1983年4月ー小島瓔禮『琉球学の視角』柏書房
小島瓔禮琉大教授に柳田賞/著作「太陽と稲の神殿」が評価 2000年8月29日『琉球新報』
優れた民俗学研究者に贈られる第39回柳田賞(成城大学・柳田賞委員会主催)が25日決まった。受賞者は、「太陽と稲の神殿」(白水社)を著した小島瓔禮(よしゆき)・琉球大学教授と、「日本人と宗教」(岩波書店)などを著した故宮田登・筑波大学名誉教授の二氏。賞金は各30万円。小島教授は「高校時代に柳田國男の『田社考』を読んで民俗学を志したので、この賞は大変感慨深い」と喜びを語った。
受賞対象となった小島教授の「太陽と稲の神殿」は、朝廷の稲作儀礼の奥に、狩猟時代の面影を伝える儀式があることを指摘し、それが沖縄の民俗行事に残っていることを紹介している。その行事というのは、動物の骨を縄に挟んで村の入り口などに張る「シマクサラシ」と呼ばれているもので、本島南部のある村では現在でも旧暦2月に牛を殺して各戸に配る行事が残っており、与那国島では田を開いた時に鶏か牛の肉を供えたという伝承が残っている、と例を挙げている。
新城栄徳(左)、小島摩文氏(鹿児島純心女子大学 附属博物館館長)
02/17: 平姓・山田家①
「富士山」撮影・山田勉氏□(社)日本写真家協会会員 〒900-0033 沖縄県那覇市久米1-1-14 電話098-868-3841
2月2日、沖縄県立図書館から平成23年度・新収蔵資料展のハガキが来た。ハガキには山田有彜の美人画が載っている。
赤が山田有彜/下右が山田有彜の美人画
2009年7月 『琉球絵画展~琉球王朝から近代までの絵画』沖縄文化の杜(金城美奈子)/2012年2月 『沖縄県立図書館 新収蔵展』
02/09: 大正区ーリトル沖縄⑥
平成元年6月ー宮城清市『回想録 八十余年の歩み』
昭和40年10月2日 大阪/太閤園にて
前列右より 嶋根英夫 大浜信泉① 夫人
後列右より 長谷川福政 喜納政泰 宮城桃幸 下地玄信 宮城清市 豊川忠進 西平守晴
①1937年9月 『沖縄県人事録』沖縄朝日新聞社「大浜信泉」
昭和58年2月 守礼門を背景に
大正区地域振興会 沖縄研修視察旅行 桐山克己大正区長も参加
1960年8月15日 『琉球新報』「大田主席の招きで大阪の竹下大正区長、宮城清市大阪沖縄県人会連合会長が来沖/与那原大綱引き賑わう」
1962年4月25日 大正区沖縄県人会機関紙『新沖縄』(編集/伊豆味正浩)
昭和40年10月2日 大阪/太閤園にて
前列右より 嶋根英夫 大浜信泉① 夫人
後列右より 長谷川福政 喜納政泰 宮城桃幸 下地玄信 宮城清市 豊川忠進 西平守晴
①1937年9月 『沖縄県人事録』沖縄朝日新聞社「大浜信泉」
昭和58年2月 守礼門を背景に
大正区地域振興会 沖縄研修視察旅行 桐山克己大正区長も参加
1960年8月15日 『琉球新報』「大田主席の招きで大阪の竹下大正区長、宮城清市大阪沖縄県人会連合会長が来沖/与那原大綱引き賑わう」
1962年4月25日 大正区沖縄県人会機関紙『新沖縄』(編集/伊豆味正浩)
02/08: 中村地平
中村地平 なかむら-ちへい
1908-1963 昭和時代の小説家。
明治41年2月7日生まれ。井伏鱒二(ますじ)に師事,「土竜(もぐら)どんもぽつくり」「南方郵信」など地方色ゆたかな作品を発表する。戦後は日向(ひゅうが)日日新聞社編集総務,宮崎県立図書館長などをつとめながら「八年間」などをかいた。昭和38年2月26日死去。55歳。宮崎県出身。東京帝大卒。本名は治兵衛。(→コトバンク)
村社講平
むらこそこうへい【村社講平】 1905(明治38)‐
日本陸上競技長距離界の一時代をつくったランナー。酒造業を営む一家の五男として,宮崎県赤江町に生まれる。日露講和条約締結に因んで講平と命名されたという。宮崎中学時代に,同校卒業の熊谷一弥選手のアントワープ・オリンピック(1920)におけるテニス競技銀メダル獲得の報道に接し,長距離競走への興味を高めた。兵役を終えて県立図書館に勤め,織田幹雄の金メダル獲得に触発されながら一層練習に打ち込む。27歳にして中央大学進学を決意し,苦学と独創的な練習によって,第21回全日本選手権大会で5000m,1万m両種目に優勝。
1908-1963 昭和時代の小説家。
明治41年2月7日生まれ。井伏鱒二(ますじ)に師事,「土竜(もぐら)どんもぽつくり」「南方郵信」など地方色ゆたかな作品を発表する。戦後は日向(ひゅうが)日日新聞社編集総務,宮崎県立図書館長などをつとめながら「八年間」などをかいた。昭和38年2月26日死去。55歳。宮崎県出身。東京帝大卒。本名は治兵衛。(→コトバンク)
村社講平
むらこそこうへい【村社講平】 1905(明治38)‐
日本陸上競技長距離界の一時代をつくったランナー。酒造業を営む一家の五男として,宮崎県赤江町に生まれる。日露講和条約締結に因んで講平と命名されたという。宮崎中学時代に,同校卒業の熊谷一弥選手のアントワープ・オリンピック(1920)におけるテニス競技銀メダル獲得の報道に接し,長距離競走への興味を高めた。兵役を終えて県立図書館に勤め,織田幹雄の金メダル獲得に触発されながら一層練習に打ち込む。27歳にして中央大学進学を決意し,苦学と独創的な練習によって,第21回全日本選手権大会で5000m,1万m両種目に優勝。
02/06: 安里延
1942年9月 安里延『南洋諸島の話ー海外発展史』学習社(挿絵・具志堅古雅)/1941年11月 安里延『日本南方発展史ー沖縄海洋発展史』三省堂
具志堅古雅(具志堅聖児)
沖縄県公文書館「ラサ島関係資料 ラサ島スケッチ3 1945」 資料解説 沖大東島 森田隊 具志堅聖児作 海軍探見張台、観測所などのスケッチ
落合朗風
「陶屋」
1896-1937 大正-昭和時代前期の日本画家。
明治29年8月17日生まれ。川端画学校にまなび,のち小村大雲に師事。昭和6年「華厳仏」で青竜賞を受賞。翌年青竜社同人となるが,9年脱退して明朗美術連盟を創立した。昭和12年4月15日死去。42歳。東京出身。明治商業卒。本名は平次郎。作品に「洛外風趣」「那覇(なは)の麗人」など。(→コトバンク)
1932年ー第4回青龍社展に「那覇の人」出品
1934年ー「糸満の女」、「陶屋」(?)
1992年7月ー日本放送協会『魂の叫び・落合朗風』