1988-2-19『週刊レキオ』/新城栄徳と沖縄タイムス出版部の共編による『沖縄近代文芸作品集』
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「アルバム 麦門冬と正忠ー近代沖縄文壇の二大山脈ー」5
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□この本で唯一写真が無かった摩文仁朝信が2013年、野々村孝男氏によって発掘された。


『沖縄近代文芸作品集』の書評ー松本三益/岡本恵徳


1994年3月 松本三益『自叙』(非売品)
○山城正忠さんと第一回普選 忘れがたい人びとー沖縄近代文芸作品集を読んでー沖縄近代文芸作品集が「新沖縄文学91別冊」として沖縄タイムス社から発行された。私たちの目にふれない作品がたくさん掲載されている。巻頭にはめずらしい写真が収録され、先輩、親しかった方々、面識のある知人が20人近いのでなつかしい思いで読んでいる。とくに目を引くのは第一次世界大戦後の大正デモクラシーの影響を受けたと思われる社会主義者、進歩的な人々がこんな作品を書いていたのかと意外の感を深くしている。当時は、共産主義と無政府主義の同居時代で、共産主義者も無政府主義者の大杉栄も世間では「社会主義者」と呼んでいた。これらの人々のなかには変節して反動反共になったり、脱落した人もいるが、敗戦後は共産党員として活動している人もすくなくない。とくに近代史研究家の新城栄徳氏が参加して発掘し、紹介している「略年表」は貴重な資料だと思う。これらの人びとの中で忘れがたいエピソードを紹介したい。

1928年、最初の普通選挙に沖縄から無産者新聞記者の井之口正雄氏が立候補した。立候補の供託金は2千円だった。みんなが努力したが、立候補締め切り一週間近くなっても3百円不足した。しかたなく、山城正忠氏(書家・歌人)に頼んで夫人に内緒で3百円を借りた。票が足りなくて供託金を没収されると困るので、正忠さんは開票結果を知るため、選挙本部の大工組合事務所と琉球新聞社を深夜まで往復された。一週間の選挙運動であったが、那覇市では漢那憲和少将につぐ2位となり、供託金は没収されなかった。正忠氏の笑顔がいまも忘れられない。

そんな経験を教訓に、2回目の供託金は東京で調達することになり、八幡一郎氏にハワイへ募金運動にいって貰った。それを目当てにして「戦旗」に山田有幹氏の立候補を発表した。そのために山田さんは、選挙中検挙された。そこで獄中非合法候補となり、私は選挙オルグとして帰郷した。結果は六百四十四票獲得し、福岡県から立候補した徳田球一氏より上位だった。しかし、共産党の得票は途中、発表禁止になったので正確な数字はいまもわからない。


2003年5月 岡本恵徳・高橋敏夫 編『沖縄文学選ー日本文学のエッジからの問い』勉誠出版


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1984年3月
2015年2月『月刊琉球』2月号 <500円+消費税> Ryukyu企画〒901-2226 宜野湾市嘉数4-17-16  ☎098-943-6945 FAX098-943-6947
『月刊琉球』2月号 新城栄徳「松本三益ー『沖縄近代文芸作品集』書評の周辺」
松本三益ー『沖縄近代文芸作品集』書評の周辺




1982年1月3版 那覇市『写真集・那覇百年のあゆみ』(琉球処分百年記念出版)
○第一次大戦後の全国的社会主義運動の波は沖縄をもまき込み、1921年(大正10)の沖縄最初のメーデーでは「世界ぬあがちゃーたー、けーな組み!」(万国の労働者団結せよ!)も叫ばれた。大正15年に沖縄青年同盟が在本土沖縄県人会活動家・松本三益らの指導によって山田有幹、東恩納寛敷、渡久地政馮を中心に組織された。


1990年4月10日 那覇市・沖縄青年会館「松本三益・つる ご夫妻 歓迎レセプション」


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1980年2月 阿波根宏夫『涙・街』構想社、1989年4月◇埴谷雄高、小島徳造の「阿波根宏夫のこと」が載っている。
2000/12 痴呆老人の夢のまたの夢―併録・阿波根宏夫の作品 阿波根 朝宏/阿波根 宏夫【著】内容説明:父と息子による魂の協奏曲。阿波根朝宏(父)―齢90を迎える、医師。過去と現在、時空を超えて彷徨する魂の遍歴、また昨今の身辺での出来事を軽妙な筆致で描く。阿波根宏夫(子)―一九六〇年代に、学生作家としてデビューし、大江健三郎、倉橋由美子を彷仏とさせる異色の作品で将来を嘱望されながら夭折する。埴谷雄高氏らが激賞した傑作「涙」ほか3篇を収録。
阿波根朝宏[アワネアサヒロ]
明治44年1月17日生まれ、昭和12年東京医専(現東京医大)卒、医学博士。昭和16年6月召集。シベリア抑留後、昭和20年8月舞鶴入港、即日召集解除。平成9年『自分史』(新潟日報事業社)より刊行。平成10年社会文化功労賞受賞、湯川記念平和賞受賞、国際学士院の終身特別会員の称号を受ける。平成11年リンカーン平和勲章受章。現在新潟市在住
阿波根宏夫[アワネヒロオ]
昭和14年3月31日生まれ、昭和34年日本大学医学部入学。在学中の昭和38年、24歳のとき『涙』が日本大学新聞社第1回懸賞小説に入選、総長賞を受賞。昭和40年日本大学医学部卒業。昭和53年1月11日東京都練馬区のマンションで一酸化炭素による不慮の中毒死。享年39歳