03/10: 1971年4月 沖縄の雑誌『青い海』創刊号 「夫婦漫才ずっこけ青春”真似せんときや”岡田東洋・小菊」
3月12日に、国際通りの沖縄三越跡に「よしもと沖縄花月」がオープンするという。そこで古い吉本興業所属の岡田東洋・小菊(敏子ー1920年9月25日 ~2008年10月10日)を紹介する。
1971年4月『青い海』創刊号□「夫婦漫才ずっこけ青春”真似せんときや”吉本興業所属 岡田東洋・小菊」
1971年5月『青い海』5月号□「漫才人生『漫才30年そら泣き笑いですわ』吉本興業 岡田東洋・小菊」
2004年8月19日ー『琉球新報』和宇慶勲「落ち穂ー先駆者 小菊師匠」
2004年9月1日ー『琉球新報』和宇慶勲「落ち穂ー師匠とのご対面」
2005年8月23日~25日ー『琉球新報』「沖縄漫才 小菊師匠一代記」
2005年11月ーわうけいさを『なんだこりや~沖縄!』ボーダーインク
上ー左から2人目が岡田小菊さん(南風原で)
下ーワッハ上方(大阪府立上方演芸資料館)、東洋・小菊の名前があるポスター
松竹新喜劇ー旗揚げは1948年12月、中座で行った。参加メンバーは渋谷天外(2代目)、曾我廼家十吾、浪花千栄子、藤山寛美、曾我廼家大磯、曾我廼家明蝶、曾我廼家五郎八などがいた。 その結成のきっかけは、1946年に曾我廼家五郎が他界したことであった。戦後の大阪の喜劇界は、天外と十吾によって1928年に結成された「松竹家庭劇」と「曾我廼家五郎一座」に大きく二分されていた。さらに、松竹家庭劇を戦後まもなく脱退し、1947年に「すいーとほーむ」という新劇団を結成、翌年からは「新家庭」と改称して地方を回っていた天外、浪花千栄子、寛美らの劇団もあった。かねて喜劇団の再編成をもくろんでいだ松竹が、五郎の死を契機に、十吾らの「松竹家庭劇」に「新家庭」を加え、「五郎一座」の残党を合流させたのがこの「松竹新喜劇」であった。 →ウィキ
1971年4月『青い海』創刊号□「夫婦漫才ずっこけ青春”真似せんときや”吉本興業所属 岡田東洋・小菊」
1971年5月『青い海』5月号□「漫才人生『漫才30年そら泣き笑いですわ』吉本興業 岡田東洋・小菊」
2004年8月19日ー『琉球新報』和宇慶勲「落ち穂ー先駆者 小菊師匠」
2004年9月1日ー『琉球新報』和宇慶勲「落ち穂ー師匠とのご対面」
2005年8月23日~25日ー『琉球新報』「沖縄漫才 小菊師匠一代記」
2005年11月ーわうけいさを『なんだこりや~沖縄!』ボーダーインク
上ー左から2人目が岡田小菊さん(南風原で)
下ーワッハ上方(大阪府立上方演芸資料館)、東洋・小菊の名前があるポスター
松竹新喜劇ー旗揚げは1948年12月、中座で行った。参加メンバーは渋谷天外(2代目)、曾我廼家十吾、浪花千栄子、藤山寛美、曾我廼家大磯、曾我廼家明蝶、曾我廼家五郎八などがいた。 その結成のきっかけは、1946年に曾我廼家五郎が他界したことであった。戦後の大阪の喜劇界は、天外と十吾によって1928年に結成された「松竹家庭劇」と「曾我廼家五郎一座」に大きく二分されていた。さらに、松竹家庭劇を戦後まもなく脱退し、1947年に「すいーとほーむ」という新劇団を結成、翌年からは「新家庭」と改称して地方を回っていた天外、浪花千栄子、寛美らの劇団もあった。かねて喜劇団の再編成をもくろんでいだ松竹が、五郎の死を契機に、十吾らの「松竹家庭劇」に「新家庭」を加え、「五郎一座」の残党を合流させたのがこの「松竹新喜劇」であった。 →ウィキ