1936年 『琉球新報』「『黄尾嶼』の所有権 古賀記者の厳父が開墾 猟奇の島を語る古賀氏」

1972年4月~5月 「沖縄青年訪華団」
「沖縄青年訪華団」団長・友寄英正、副団長・田島一夫、秘書長・仲里効、顧問・新川明、大浜敏夫、上原勇、池原盛治、上原俊夫、島袋温子、仲村渠由美子、祝嶺定夫、随員・松尾藤男

1973年1月 沖縄の雑誌『青い海』<特集 中国と沖縄をつなぐ>


金城朝夫「”唐旅”印象記」、島袋温子「見たまま、感じたまま『中国の婦人』」


1974年7月、大阪で「中華人民共和国展覧会」があった。元沖青友の会のメンバーが中国関係の売店で働いていた.そのとき買ったものに『人民中国』、『毛主席語録』と大中国地図などがある。
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『毛主席語録』/中国地図は沖縄関係資料室の右の壁に貼った。


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1982年北京『辭源』/1982年上海『中國歴史地圖集』

2009年10月 荘魯迅『一冊でつかめる!中国近現代史』講談社□2011年9月 荘魯迅・著/劉宗徳・訳『台灣不教的中國近代史』大是文化有限公司

1992年6月 「中国大陸3000キロ踏査行連続講座」浦添市立図書館視聴覚ホール

1993年3月 『道を拓くー甦る進貢使路 中国大陸3000キロ踏査行』同実行委員会
□名誉会長・太田昌秀沖縄県知事、名誉副会長・比嘉敬沖縄タイムス社社長、会長・新川明沖縄タイムス社専務、副会長・大城進一沖縄県知事公室長、同・比嘉昇沖縄県市長会会長、同・山城時正沖縄県町村会会長、同・親泊康晴那覇市長(福州友好都市)

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2000年北京『清代中琉関係档案』

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2001年 紫禁城出版社『清史図典』

2004年8月20日~9月30日 那覇市民ギャラリー「中国・北京故宮博物院蔵 帰ってきた琉球王朝の秘宝展」主催ー那覇市、(財)海洋博覧会記念公園管理財団、沖縄テレビ放送、琉球新報社、沖縄産業企画

2008年11月1日~12月21日 沖縄県立博物館・美術館「中国・北京故宮博物院秘蔵 甦る琉球王国の輝き」(沖縄県立博物館・美術館一周年記念博物館特別展)主催ー沖縄県立博物館・美術館、沖縄県教育委員会

2012年11月23日『沖縄タイムス』新川明「尖閣を沖縄帰属へー(略)さいわい、次の中国国家主席になる習近平氏は福建省長だった2001年に来沖、翌年の友好省県締結5周年記念イベントを提案、成功させるなど親密な関係にあった。当時の県知事稲嶺恵一氏は『琉球の歴史に詳しい。一種の身内意識のようなものを抱いていたのではないかと思う』とその印象を書きとめている。沖縄を日中のかけ橋とする好機にすべきである。」

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660年頃、唐は西域とモンゴルにまたがる突厥を討ち、勢力は最大になります。
この当時唐の人口は、およそ5000万人、長安は世界有数の百万都市でした。しかし一方、貨幣経済が浸透していくにつれ、「悪銭」(贋金)の増加や、銭不足の現象がおきてきました。666年、新たな「乹封泉宝」を発行し、開元通宝10文に相当させました。銭不足を解消する目的だったのでしょうが、重さがわずかに重いだけで、実体のそぐわないもので、国民には至って不人気。 ついに1年を待たずに廃止されました。
 玄宗皇帝は政治をおろそかにし、「安史の乱」(755~66年)が起きます。758年、戦費をまかなうため「乹元重宝」を発行し、開元通宝10文に定めます。さらにその翌年、背重輪(裏に二重の輪がある)の乹元重宝を発行し、30文とします。 当初はやや大型の銭だったはずなのですが、今日みられるものは、銭径の小さなものも多くみられます。 民間の私鋳銭も多くあったと思われます。場当たり的な高額銭の発行と、粗悪な銭の氾濫で大インフレになります。→コインの散歩道:唐の貨幣 
〇天禧通宝 中国で北宋の時に製作された貨幣。はじめて鋳造されたのは1017年。15世紀ごろの日本で使われていた中国銭(渡来銭)→北海道博物館





2015-4 那覇市泊小学校近く