の書肆としての地位を確立。 →コトバンク
1919年8月15ー『日本及日本人』763号□南方熊楠「ストライキー麦生君は自笑の当世誰が身の上に依って、徳川幕府の中葉既にストライキが多少本邦で行われたと立証されたー」
1919年8月26日ー『沖縄朝日新聞』末吉麦門冬「偉人毛鳳儀」(喜安日記)
1919年9月14日ー『沖縄時事新報』末吉麦門冬「玻名城政順翁ー沖縄近世の歌人」(~9月22日)
1920年2月1日ー『日本及日本人』775号□末吉麦門冬「上手」「糞汁が解毒剤」「犬面冠者」「三馬の笑ひ顔」「雨森芳洲の風丰」
1920年3月1日ー『日本及日本人』777号□末吉麦門冬「石蒜の歌ー森林太郎博士が『伊澤蘭軒』の中に『詩歌の石蒜を詠ずる者は、私の記憶に殆ど無い、桑名の儒官某の集に七絶一首があり、又昔年池邊義象さんの紀行に一首があったかと思うが今は忘れた』とある。其の池邊義象さんの紀行と歌は、明治35年8月11日発行(森林太郎博士等の経営)藝文第二号に、一園丁の匿名にて『きつねはな』と題する文中に引かれあるを見出でたりー」「酒迎ー井澤蟠龍子の廣益俗説弁遺編巻五飲食の部に酒迎の説ありー」
1921年8月ー『民族と歴史』南方熊楠「出産と蟹ー末吉安恭君は純粋の琉球人だが、博く和漢の学に通ぜること驚くべく、麦生なる仮号もて『日本及日本人』へ毎度出さるる考証、実に内地人を凌駕するもの多し。この人三年前教示に、沖縄で子の出産あれば、当日か翌日かに川下(カーウリー)とてー」
1922年3月ー南方熊楠、「南方植物研究所」資金募集のため上京。
1922年8月1日ー『日本及日本人』841号□末吉麦門冬「日蓮上人の將門観」
1923年1月1日ー『日本及日本人』852号□末吉麦門冬「月徘徊」
1923年6月15日ー『日本及日本人』864号□末吉麦門冬「黒坊ー近松門左衛門作、天鼓にー」「助兵衛(1)」(南方熊楠と関連)
1923年7月1日ー『日本及日本人』865号□末吉麦門冬「色情狂の所為」「遠目鏡(1)」(南方熊楠と関連)
1923年7月15日ー『日本及日本人』866号□末吉麦門冬「遠目鏡」「支那人と豚」(南方熊楠と関連)
1923年8月1日ー『日本及日本人』867号□末吉麦門冬「助兵衛(2)」(南方熊楠と関連)
1924年9月1日ー『日本及日本人』55号□末吉麦門冬「似せ涙」(南方熊楠と関連)