1935年3月 『海邦』創刊号 島袋源一郎「琉球の美術工藝」
琉球紅型
友禅と加賀染とは、我国服飾界の覇者であったが、十数年来世に紹介された琉球紅型は、一躍此の王座を占むるに至り其絢麗なる美は驚異的感激を以って迎えられました。
抑も紅型は型紙を使用して、之に五彩を施したもので、支那に於いては琉球の貿易品として東洋花布の名を以て呼ばれていました。其染色の技法は、初期の友禅染、加賀染に類似し、支那の染色法にも似て居り、更に文様より言えば和漢両用の中間に在る如く、又南亞及南洋に淵源を発しているといわれている。
由来琉球は日本本土と交通せるは勿論、其の後明清、両朝に朝貢し、朝鮮、南亞及び南洋諸国に遠征して、東洋の貿易権を把握し、此等の文化を吸収咀嚼して独特の琉球文化を発揮し、所謂黄金時代を現出しました。隋って此等の諸国より各種の藝術作品及び其の原料を購入し、又彼地の染色などを輸入していました。室町時代以後は本土と密接なる関係を保ち、慶長以後は、島津氏の勢力治下にあったので、一層本土の影響を受くることになりました。
要するに琉球紅型は支那より輸入した、醒臙脂に配するに朱、藍、紫、緑、黄を以てし、染料としては土産の山藍、クチナシ、ウコン、福木皮等を使用しています。猶ほ紅型以外の染料としては、揚梅皮、紅露、グール、テカチ、シバキ(ヤブ肉桂)等各種の自然物をも利用していました。
伊東博士は琉球藝術は南島の自然を背景として、民族固有の思想と趣味によって之を処理している、琉球紅型は其表現が純真無垢で、悠暢寛濶の気分(大陸的)に充ち其の色彩の明快衎麗にして、雅趣荘重の品位に富んでいるのは其藝術的価値を一層高からしめる所謂であろうといって居られます。
吾等県民が郷土の藝術を認識しない間に、中央では夙に琉球藝術に驚異の眼を睜り、曩に啓明会では千五百点の紅型を蒐集展覧して居り、某美術家は百点以上の逸品を所蔵して来客の鑑賞を乞ひ垂涎せしめているという。遅蒔きながら県民は郷土藝術の保護に努力しなけでばなりません。
吾等は此の誇るべき郷土藝術によって偉大なりし、祖先の功業を讃仰すると共に、萎微した今日の有様を思い以て将来の一大飛躍を期しだいことを念じて止まない次第であります。
琉球陶器
11/22: 彫刻家・後藤光行
具志頭得助像/宮城仁四郎像
那覇高校シンボル像「青春と創造」後藤光行 1973年
石川逢篤像/嘉数昇像
「程順則聖人像」 /昭和四十一年春/ 彫刻 後藤光行 金丸家喜 鋳造 堺幸山
2012年11月16日~17日「第5回 沖縄県立博物館・美術館移動展ⅰn粟国
フェリーあぐに船上にて、左から平良知二氏、平良昭隆氏、新城栄徳(中村愛撮影)
11月15日、文化の杜、博物館・美術館の職員と同行し粟国島へ行った。久場政彦氏、平良知二氏、中村さん,琉球物流の平良氏と同行し粟国村教育委員会に行き伊良皆賢哲教育長と談。博物館の崎原さんが那覇に帰るというので見送りしながら序に車で村内の古墓や番屋塚、番屋原広場の上空に米軍用機2機が思いやり予算で爆音を轟かし飛んでいた。そういえば学校近くにオスプレイ反対の旗が並んでいた。洞寺公園の鍾乳洞、「むんじゅる節之碑」らを見学した。久場氏には実家(母方、父方)を案内した。
11月16日、番屋塚で日の出写真を撮る。ここは粟国村で一番高い海抜96mの高台にあって昔、番屋遠見台として異国船が近海を通るときに慶良間諸島にタイマツで告げ首里王府に知らせた場所。粟国村指定の史跡となっている。後、西を通りながら観音堂を見て、ヲコノ御嶽、砂浜で遊ぶ。粟国村離島振興総合センターに行くと、大濵さん、千明さん、白保館長が着いていた。9時すぎ「第5回 沖縄県立博物館・美術館移動展ⅰn粟国」のテープカット、白保台一館長、村長代理、平良社長、伊良皆賢哲教育長が参加した。博物館の千春さんが那覇からフェリーで着いた。伊良皆賢哲教育長案内のクルマで粟国港へ白保氏、平良氏と同行。海上は穏やかでアッというまに那覇泊に着いた。
イシンチヂ大ヤー(我が家の本家)
2024-6-27 イシンチヂ大ヤーで糸洲としお、えいき
あぐに/粟国1967
粟国島の夕焼け
村役場横のデイゴ
粟国唯一の輸送船「満潮丸」。毎月粟国~那覇間を5往復する。
フェリーあぐに船上にて、左から平良知二氏、平良昭隆氏、新城栄徳(中村愛撮影)
11月15日、文化の杜、博物館・美術館の職員と同行し粟国島へ行った。久場政彦氏、平良知二氏、中村さん,琉球物流の平良氏と同行し粟国村教育委員会に行き伊良皆賢哲教育長と談。博物館の崎原さんが那覇に帰るというので見送りしながら序に車で村内の古墓や番屋塚、番屋原広場の上空に米軍用機2機が思いやり予算で爆音を轟かし飛んでいた。そういえば学校近くにオスプレイ反対の旗が並んでいた。洞寺公園の鍾乳洞、「むんじゅる節之碑」らを見学した。久場氏には実家(母方、父方)を案内した。
11月16日、番屋塚で日の出写真を撮る。ここは粟国村で一番高い海抜96mの高台にあって昔、番屋遠見台として異国船が近海を通るときに慶良間諸島にタイマツで告げ首里王府に知らせた場所。粟国村指定の史跡となっている。後、西を通りながら観音堂を見て、ヲコノ御嶽、砂浜で遊ぶ。粟国村離島振興総合センターに行くと、大濵さん、千明さん、白保館長が着いていた。9時すぎ「第5回 沖縄県立博物館・美術館移動展ⅰn粟国」のテープカット、白保台一館長、村長代理、平良社長、伊良皆賢哲教育長が参加した。博物館の千春さんが那覇からフェリーで着いた。伊良皆賢哲教育長案内のクルマで粟国港へ白保氏、平良氏と同行。海上は穏やかでアッというまに那覇泊に着いた。
イシンチヂ大ヤー(我が家の本家)
2024-6-27 イシンチヂ大ヤーで糸洲としお、えいき
あぐに/粟国1967
粟国島の夕焼け
村役場横のデイゴ
粟国唯一の輸送船「満潮丸」。毎月粟国~那覇間を5往復する。
11/18: 関西のなかの粟国
天神橋筋商店街(てんじんばしすじしょうてんがい)は、大阪市北区にあるアーケード商店街。 南北2.6キロメートル、600店の日本一長い商店街である。天六(天神橋筋六丁目)の阪急の元ターミナルビルが2010年に解体され、その跡地にマンション「ジオタワー天六」が2013年に竣工するという。□→ブログ「十三のいま昔を歩こうーさよなら天六阪急ビル」
大阪環状線都島駅手前の風景
1975年ー粟国小学校から大阪の粟国出身者の子弟が学んだ大阪市立豊崎本庄小学校にソテツ植樹
大阪の天六と言えば今でも粟国島出身者が多い。1988年3月4日の『沖縄タイムス』「ヤマトに生きるー関西沖縄人国記(34)『大阪粟国村人会』」□建設業が多い/小さな島の大きな村人会がある。大阪市大淀区の『大阪粟国村人会』ー。粟国島から上阪した人たちの90%が大阪市大淀区に住んでいるという。会長の新垣重雄(62)はこう語る。『自分たちの住んでいる本庄や長柄に大正の初めごろ、最初に上原仁王が上阪したと聞いている』。大淀の「本庄」は大阪駅・梅田にも近い。交通の便利さがある。島チャビを背負った人たちが大阪へ。粟国島出身者は那覇では調理師が多いが、大阪では目立たなかった。島の人たちは、知人を頼りに、また、呼び寄せの方法で紡績、染工場のあった本庄(ほんじょう)地域に集まったようである。現在は土木工事者が多数いる。会長の新垣も新垣組の代表者である。新垣は昭和17年、徴用で佐世保、博多などに行っている。昭和20年、召集で軍隊へ。終戦は戸畑市で迎えた。兄を頼り、九州から大阪に向っている。
活発な組織運営/粟国出身者らは戦後、組織づくりに情熱を燃やしながら、親睦団体をつくっては自然消滅を繰り返してきたという。年配者の苦悩がうかがえる。粟国小学校の60周年を記念し、青年たちが協力、母校にピアノ、書籍、テレビなどを贈っている。この募金活動をきっかけに組織化がすすみ、在阪粟国青年会が結成された(昭和37年)。初代会長に上原芳一(建設業代表者)、副会長・新垣重雄らを選んでいる。同会は数年後に「大阪粟国村人会」へと発展している。初代会長は仲間正直(故人)だった。大阪と粟国村人との結束も強い。総会、敬老会には新城実村長、末吉信輝議会議長らが出席する。粟国村出身の新城彪(38)は昨年大淀区から立候補し、三百六十四票差で次点に泣いた。新城(民社)は村人会の力が強すぎると地元の人から”よそ者に投票するよりは”といわれるのがこたえると語った。4月から大淀区の一部が北区に変更される。新城の父永秀は浦添市に住んでいる。
姉妹校の縁結び/同会副会長の新里利雄(新里組社長)、テニアンからの引き揚げ者。泡瀬に上陸、糸満のサンテン森の下でテント小屋生活をした。敗戦になると「中国、朝鮮の人がいばりましたわ」沖縄の人は最後に送還されたという。1955年、上阪。事業は数回も失敗したが、今は大成功。親の墓は大阪に造るという。同会に青年部ができた。民謡研究所の糸洲広志が部長。勝子夫人は琉舞の師匠である。糸洲は大正区から名護へ帰郷した富村一文に師事。民謡の大御所。普久原朝喜にも師事した。反物を買いに大阪へ行き、定住するようになった。婦人部は新里芳子(58)らがきり回す。積み立てで温泉旅行を楽しんでいる。
豊崎本庄小学校には粟国村の子弟が約15%、毎年入学するという。同校内には粟国島から運んだソテツがある。先人たちならソテツ地獄を思い出すだろう。同校の教頭、PTA会長が粟国村を訪れたことがある。また同校の百周年(1975年)を記念し、粟国小中学校は姉妹校を結んでいる。「二世たちは琉球だろう」といわれ、友達には「九州や」といい、隠して遊んでいたともいわれる。村人会は約二百世帯。未組織世帯を入れると六百世帯になりそうだという。過疎化の進む島を在阪の村関係者は心配する。粟国空港はどうなっているか。島への関心はつきないようである。大阪の県人会連合会の下部組織「大淀沖縄県人会」は粟国出身の友利仁三郎、大城栄三郎、伊佐栄元らが会長を務め活躍してきた。
大阪環状線都島駅手前の風景
1975年ー粟国小学校から大阪の粟国出身者の子弟が学んだ大阪市立豊崎本庄小学校にソテツ植樹
大阪の天六と言えば今でも粟国島出身者が多い。1988年3月4日の『沖縄タイムス』「ヤマトに生きるー関西沖縄人国記(34)『大阪粟国村人会』」□建設業が多い/小さな島の大きな村人会がある。大阪市大淀区の『大阪粟国村人会』ー。粟国島から上阪した人たちの90%が大阪市大淀区に住んでいるという。会長の新垣重雄(62)はこう語る。『自分たちの住んでいる本庄や長柄に大正の初めごろ、最初に上原仁王が上阪したと聞いている』。大淀の「本庄」は大阪駅・梅田にも近い。交通の便利さがある。島チャビを背負った人たちが大阪へ。粟国島出身者は那覇では調理師が多いが、大阪では目立たなかった。島の人たちは、知人を頼りに、また、呼び寄せの方法で紡績、染工場のあった本庄(ほんじょう)地域に集まったようである。現在は土木工事者が多数いる。会長の新垣も新垣組の代表者である。新垣は昭和17年、徴用で佐世保、博多などに行っている。昭和20年、召集で軍隊へ。終戦は戸畑市で迎えた。兄を頼り、九州から大阪に向っている。
活発な組織運営/粟国出身者らは戦後、組織づくりに情熱を燃やしながら、親睦団体をつくっては自然消滅を繰り返してきたという。年配者の苦悩がうかがえる。粟国小学校の60周年を記念し、青年たちが協力、母校にピアノ、書籍、テレビなどを贈っている。この募金活動をきっかけに組織化がすすみ、在阪粟国青年会が結成された(昭和37年)。初代会長に上原芳一(建設業代表者)、副会長・新垣重雄らを選んでいる。同会は数年後に「大阪粟国村人会」へと発展している。初代会長は仲間正直(故人)だった。大阪と粟国村人との結束も強い。総会、敬老会には新城実村長、末吉信輝議会議長らが出席する。粟国村出身の新城彪(38)は昨年大淀区から立候補し、三百六十四票差で次点に泣いた。新城(民社)は村人会の力が強すぎると地元の人から”よそ者に投票するよりは”といわれるのがこたえると語った。4月から大淀区の一部が北区に変更される。新城の父永秀は浦添市に住んでいる。
姉妹校の縁結び/同会副会長の新里利雄(新里組社長)、テニアンからの引き揚げ者。泡瀬に上陸、糸満のサンテン森の下でテント小屋生活をした。敗戦になると「中国、朝鮮の人がいばりましたわ」沖縄の人は最後に送還されたという。1955年、上阪。事業は数回も失敗したが、今は大成功。親の墓は大阪に造るという。同会に青年部ができた。民謡研究所の糸洲広志が部長。勝子夫人は琉舞の師匠である。糸洲は大正区から名護へ帰郷した富村一文に師事。民謡の大御所。普久原朝喜にも師事した。反物を買いに大阪へ行き、定住するようになった。婦人部は新里芳子(58)らがきり回す。積み立てで温泉旅行を楽しんでいる。
豊崎本庄小学校には粟国村の子弟が約15%、毎年入学するという。同校内には粟国島から運んだソテツがある。先人たちならソテツ地獄を思い出すだろう。同校の教頭、PTA会長が粟国村を訪れたことがある。また同校の百周年(1975年)を記念し、粟国小中学校は姉妹校を結んでいる。「二世たちは琉球だろう」といわれ、友達には「九州や」といい、隠して遊んでいたともいわれる。村人会は約二百世帯。未組織世帯を入れると六百世帯になりそうだという。過疎化の進む島を在阪の村関係者は心配する。粟国空港はどうなっているか。島への関心はつきないようである。大阪の県人会連合会の下部組織「大淀沖縄県人会」は粟国出身の友利仁三郎、大城栄三郎、伊佐栄元らが会長を務め活躍してきた。