2015年6月『月刊琉球』 <500円+消費税> Ryukyu企画〒901-2226 宜野湾市嘉数4-17-16  ☎098-943-6945 FAX098-943-6947

1940年8月 『月刊文化沖縄』創刊号
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1940年10月号の表紙絵も創刊号と同じ金城安太郎「琉球の姫」





沖縄朝日新聞社前でー左が金城安太郎、本山裕児

=祝 創 刊=・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・①上山草人をめぐる会(東京市淀橋区東大久保2ノ278) 三村伸太郎・川崎                                                                           弘子・山本礼三郎・沼波功雄・前沢末弥・上山草人・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 表紙裏

特輯グラビヤ「デイゴ樹の花」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・撮影/今井小四郎・・・・・・・・・・・・(1)
特輯グラビヤ・琉球の夏「蘇鉄ー首里王城内の孔子廟にて」「美女ー蛇皮線の根締」「壷屋所見」「島尻、奥武島にて」「鮮魚を頭へ乗せた糸満の女」「琉球美人」・・・・撮影/今井小四郎、曲田益雄・・・(2)(3)(4)

目次・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(5)
郷土の映画・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・北川鉄夫・全日本映画人連盟書記長 6ー8
琉球研究資料・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・N・O・N  8
沖縄語彙(絶筆)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・馬天居士 9ー11
初夏の故郷へ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・伊波南哲 11-12
蛙鳴蝉噪・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・本山裕児 13
東北方言の調査を終りて・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・宮良當壮 14-15
日劇の『八重山群島』を見る・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・内田岐三雄 15
あの頃の話・琉球の佐倉宗五郎(城間正安)・・・・・・・・・・・・・大城朝貞 16-19
文化沖縄抄/映画鑑賞会生る・ロードショウ・石井みどり・沖縄の姿・土と兵隊・海洋飛躍史・標準語問題   18


1940年5月11日『琉球新報』


1940年6月20日『琉球新報』

琉球歴史読本・大章 天孫子時代・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・石川文一 20-21
琉球王国『御法條』より・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・21
読切時代小説・復習・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・石川文一/挿絵・金城安太郎 22-32
編輯の弁



上山草人 かみやま-そうじん
1884-1954 大正-昭和時代の映画俳優。
明治17年1月30日生まれ。45年近代劇協会設立に参加。新劇俳優として活躍後,大正8年渡米し,ハリウッドで「バグダッドの盗賊」などおおくの映画に出演。昭和4年帰国後,「赤西蠣太(かきた)」「七人の侍」などに脇役で出演。昭和29年7月28日死去。70歳。宮城県出身。東京美術学校(現東京芸大)中退。本名は三田貞(ただし)。→コトバンク

1939 昭和14年4.5. 映画法公布。全日本映画人連盟に統合される。→日本映画監督協会

○6月22日 石川和男ー今、思い出したのですが、父、石川逢正は首里第二高等小学校を卒業して勤めた向春商会印刷部に居た頃、当時(多分昭和8~10年頃)、垣花にお住まいの金城安太郎氏のお宅に、東町から自転車に乗ってイラスト原稿を貰いに行った、と言っていました。だから僕は以前から金城氏の名前だけは知っていました。又、沖縄向学の先代校長名城政治郎氏の父君がよく、教材の印刷の依頼に来ていたとも言っていました。沖縄で最も古い予備校なのだと思います。

●は未確認
●北川 鉄夫(きたがわ てつお、1907年(明治40年) - 1992年)は、日本の映画評論家。本名は西村龍三。北川鉄夫とは、京都宇治の花やしきの北側を宇治川が流れているところから「北川」、山本宣治追悼歌の歌詞「鉄をも砕く」から「鉄」をとった筆名で、山本宣治の同志の田村敬男が命名した。→ウィキペディア


●内田岐三雄
映画評論家。(1901-45)府立第四中学校、第一高等学校、『キネマ旬報』創刊翌年に同人。東京帝国大学法学部卒。大学で飯島正と知り、『キネマ旬報』同人に誘う。1930年からパリに学ぶ。戦時下、疎開中の平塚の妻の実家で被災死。著書 「映画学入門」前衛書房 1928「欧米映画論」書林絢天洞 1935「モダン都市文学 9.モンタアジュ巴里 平凡社,1991.2→はてなキーワード







『月刊文化沖縄』金城安太郎 挿絵








井上 友一郎(いのうえ ともいちろう、1909年3月15日 - 1997年7月1日)は、日本の作家。
大阪市生まれ。本名・友一。早稲田大学仏文科卒。「都新聞」記者となり、1939年『文学者』に『残夢』を発表して作家生活に入る。風俗小説作家として活躍、戦後は雑誌『風雪』に参加したが、『絶壁』が、宇野千代・北原武夫夫妻をモデルとしていると言われ、抗議を受けた。1970年代には、忘れられた作家となっていた。短編「日本ロォレライ」などがある。(ウィキペディア)


井上 友一郎の本

1935年9月14日 井上友一郎、昭和会館参観

戦時下の沖縄/1940年1月『月刊文化沖縄』2巻1号 「菊池寛・中野實来県」
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1940年12月ー菊池寛・中野実来沖

出迎えた渕上知事と中野実、菊池寛
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(竹久コレクション)

 日本文壇の大御所菊池氏は台湾に於ける文藝銃後運動講演会の途次、渕上本県知事の依頼により12月午後2時半下り航空便で中野實氏同伴来県、13日午前9時50分より男子師範学校に於いて講演、同夜7時から一般県民の為め市公会堂に於いて菊池氏は「時局と武士道精神」と題し約1時間余中野氏は「宣伝戦と銃後」と云ふ演題で講演したが、流石文壇の大御所だけあって聴衆殺到超満員し、拡声機を備へ屋外まで一杯約5千の県民に感銘を与へて散会、翌14日午後2時半空路台北へ向かった。