筈見有弘(1937年~1997年6月14日) 父は筈見恒夫。慶應義塾大学文学部卒。イタリフィルム(のちの東京第一フィルム)、日本ヘラルド映画宣伝部を経て、映画評論家。妻も映画評論家の渡辺祥子(共立女子大学文芸学部 映画専攻。卒業後、雄鶏社「映画ストーリー」編集部入社。PR誌編集長を経てフリーのライターになり、今日に至る)。

筈見恒夫(はずみ つねお、1908年12月18日 - 1958年6月6日)は、日本の映画評論家である。映画の宣伝マンの傍ら、批評活動をつづけ、途中、映画プロデューサーをつとめたことがある。23歳のときに脚本家としてもデビューしている。本名は松本 英一(まつもと えいいち)、サイレント映画の時代に活躍した映画監督の松本英一とは別人である。満49歳没。一周忌を迎える1959年(昭和34年)6月、岸松雄、長男筈見有弘らの手で『筈見恒夫』(筈見恒夫刊行会)が刊行された。→ウィキペディア










ブラウン管テレビが見られなくなったので久しく見なかったビデオをダンボール箱から出して見た。その一つが日本誕生である。関連ー歌として、須佐之男命が櫛名田比売と結婚したときに歌い、和歌の始まりとされる「八雲たつ 出雲八重垣 妻ごみに 八重垣作る その八重垣を」や、倭建命が東征の帰途で故郷を想って歌った「倭は国のまほろば たたなづく青垣 山隠れる 倭し うるわし」。→2015-12

 伊邪那岐・伊邪那美の両神の国産みを中心に日本神話の幻想的な映像から始まり、主題である日本武尊の物語に入る。
小椎命(おうすのみこと)は、その勇猛な性格を父(景行天皇)に警戒され、九州の熊曽征伐を命じられる。巧みな計略で見事に熊曽を討ち取った小椎は、熊曽から日本武尊の名を与えられる。しかし大手柄を建てて都に帰った日本武尊に、天皇は休む間もなく東国の征伐を命じる。父は自分を嫌っているのか、と沈痛な気分で、途中伊勢の倭姫を訪ねた日本武尊は、一振りの剣(天叢雲剣、別名・草薙の剣)を与えられて力付けられ、その剣の由来を聞く。それは神代の昔、須佐之男命が八岐大蛇を退治した際に手に入れたものであった。剣は、東国でだまし討ちにあって猛火に囲まれた日本武尊の命を救う。だが、帰国途上で日本武尊は、反逆をたくらむ大伴一派の攻撃にあい、命を落とした。彼の魂は1羽の白鳥となって空に向かい、大伴の一味と手勢は神罰により洪水と溶岩流に飲まれて全滅した.→ウィキペディア


伊邪那岐神 - 脇田博行、伊邪那美神 - 村松恵子/天宇受女命 - 乙羽信子


思金神 - 柳家金語楼、玉祖命 - 榎本健一/天照大神 - 原節子①

①映画「東京物語」や「晩春」など、小津安二郎監督作品に欠かせない女優として活躍した原節子(はら・せつこ、本名=会田昌江あいだ まさえ1920年6月17日 生)さんが2015年9月5日(満95歳没) 、肺炎のため神奈川県内の病院で死去した。95歳、横浜市横浜市保土ケ谷区出身。
○2015年12月3日『琉球新報』小那覇全人「ティータイム 原節子さんを悼む」

天照大神が機屋で神に奉げる衣を織っていたとき、建速須佐之男命が機屋の屋根に穴を開けて、皮を剥いだ馬を落とし入れたため、驚いた1人の天の服織女は梭(ひ)が陰部に刺さって死んでしまった。ここで天照大神は見畏みて、天岩戸に引き篭った。高天原も葦原中国も闇となり、さまざまな禍(まが)が発生した。そこで、八百万の神々が天の安河の川原に集まり、対応を相談した。思金神の案により、さまざまな儀式をおこなった。常世の長鳴鳥(鶏)を集めて鳴かせた。鍛冶師の天津麻羅を探し、伊斯許理度売命に、天の安河の川上にある岩と鉱山の鉄とで、八咫鏡(やたのかがみ)を作らせた。玉祖命に八尺の勾玉の五百箇のみすまるの珠(八尺瓊勾玉・やさかにのまがたま)を作らせた。

天児屋命と太玉命を呼び、雄鹿の肩の骨とははかの木で占い(太占)をさせた。賢木(さかき)を根ごと掘り起こし、枝に八尺瓊勾玉と八咫鏡と布帛をかけ、フトダマが御幣として奉げ持った。アメノコヤネが祝詞(のりと)を唱え、天手力雄神が岩戸の脇に隠れて立った。天宇受賣命が岩戸の前に桶を伏せて踏み鳴らし、神憑りして胸をさらけ出し、裳の紐を陰部までおし下げて踊った。すると、高天原が鳴り轟くように八百万の神が一斉に笑った。これを聞いた天照大神は訝しんで天岩戸の扉を少し開け、「自分が岩戸に篭って闇になっているのに、なぜ、天宇受賣命は楽しそうに舞い、八百万の神は笑っているのか」と問うた。アメノウズメが「貴方様より貴い神が表れたので、喜んでいるのです」というと、天児屋命と太玉命が天照大神に鏡を差し出した。鏡に写る自分の姿をその貴い神だと思った天照大神が、その姿をもっとよくみようと岩戸をさらに開けると、隠れていたアメノタヂカラオがその手を取って岩戸の外へ引きずり出した。すぐにフトダマが注連縄を岩戸の入口に張り、「もうこれより中に入らないで下さい」といった。こうして天照大神が岩戸の外に出てくると、高天原も葦原中国も明るくなった。.→ウィキペディア

クマヤ洞窟ー多数ある天の岩戸伝説の最南端地でもあり、江戸時代の国学者藤井貞幹が、神武天皇は沖縄の恵平屋恵に生まれたという説の根拠として、この洞窟が天の岩戸伝説のものであるという説を「衝口発」という本で発表しました。本居宣長達は「紺狂人」という本で反論し論争になったという史実があります。



2015年11月 沖縄県立博物館・美術館