01/12: 安良城盛昭(1927年5月10日~1993年4月12日)
1965年5月 沖縄興信所(代表・大宜味朝徳)『琉球紳士録』「本土在住琉球紳士録」
写真左から宮島肇、新崎盛敏、大浜信泉/石川正通、宮城栄昌、一泉知永/外間寛、安良城盛昭、島茂彦
1980年11月24日ー豊中市立婦人会館で開かれた南島史学会第9回研究大会。右手前2人目が安良城盛昭氏と牧野清氏、左端が喜舎場一隆氏同日、受付の永峰眞名さんに安良城盛昭氏を確認してもらう。大会終了後、安良城氏を都島の沖縄関係資料室まで案内。色々と歓談する。資料室で自著を見つけた安良城氏が本代を払いそれに署名献本した。このとき以来、理論嫌いな私でも沖縄出身の理論家については、これ傾聴に努めることにした。
渡久地政司/沖縄雑文録
身内のことを誉めるのは、気がきけますが、死後、何十年も経って、父「安良城盛雄」の偉大さを感じます。それは、「パルメニデス断片」という書を通じて感ずるのです。1942-3年(昭和17-18年)ころ、閑古鳥幻聴一家は、大連湾を挟んで、その北側に位置する「甘井子」地区に居住していました。
甘井子地区は、「昭和製鋼所」・「満州化学」・「満州石油」・南満洲鉄道」など・・・大企業が立ち並ぶ一大コンピナート地区でした。
1945年8月22日・・・だったと想いますが、高台にある甘井子・満洲石油の社宅からは、ソ連軍の双発飛行艇「コンソリデーテッド」数十機が大連湾上空を旋回、次々と着水するのが、望見されれました。それが、ソ連軍大連進駐の第一波だったのです。大連市は、阿鼻叫喚の地となったようです。歩行者は、次々と、腕時計を強奪されました。一般住宅も、大々的な略奪の対象になりました。一部の地区では、女性に対する暴行も盛大に行われました。それが、社会主義を標榜する「ソビエト社会主義共和国連邦」のファシスト国家に対する勝利の姿となったのです。その中で、甘井子地区では、各社宅の周辺に「プリカザーニェ」と題する命令の高札が高々と掲げられました。各戦略拠点工場とその従業員を断固として護ろうとする占領軍当局の配慮が働いたようです。お蔭て、閑古鳥幻聴一家も、なんの被害を蒙ることもなく、工場を管理する・・・監督官「メーゼンツェフ」・事務官「アンドリェーイ」・運転手「ニコラーイ」一家とも、極めて友好的な関係を維持、戦後の生活を享受、無事帰国しました。その根源的理由は、決して人道的・友好的関係という観念的なものではありません。技術・設備を背景にした、日本人の物的・知的 potential だったと想われます。
当時、「パルメニデス断片」を熟読していた、父・安良城盛雄は、意識してか・意識せずににか、その哲学的思索を基に、結果的に、国際政治の中における「石油」の重要性に着目、満洲国官吏から満洲石油株式会社幹部への道を選択・転進したものと想われます。
昨今、国際的視野にたって、「友好的関係」が叫ばれていますが、観念的な友好関係なるものは、全く信用できないというのが、閑古鳥幻聴の哲学です。日本の将来は、「視界ゼロ」などと週刊誌で論評されている昨今ですが、視界はゼロではありません。閑古鳥幻聴としては、世界の中で、科学技術の最先端を極めること、これが、わが国最善の防衛策と考えているのです。閑古鳥は、現在、Cayley-Dickson construction なる概念に撮り憑かれ、鋭意、ソフトウェアの開発に尽力しておりますか、それは、国際政治の中におけるわが国の将来への指針と関連するものだと信じています。以上、お粗末な意見表明となりましたが、じッくりと、検討してみてください。なんらかの成果が得られると確信します。では、皆さん・・・お元気で・・・・・
閑古鳥幻聴 拝
2013年3月21日
2013年6月20日更新
■ 生涯純情・偉才の人 安良城盛雄 ■
生涯純情・偉才の人 安良城盛雄
-作品年表と記録者メモ-
安良城盛雄―1896年(明治29)10月25日沖縄県那覇市首里赤平町で生まれる。1977年(昭和52)4月9日豊橋市で逝去、81歳。墓所・犬山市大字犬山字北白山平5-68 瑞泉寺別院、富岡霊苑3号地11番。 あらぐすく・せいゆう 改名後 あらき・もりお
安良城盛雄作品(印刷物)中心に、本人メモ・手紙・ハガキについては限定し、少しコメントを加え紹介する。資料収集は、名古屋では渡久地、沖縄では仲村顕氏が主におこない、メモ・手紙・ハガキなど個人的資料は、安良城勝也氏(在横浜)からご提供いただいた。収集された資料は、最終的には、「沖縄歴史教育研究会・会員仲村顕」で保存される。 (記録者・渡久地政司/2007-10-末) 安良城盛雄(新京時代)
(はじめに)
最初に安良城盛雄が人生の晩年(1974年(昭和49)10月・盛雄78歳)に、体力の衰えと闘いながら出筆・まとめたであろう作品について紹介したい。
『琉球の貢献』―貢献した主体は琉球・沖縄人であり、恩恵を享受した客体は、日本政府・国民。この作品については、後にもふれるが、この作品を書きながら盛雄は「苛立っていた」のではないか、とわたしは推理する。それは、復帰前、日本政府やマスコミの一部に「沖縄を甘やかすな」発言があった。これに盛雄は、12項目の貢献例を挙げて猛反発した。そして、同時に沖縄の若者に対して、このように貢献しているのだから卑屈にならず、堂々と振舞い、新しい世界平和に希望をいだけ!と題する”詩”を『琉球の貢献』誌の裏表紙に掲載した。
●『琉球の貢献』印刷にあたって 後輩の若人たちに与える
1. きたへみなみへと 北へ南へ
おおうみをこえて 大海を越えて
われらがせんぞの 我等が先祖の
たてたわざよ 建てた偉業よ
2. うけついだちしほ 受けついだ血潮
われらはうみのこ 我等は海の子
きぼうにかがやき 希望に輝き
きばれともよ 気張れ友よ
3. ゆくてはひらけて 行手は開けて
みあげるくもみね 見上げる雲峰
せかいをひとつに 世界を一つに
へいわたてよ 平和建てよ
(注) 七、五調としないで琉歌の八、八、八、六調とした。
気張れとは琉球の威勢のよい語である
。 若人よ、この乱世にあって世界平和の希望をもて。
78歳とは思えない若々しい純情な詩だ。わたし(記録者)は、今年(2007年)70歳だが、とてもこのような清清しい詩、言葉を生み出すことができない。盛雄は『琉球の貢献』の12.沖縄戦による犠牲 を記述している。 …赤松船舶特攻隊長大尉は、…慶良間の住民に対し、食糧の半分を部隊に提供せしめ、家畜の屠殺を禁じ住民に手榴弾を与えたがこれは集団自決(赤松は自決を否定しているが)を強いるものではないか。伊江島から米艦によって2千名が慶良間諸島の渡嘉敷島へ送られて来たが、農作物は食いつくされた。そのうち女5人男1人が米軍に選ばれて赤松隊に降伏勧告に来たが敵に内通したものとして処刑された。赤松隊は沖縄戦終結後1カ月、八月十五日の終戦前の七月十九日に無条件降伏し、前記住民六名は即決で殺されたのに、赤松隊は隊長はじめ命拾いした。…
30余年前のこの記述は、「高校歴史教科書から沖縄戦・集団自決事件の削除問題」の核心に触れている。
前口上が長くなった。本論に入ろう。何を行った人なのか、を次ぎに列挙する。
1 何を行った人か
・ 上海・東亜同文書院に沖縄県費留学
・ 愛知県下の産業調査・紹介、貿易指導、広報
・ 満州国官僚、調査と広報
・ 満州石油(株) 激動の国際石油市場に関わる
・ 敗戦後引揚 名古屋通産局
・ 民間会社 貿易担当
・ 沖縄・琉球の歴史研究
2 安良城家と盛雄の高等小学卒まで ~1916年(大正5)
● 『戦争前の安良城家屋敷絵図』(安良城勝也氏継承) 末尾に掲載。
● 『安良城家系図』(仲村 顕氏作成) 非公開。
● 『おばあさんの思い出』 盛雄直筆メモ。
● 参考資料『安良城盛昭先生追悼論集』P
219~221
● 『安良城勝也氏・メール』 2007-08-01 ● 『潯陽頭に於て』 1920年(大正9)「沖縄県立師範小学校40周年記念誌」 (再版の手書きコピー)。
晩年、盛雄も先祖のことが気になった。そして、兄・安良城盛英や縁戚の岸秋正にも問い合わせた。そのハガキや手紙が残っている。 本人自身がメモ書きにした『おばあさんの思い出』を次に掲載する。
『おばあさんの思い出』(「盛雄ファイル」)
…お祖母さんは弘化元年(120代仁孝天皇1844)お祖父さんより一つ下であった。親泊家から嫁いで来た。名はゴゼ(グシー)(ゴゼに種々の意味があるが一番よい意味は貴婦人の尊敬語)、明治41年65歳でなくなった。僕の13歳の時である。家族の死にはじめて会った。悲しみを味わった。おばあさんはやせ形で(「文展」時老婦人像に似ていた)、裁縫が上手で、紀州ネルでシャツを作って貰ったことやそのネルの生地は大和の匂いがしたことを覚えている。おばあさんは煙草がすきで当時専売になってからは煙草に福寿草、あやめ、さつき、萩などがあったがさつきをよく吸っていた。煙草入れを宝蔵といって美しい端裂で木綿や絹の裏をつけて鎌手形に遂上げて正月に親戚や使用人に与えていた。きせるにヤニがたまると僕が掃除してあげた。細い竹で中をつついた後で、火箸できせるをはさんで直立させて吸い口から薬缶の湯を注いだ。おばあさんはめったに外出をしなかったが富川家、親泊家へ行く時は籠で行き、僕がきせると宝蔵をもってお供した。籠は竹のすだれがあって直径20センチ丸、 長さ3メートルくらいの棒で下男や出入りの人がかついだ。
ゴゼ祖母の夫が安良城盛振(1843―?)、その子が盛雄の父・安良城盛能。長男は病死、その次男・安良城盛英(盛昭の父)が長男を継ぎ、次男が盛雄。三男・盛起。妹・恵美。ツル(嘉数家に嫁し、那覇市の市議に?)。みつ子。
盛能の妻(名前不詳)も親泊家から嫁入り。この老女について、安良城盛昭が詳しく話している(『安良城盛昭先生追悼論集』P219~221)。また、この老女は、盛雄の長男・勝也氏を2~5歳 (昭和4~7年) まで赤平町で育てた。
● 勝也氏からのメール(2007年8月1日)
…『新しい琉球史像』の中の祖母の姿…幼いころ見た毅然としたそのイメージがまざまざと想いだされます。小生は2~5歳の頃、首里赤平の屋敷でこの祖母に育てられたのです。祖母は、親泊家からきた人だそうで、盛昭の姉「真喜屋京子」は、「親泊の家系は、美人が多いのよ」といっていましたが、それもある程度は、納得できるところがありました。「やまとぅは、どっち?」という幼稚な問いに対して、背筋をすッと伸ばし、ゆっくりと腕を挙げ、黙って指し示す毅然とした面影は今でも鮮やかに蘇ります。藁か糸か、梁から下がった紐に、厳しい表情で結び目を付け加える姿をよく見かけました。文字が読めなかったのだということは、戴いた盛昭君の『新しい琉球史像』複写で初めて知り、結び目の意味がやっと分かりました。
赤平の屋敷の裏は石畳が敷き詰められておりました。その石と石の隙間の草とりをよく見かけました。時には、薬缶の熱湯で除草することもありま した。忙しかったのでしょう。ご先祖のお墓参りにゆき、大勢の親類と弁当を食べた記憶もあります。きッちりと、日々の仕事をこなし、家を護ることができたら文字が読めないことなど大したことではないようにも思います。最も印象的だったのは、鶏の解体です。先ほどまで、走り回っていた「コケコッコ」が解体されて、部品ごとに整然と、庭先で天日干しされているのです。…
明治36年、沖縄県立師範小学校に入学、「8か年の思い出」(高等小学校卒)を台湾、九江・潯陽頭から寄稿している。
抜書きすると、 「…入学は区役所前…女学校と一緒…単級…正午には圓覚寺の鐘…2年生の時首里城に移転…あの瓢箪池は私達の時にできた…外間先生が受持ち…8年間の中頃、巡視当番…教生がヴァイオリンを弾いて聞かせてくれた…」
3 沖縄県立第一中学卒まで 1916年(大正5)
● 『夏』 1912年(大正元)「球陽」21号所載
…永ひらしく降った梅雨が、サラリと晴れて夏となった春の花があちこちに名残を止めて、草木が漸く新緑を装ふた、空がコバルトに彩られて白い白い大きな線の様な雲が湧き出て芭蕉や野椰子が午後の暑い風に、ザワザワすると夏の感が一層深く頭に滲む。…以下省略
● 『別れ』 1913年(大正2)「球陽」22号所載か? 未発見
ロマンチック青春小説「別れ」について 2007-10-2 勝也氏メール
盛雄の純情性は、この小説に端的に顕れていると感じています。この小説を、小生はある機会から、関東州甘井子時代、終戦後に始めて読んでいます。その最後の場面…友の乗る船が遠ざかるのを、波止場で、小雨の中、見送る筆者…その手にしっかりと握られるのは、友人から贈られた「ダンテの像」…その白い塑像もまた、雨に濡れて…この辺で、小説は大変な盛り上がりを見せ、小生はすっかり感心して、照れることもなく、激賞したのです。それまで、けなすことはあっても、親父を褒めることなど全くなかったのです。親父は、わが意を得たりの感じで、みるみる、顔面が紅潮、少年のような笑みが広がりました。 この小説については、まだまだ、書くことが多いのですが、一点だけ述べますと、この小説には、主人公のモデルがいたであろうということです。そのモデルの人物は、恐らく、県立首里第一中学校の盛雄の同級生…学籍簿があれば、同定できそうです。その友人は、親が事業に失敗、転校の原因となり、途中で転校した友人。転校ではなくて、退学かも知れません。この過程は、当時の琉球士族の相次ぐ事業失敗を裏書することから、現実性があります。想像を逞しくするならば、大変な美少年であったろうともいえます。一種の「やおい小説」のはしり…といえるかも知れません。安良城盛雄たちの青春讃歌が歌い上げられています。その絶唱は、兄の盛英もある程度共感、一緒に掲載誌を探したりしています。また、何年も経って、友人の「石川悌次郎さん」から、激賞されている点からも、この小説の背後には、あるグループに共有された青春体験があるものと推測されます。
この観点から、小生は、サント・ヴィクトワールを巡るセザンヌ・ゾラの愛憎・確執を想起します。セザンヌとゾラは、サント・ヴィクトワールにおいて、なんらかの青春体験を共有している…と睨んでいるのです。そうでなければ、あのセザンヌの執拗なサント・ヴィクトワール連作は理解できません。セザンヌが、世評に反し、大変な激情家であったことは、研究者の知るところです。
● 『水』 1915年(大正4)「学友会雑誌」24号所載
● 『御位御大典に対する感想』1916年(大正5)「学友会雑誌」25号所載
● 『卒業証書』 1916年(大正5)3月17日 第1018号
● 卒業後に投稿 『滬上鴻信』 1918年(大正7)(「養秀」27号所載)
後輩たちに、やや気張って、候文で…。
拝啓 春尚浅く暗香匂ふ侯と相成候諸君は卒業試験前に控へ卒業後の方針を定むべく或は若き心を悩まされ候はずや我か過去を思ひ出て同情致し候実に考ふべきは我が将来に候故に小生はいささか本学書院の近況を述べて一部諸君の方針にヒントを与えんと存侯。…
4 上海東亜同文書院大学・第17期(1917~1920年)
安良城盛雄が沖縄県費留学生として上海の東亜同文書院大学で学んだ時期1917~1920年はどのような時代であったか。
5・4運動の渦中にいた。 ● 『5・4運動(1919年)の波紋』 1982年刊行(「東亜同文書院大学史」―創立80年周年記念誌・安良城盛雄没後に刊行された)
熊野正平・安良城盛雄両人署名記事に次のものがある。 …二年生になった大正七年の十一月、上海では第一次欧州大戦の休戦祝賀のお祭り騒ぎがあり、書院の学生もデモ行進に参加した。 P456~7
しかし、ここには5・4運動に関係する記述はない。別人の署名記事P457には、…大正八年(1919)夏、…排日が激しくて(卒業大旅行)出発を見合わせ、翌九年(1920)の春まで延期…。
第1次大戦が終結(1917年)、ロシア革命(1917年)、5・4運動(1919年)を背景に国際都市・上海で多感な少年時代を過ごした。
● 『田島先生』(上・下) 1919年(大正8)11月22日・23日(「沖縄時事新報」)
…放浪山人の号を思ひ問合せて見ようかと思って発行所を見たら意外にも編集発行人として田島利三郎としてあったので僕は急に宝を見出した様に喜んだ。…漢口発行の「鶴涙」は週刊新聞で…「琉球に関する記憶」(1~19)…。
『おもろそうし』発掘の最大の功労者・田島利三郎の中国での消息を伝える。田島は1929年(昭和4)9月豊橋市で逝去、墓・豊橋市龍捻寺。安良城盛雄は1977年(昭和52)豊橋市で逝去。偶然にも同じ豊橋市が終焉の地であった。
● 『琉球の歴史は本土のそれより古い』 1972年(昭和47)同文書院17期卒業50周年記念誌・文集「春秋」所載。
戦後だが、同文書院関係としてここに掲載。
小見出しは次のとおり。
はしがき、宝貝、うこん、明刀銭、隋書の流求国の言語に就いて、
五銖銭、開元通宝、安国山樹華木記、結語、
―余白埋め草―倭について、邪馬臺、中国観、マスコム。
本文より抜粋
・ 結語―…琉球の歴史は、本土のそれより1千年以上も古い。
・ …三国時代に呉の孫権(AD252没)が討伐を計画した亶洲は琉球だと思う。流求の地名の初見は隋代…亶には、暑い、肌ぬぐの意味がある。
『春秋』誌は、比嘉春潮にも署名入りで贈呈されていた。
● 『貿易地理学』 1962年(昭和37)4月7日 『滬友』所載。 戦後だが、同文書院関係として掲載。
5 台湾銀行 1920年(大正9) ~1927年(台北、九江、嘉義) 7年
● 『潯陽頭に於て』 1920年(大正9)「沖縄県立師範小学校40周年記念誌」(再版)より。 ・ 明治36年師範学校付属小学校に入学し、8か年の思い出を台湾、九江・潯陽頭で書いた。台湾時代に書いた唯一の資料。
● 久志ツル(芙沙子)と結婚1922年(大正11)、長男・繁誕生1923年(大正12)、繁は2歳になるかならないうちに夭逝。
台湾銀行は、安良城盛雄が退職してまもなく深刻化した世界金融恐慌(1929年~)では、日本で最初に倒産した。
6 名古屋市立貿易学校、中国語教師 1928年(昭和3年) 1年
同校は、昭和4年3月に廃校。先行きの見通しなく苦難の時期。
7 愛知県商品陳列所、1929年(昭和4)~1935年(昭和10)6年
愛知県商品陳列所は、現在の「貿易センター」的機能の組織。建物
はモダンなビルで昭和天皇・皇后が視察した。
● 『愛知商工』(隔月誌) 誌編集
安良城盛雄署名の論文が毎回2~3本掲載されている。
「愛知県の対支貿易品」(5回)、「愛知県の陶磁器」(10回)、「愛知県の金属産業・印刷機械」、「愛知県の金属産業・機械器具」、「愛知県の金属産業・時計」、「愛知県の金属産業・航空機」、「愛知県の金属産業・織機」、「愛知県の金属産業・自転車」、「愛知県の実用商品学」(3回)、「愛知県の玩具製造業」(2回)、「商工業者と情報機関」、「満州に於ける商業機関」などを調査し紹介。 『愛知商工』の編集後記及び掲載文の空白に囲み記事、その多くが「安良城生」の署名が入っている。雑誌「中央公論」や「周樹人」などの引用もあり、「芸術としての書道」、「工芸教育について」、「Javaの訳字」、「愛知青年海外へ雄飛せよ」「日本精神」「織物博の開催を望む」、「鉄砲・日本刀・陶丸」、「支那における米」、「素質と努力の方法」 など多岐にわたって展開。100余点が確認されている。
どのくらい多忙であったか。
●『筆者(安良城)曰く』 1933年(昭和8)7月の囲み
本編(「愛知県の陶磁器」)も第5回迄書いて来ました。何しろ書きつつ編纂し、この「愛知商工」の外に「貿易通報」が月2回、之又書きつつ編纂し、外に英支文の翻訳、新商品の意匠、解説書の助言、作製、特許に対する助言、信用照会の斡旋、貿易実務の助成、展覧会等の事務で目の廻る様な多忙ですから、とても悠長に研究なんて出来ることではありません、定めし誤謬も多いことと思いますが他日訂正して、「愛知県の陶磁器」については何とか平易な解説を書き上げたいと思います。
● 『日本精神』1933年(昭和8)7月「愛知商工・かこみP13」
古い時代の日本精神は茶道を生んだ。そして現代の日本精神は1萬屯級巡洋艦『加古』を生んで世界一の海軍国家英国の出鼻をくじき 、又鉄道の能率化を実行してソヴートロシアに日本式を教えた。すべての大組織の下に行はれた日本精神の発露は成功している。日本が世界的にならうとするには先ずその方法、組織で研究しなければならぬ。(安良城生)
● 『芸術としての書道』1934年(昭和9年)「愛知商工」11月号・目次の裏側 全面記事 美的感情の表現が美術であるならば、書道又美術ではないか。西洋のペンマンシップが美術に加へられないからといって、我が書道が美術でないと断ずる訳には行くまい。 漢字系民族には特殊の書道美術壇を持って居る。刀剣が帝展に出品されていると同様に書も亦それに加へられなければならないぬ。 それは所謂「非常時」が與へた善き教訓の1つに算へてよいとおもふ。(安良城生)
● 『愛知商工』165号~169号、170号欠ける、171号~172号、173号~184号まで欠ける、185号~195号まで「愛知県公文書館所蔵」。176号~184号まで「富山大学図書館所蔵」。
また、開局まもないラジオ放送にも出演している。
●『家庭と陶磁器』 NHK-CK 1933年(昭和8)7月4日。(『愛知商工』188 号掲載)
安良城勝也氏は、満州国時代、放送局の一室で、大きなマイクロフォーンを前に、デスクに向かっている盛雄の写真が存在した、と語っている。
8 満州国産業部大臣官房資料課 1935年(昭和10)~1940年7月(新京・大連) 6年
●『北満輸移入品取引事情』 (満州国商業部資料 P49)満州国で統計資料などまとめる。1934(昭和9)~35年。
東洋文庫が所蔵している貴重な資料。A版49ページ、油印刷。
●『従兄弟・親泊朝省』のこと (勝也メール 2007-08-01)
親泊情報、有難うございました。親泊朝省さんは、確かに、一門の出世頭として、親類一同の間でも、一目置かれ、注目の人物でした。安良城盛昭…勝也の従兄…勝也より1つ年上ですが、勝也が早生まれのため、同学年…も、朝省さんの存在に inspire されて、その海軍兵学校志願・入隊も、朝省さんの影響があったともいわれています。 一方、父・安良城盛雄の方は、朝省さんと、確かにどこかで逢ってはいますが、勝也が知る限りでは、 朝省さんの「帝国主義的発言」に強い違和感を持っていたように感じています。盛雄は、知・中国派でしたので、全く別の大陸観を持っていたようです。そのような批判的発言を、何度も聞いています。また、勝也自身も、親類一同から一族の希望の星と目されてきた盛昭とは異なり、…朝省さんに inspire されることは、全くありませんでした。芥川龍之介の見解同様、いい大人が、勲章を胸に付けて、昼日中踏ん反りかえっいるコトはバカらしくて到底我慢できない…という妙に老成した感覚を持っていたのです。しかし、それにもかかわらず、独り勝也だけに限らず、親泊の血を引いていることについては、みな、大変な誇りを持っています。あの従姉妹の真喜屋京子も、「親泊の家系は、みな、美人が多いのよ」などと、極めて我田引水的な発言を繰り返していますが、事実、2005年有楽町で開催の米寿の祝いでも、数人の縁者から「京子姉さんは、どうしていつまでもそんなに美しいのですか?」と違和感なく、持ち上げられていました。2歳から5歳まで、ボクを首里で育ててくれた安良城盛能の妻…おばあさん…も、また、端正な顔立ちの人でした。
● 追信[親泊朝省のこと] 2007-10 メール
満洲で盛雄と会っておりますが、この邂逅には、2つの側面があります。1つは、従兄弟同士の邂逅です。もう1つは、「日本陸軍軍人」と「満洲国官吏」との邂逅です。話題の中に、東シベリア問題が含まれていたようです。当時の陸軍の戦略と満洲国の戦略とのすれ違いがあったとしても、不思議ではありません。陸軍の戦略は、よく知りませんが、満洲国・その国策会社「満洲石油株式会社」(昭和9年・1934年設立)の戦略は、満洲一帯から、スタンダードなど欧米系の石油販売組織を駆逐、満洲国の専売制度をひき、さらに、海外への原油依存度から脱却するため、石炭液化、人造石油技術の開発へと向かっておりました。実際、欧米系石油販売機構は、その後、満洲地域から撤退、日本政府との間で外交問題に発展しております。満洲国を承認していない両国としては、日本政府を相手にせざるを得なかったのです。安良城盛雄は、渡満するや否や、その満州国政府の石油戦略の渦中に飛び込んだワケで、陸軍の軍事一点張りの政策に、違和感を持ったことは自然であると考えられます。
9 満州石油(株)(新京・大連) 1940年(昭和15)~1946、4年
昭和9年2月、満州国法人満州石油株式会社が設立され、専売制を実施、シェル、テキサスなど欧米石油資本は、満州における販売市場から撤退。
● 満州石油(株) では、営業課部長、オフイスの書棚には『パルメニデス断片』があった。(安良城勝也氏)
● 『安良城盛雄について』 安良城勝也氏メール(2006-6-14)
…中国在住時代、中国人に北京官話を教えるくらい中国語に堪能であった。新京・大連では裕福な暮らし。石油の重要性について、国際的視野で理解、判断していた。敗戦後、日本人技術者・経営者のノウハウなしでは、大連の化学・鉄鋼・運輸・石油コンビナートが操業できなかったのでソヴィエット軍からは丁重にあつかわれたともいえる。国際情勢もよく理解していて、中国人からも信頼されていた。開明的文化人であった。…温厚な人であった。
満州国から沖縄県の出版社に次の4点を寄稿している。
●『琉球遣明使臣の姓に就いて』(1941年(昭和16)『文化沖縄』6月号所載)
●『鹿児島弁と沖縄口』 (1941年(昭和16)『文化沖縄』8月号所載)
●『支那語と沖縄方言との交渉』(1941年(昭和16)『文化沖縄』11月号所載)
●『沖縄方言と文法一面観』 (1941年(昭和16)『文化沖縄』12月号所載)
抜粋 …五十音の各段の配列は無秩序ではあるまいか?何故、唱歌の発生練習の様に「ア・エ・イ・オ・ウ」の順にしないのかと筆者は疑ふものである。又タ行「ta.ti.tu.te.to」のtiが何故ティーでなくチであるのか、又tuが何故トでなくツであるのか。…
10 名古屋通産局1947(昭和22)~1955年(昭和30) 9年
戦後引揚、名古屋通産局勤務。 同じ建物内で在名古屋の佐渡山安治(琉球史研究家)も勤務。
● 『読者から』 佐渡山安治投稿 『琉球文化』5号
「…4号誌上に安良城盛雄さんが出ていますが、この人は名古屋通産局時代同じ建物の中で時々お目にかかりました。東亜同文書院の出身ですが郷土史研究家であることは存知ませんでした…」
● 『通訳・国家試験合格』昭和26年度運輸大臣官房観光部合格番号392。 観光案内でLos Angels Times に関連記事が掲載された。(安良城勝也氏)
11 田中転写(株)(名古屋)、転写紙の直輸入 15年 1956年(昭和31)~1971(昭和46)
● 『チップ物語』1958年(昭和33)9月 「名古屋商工会議所月報」
● 『外国語物語』(上) 1959年(昭和34)1月「名古屋商工会議所月報」
● 『外国語物語』(下) 1959年(昭和34)8月「名古屋商工会議所月報」
● 『国名物語』 1959年(昭和34)3月 「名古屋商工会議所月報」
● キューバ革命に感動してカストロ首相に親書送る。(1960年(昭和35)7月11日付けの礼状)
● 『外国語教育の振興について』 1960年(昭和35)1月1日 私製印刷物
● 『見本市のありかた』 1961年(昭和36)1月 「陶業公論」
● 『中京という地名と二人の教育家』 1962年(昭和37)「名古屋商工会議所月報」222号
● 『琉球と中京地区』1962年(昭和37)「 名古屋商工会議所月報」12月号所載
● 『外国語のすすめ』1964年(昭和64) 「陶業公論」1月号
● 『藤四郎伝説』 1964年(昭和39) 「名古屋商工会議所月報」
● 『外国語大学創立などの陳情について』1964年(昭和39)9月9日
● あて先 愛知県知事桑原幹根 名古屋市長杉戸清 名古屋商工会議所鈴木亮市 提出者:名古屋外国語協会幹事安良城盛雄
● 『漢印文化について』 掲載誌不明・「日華月報」か?
● 『ベトナム人士の姓名』(上) 「日華月報」 年月不明
● 『ベトナム人士の姓名』(下) 「日華月報」 年月不明
…1964年ゴ・ジエム政権崩壊に際して…から1964以降
● 『外国語なくして貿易なし』1965年(昭和40年)8月1日
「名古屋貿易会」発行印刷物
● 『愛知沖縄県人会』、『でいごの会』会員名簿に記載。(1965年(昭和40)~)
● 『親馬鹿頑張れ』 1965年(昭和40) 秋、CBC・TV 「昭和22年大連引揚、海外生活を語る」 写真7葉
● 『為朝の島渡り考』 1967年(昭和42) 名古屋市立図書館蔵
● 『佐渡に横たふ天の河』1967年(昭和42) 名古屋市立図書館蔵
● 『「倭」について』 1968年(昭和43) 名古屋市立図書館蔵
● 『琉球史を書き替える』1968年(昭和43) 名古屋市立図書館蔵
● 『貿易と語学の教育について』1968年(昭和43)名古屋市立図書館蔵
● 『倭(やまと)について』1970年(昭和45)10月、「愛知沖縄県人会会報」7号所載
12 退職後(1971(昭和46)~)
●『ちばりょう沖縄人!』 (1972年(昭和47)『琉球の文化』2号所載)
●『琉球で造られた刀剣』 (1973年(昭和48)『琉球の文化』3月号所載)
●『東恩納寛の誤解』 (1973年(昭和48)『琉球の文化』4号所載)
1 「四か国の歌」、2 南洋物産の流入時期、3 元代の瑠求
●『忠臣護佐丸正伝』 (1974年(昭和49) 8月)
次に安良城勝也氏のホームページから転載する。
『本土の下克上についてはアマワリによって二度も実行されたが、一般の民は純朴だったと思う。
護佐丸も首里城をねらっていたとか、護佐丸が尚巴志存命中はともかくその没後は尚忠以下に対しては臣として何等義務を感じない、とか覇権に対する野望の強い武将などということはその由来伝を読んでは、感じられない。仲原善忠は「中城動乱のオモロ」で護佐丸を謹厳な武将〔p448〕といい、毛氏、夏氏各由来伝も大体の骨格は事実であったようだ。
〔p458〕
私は護佐丸を真面目な人格者だと思う。
義理も人情もない人物だとしたら琉球には真面目な人は居ないということになる。如何に乱世でも真心によって行動する人があっていいと思う。
鬼大城について、アマワリ妃との恋は邪推だと思う。
鬼大城のお守り役をアマワリも受入れたではないか。アマワリを首里城で撃退し、勝連の地元で完敗させた武勇は大いに評価してよい。
アマワリの武勇は相当警戒されていて、「千年も治めよ」とオモロで讃美されたというアマワリである。それにしてはあわれな最期である
。 それではどうして鬼大城が知花城で亡ぼされたか、それは第二尚氏の深慮によるものであろう。そんな武勇の人を生かして置くより邪推をそのまま利用して死に追いやったのであろう。』
閑古鳥幻聴(勝也氏のペンネーム)としては、安良城盛雄の主張に反して、史実無視・時代考証無視で幻想を膨らませているワケです。アマワリ妃・ももとふみあがりとの恋は、「純愛・悲恋」であったなどと想っています。ボクは、ももとふみあがりと鬼大城との悲恋に、泪を禁じえないのです。みなさまは、どうお考えでしょうか ?
● 『上海歌舞団の公演をみて』1972年(昭和47)9月1日「日華月報」71号
● 『琉球で造られた日本刀』1972年(昭和47)11月1日「日華月報」73号
● 『沖縄には復帰以外には道はないのか』荒櫛久次郎 1962年(昭和37)
10月草稿。1972年(昭和47)11月11日まとめ。直筆原稿 未発表
●『北斎の琉球八景』 手書きメモ 未発表
●『おばあさんの思い出』 手書きメモ 未発表
●『琉球の貢献』 1974年(昭和49) 10月
1 外交情報の提供、2 六諭衍義の紹介、3 漂流者の救助、4 造船技術の寄与、5 ドイツ皇帝の感謝碑、6 華岡青洲の幸運、7 移民の功績、8 絣と紅型、9 三味線と琉金、10 空手道、11 芋と砂糖の功績、12 沖縄戦による犠牲
13 「忠犬ハチ公」好きの深層心理
盛雄の「忠犬ハチ公」好き、について安良城勝也氏から指摘があった。心理学者の論を引用するまでもなく、盛雄が「ハチ公」の中に自分の類型を見つけたであろうことは、推察できる。盛雄研究の一側面になることは確か。
●安良城勝也氏メール 2007年(平成19)10月2日
「忠犬ハチ公」は一家にとって謎でした。親父(盛雄)の「忠犬ハチ公」に対する思い入れは親類の間でも知られていました。自費の絵葉書や印刷物を配付したりするからです。「ハチ公」の出版物、新聞・雑誌記事の切り抜きなど…片っ端から集め、ファイルは、年々分厚くなりました。独自の調査にも出かけました。新しい発見を、興奮して家族に話します。そのうちに、声色が変り、次第に謡い上げる調子になり、眼が潤んできます。ボクは人間変身の生の観察者として、よく聞き入ったものです。日常生活の「語り手」になにかが乗り移り、見る見るうちに、神話時代の「語り部」に変身するのです。その様子は、なんとなく滑稽なのに、やはり、なにか心を打つものがありました。「話しの核」、クライマックスの部分は、「送迎すべき飼い主はもうこの世にいないのに、それを理解できないハチ公が十年以上も渋谷駅を離れない」…その心情のいじらしさ…にあるらしいのです。しかし、なぜ、それ程までに?…家中のだれも理解できませんでした。家中で笑いました。ボクも、最近までずっと、極端なセンティメンタリズムだと思っていました。「まあ、一種の病気じゃないの?」など心ないことをいって、一家を笑わせたりしました。麻生のアキハバラ演説…「キャラが立ち過ぎて…」。この「キャラ」という語は、安良城盛雄に適用する場合、偉才・異彩もさることながら、「純情」の語が、一番、ぴッたりとすると感じます。
14 親戚関係
○ 安良城盛昭(歴史学者) 甥(兄・盛英の長男)
○ 親泊朝省(旧陸軍大佐) 従弟
両人は満州国で会った。(安良城勝也氏の話)
『自決 心の法廷』 2003年沢地久枝著
○ 岸朝子(料理記者) いとこの子
○ 久志芙沙子(作家) 最初の妻
『久志芙沙子年譜』2005年 勝方(稲福)恵子著「沖縄学・8号」
● 『岸秋正』宛ハガキ 1974年(昭和49)
…10月24日から3泊4日、全日空で長女、長男嫁、家内の4人で沖縄へ行ってきましたが護佐丸のお墓は参拝できず遠いため中城城址を見てただけです。お手紙は出発前に拝見しました。いずれ蔵書をゆっくり調べてお知らせします。沖縄は5年振りで2度目の訪問ですが目下海洋博を控えてテンテコ舞の状態です。好天気つづきで楽しい旅でした。
宮城ツルさんはお幾つでしょうか お元気のことと思います。小生沖縄の妹の家で78歳を祝ってくれました。小学生の時、私は朝擢父さんによく似ていると言われました。
注 1 岸秋正(1917-1995)は愛知県生まれ。職業軍人で終戦時は陸軍少佐。牡蠣王・宮城新昌の娘・朝子(料理研究家)を妻とし、沖縄関係資料の蒐集家であった。逝去後、所蔵本は沖縄県公文書館へ寄贈された。
注 2 宮城ツルは宮城新昌の妻。ツルは盛雄のいとこ。
注 3 朝擢は親泊朝擢のこと。朝擢の姉か妹が盛雄の母。
注 4 沖縄の妹とは、長嶺朝昂の妻(江美)
15 家族
この項については、親族・関係者が記録すべき。
非公開資料としては、
① 盛雄→勝也氏宛手紙、久志芙沙子との離婚の経緯。
② 久志芙沙子→勝也氏宛手紙、盛雄の人物評。 公開されている資料としては、
③ 『琉球の歴史は本土のそれより古い』 1972年(昭和47)東亜同文書院17期卒業50周年記念誌・文集「春秋」に家族全員写真。
④ 『親馬鹿頑張れ』 1965年(昭和40) 秋、CBC・TV 「昭和22年大連引揚、海外生活を語る」 写真7葉、家族写真。
⑤ 勝也氏のホームページ(ペンネーム閑古鳥玄聴)・作品、そしてメール。 http://www.geocities.jp/vickedgarapoehegel/
⑥ 安良城家・家族写真 左から百合子の母、盛英の妻、盛英、親泊家から来た母、愛子の母、みつこ、父・盛能、盛起、盛雄。
―首里赤平町の屋敷に
安良城盛雄 墓地
犬山市大字犬山字北白山平5-68 瑞泉寺別院・富岡霊苑3号地11番
写真左から宮島肇、新崎盛敏、大浜信泉/石川正通、宮城栄昌、一泉知永/外間寛、安良城盛昭、島茂彦
1980年11月24日ー豊中市立婦人会館で開かれた南島史学会第9回研究大会。右手前2人目が安良城盛昭氏と牧野清氏、左端が喜舎場一隆氏同日、受付の永峰眞名さんに安良城盛昭氏を確認してもらう。大会終了後、安良城氏を都島の沖縄関係資料室まで案内。色々と歓談する。資料室で自著を見つけた安良城氏が本代を払いそれに署名献本した。このとき以来、理論嫌いな私でも沖縄出身の理論家については、これ傾聴に努めることにした。
渡久地政司/沖縄雑文録
身内のことを誉めるのは、気がきけますが、死後、何十年も経って、父「安良城盛雄」の偉大さを感じます。それは、「パルメニデス断片」という書を通じて感ずるのです。1942-3年(昭和17-18年)ころ、閑古鳥幻聴一家は、大連湾を挟んで、その北側に位置する「甘井子」地区に居住していました。
甘井子地区は、「昭和製鋼所」・「満州化学」・「満州石油」・南満洲鉄道」など・・・大企業が立ち並ぶ一大コンピナート地区でした。
1945年8月22日・・・だったと想いますが、高台にある甘井子・満洲石油の社宅からは、ソ連軍の双発飛行艇「コンソリデーテッド」数十機が大連湾上空を旋回、次々と着水するのが、望見されれました。それが、ソ連軍大連進駐の第一波だったのです。大連市は、阿鼻叫喚の地となったようです。歩行者は、次々と、腕時計を強奪されました。一般住宅も、大々的な略奪の対象になりました。一部の地区では、女性に対する暴行も盛大に行われました。それが、社会主義を標榜する「ソビエト社会主義共和国連邦」のファシスト国家に対する勝利の姿となったのです。その中で、甘井子地区では、各社宅の周辺に「プリカザーニェ」と題する命令の高札が高々と掲げられました。各戦略拠点工場とその従業員を断固として護ろうとする占領軍当局の配慮が働いたようです。お蔭て、閑古鳥幻聴一家も、なんの被害を蒙ることもなく、工場を管理する・・・監督官「メーゼンツェフ」・事務官「アンドリェーイ」・運転手「ニコラーイ」一家とも、極めて友好的な関係を維持、戦後の生活を享受、無事帰国しました。その根源的理由は、決して人道的・友好的関係という観念的なものではありません。技術・設備を背景にした、日本人の物的・知的 potential だったと想われます。
当時、「パルメニデス断片」を熟読していた、父・安良城盛雄は、意識してか・意識せずににか、その哲学的思索を基に、結果的に、国際政治の中における「石油」の重要性に着目、満洲国官吏から満洲石油株式会社幹部への道を選択・転進したものと想われます。
昨今、国際的視野にたって、「友好的関係」が叫ばれていますが、観念的な友好関係なるものは、全く信用できないというのが、閑古鳥幻聴の哲学です。日本の将来は、「視界ゼロ」などと週刊誌で論評されている昨今ですが、視界はゼロではありません。閑古鳥幻聴としては、世界の中で、科学技術の最先端を極めること、これが、わが国最善の防衛策と考えているのです。閑古鳥は、現在、Cayley-Dickson construction なる概念に撮り憑かれ、鋭意、ソフトウェアの開発に尽力しておりますか、それは、国際政治の中におけるわが国の将来への指針と関連するものだと信じています。以上、お粗末な意見表明となりましたが、じッくりと、検討してみてください。なんらかの成果が得られると確信します。では、皆さん・・・お元気で・・・・・
閑古鳥幻聴 拝
2013年3月21日
2013年6月20日更新
■ 生涯純情・偉才の人 安良城盛雄 ■
生涯純情・偉才の人 安良城盛雄
-作品年表と記録者メモ-
安良城盛雄―1896年(明治29)10月25日沖縄県那覇市首里赤平町で生まれる。1977年(昭和52)4月9日豊橋市で逝去、81歳。墓所・犬山市大字犬山字北白山平5-68 瑞泉寺別院、富岡霊苑3号地11番。 あらぐすく・せいゆう 改名後 あらき・もりお
安良城盛雄作品(印刷物)中心に、本人メモ・手紙・ハガキについては限定し、少しコメントを加え紹介する。資料収集は、名古屋では渡久地、沖縄では仲村顕氏が主におこない、メモ・手紙・ハガキなど個人的資料は、安良城勝也氏(在横浜)からご提供いただいた。収集された資料は、最終的には、「沖縄歴史教育研究会・会員仲村顕」で保存される。 (記録者・渡久地政司/2007-10-末) 安良城盛雄(新京時代)
(はじめに)
最初に安良城盛雄が人生の晩年(1974年(昭和49)10月・盛雄78歳)に、体力の衰えと闘いながら出筆・まとめたであろう作品について紹介したい。
『琉球の貢献』―貢献した主体は琉球・沖縄人であり、恩恵を享受した客体は、日本政府・国民。この作品については、後にもふれるが、この作品を書きながら盛雄は「苛立っていた」のではないか、とわたしは推理する。それは、復帰前、日本政府やマスコミの一部に「沖縄を甘やかすな」発言があった。これに盛雄は、12項目の貢献例を挙げて猛反発した。そして、同時に沖縄の若者に対して、このように貢献しているのだから卑屈にならず、堂々と振舞い、新しい世界平和に希望をいだけ!と題する”詩”を『琉球の貢献』誌の裏表紙に掲載した。
●『琉球の貢献』印刷にあたって 後輩の若人たちに与える
1. きたへみなみへと 北へ南へ
おおうみをこえて 大海を越えて
われらがせんぞの 我等が先祖の
たてたわざよ 建てた偉業よ
2. うけついだちしほ 受けついだ血潮
われらはうみのこ 我等は海の子
きぼうにかがやき 希望に輝き
きばれともよ 気張れ友よ
3. ゆくてはひらけて 行手は開けて
みあげるくもみね 見上げる雲峰
せかいをひとつに 世界を一つに
へいわたてよ 平和建てよ
(注) 七、五調としないで琉歌の八、八、八、六調とした。
気張れとは琉球の威勢のよい語である
。 若人よ、この乱世にあって世界平和の希望をもて。
78歳とは思えない若々しい純情な詩だ。わたし(記録者)は、今年(2007年)70歳だが、とてもこのような清清しい詩、言葉を生み出すことができない。盛雄は『琉球の貢献』の12.沖縄戦による犠牲 を記述している。 …赤松船舶特攻隊長大尉は、…慶良間の住民に対し、食糧の半分を部隊に提供せしめ、家畜の屠殺を禁じ住民に手榴弾を与えたがこれは集団自決(赤松は自決を否定しているが)を強いるものではないか。伊江島から米艦によって2千名が慶良間諸島の渡嘉敷島へ送られて来たが、農作物は食いつくされた。そのうち女5人男1人が米軍に選ばれて赤松隊に降伏勧告に来たが敵に内通したものとして処刑された。赤松隊は沖縄戦終結後1カ月、八月十五日の終戦前の七月十九日に無条件降伏し、前記住民六名は即決で殺されたのに、赤松隊は隊長はじめ命拾いした。…
30余年前のこの記述は、「高校歴史教科書から沖縄戦・集団自決事件の削除問題」の核心に触れている。
前口上が長くなった。本論に入ろう。何を行った人なのか、を次ぎに列挙する。
1 何を行った人か
・ 上海・東亜同文書院に沖縄県費留学
・ 愛知県下の産業調査・紹介、貿易指導、広報
・ 満州国官僚、調査と広報
・ 満州石油(株) 激動の国際石油市場に関わる
・ 敗戦後引揚 名古屋通産局
・ 民間会社 貿易担当
・ 沖縄・琉球の歴史研究
2 安良城家と盛雄の高等小学卒まで ~1916年(大正5)
● 『戦争前の安良城家屋敷絵図』(安良城勝也氏継承) 末尾に掲載。
● 『安良城家系図』(仲村 顕氏作成) 非公開。
● 『おばあさんの思い出』 盛雄直筆メモ。
● 参考資料『安良城盛昭先生追悼論集』P
219~221
● 『安良城勝也氏・メール』 2007-08-01 ● 『潯陽頭に於て』 1920年(大正9)「沖縄県立師範小学校40周年記念誌」 (再版の手書きコピー)。
晩年、盛雄も先祖のことが気になった。そして、兄・安良城盛英や縁戚の岸秋正にも問い合わせた。そのハガキや手紙が残っている。 本人自身がメモ書きにした『おばあさんの思い出』を次に掲載する。
『おばあさんの思い出』(「盛雄ファイル」)
…お祖母さんは弘化元年(120代仁孝天皇1844)お祖父さんより一つ下であった。親泊家から嫁いで来た。名はゴゼ(グシー)(ゴゼに種々の意味があるが一番よい意味は貴婦人の尊敬語)、明治41年65歳でなくなった。僕の13歳の時である。家族の死にはじめて会った。悲しみを味わった。おばあさんはやせ形で(「文展」時老婦人像に似ていた)、裁縫が上手で、紀州ネルでシャツを作って貰ったことやそのネルの生地は大和の匂いがしたことを覚えている。おばあさんは煙草がすきで当時専売になってからは煙草に福寿草、あやめ、さつき、萩などがあったがさつきをよく吸っていた。煙草入れを宝蔵といって美しい端裂で木綿や絹の裏をつけて鎌手形に遂上げて正月に親戚や使用人に与えていた。きせるにヤニがたまると僕が掃除してあげた。細い竹で中をつついた後で、火箸できせるをはさんで直立させて吸い口から薬缶の湯を注いだ。おばあさんはめったに外出をしなかったが富川家、親泊家へ行く時は籠で行き、僕がきせると宝蔵をもってお供した。籠は竹のすだれがあって直径20センチ丸、 長さ3メートルくらいの棒で下男や出入りの人がかついだ。
ゴゼ祖母の夫が安良城盛振(1843―?)、その子が盛雄の父・安良城盛能。長男は病死、その次男・安良城盛英(盛昭の父)が長男を継ぎ、次男が盛雄。三男・盛起。妹・恵美。ツル(嘉数家に嫁し、那覇市の市議に?)。みつ子。
盛能の妻(名前不詳)も親泊家から嫁入り。この老女について、安良城盛昭が詳しく話している(『安良城盛昭先生追悼論集』P219~221)。また、この老女は、盛雄の長男・勝也氏を2~5歳 (昭和4~7年) まで赤平町で育てた。
● 勝也氏からのメール(2007年8月1日)
…『新しい琉球史像』の中の祖母の姿…幼いころ見た毅然としたそのイメージがまざまざと想いだされます。小生は2~5歳の頃、首里赤平の屋敷でこの祖母に育てられたのです。祖母は、親泊家からきた人だそうで、盛昭の姉「真喜屋京子」は、「親泊の家系は、美人が多いのよ」といっていましたが、それもある程度は、納得できるところがありました。「やまとぅは、どっち?」という幼稚な問いに対して、背筋をすッと伸ばし、ゆっくりと腕を挙げ、黙って指し示す毅然とした面影は今でも鮮やかに蘇ります。藁か糸か、梁から下がった紐に、厳しい表情で結び目を付け加える姿をよく見かけました。文字が読めなかったのだということは、戴いた盛昭君の『新しい琉球史像』複写で初めて知り、結び目の意味がやっと分かりました。
赤平の屋敷の裏は石畳が敷き詰められておりました。その石と石の隙間の草とりをよく見かけました。時には、薬缶の熱湯で除草することもありま した。忙しかったのでしょう。ご先祖のお墓参りにゆき、大勢の親類と弁当を食べた記憶もあります。きッちりと、日々の仕事をこなし、家を護ることができたら文字が読めないことなど大したことではないようにも思います。最も印象的だったのは、鶏の解体です。先ほどまで、走り回っていた「コケコッコ」が解体されて、部品ごとに整然と、庭先で天日干しされているのです。…
明治36年、沖縄県立師範小学校に入学、「8か年の思い出」(高等小学校卒)を台湾、九江・潯陽頭から寄稿している。
抜書きすると、 「…入学は区役所前…女学校と一緒…単級…正午には圓覚寺の鐘…2年生の時首里城に移転…あの瓢箪池は私達の時にできた…外間先生が受持ち…8年間の中頃、巡視当番…教生がヴァイオリンを弾いて聞かせてくれた…」
3 沖縄県立第一中学卒まで 1916年(大正5)
● 『夏』 1912年(大正元)「球陽」21号所載
…永ひらしく降った梅雨が、サラリと晴れて夏となった春の花があちこちに名残を止めて、草木が漸く新緑を装ふた、空がコバルトに彩られて白い白い大きな線の様な雲が湧き出て芭蕉や野椰子が午後の暑い風に、ザワザワすると夏の感が一層深く頭に滲む。…以下省略
● 『別れ』 1913年(大正2)「球陽」22号所載か? 未発見
ロマンチック青春小説「別れ」について 2007-10-2 勝也氏メール
盛雄の純情性は、この小説に端的に顕れていると感じています。この小説を、小生はある機会から、関東州甘井子時代、終戦後に始めて読んでいます。その最後の場面…友の乗る船が遠ざかるのを、波止場で、小雨の中、見送る筆者…その手にしっかりと握られるのは、友人から贈られた「ダンテの像」…その白い塑像もまた、雨に濡れて…この辺で、小説は大変な盛り上がりを見せ、小生はすっかり感心して、照れることもなく、激賞したのです。それまで、けなすことはあっても、親父を褒めることなど全くなかったのです。親父は、わが意を得たりの感じで、みるみる、顔面が紅潮、少年のような笑みが広がりました。 この小説については、まだまだ、書くことが多いのですが、一点だけ述べますと、この小説には、主人公のモデルがいたであろうということです。そのモデルの人物は、恐らく、県立首里第一中学校の盛雄の同級生…学籍簿があれば、同定できそうです。その友人は、親が事業に失敗、転校の原因となり、途中で転校した友人。転校ではなくて、退学かも知れません。この過程は、当時の琉球士族の相次ぐ事業失敗を裏書することから、現実性があります。想像を逞しくするならば、大変な美少年であったろうともいえます。一種の「やおい小説」のはしり…といえるかも知れません。安良城盛雄たちの青春讃歌が歌い上げられています。その絶唱は、兄の盛英もある程度共感、一緒に掲載誌を探したりしています。また、何年も経って、友人の「石川悌次郎さん」から、激賞されている点からも、この小説の背後には、あるグループに共有された青春体験があるものと推測されます。
この観点から、小生は、サント・ヴィクトワールを巡るセザンヌ・ゾラの愛憎・確執を想起します。セザンヌとゾラは、サント・ヴィクトワールにおいて、なんらかの青春体験を共有している…と睨んでいるのです。そうでなければ、あのセザンヌの執拗なサント・ヴィクトワール連作は理解できません。セザンヌが、世評に反し、大変な激情家であったことは、研究者の知るところです。
● 『水』 1915年(大正4)「学友会雑誌」24号所載
● 『御位御大典に対する感想』1916年(大正5)「学友会雑誌」25号所載
● 『卒業証書』 1916年(大正5)3月17日 第1018号
● 卒業後に投稿 『滬上鴻信』 1918年(大正7)(「養秀」27号所載)
後輩たちに、やや気張って、候文で…。
拝啓 春尚浅く暗香匂ふ侯と相成候諸君は卒業試験前に控へ卒業後の方針を定むべく或は若き心を悩まされ候はずや我か過去を思ひ出て同情致し候実に考ふべきは我が将来に候故に小生はいささか本学書院の近況を述べて一部諸君の方針にヒントを与えんと存侯。…
4 上海東亜同文書院大学・第17期(1917~1920年)
安良城盛雄が沖縄県費留学生として上海の東亜同文書院大学で学んだ時期1917~1920年はどのような時代であったか。
5・4運動の渦中にいた。 ● 『5・4運動(1919年)の波紋』 1982年刊行(「東亜同文書院大学史」―創立80年周年記念誌・安良城盛雄没後に刊行された)
熊野正平・安良城盛雄両人署名記事に次のものがある。 …二年生になった大正七年の十一月、上海では第一次欧州大戦の休戦祝賀のお祭り騒ぎがあり、書院の学生もデモ行進に参加した。 P456~7
しかし、ここには5・4運動に関係する記述はない。別人の署名記事P457には、…大正八年(1919)夏、…排日が激しくて(卒業大旅行)出発を見合わせ、翌九年(1920)の春まで延期…。
第1次大戦が終結(1917年)、ロシア革命(1917年)、5・4運動(1919年)を背景に国際都市・上海で多感な少年時代を過ごした。
● 『田島先生』(上・下) 1919年(大正8)11月22日・23日(「沖縄時事新報」)
…放浪山人の号を思ひ問合せて見ようかと思って発行所を見たら意外にも編集発行人として田島利三郎としてあったので僕は急に宝を見出した様に喜んだ。…漢口発行の「鶴涙」は週刊新聞で…「琉球に関する記憶」(1~19)…。
『おもろそうし』発掘の最大の功労者・田島利三郎の中国での消息を伝える。田島は1929年(昭和4)9月豊橋市で逝去、墓・豊橋市龍捻寺。安良城盛雄は1977年(昭和52)豊橋市で逝去。偶然にも同じ豊橋市が終焉の地であった。
● 『琉球の歴史は本土のそれより古い』 1972年(昭和47)同文書院17期卒業50周年記念誌・文集「春秋」所載。
戦後だが、同文書院関係としてここに掲載。
小見出しは次のとおり。
はしがき、宝貝、うこん、明刀銭、隋書の流求国の言語に就いて、
五銖銭、開元通宝、安国山樹華木記、結語、
―余白埋め草―倭について、邪馬臺、中国観、マスコム。
本文より抜粋
・ 結語―…琉球の歴史は、本土のそれより1千年以上も古い。
・ …三国時代に呉の孫権(AD252没)が討伐を計画した亶洲は琉球だと思う。流求の地名の初見は隋代…亶には、暑い、肌ぬぐの意味がある。
『春秋』誌は、比嘉春潮にも署名入りで贈呈されていた。
● 『貿易地理学』 1962年(昭和37)4月7日 『滬友』所載。 戦後だが、同文書院関係として掲載。
5 台湾銀行 1920年(大正9) ~1927年(台北、九江、嘉義) 7年
● 『潯陽頭に於て』 1920年(大正9)「沖縄県立師範小学校40周年記念誌」(再版)より。 ・ 明治36年師範学校付属小学校に入学し、8か年の思い出を台湾、九江・潯陽頭で書いた。台湾時代に書いた唯一の資料。
● 久志ツル(芙沙子)と結婚1922年(大正11)、長男・繁誕生1923年(大正12)、繁は2歳になるかならないうちに夭逝。
台湾銀行は、安良城盛雄が退職してまもなく深刻化した世界金融恐慌(1929年~)では、日本で最初に倒産した。
6 名古屋市立貿易学校、中国語教師 1928年(昭和3年) 1年
同校は、昭和4年3月に廃校。先行きの見通しなく苦難の時期。
7 愛知県商品陳列所、1929年(昭和4)~1935年(昭和10)6年
愛知県商品陳列所は、現在の「貿易センター」的機能の組織。建物
はモダンなビルで昭和天皇・皇后が視察した。
● 『愛知商工』(隔月誌) 誌編集
安良城盛雄署名の論文が毎回2~3本掲載されている。
「愛知県の対支貿易品」(5回)、「愛知県の陶磁器」(10回)、「愛知県の金属産業・印刷機械」、「愛知県の金属産業・機械器具」、「愛知県の金属産業・時計」、「愛知県の金属産業・航空機」、「愛知県の金属産業・織機」、「愛知県の金属産業・自転車」、「愛知県の実用商品学」(3回)、「愛知県の玩具製造業」(2回)、「商工業者と情報機関」、「満州に於ける商業機関」などを調査し紹介。 『愛知商工』の編集後記及び掲載文の空白に囲み記事、その多くが「安良城生」の署名が入っている。雑誌「中央公論」や「周樹人」などの引用もあり、「芸術としての書道」、「工芸教育について」、「Javaの訳字」、「愛知青年海外へ雄飛せよ」「日本精神」「織物博の開催を望む」、「鉄砲・日本刀・陶丸」、「支那における米」、「素質と努力の方法」 など多岐にわたって展開。100余点が確認されている。
どのくらい多忙であったか。
●『筆者(安良城)曰く』 1933年(昭和8)7月の囲み
本編(「愛知県の陶磁器」)も第5回迄書いて来ました。何しろ書きつつ編纂し、この「愛知商工」の外に「貿易通報」が月2回、之又書きつつ編纂し、外に英支文の翻訳、新商品の意匠、解説書の助言、作製、特許に対する助言、信用照会の斡旋、貿易実務の助成、展覧会等の事務で目の廻る様な多忙ですから、とても悠長に研究なんて出来ることではありません、定めし誤謬も多いことと思いますが他日訂正して、「愛知県の陶磁器」については何とか平易な解説を書き上げたいと思います。
● 『日本精神』1933年(昭和8)7月「愛知商工・かこみP13」
古い時代の日本精神は茶道を生んだ。そして現代の日本精神は1萬屯級巡洋艦『加古』を生んで世界一の海軍国家英国の出鼻をくじき 、又鉄道の能率化を実行してソヴートロシアに日本式を教えた。すべての大組織の下に行はれた日本精神の発露は成功している。日本が世界的にならうとするには先ずその方法、組織で研究しなければならぬ。(安良城生)
● 『芸術としての書道』1934年(昭和9年)「愛知商工」11月号・目次の裏側 全面記事 美的感情の表現が美術であるならば、書道又美術ではないか。西洋のペンマンシップが美術に加へられないからといって、我が書道が美術でないと断ずる訳には行くまい。 漢字系民族には特殊の書道美術壇を持って居る。刀剣が帝展に出品されていると同様に書も亦それに加へられなければならないぬ。 それは所謂「非常時」が與へた善き教訓の1つに算へてよいとおもふ。(安良城生)
● 『愛知商工』165号~169号、170号欠ける、171号~172号、173号~184号まで欠ける、185号~195号まで「愛知県公文書館所蔵」。176号~184号まで「富山大学図書館所蔵」。
また、開局まもないラジオ放送にも出演している。
●『家庭と陶磁器』 NHK-CK 1933年(昭和8)7月4日。(『愛知商工』188 号掲載)
安良城勝也氏は、満州国時代、放送局の一室で、大きなマイクロフォーンを前に、デスクに向かっている盛雄の写真が存在した、と語っている。
8 満州国産業部大臣官房資料課 1935年(昭和10)~1940年7月(新京・大連) 6年
●『北満輸移入品取引事情』 (満州国商業部資料 P49)満州国で統計資料などまとめる。1934(昭和9)~35年。
東洋文庫が所蔵している貴重な資料。A版49ページ、油印刷。
●『従兄弟・親泊朝省』のこと (勝也メール 2007-08-01)
親泊情報、有難うございました。親泊朝省さんは、確かに、一門の出世頭として、親類一同の間でも、一目置かれ、注目の人物でした。安良城盛昭…勝也の従兄…勝也より1つ年上ですが、勝也が早生まれのため、同学年…も、朝省さんの存在に inspire されて、その海軍兵学校志願・入隊も、朝省さんの影響があったともいわれています。 一方、父・安良城盛雄の方は、朝省さんと、確かにどこかで逢ってはいますが、勝也が知る限りでは、 朝省さんの「帝国主義的発言」に強い違和感を持っていたように感じています。盛雄は、知・中国派でしたので、全く別の大陸観を持っていたようです。そのような批判的発言を、何度も聞いています。また、勝也自身も、親類一同から一族の希望の星と目されてきた盛昭とは異なり、…朝省さんに inspire されることは、全くありませんでした。芥川龍之介の見解同様、いい大人が、勲章を胸に付けて、昼日中踏ん反りかえっいるコトはバカらしくて到底我慢できない…という妙に老成した感覚を持っていたのです。しかし、それにもかかわらず、独り勝也だけに限らず、親泊の血を引いていることについては、みな、大変な誇りを持っています。あの従姉妹の真喜屋京子も、「親泊の家系は、みな、美人が多いのよ」などと、極めて我田引水的な発言を繰り返していますが、事実、2005年有楽町で開催の米寿の祝いでも、数人の縁者から「京子姉さんは、どうしていつまでもそんなに美しいのですか?」と違和感なく、持ち上げられていました。2歳から5歳まで、ボクを首里で育ててくれた安良城盛能の妻…おばあさん…も、また、端正な顔立ちの人でした。
● 追信[親泊朝省のこと] 2007-10 メール
満洲で盛雄と会っておりますが、この邂逅には、2つの側面があります。1つは、従兄弟同士の邂逅です。もう1つは、「日本陸軍軍人」と「満洲国官吏」との邂逅です。話題の中に、東シベリア問題が含まれていたようです。当時の陸軍の戦略と満洲国の戦略とのすれ違いがあったとしても、不思議ではありません。陸軍の戦略は、よく知りませんが、満洲国・その国策会社「満洲石油株式会社」(昭和9年・1934年設立)の戦略は、満洲一帯から、スタンダードなど欧米系の石油販売組織を駆逐、満洲国の専売制度をひき、さらに、海外への原油依存度から脱却するため、石炭液化、人造石油技術の開発へと向かっておりました。実際、欧米系石油販売機構は、その後、満洲地域から撤退、日本政府との間で外交問題に発展しております。満洲国を承認していない両国としては、日本政府を相手にせざるを得なかったのです。安良城盛雄は、渡満するや否や、その満州国政府の石油戦略の渦中に飛び込んだワケで、陸軍の軍事一点張りの政策に、違和感を持ったことは自然であると考えられます。
9 満州石油(株)(新京・大連) 1940年(昭和15)~1946、4年
昭和9年2月、満州国法人満州石油株式会社が設立され、専売制を実施、シェル、テキサスなど欧米石油資本は、満州における販売市場から撤退。
● 満州石油(株) では、営業課部長、オフイスの書棚には『パルメニデス断片』があった。(安良城勝也氏)
● 『安良城盛雄について』 安良城勝也氏メール(2006-6-14)
…中国在住時代、中国人に北京官話を教えるくらい中国語に堪能であった。新京・大連では裕福な暮らし。石油の重要性について、国際的視野で理解、判断していた。敗戦後、日本人技術者・経営者のノウハウなしでは、大連の化学・鉄鋼・運輸・石油コンビナートが操業できなかったのでソヴィエット軍からは丁重にあつかわれたともいえる。国際情勢もよく理解していて、中国人からも信頼されていた。開明的文化人であった。…温厚な人であった。
満州国から沖縄県の出版社に次の4点を寄稿している。
●『琉球遣明使臣の姓に就いて』(1941年(昭和16)『文化沖縄』6月号所載)
●『鹿児島弁と沖縄口』 (1941年(昭和16)『文化沖縄』8月号所載)
●『支那語と沖縄方言との交渉』(1941年(昭和16)『文化沖縄』11月号所載)
●『沖縄方言と文法一面観』 (1941年(昭和16)『文化沖縄』12月号所載)
抜粋 …五十音の各段の配列は無秩序ではあるまいか?何故、唱歌の発生練習の様に「ア・エ・イ・オ・ウ」の順にしないのかと筆者は疑ふものである。又タ行「ta.ti.tu.te.to」のtiが何故ティーでなくチであるのか、又tuが何故トでなくツであるのか。…
10 名古屋通産局1947(昭和22)~1955年(昭和30) 9年
戦後引揚、名古屋通産局勤務。 同じ建物内で在名古屋の佐渡山安治(琉球史研究家)も勤務。
● 『読者から』 佐渡山安治投稿 『琉球文化』5号
「…4号誌上に安良城盛雄さんが出ていますが、この人は名古屋通産局時代同じ建物の中で時々お目にかかりました。東亜同文書院の出身ですが郷土史研究家であることは存知ませんでした…」
● 『通訳・国家試験合格』昭和26年度運輸大臣官房観光部合格番号392。 観光案内でLos Angels Times に関連記事が掲載された。(安良城勝也氏)
11 田中転写(株)(名古屋)、転写紙の直輸入 15年 1956年(昭和31)~1971(昭和46)
● 『チップ物語』1958年(昭和33)9月 「名古屋商工会議所月報」
● 『外国語物語』(上) 1959年(昭和34)1月「名古屋商工会議所月報」
● 『外国語物語』(下) 1959年(昭和34)8月「名古屋商工会議所月報」
● 『国名物語』 1959年(昭和34)3月 「名古屋商工会議所月報」
● キューバ革命に感動してカストロ首相に親書送る。(1960年(昭和35)7月11日付けの礼状)
● 『外国語教育の振興について』 1960年(昭和35)1月1日 私製印刷物
● 『見本市のありかた』 1961年(昭和36)1月 「陶業公論」
● 『中京という地名と二人の教育家』 1962年(昭和37)「名古屋商工会議所月報」222号
● 『琉球と中京地区』1962年(昭和37)「 名古屋商工会議所月報」12月号所載
● 『外国語のすすめ』1964年(昭和64) 「陶業公論」1月号
● 『藤四郎伝説』 1964年(昭和39) 「名古屋商工会議所月報」
● 『外国語大学創立などの陳情について』1964年(昭和39)9月9日
● あて先 愛知県知事桑原幹根 名古屋市長杉戸清 名古屋商工会議所鈴木亮市 提出者:名古屋外国語協会幹事安良城盛雄
● 『漢印文化について』 掲載誌不明・「日華月報」か?
● 『ベトナム人士の姓名』(上) 「日華月報」 年月不明
● 『ベトナム人士の姓名』(下) 「日華月報」 年月不明
…1964年ゴ・ジエム政権崩壊に際して…から1964以降
● 『外国語なくして貿易なし』1965年(昭和40年)8月1日
「名古屋貿易会」発行印刷物
● 『愛知沖縄県人会』、『でいごの会』会員名簿に記載。(1965年(昭和40)~)
● 『親馬鹿頑張れ』 1965年(昭和40) 秋、CBC・TV 「昭和22年大連引揚、海外生活を語る」 写真7葉
● 『為朝の島渡り考』 1967年(昭和42) 名古屋市立図書館蔵
● 『佐渡に横たふ天の河』1967年(昭和42) 名古屋市立図書館蔵
● 『「倭」について』 1968年(昭和43) 名古屋市立図書館蔵
● 『琉球史を書き替える』1968年(昭和43) 名古屋市立図書館蔵
● 『貿易と語学の教育について』1968年(昭和43)名古屋市立図書館蔵
● 『倭(やまと)について』1970年(昭和45)10月、「愛知沖縄県人会会報」7号所載
12 退職後(1971(昭和46)~)
●『ちばりょう沖縄人!』 (1972年(昭和47)『琉球の文化』2号所載)
●『琉球で造られた刀剣』 (1973年(昭和48)『琉球の文化』3月号所載)
●『東恩納寛の誤解』 (1973年(昭和48)『琉球の文化』4号所載)
1 「四か国の歌」、2 南洋物産の流入時期、3 元代の瑠求
●『忠臣護佐丸正伝』 (1974年(昭和49) 8月)
次に安良城勝也氏のホームページから転載する。
『本土の下克上についてはアマワリによって二度も実行されたが、一般の民は純朴だったと思う。
護佐丸も首里城をねらっていたとか、護佐丸が尚巴志存命中はともかくその没後は尚忠以下に対しては臣として何等義務を感じない、とか覇権に対する野望の強い武将などということはその由来伝を読んでは、感じられない。仲原善忠は「中城動乱のオモロ」で護佐丸を謹厳な武将〔p448〕といい、毛氏、夏氏各由来伝も大体の骨格は事実であったようだ。
〔p458〕
私は護佐丸を真面目な人格者だと思う。
義理も人情もない人物だとしたら琉球には真面目な人は居ないということになる。如何に乱世でも真心によって行動する人があっていいと思う。
鬼大城について、アマワリ妃との恋は邪推だと思う。
鬼大城のお守り役をアマワリも受入れたではないか。アマワリを首里城で撃退し、勝連の地元で完敗させた武勇は大いに評価してよい。
アマワリの武勇は相当警戒されていて、「千年も治めよ」とオモロで讃美されたというアマワリである。それにしてはあわれな最期である
。 それではどうして鬼大城が知花城で亡ぼされたか、それは第二尚氏の深慮によるものであろう。そんな武勇の人を生かして置くより邪推をそのまま利用して死に追いやったのであろう。』
閑古鳥幻聴(勝也氏のペンネーム)としては、安良城盛雄の主張に反して、史実無視・時代考証無視で幻想を膨らませているワケです。アマワリ妃・ももとふみあがりとの恋は、「純愛・悲恋」であったなどと想っています。ボクは、ももとふみあがりと鬼大城との悲恋に、泪を禁じえないのです。みなさまは、どうお考えでしょうか ?
● 『上海歌舞団の公演をみて』1972年(昭和47)9月1日「日華月報」71号
● 『琉球で造られた日本刀』1972年(昭和47)11月1日「日華月報」73号
● 『沖縄には復帰以外には道はないのか』荒櫛久次郎 1962年(昭和37)
10月草稿。1972年(昭和47)11月11日まとめ。直筆原稿 未発表
●『北斎の琉球八景』 手書きメモ 未発表
●『おばあさんの思い出』 手書きメモ 未発表
●『琉球の貢献』 1974年(昭和49) 10月
1 外交情報の提供、2 六諭衍義の紹介、3 漂流者の救助、4 造船技術の寄与、5 ドイツ皇帝の感謝碑、6 華岡青洲の幸運、7 移民の功績、8 絣と紅型、9 三味線と琉金、10 空手道、11 芋と砂糖の功績、12 沖縄戦による犠牲
13 「忠犬ハチ公」好きの深層心理
盛雄の「忠犬ハチ公」好き、について安良城勝也氏から指摘があった。心理学者の論を引用するまでもなく、盛雄が「ハチ公」の中に自分の類型を見つけたであろうことは、推察できる。盛雄研究の一側面になることは確か。
●安良城勝也氏メール 2007年(平成19)10月2日
「忠犬ハチ公」は一家にとって謎でした。親父(盛雄)の「忠犬ハチ公」に対する思い入れは親類の間でも知られていました。自費の絵葉書や印刷物を配付したりするからです。「ハチ公」の出版物、新聞・雑誌記事の切り抜きなど…片っ端から集め、ファイルは、年々分厚くなりました。独自の調査にも出かけました。新しい発見を、興奮して家族に話します。そのうちに、声色が変り、次第に謡い上げる調子になり、眼が潤んできます。ボクは人間変身の生の観察者として、よく聞き入ったものです。日常生活の「語り手」になにかが乗り移り、見る見るうちに、神話時代の「語り部」に変身するのです。その様子は、なんとなく滑稽なのに、やはり、なにか心を打つものがありました。「話しの核」、クライマックスの部分は、「送迎すべき飼い主はもうこの世にいないのに、それを理解できないハチ公が十年以上も渋谷駅を離れない」…その心情のいじらしさ…にあるらしいのです。しかし、なぜ、それ程までに?…家中のだれも理解できませんでした。家中で笑いました。ボクも、最近までずっと、極端なセンティメンタリズムだと思っていました。「まあ、一種の病気じゃないの?」など心ないことをいって、一家を笑わせたりしました。麻生のアキハバラ演説…「キャラが立ち過ぎて…」。この「キャラ」という語は、安良城盛雄に適用する場合、偉才・異彩もさることながら、「純情」の語が、一番、ぴッたりとすると感じます。
14 親戚関係
○ 安良城盛昭(歴史学者) 甥(兄・盛英の長男)
○ 親泊朝省(旧陸軍大佐) 従弟
両人は満州国で会った。(安良城勝也氏の話)
『自決 心の法廷』 2003年沢地久枝著
○ 岸朝子(料理記者) いとこの子
○ 久志芙沙子(作家) 最初の妻
『久志芙沙子年譜』2005年 勝方(稲福)恵子著「沖縄学・8号」
● 『岸秋正』宛ハガキ 1974年(昭和49)
…10月24日から3泊4日、全日空で長女、長男嫁、家内の4人で沖縄へ行ってきましたが護佐丸のお墓は参拝できず遠いため中城城址を見てただけです。お手紙は出発前に拝見しました。いずれ蔵書をゆっくり調べてお知らせします。沖縄は5年振りで2度目の訪問ですが目下海洋博を控えてテンテコ舞の状態です。好天気つづきで楽しい旅でした。
宮城ツルさんはお幾つでしょうか お元気のことと思います。小生沖縄の妹の家で78歳を祝ってくれました。小学生の時、私は朝擢父さんによく似ていると言われました。
注 1 岸秋正(1917-1995)は愛知県生まれ。職業軍人で終戦時は陸軍少佐。牡蠣王・宮城新昌の娘・朝子(料理研究家)を妻とし、沖縄関係資料の蒐集家であった。逝去後、所蔵本は沖縄県公文書館へ寄贈された。
注 2 宮城ツルは宮城新昌の妻。ツルは盛雄のいとこ。
注 3 朝擢は親泊朝擢のこと。朝擢の姉か妹が盛雄の母。
注 4 沖縄の妹とは、長嶺朝昂の妻(江美)
15 家族
この項については、親族・関係者が記録すべき。
非公開資料としては、
① 盛雄→勝也氏宛手紙、久志芙沙子との離婚の経緯。
② 久志芙沙子→勝也氏宛手紙、盛雄の人物評。 公開されている資料としては、
③ 『琉球の歴史は本土のそれより古い』 1972年(昭和47)東亜同文書院17期卒業50周年記念誌・文集「春秋」に家族全員写真。
④ 『親馬鹿頑張れ』 1965年(昭和40) 秋、CBC・TV 「昭和22年大連引揚、海外生活を語る」 写真7葉、家族写真。
⑤ 勝也氏のホームページ(ペンネーム閑古鳥玄聴)・作品、そしてメール。 http://www.geocities.jp/vickedgarapoehegel/
⑥ 安良城家・家族写真 左から百合子の母、盛英の妻、盛英、親泊家から来た母、愛子の母、みつこ、父・盛能、盛起、盛雄。
―首里赤平町の屋敷に
安良城盛雄 墓地
犬山市大字犬山字北白山平5-68 瑞泉寺別院・富岡霊苑3号地11番