1915年7月『沖縄教育』第百二号 武藤長平○学説教務 斉彬公考ー(略)此為朝問題を以って琉球が日本に属すべきものだと断案を下すのはちと當を得て居ない。又た先年畏友伊波文学士は其大著『古琉球』の中に『琉球人の祖先に就きて』を載せて居る、それは成程同君の御説通日琉は同祖であらう、けれども徳川時代に於いては最早琉球は日本ののものではない、確かに支那のものである、早い話が時の支那政府は『琉球は我が属国なり』と言明して居るに関わらず、時の日本政府は左様な言明をなし得なかったのではないか、(略)公が安政四年に琉球の摂政三司官に向かって密用として公の近侍市来四郎、山田壮右衛門等が伝へたる条件は左の如し、第一、琉球大島及び山川港に於いて和蘭或は佛蘭西と貿易開始の計画 第二、蒸気船御買入の儀 第三、英米佛三国へ薩摩書生を琉人と称して派遣すること 第四、台湾島の内便利の地に渡唐船碇泊場を設くること 第五、福州琉球館取弘め商法盛大にすること 第六、渡唐商人どもへ内諭大小砲を清国へ売込ましむること・・・

1926年6月ー武藤長平『西南文運史論』岡書院(東京市麹町区)

琉球三司官(天明2年~享和2年)伊江朝睦(向天迪)筆「島津日新高いろは歌」/ 程順則印譜

那覇港に於ける進貢船帰来図(浦添朝顕所蔵)

首里那覇図古屏風(那覇市役所所蔵)

長崎の聖廟

多久の聖廟