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ジミー創業者の稲嶺盛保氏宅の大嶺政寛の作品、新城栄徳、稲嶺盛保氏
□2007年7月『オキナワグラフ』「私の宝ものー稲嶺盛保」
稲嶺盛保さんと翁長良明(沖縄コレクター友の会副会長)とは、長年にわたる大家と店子の関係で親しい。
□2008年2月『オキナワグラフ』「私の宝ものー翁長良明」


□戦後まもない1947年、沖縄の人びとも、ようやく雨露をしのげる家を持ち、ほっと一息ついていたそんな頃、創業者の稲嶺盛保は米軍基地内で働いていました。基地の外の食糧配給売店では、米・小麦粉・トウモロコシ・缶詰などが政府の統制下で売られていた時代です。それとは対照的に、基地の中では豊かな物資であふれた別世界が広がっていました。
基地内で働くうち、アメリカ人の友人も出来、稲嶺はジミーというニックネームで呼ばれるようになりました。そんなある日、基地内のベーカリーで働く友人に声をかけられ、香ばしいパンが出来上がるのを見て、基地の外でのパンづくりを思い立ったのです。それから、鍋などの道具は何でも手作りし、パン焼きに必要な機械を揃え、1956年ついに宜野湾市大山にて店舗をオープンさせました。店の名前は、ニックネーム「ジミー」より、「ジミーグロセリー」に決めました。基地からベーカリー専門の技術者を招き、おいしいパン作りを探究しながら、製品の流通・販売なども手がけていくうちに、地道なパンづくりと商いが実を結び、事業は順調に伸びていきました。

そんな矢先、沖縄復帰が決まり、基地雇用者の大量解雇や物価の高騰、ドルショックやオイルショックなどの経済変動に直面し、一時経営不振に陥ります。稲嶺は、その打開策として、スーパー、レストラン、ベーカリーの3本柱にしぼるという経営転換策を打ち出しました。そして、1976年有限会社ジミーベーカリーに組織を変更、同年12月ジミー大山店新店舗完成。日本国内だけでなく、ヨーロッパ、ハワイ等世界各国のベーカリーや流通産業を巡り、その優れた技術やシステムを導入。さらに、那覇店、室川店、ダイナハ店と確実な拠点づくりを行い、技術の習得や品質の向上など食に対する様々な研究を重ね、1984年7月には「株式会社ジミー」を設立しました。 1989年、宜野湾市大山に最新設備と規模を誇る本社・工場が完成し、常に安全で美味しい食品づくりを目指す食の総合企業として今日に至っています。→JIMMY's INFORMATION


核の時代⑨那覇市民ギャラリー「30回・沖縄平和美術展ー核も基地もない緑の沖縄を」

反核沖縄平和美術展
1974年6月ー「郷土の女性作家による絵画展」リウボウ
1975年11月ー「第2回郷土女性作家による絵画展」リウボウ
1977年7月ー沖縄女流美術家協会結成(久場とよ会長、山元文子副会長)
1982年2月ー沖縄平和美術展実行委員会(大嶺政寛委員長)
1982年6月ー第1回沖縄平和美術展・那覇市民会館
1982年6月24日ータイムスホールで記念講演会(大田昌秀、西常雄)

1983年7月30日ー第2回反核・軍縮沖縄平和美術展実行委員会結成

1984年8月『1984・沖縄・反核・反戦文学アンソロジー 島空間から』(事務局・芝憲子)

1984年9月ー第3回反核沖縄平和美術展ー那覇市民会館

2011年7月5日~7月10日 那覇市民ギャラリー「第29回・沖縄平和美術展ー核も基地もない緑の沖縄を!」