パンチボウルの丘(国立太平洋記念墓地)ー7万5千年から10万年前の火山活動によって形成された高台のクレーター、パンチボウルは、古代ハワイで「Puowaina(犠牲の丘)」と呼ばれていました。タブーを犯した罪人をいけにえとしてハワイ古代宗教の神に捧げる祭壇が高台に置かれていたのです。国立太平洋記念墓地としてオープンしたのは1949年。第一次世界大戦、第二次世界大戦、朝鮮戦争、ベトナム戦争で母国のために自らを「犠牲」にした4万6千以上の兵士が眠る丘となりました。。→ハワイナビ/アーニー”アーネスト・テイラー・パイル(Ernest Taylor "Ernie" Pyle, 1900年8月3日 - 1945年4月18日伊江島で戦死)は、アメリカ合衆国のジャーナリストやショージ・オニヅカ(Ellison Shoji Onizuka, 日本名:鬼塚 承次, 1946年6月24日 - 1986年1月28日)は、アメリカ空軍の大佐で、日系人初のアメリカ航空宇宙局宇宙飛行士である。の墓石。

1949年12月  セブンスデーの屋比久孟吉は平信徒でありながら華府本部から特別伝道者の任命を受けて伝道者の資格で沖縄へ赴くことになった。

1950年12月  慈光園教団発足ー顧問・小波津幸秀、上原与吉 相談役・伊芸長吉、村岡敏恵、桜田漸、福本元蔵、伊波幸繁、大嶺発市、仲真良樽金、宮城栄吉、大兼久秀一、石川元真、大城太郎、宜野座太郎、伊佐松 名誉教団長・・・与世盛智郎 教団長・山里慈海 理事長・宮里平昌 副・瑞慶覧智珍、仲嶺真助 書記・神谷益栄、上地安宏 会計・真喜志康輝、豊見里友義、監査・宮城麗栄、高良牛、宮城亀盛

1951年1月 比嘉武信『布哇沖縄県人写真帳ー来布五十年記念』
1951年2月 乙姫劇団が来布公演

1951年3月 雑誌『おきなわ』<ハワイ特集>



1951年3月 雑誌『おきなわ』湧川清栄「布哇沖縄人五十年史抄」」
1951年3月 雑誌『おきなわ』大城登美「見たり聞いたり味はったり」

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1951年10月 山里慈海『居士は春風』/1953年3月 玉代勢法雲『遠慶宿縁』


クラ放送局沖縄文化放送部デイゴメロデー/左から大城とみ子、津波實重、山川喜信→1951年1月 比嘉武信『布哇沖縄県人写真帳ー来布五十年記念』

1951年3月 遣米第二回国民指導員来布□志喜屋孝信、大城つる、城間政善、上江洲由道、渡口政義、永山盛三郎、当銘正順、上間亀政、翁長俊郎、大嶺政寛、名渡山愛順、松岡政保、中江実孝、屋田甚助、森敬道、林哲雄、財部つさえ 名渡山愛順「私は終戦後、青年将校の肖像画を五百枚以上も画きました。20数点持参してニューヨークで展覧会を開きますが出来たら帰路にハワイでも開き、又ハワイのカラーも描いて見たいと願っています。」
1951年6月 東京大阪合同琉球芸能団一行8名は渡口政善、金城常盛、上江洲安雄、安谷屋政信の招聘で来布□渡嘉敷守良(我如古安子の叔父)、池宮城喜輝、奥間英五郎、奥間清子、佐久間昌子、渡嘉敷信子、渡嘉敷利秋、島正太郎
1951年6月 南加大学の招聘で琉球音楽を講義しに行く東京沖縄音楽舞踊研究会会長の山内盛彬はツル夫人同伴寄港。
1951年7月 宮里辰彦(第三回沖縄国民指導員)ホノルル郊外ヒッカム飛行場着。此の飛行場は例の日本軍の真珠湾攻撃の際、真っ先に叩かれた所である。
1951年7月 雑誌『おきなわ』<故人追憶特集>

大里康永「民族解放の戦士 謝花昇」/湧川清栄「先覚者 当山久三を偲ぶ」/上原仁太郎「ダバオ開拓の恩人 大城孝蔵氏を偲ぶ」/比嘉春潮「仲吉朝助氏」/仲吉良光「法曹界の恩人 麓純義氏」/平良徳助「宮城鉄夫氏の思い出」/東恩納寛惇「真境名笑古」/比嘉静観「伊波普猷先生と私」/伊波冬子「微風」/船越義英「漢那先生」/玉代勢法雲「田原法水師を語る」/比屋根安定「比嘉保彦と佐久原好傳」/島袋盛敏「麦門冬を語る」/仲原善忠「佐喜間興英の業績について」/親泊政博「新聞人、当眞嗣合」/当眞嗣弘「父、当眞嗣合」/山里将秀「八重山の生んだ音楽詩人 宮良長包先生」/新屋敷幸繁「世礼国男氏を想う」/島袋源七「故 島袋源一郎氏を懐う」/編集後記

1951年8月 ハワイ沖縄連合会発足(理事長・儀間真福)
1953年2月  慈光園で柳宗悦、浜田庄司、バーナード・リーチ講演会「琉球文化を語る」。沖縄紹介映画、幻燈などがあった。
1953年12月 雑誌『おきなわ』№33「ハワイのうつりを語る座談会」
出席者ー平良牛助、玉代勢法雲、比嘉静観、小波津幸秀、金城珍栄、山里慈海、天願保永(おきなわ布晆支局長)

1954年4月  平良リエ子来布/5月 安谷屋政量・琉球工業連合会長「ハワイ第四十九州共進会」に参加で来布。慈光園で「琉球特産品展示会」、6月からハワイ各島で展示する。/12月 金井喜久子来布

1954年4月 雑誌『おきなわ』「ハワイ同胞事業家座談会ー慈光園ホール」
出席者ー仲宗根蒲助(越来)、天願加那(具志川)、上原正義(本部)、伊芸良吉(宜野座)、仲嶺真助(与那原)、山里慈海(久米島)、天願保永(具志川)、平真輔(石川)、長堂嘉吉(真和志)、島袋萬吉、速記ー津嘉山朝吉、瀬長清吉

       
上原正義(エバーグリン・レストラン社長)            天願保永(ハワイ沖縄人連合会)

      
儀間真福(ハワイ沖縄人連合会)                沢岻千恵子(名護市出身)

      
安里貞雄(ハワイ沖縄人連合会)               上江洲智綸


右ー池宮喜輝送別演芸の夕に開演を宣する司会者の仲嶺眞助、ドクトル上原與吉(ホノルル1952年)


布哇ホノルルに於ける三味線祭 焼香する池宮喜輝、左が開教師の山里慈海(1952年2月)

馬哇島ワイルクに於ける三味線展と池宮喜輝(1952年4月)
1954年7月 池宮喜輝『琉球三味線寶鑑』東京沖縄芸能保存会(比嘉良篤)

1955年5月 玉代勢法雲(マッカリー東本願寺住職)逝去/8月 写真業の屋比久孟吉は1953年3月、訪沖し那覇市崇元寺近くにベストソーダ合資会社創立したが、ニューヨーク市に機械購入の途次寄港。/8月 日航機で根路銘房子来布。イオラニ高校で開催の聖公会大会に参加で川平朝申来布。/11月 大浜信泉、国際大学連盟会議出席の後、欧米視察を経てパンナム機で来布、夫人英子は目下アメリカ国務省の招聘でアメリカ滞在中。/12月 高原芳子結婚来布。
1956年4月 ビショップ博物館で初の「琉球古典文化展」。/6月 大伸座長期興行。/8月 MGM社の「八月十五夜の茶屋」の撮影は大成功、同劇に出演して帰国の途にある大映スター根上淳、清川虹子および沢村みち子らの土産話にあったが、芸者(京マチ子)が沖縄舞踊を踊るとき地方になって蛇皮線を弾いた内間ハル子は儀間真福の妹。



12月 比嘉悦雄はペプシコーラ日本総販売権を獲得し、日本政府の認可で日本飲料株式会社創立。

1958年11月 真境名由康父娘来布
1959年1月 『守礼の光』創刊号(表紙・崎山さん)「写真ー守礼門」、納富浪連子「原子力を平和へ」

1959年6月 ヒロ市の浦崎政致の息子・政一は18ヶ月ぶりで両親見舞いで帰布、1945年8月28日、情報本部附民間人、そしてアメリカ人として最初に東京に入って通訳。琴に東条大将とは死せし約一ヶ月半寝食を共にし世話したので大将から軍服を貰った。
1961年2月 『オキナワグラフ』「沖縄へのアドバイスーホノルル夏の家快談」出席者ー当山哲夫(月刊「市民」社長)、仲嶺真助(2002年7月『仲嶺真助自伝』新報出版)、上原正治(エバーグリン・レストラン社長)、ワーレン比嘉(中央太平洋銀行モイリリ支店長)、安里貞雄(ハワイ沖縄人連合会顧問)、コンラッド赤嶺(元ホノルル日本人青年商工会頭)
1961年3月 『守礼の光』「姉妹都市ー那覇とホノルル」


フランク・ホーレー資料

1961年4月 「ホーレー文庫」が布大の手に入り、東西文化センター内に「沖縄文庫」を開設し陳列された。/5月 仲原善忠、比嘉春潮来布
1961年6月 『守礼の光』「東西両文化の新しいかけ橋ーハワイ大学東西文化センター」
1961年8月4日 オバマ・バラク・、ハワイ州ホノルルにある病院(英語版)で生まれる。 実父のバラク・オバマ・シニア(1936年 - 1982年)は、ケニアのニャンゴマ・コゲロ出身(生まれはニャンザ州ラチュオニョ県Kanyadhiang村)のルオ族、母親はカンザス州ウィチタ出身の白人、アン・ダナムである。 父のオバマ・シニアは奨学金を受給していた外国人留学生であった。2人はハワイ大学のロシア語の授業で知り合い、1961年2月2日に周囲の反対を押し切って結婚、 アンは妊娠しており、半年後に、オバマ・ジュニアを出産する。→ウィキペディア
1962年5月 『守礼の光』「立法院議員ハワイを見るーキャラウエイ高等弁務官のあっせんにより、琉球立法院議員の当銘由憲氏、嘉陽宗一氏、真栄城徳松氏、平良幸市氏の一行4人は、このほど6週間にわたり、とこ夏の国ハワイをおとずれました。」
1962年6月 『守礼の光』「ハワイに学ぶ営農の近代化」
1962年6月 宇良啓子がラジオKTRG局より電波に乗せて「沖縄貴族階級の方言で小咄を創作して」放送。

1962年7月 『守礼の光』「ハワイ同胞の警告『あわてて復帰は損』ーハワイ島のヒロ市で、内科と外科の開業医をしているマタヨシ・ゼンコウ博士は、琉球の古い友人や親類の人たちに会うため、このほど23年ぶりに、琉球をおとずれました。」/ヘンリー・ナカソネ(ハワイ大学付属農業試験場)「琉球の園芸の現状と可能性(1)」
1962年10月 『守礼の光』外間政章「1854年に結ばれた琉米条約

1963年 東京ー金城珍栄を囲んで、右から比嘉春潮、比嘉良篤、瀬長良直、當間重剛、金城珍栄、島清、仲原善忠

1963年5月 仲嶺真助、日本人連合協会会長に選出。/10月 琉球国民党総裁の大宜味朝徳は米軍用機で来布。

1963年7月 国際興行の小佐野賢治、ハワイのプリンセス・カイウラニ・ホテル買収□12月、モアナ、サーフライダー2ホテル買収/1974年9月 ワイキキ・シェラトン、マウイ・シェラトン、ロイヤル・ハワイアン3ホテル買収



1964年2月 『オキナワグラフ』ハワイ支局(青木富子)開設
1964年2月 『守礼の光』「ハワイの印象②」
1964年5月 『守礼の光』「偉大な老兵マッカーサー元帥の死をいたむ」
1965年4月 『オキナワグラフ』ハワイ支局長に我那覇武三/8月 『オキナワグラフ』「移民65周年記念 ハワイ特集号」
1965年4月 『守礼の光』仲泊良夫「琉球偉人伝 移民の父・当山久三①」
東と西の合流点 ハワイ文化センター」

1965年5月 沖縄興信所(代表・大宜味朝徳)『琉球紳士録』「本土在住琉球紳士録」

写真左から外間盛安、仲嶺真助、安里貞雄/知念精吉、具志保男、天願保永/津嘉山朝吉、儀間真福、新里与旌

1965年12月 『守礼の光』「実現間近い家庭用原子力発電」
1966年5月ー『オキナワグラフ』「ハワイだよりー髙江洲敏子さん」
1966年10月 『守礼の光』坂本万七「写真・伊藤若冲」
1967年3月  『守礼の光』せそこ・ちずえ「琉球昔話 空を飛ぼうとした男(安里周当)」、比屋根忠彦「久高島のイザイホー」

1967年12月  『守礼の光』「5年後に110階建て 世界貿易センター出現」
1968年2月  『守礼の光』「現代にも呼びかけるエイブラハム・リンカーンのことば」「アジア地区米陸軍特殊活動隊 粟国・渡名喜両島で奉仕活動」「原子力科学者が語る未来の原子力『食品工場』」
1968年4月  『守礼の光』ジョン・A・バーンズ(ハワイ知事)「琉球の文化的姉妹島ハワイ」
1969年5月  『守礼の光』宮国信栄」「放射能はどこまで人体に安全か」

1969年8月  『守礼の光』「四か国で開発中の原子力商船」
1969年9月  『守礼の光』「フィリピンの発展に役だつ原子力」「コンピューター しくみと働き」

1969年10月  『守礼の光』「宇宙にかける人類の冒険」「期待される放射線」「巨人ジェット機(ボーイング747)の登場」

1971年6月 当山哲夫『波乱重畳八十年の回顧』

写真左から屋比久孟吉、儀間真福、城間次郎、安里貞雄、ボールス博士、当山哲夫、ドクトル山城秀正、金城山助


写真左ー与世盛智郎師/ドクトル上江洲智綸氏夫妻と中村昌広氏

□第三次世界大戦爆発予言ー若し第三次世界大戦が突発するとすれば核兵器を以て抜き討ちに先手を打つ国が勝利するかも知れぬが然しながら第三次世界大戦は全世界の滅亡であり、この地球は火となって全滅するであろう。聖書は中東戦の発生を暗示し人類の滅亡を予言している。/(1965年)琉球政府高等弁務官アルバート・ワトソンー親愛なる当山主幹 沖縄人のハワイ移民六十五周年を心から祝福致します。そして貴方とこの喜びを共になさる3万5千人の沖縄系市民にもお祝いを述べさしていただきます。(略)私はまたハワイの沖縄人が彼等の文化遺産や親族関係のきづなを放棄されないことを観察しました。沖縄は自由諸国の前進基地で自由諸国を守る城の稜堡のようなものであります。沖縄人を理解し支援することは西太平洋方面全体の防禦に重要なことです。

1971年10月 東京ー比嘉静観氏歓迎会ー前列左2人目から比嘉春潮、比嘉静観、八幡一郎。中列右から金城芳子、比嘉栄子、魚住千代。後列左から照屋仁栄、喜久村絜秀、松本三益 
1971年7月 『守礼の光』「那覇市の昔と今ー市制施行50年を迎えた那覇市」「琉球文化を携えてアメリカ(ハワイ、ロサンゼルス)を訪問した芸能団」

1976年10月 「赤旗」特捜班『日本の黒幕ー小佐野賢治の巻(下)』新日本出版社□双頭のハワイー「ハワイには二つの〝顔〟がある。観光地としての〝顔〟と米軍事上の要所という〝顔〟と・・・」と語るのは、かつてハワイに滞在していたあるジャーナリスト。「観光地ハワイに太平洋地域最大の米軍基地があることはあまり知られていない。ベトナム戦争に関する作戦・輸送などの命令は、すべてハワイにあるシンクパック(CINCPAC=太平洋統合司令部)から出ていた。シンクパックはオハフ島の真珠湾をみおろす高台にあり、周囲の警戒はものすごく厳重だ。一度だけ私も入ったことがあるが、米海軍の機動部隊ー戦艦や空母が、いま太平洋のどこで何をしているかが、分秒たがわずわかる仕組みになっている。」これを裏づけるように、市川宗明・軍事評論家も、「ハワイは昔から、米国最大の海軍基地だ。とくに真珠湾は横須賀などの比ではない。だから、日本軍もまっさきに真珠湾にねらいをつけたのだ」と、言い切ります。両氏のいうとおり、ハワイにある米軍兵力は、陸海空・海兵隊あわせて6万5千5百人(1975年12月末)。沖縄基地を除く、在日米軍の4倍という戦力をもち、ペンタゴン(国防総省)に直結しています。

1978年8月 『ハワイ・パシフィック・プレス』


□木村雪子「復帰前の関西沖縄県人会」/「好印象残して帰国ー青い海友の会主催ハワイ親善訪問団」

 『ハワイ・パシフィック・プレス』
比嘉武信「仲嶺社長とHPP」□ハワイ・パシフィック・プレス(HPP)創立25周年おめでとう。ふりかえると1977年11月、故金城仁盛氏、故比嘉太郎氏、新川洋子夫人、小生たちが世話人となり、ささやかな創刊激励会を催したのを思い出す。その時、ゲストのフランク・ファシー・ホノルル市長が「カズオ仲嶺デー」を力強く宣言し会場は熱気に溢れた。あれから10年、20年と時は流れ、ファシー市長から計3回も「仲嶺デー」を贈られっと記憶する。年々歳々、成長に成長を重ね順風満帆のHPPの成り行きと、快男児・仲嶺和男社長の生い立ちを探って見る。
 彼は沖縄の最果ての国頭郡国頭村字宜名真の山村で、1939年(昭和14)11月30日生まれた。当年63歳の卯(兎)の人である。国頭で小、中校を経えて、那覇高校、琉球大学を卒業。入社試験”百分の4〝の難関をパスして琉球新報に入社。憧れの記者生活も、毎年のストライキに嫌気がさし6年にしてあっさり辞めた。
 再就職する前に”何でも見てやろう〝と、米国無銭旅行に出た。けれど彼の希望はハワイで躓いた。身元保証人の説得に従い、無銭旅行を断念して英語習得のために私立校の学生寮生活に入った。あれやこれやで保証人から入学費1,300ドルを借りた。私立学校に通いながら日本語学校教師、土・日・休日はレストランの皿洗いやバスボーイで稼ぎ、借金は1年間で返済した。
 幸いなことに、月謝の高い私立校よりカピオラニ・コミュニティー・カレジに合格、経済的に大いに助かった。時に湧川清栄編集長より文才を認められハワイ・タイムス記者として特技を生かした。5年間、日系人社会をみっちり勉強し、将来に備えt写真技術も会得した。
 ハワイの沖縄県人は1900年の来布以来、沖縄系新聞を頼りにして生計をたてていた。1970年に入って当山哲夫社長の「市民」が休刊(事実上廃刊)し、金城珍栄社長の「洋園時報」が廃刊した。県人は




1978年7月 沖縄の雑誌『青い海』通巻75号「青い海友の会第一回ハワイ親善訪問記ー大阪・ハワイの県人が交流」


1980年10月 崎原貢『がじまるの集い・・・沖縄系ハワイ移民先達の話集』
□1 高江洲繁/2 金武朝起/3 豊平良金/4 大江ツル/5 大城健栄/6 仲間源助/7 金城仁盛/9 安里貞雄/10 比嘉賀秀(静観)/11 仲村渠永七/12 川上善子(旧 嘉数ウト)/13 天願保永 ジェームス/14 平真輔/15 上里良温/16 当山マツ/17 長嶺将真/18 高嶺安子/19 比嘉ツル/20 幸地朝則/21 島福カメ/22 小波津あき/23 沢岻千恵子/24 呉屋真苅/25 安慶名良信  
   
1986年4月26日ー竹中・織田は無罪判決を受け、釈放された。ハワイで、竹中正と織田譲二と香港の元飲食店主・梶田聖が、ロケット砲3基・マンシンガン5丁・拳銃100丁の密輸未遂、麻薬不正取引、殺人教唆の容疑で、囮捜査官・ヒロ佐々木らに逮捕された。ヒロ佐々木は連邦麻薬取締局の囮捜査官であり、マイケル・ジャクソンの日本公演やマフィアのパーティーも全て架空の話であった。しかも、一連の取引の模様は全て隠しカメラで収録されており、動かぬ証拠となっていた。(→ウィキペディア)

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1988年4月ーハワイ・ホノルル「那覇の物産と観光展」に新城あけみ琉舞で参加。


ジョージ・H・カー資料
1992年8月27日 『琉球の歴史』の著者ジョージ・H・カー(アメリカ・ペンシルベニア州生まれ)が老衰のためホノルルのクアキニ病院で死去80歳。 

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2000年3月 湧川清栄遺稿・追悼文集刊行委員会『アメリカと日本の架け橋・湧川清栄ーハワイに生きた異色のウチナーンチュ』ニライ社
2001年2月10日ーえひめ丸事故(えひめまるじこ)アメリカ合衆国ハワイ州のオアフ島沖で、愛媛県立宇和島水産高等学校の練習船「えひめ丸」が、浮上してきたアメリカ海軍の原子力潜水艦「グリーンビル」と衝突し沈没した事故。乗務員の35人のうち、えひめ丸に取り残された教員5人、生徒4人が死亡し、救出されたうち9人がPTSDと診断された。→ウィキペディア

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比嘉武信氏


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比嘉武二郎氏
□「戦争の記憶」(2) いじてぃめんそーれ ~故郷へ進軍した日系米兵~
戦中戦後、長きにわたってその存在が秘匿された人々がいる。MIS(米陸軍情報部)の日系語学兵だ。県民の4人に1人が命を奪われた沖縄戦では、日系語学兵の存在がなければ、犠牲者はさらに上回ったとも言われる。比嘉武二郎さんはハワイ移民2世として生まれ、少年期を沖縄で過ごすが、沖縄戦時には米軍の語学兵として上陸する、という過酷な運命におかれた。「なんとかして、沖縄の人達を助けたい…」そう苦悩した末に、ガマ(壕)に身を潜める人たちに沖縄の方言を使って投降を呼びかける。「いじてぃめんそーれ(出てきてください)!」戦後65年たった今、武二郎さんの胸に去来する思いと、交差して見えてくる沖縄の姿を見つめる。


2013年7月26日『琉球新報』仲村顕「眠れる先人たちー湧川清栄」


布哇ホノルル市・沖縄復興布哇基教後援会から沖縄民政府宛


2015年5月7日 那覇市泊小学校