12/27: 飛鳥路とその周辺
飛鳥路とその周辺
明日香
2022-10-21日~12月18日 飛鳥資料館「飛鳥美人ー高松塚古墳の魅力」/2022-8-23 ユンタンの孫は、祖母と飛鳥大仏、東大寺の大仏を見学した。
明日香で遊ぶ息子ー1972年、発掘調査によって美しい壁画がみいだされ、有名になった高松塚古墳である。明日香村平田にある。
中央立っている人が井上稔画伯□1936年(昭和11)京都生まれ。 京都学芸大学(現京都教育大学)を卒業、西山英雄に師事。1957年第13回日展で奈良手向山八幡宮の校倉を描いた「校倉」が初入選し、1979年第11回日展で「浄」が特選、続いて1982年第14回日展では「浄韻」が再び特選となり、その後、25回にわたって日展に委嘱出品されています。
萌子の飛鳥日記「2010年10月2日ー万葉スケッチ会(講師・井上稔画伯)」
12/25: 日本近現代思想史家・屋嘉比収
写真左から秋山勝氏、鳥山淳氏、新崎盛暉氏、新城栄徳、屋嘉比収氏、大峰林一氏
左ー秋山勝さん(2016年11月6日死去74歳)が創刊時から関わった雑誌『けーし風』/【中部】米軍普天間飛行場のゲートが、市民の手で次々と封鎖された前代未聞の4日間から1年。現在もゲート前で抗議行動を続ける人々が28日、宜野湾市中央公民館に集まり、オスプレイ配備を撤回させる決意を新たにした。日米両政府は県民の反発に耳を貸さず、24機の配備を完了したばかり。参加者は「粘り強く闘い続けよう」「勝つ方法は諦めないことだ」と気勢を上げた。ゲートが封鎖されたのは、オスプレイ配備を目前に控えた昨年9月27~30日にかけて。座り込む人々を排除しようとする警察との間で衝突も起きた。つえをつきながら参加していた秋山勝さん(71)=那覇市=も、警察のごぼう抜きに抵抗した。
2020年5月 秋山勝遺稿集刊行会『秋山勝 遺稿集』〇2014年10月『けーし風』84号 秋山勝「《報告》オスプレイ強行配備から2年ー続く普天間基地ゲート前闘争・・・大山ゲートで特に金曜日に大勢集まって反対運動への妨害や嫌がらせを繰り返す『オスプレイファンクラブ』『FCP(フェンス・クリーン・プロジェクト)』なる手登根安則という人物を代表とする右翼団体の行動である。これに幸福実現党のメンバーも一部加わり、『週刊新潮』や『桜チャンネル』などネットグループも応援の報道で取り上げ、『米海兵隊政務外交部』なるかつてのCIC(米軍政下の米軍防諜部隊)のような数名の情報部員も歓迎・協力している。・・・」
写真左から屋嘉比収氏、新城栄徳、伊佐眞一氏、宮城晴美さん
沖縄大学図書館「屋嘉比収文庫」
12/24: 鹿野政直
鹿野政直氏
鹿野政直 かの-まさなお
1931- 昭和後期-平成時代の日本史学者。
昭和6年8月20日生まれ。45年早大教授。専攻は近現代思想史。西岡虎之助の民衆生活史研究に影響され,民衆思想の展開に注目,女性史,沖縄史,民間学などの研究をすすめる。大阪出身。早大卒。著作に「資本主義形成期の秩序意識」「大正デモクラシーの底流」など。→コトバンク
左から、おおしろ健氏、ローゼル川田氏
2013年9月 俳句同人誌『天荒』(表紙絵は山城芽) 野ざらし延男 〒904-0105 北谷町字吉原726番地の11
電話・FAX098-936-2536
2013年1月 俳句同人誌『天荒』44号 野ざらし延男 〒904-0105 北谷町字吉原726番地の11 電話・FAX098-936-2536
野ざらし延男/沖縄県中頭郡北谷町字吉原726番地 電話FAⅩ098-936-2536
2012年9月 俳句同人誌『天荒』43号
12/22: 島田叡 しまだ-あきら
島田叡 しまだ-あきら
1901-1945 昭和時代前期の官僚。
明治34年12月25日生まれ。大正14年内務省にはいる。警察官僚として徳島・長崎県などに赴任。昭和20年沖縄県知事となる。米軍上陸にそなえ,婦女子の疎開と食糧確保につくし,昭和20年6月沖縄本島の摩文仁(まぶに)の丘付近で戦死。45歳。のち同地に島民により「島守の塔」がたてられた。兵庫県出身。東京帝大卒。→コトバンク
2013年11月27日ー那覇市松尾の城岳同窓会で、沖縄県内の野球団体で「島田叡氏事跡顕彰期成会」(事務局☎098-867-2525)が発足した。期成会では沖縄県の野球の聖地としての奥武山総合運動公園内に、島田叡氏の事跡を語り継ぎ、沖縄県を担う青少年に夢を抱かせるような施設の整備と顕彰碑等の設置を要望することを決定した。1、奥武山総合運動公園内に「多目的グラウンド」を「島田叡氏の名」を冠して整備し、少年野球のメッカとして供用することを望む。/2、奥武山野球場内(沖縄セルラースタジアム那覇)「資料館」に、「島田コーナー」を設置をすると同時に、球場正面に「顕彰碑」の設置をすることを望む。この2点をもって要望のための署名活動を展開することになった。
石川和男□みどり風通信「11月27日(水)午後4時から、城岳同窓会館で「島田叡氏事跡顕彰期成会」が開催された。いろいろな経緯から僕も参加となった。
現在も練習が行われているメサイア演奏会(今年は12月15日開催)が縁で知り合いとなった名嘉山興武氏より電話があり、署名簿の印刷を依頼された。数日後、納品の為城岳同窓会館に行きその際、名嘉山さんから最後の官選知事島田叡(あきら)氏と「野球とのつながり」を20分近くお話を聞かせて戴いた。(名嘉山さんは、那覇高校のご出身で、後本土の大学に学び教職に就かれ那覇高校校長や教育行政職を歴任、退職後は沖縄キリスト教学院でも教鞭をとられ、現在は城岳同窓会の副会長、沖縄男声合唱団員である。) 」
詳しくは「みどり印刷」ここをクリック
1901-1945 昭和時代前期の官僚。
明治34年12月25日生まれ。大正14年内務省にはいる。警察官僚として徳島・長崎県などに赴任。昭和20年沖縄県知事となる。米軍上陸にそなえ,婦女子の疎開と食糧確保につくし,昭和20年6月沖縄本島の摩文仁(まぶに)の丘付近で戦死。45歳。のち同地に島民により「島守の塔」がたてられた。兵庫県出身。東京帝大卒。→コトバンク
2013年11月27日ー那覇市松尾の城岳同窓会で、沖縄県内の野球団体で「島田叡氏事跡顕彰期成会」(事務局☎098-867-2525)が発足した。期成会では沖縄県の野球の聖地としての奥武山総合運動公園内に、島田叡氏の事跡を語り継ぎ、沖縄県を担う青少年に夢を抱かせるような施設の整備と顕彰碑等の設置を要望することを決定した。1、奥武山総合運動公園内に「多目的グラウンド」を「島田叡氏の名」を冠して整備し、少年野球のメッカとして供用することを望む。/2、奥武山野球場内(沖縄セルラースタジアム那覇)「資料館」に、「島田コーナー」を設置をすると同時に、球場正面に「顕彰碑」の設置をすることを望む。この2点をもって要望のための署名活動を展開することになった。
石川和男□みどり風通信「11月27日(水)午後4時から、城岳同窓会館で「島田叡氏事跡顕彰期成会」が開催された。いろいろな経緯から僕も参加となった。
現在も練習が行われているメサイア演奏会(今年は12月15日開催)が縁で知り合いとなった名嘉山興武氏より電話があり、署名簿の印刷を依頼された。数日後、納品の為城岳同窓会館に行きその際、名嘉山さんから最後の官選知事島田叡(あきら)氏と「野球とのつながり」を20分近くお話を聞かせて戴いた。(名嘉山さんは、那覇高校のご出身で、後本土の大学に学び教職に就かれ那覇高校校長や教育行政職を歴任、退職後は沖縄キリスト教学院でも教鞭をとられ、現在は城岳同窓会の副会長、沖縄男声合唱団員である。) 」
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12/22: 琉球大学第二代学長・胡屋朝賞
1937年9月 『沖縄県人事録』沖縄朝日新聞社
胡屋朝賞(1885年2月29日~1974年5月30日)
1969年10月 『沖縄の百年ー人物編 近代沖縄の人びと』太平出版社□大城立裕「胡屋朝賞」
1984年5月 沖縄の雑誌『青い海』132号 又吉健次郎「吹子ふち火花ー父子相伝・その心の対話ー」
2013年12月21日 沖縄県立博物館文化講座「『きからじ』と『ジーファー』」
写真左から又吉健次郎氏、末吉安允氏、「熊野」生き字引・神坂次郎氏
又吉健次郎「吹子」
写真左から又吉健次郎氏、具志堅以徳氏、真喜志康徳氏、上江洲安明氏
写真ー又吉健次郎氏
会場の沖縄タイムス本社入口のイルミネーション
呼び掛け人を代表し高嶺朝一氏「基地で働いた経験は今に教訓を与える。勇気を持って記事に登場してくれて感謝」と話す。
平和・協同ジャーナリスト基金賞奨励賞
『基地で働く』執筆者たち
「秘密保護法で基地労働者の処罰も予想される」「今までは解雇されるだけだったが、これからはとんでもない罪をかぶせられる」など懸念の声があがる。
2005年9月20日 『琉球新報』「あしゃぎー機関紙にも注目」
12/14: 喜久村徳男
2013年5月15日沖縄県立博物館・美術館「平山郁夫展」
写真右から波照間永吉氏、安里進氏、宮城篤正氏、喜久村徳男氏
展覧会案内パンフレット1956~1963
1959年1月 那覇琉米文化会館「琉大美術クラブ絵画展」(永山信春、神山泰治、宮城孝也、平良晃、喜久村徳男、比嘉良仁、山城見信、大城宏捷、安元賢治ほか)/1963年4月 沖縄タイムス社「仲本岳仙日本画展」/1956年5月 第一相互銀行3階「儀間比呂志個人展」/1962年9月 沖縄タイムスホール「故南風原朝光氏追悼の夕」/1963年6月 沖縄タイムスホール「安谷屋正義個展」
1981年4月 沖縄の雑誌『青い海』
2013年12月14日「第42回沖縄県芸術文化祭」で喜久村徳男氏とその作品「赤い地平線13・80」
2014年6月8日 画廊サエラ「~魂の響き~ 喜久村徳男の小空間」
昇曙夢
2013年12月13日『琉球新報』仲村顕「眠れる先人たちー昇曙夢」
昇曙夢
1878-1958 明治-昭和時代のロシア文学者。
明治11年7月17日生まれ。陸軍士官学校教授,のち早大講師。ザイツェフ,クプリーンなど20世紀初頭の作家の作品の翻訳,紹介につとめた。昭和33年11月22日死去。80歳。鹿児島県出身。ニコライ正教神学校卒。本名は直隆。著作に「ロシア・ソヴィエト文学史」,訳書に「六人集」「毒の園」など。→コトバンク
昇曙夢『奄美大島と大西郷』春陽堂, 1927
2013年12月13日『琉球新報』仲村顕「眠れる先人たちー昇曙夢」
昇曙夢
1878-1958 明治-昭和時代のロシア文学者。
明治11年7月17日生まれ。陸軍士官学校教授,のち早大講師。ザイツェフ,クプリーンなど20世紀初頭の作家の作品の翻訳,紹介につとめた。昭和33年11月22日死去。80歳。鹿児島県出身。ニコライ正教神学校卒。本名は直隆。著作に「ロシア・ソヴィエト文学史」,訳書に「六人集」「毒の園」など。→コトバンク
昇曙夢『奄美大島と大西郷』春陽堂, 1927
12/11: 牧瀬恒二と『沖縄事情』
1967年1月1日
『沖縄・小笠原事情』高安重正「『沖縄事情』創刊のころー1959年はじめ、それまで大阪で発行されていた『基地沖縄』を東京に移して発行し宣伝していたが、このような形ではまずいということで、沖縄問題懇談会の機関紙として『沖縄事情』を発行することが決定され、1959年3月に第1号が発行」
牧瀬恒二の本
12/09: 井之口政雄
井之口 政雄(いのぐち まさお、明治28年(1895年)4月28日 - 昭和42年(1967年)6月30日)は、日本の政治運動家、革命家、ジャーナリスト、政治家。衆議院議員(1期)
経歴[編集]沖縄県那覇市出身。1912年(大正元年)鹿児島一中を卒業、1916年(大正5年)慶應義塾大学予科に入学し、卒業。1918年(大正7年)同大学理財科に進む。在学中に、「日本社会主義同盟」、山川均らが主宰していた水曜会で活躍。1921年(大正10年)12月より翌年11月まで一年志願兵として鹿児島歩兵連隊に入隊。24年春から秋頃まで大阪の『関西日報』の記者となる。
1923年(大正12年)に日本共産党に入党。1925年(大正15年)の『無産者新聞』の創刊とともに記者・編集委員、記者としては最も長い間同紙に関係した一人である。1927年(昭和2年)から予備役の第二期召集で鹿児島歩兵連隊に再度入隊。1928年(昭和3年)の第1回普通総選挙に際して、労働農民党候補として沖縄県から立候補したが落選。三・一五事件に連座して同年10月に検挙され、治安維持法違反で懲役8年の判決を受ける。
戦後、共産党兵庫県委員会の再建に加わり、1946年(昭和21年)機関紙『アカハタ(赤旗)』関西総局責任者となった。1949年(昭和24年)の第24回衆議院議員総選挙に、兵庫2区から衆議院に当選(1期)、共産党国会議員団長を務めた。(Wikipedia)
1971年10月 数田雨条『句集・夜光虫』
1915年ー西原村字小波津89で生まれる。
1929年ー高等小学受持訓導の富川盛信より俳句の手ほどきを受く。
1930年ー沖縄県師範学校入学。
1935年ー同校卒業、八重山与那国へ赴任。
1937年ー台湾台北州へ出向 山本孕江主宰「ゆうかり」会員。
1942年ー台湾総督府専売局勤務 「ゆうかり」支部「みなみ句会」創設。
1943年ー興南新聞文芸募集に応募「天」入賞「みんなみに友邦生れて年あらた」
1944年ー応召で香港に赴く 「光洋句会」創設。
1945年ー部隊歌応募当選受賞。
1946年ー復員
1950年ー「みなみ吟社」創設、句誌「みなみ」刊行。
1951年ー沖縄群島政府弘報室勤務 句集『章魚の樹』(装丁。安谷屋正義)発刊。
1952年ー句集『翠巒の島』発刊。
1955年ー千葉県佐倉市南部中学校勤務。
1965年ー文芸出版社発行『愛の俳句集へ』2句採用 「女の唇凍てしままなる訣れかな」「白手袋恋情を断ち女踊る」
1967年ー文芸出版社発行『県の花』へ3位入賞 「花菜風利根の枝川遠光る」
12/07: 我如古弥栄
我如古弥栄(1881年~1943年9月2日)
首里生まれ、仲毛芝居をへて、劇団全盛時代にかかり、1911年、沖縄座で歌劇「泊阿嘉」を初演。その後「八重山行き」「貞女と孝子」「情無情」「普天間権現」「黄色うらんさん」などの歌劇を残した。ハワイ、南洋にも巡業。(大城立裕)
中央ー我如古弥栄
1931年 ハワイから帰った我如古弥栄一行
1949年6月 『芝居と映画』6月号□芝居狂言作者年表
我如古弥栄
明治42年2月 泊阿嘉
娘の我如古安子
1962年7月 『芸能マガジン』「人物クローズアップー我如古安子さんの若き日を偲ぶ」
首里生まれ、仲毛芝居をへて、劇団全盛時代にかかり、1911年、沖縄座で歌劇「泊阿嘉」を初演。その後「八重山行き」「貞女と孝子」「情無情」「普天間権現」「黄色うらんさん」などの歌劇を残した。ハワイ、南洋にも巡業。(大城立裕)
中央ー我如古弥栄
1931年 ハワイから帰った我如古弥栄一行
1949年6月 『芝居と映画』6月号□芝居狂言作者年表
我如古弥栄
明治42年2月 泊阿嘉
娘の我如古安子
1962年7月 『芸能マガジン』「人物クローズアップー我如古安子さんの若き日を偲ぶ」
12/05: 2013年12月の山田實さん
2013年12月 『オキナワグラフ』
2012年9月11日~沖縄県立博物館・美術館「山田實展ー人と時の往来」②
□1961年10月15日『沖縄タイムス』「生まれかわる『赤木』ー戦火にやかれた首里のハンタン山の赤木が戦後16年ぶりに芽をふいたという。5,6年前、どこかでガジュマルの実をついばんだ小鳥がキミ(赤木)の頂上で羽を休めた覚えがあるだろう。そのフンからガジュマルのタネがころがりおち、やがてそれは発芽したのだ。(略)キミは生まれかわったのだ。若い芽がキミをふみ台にしてのびていく。歴史はひきつがれたのだ、ということを。」
2012年9月18日『沖縄タイムス』魚眼レンズ「写真人生山田さんに学ぶー前原基男さん」
2005年10月 『ふるさとへの想い竹富島ー前原基男写真集』/2006年10月 『あんやたん沖縄写真貼ー前原基男写真集』
2012年9月29日『琉球新報』「インタビュー山田實氏 企画展『人と時の往来』利き手・大城仁美(美術館学芸員)」
12/04: 島袋百恵・画「玉城盛重」
島袋百恵・画「玉城盛重」
1993年4月 矢野輝雄①『新訂増補 沖縄芸能史話』榕樹社〇玉城盛重の曽祖父は尚穆王の冠船(1756)で四つ竹踊りをつとめた首里四公子の1人、玉城盛昭(8世)で、三司官を出す家柄で、9世は盛林である。彼の父盛喜(10世)は、廃藩とともに盛寿、盛政、盛重の3兄弟を芝居に入れたという。
1988年7月 矢野輝雄②『沖縄舞踊の歴史』築地書館/2001年8月 矢野輝雄③『組踊への招待』琉球新報社
②京大坂の念仏踊りは、時代とともに優美な竹枝(筑子)躍、松躍、花笠踊などがあらわれ、鉦太鼓のリズムを強調する踊りから、歌を聞かせることへの重点が移行する。飾り物を作り、仮装の見せ物を中心に据え、円形を作って踊る。なかでも有名なものは祇園祭で、本来非業の死による霊魂をなぐさめるための御霊信仰に基づくものであったが、盆の習俗と習合して、中世から近世にかけて最盛期を迎える。また慶長九年(1604)八月、豊太閤一周忌に行われた豊国神社の風流踊りは、屏風絵にも残された盛大なもので、祇園祭の中から生まれた風流踊りの集大成ともいうべきものであった。そこでは数百人の踊り子が繰り出し、円陣を作って乱舞する。女性による小町踊りなども生まれ、このような風流踊りの形は、新潟県黒姫の綾子舞や、東京都小河内の鹿島踊り、奈良県大塔の篠原踊りなど各地の芸能に残るところであり、その振りには沖縄の若衆踊りなどに似かよったものも見出せる。
③組踊を一口で説明するとなれば、歌三線(音楽)、唱え(せりふ)、踊り(舞踊)を総合した楽劇ということになろう。
1914年8月 中座で「ムンズル笠」上演
1925年3月 秩父宮、渡欧の途次来沖。中城御殿で組踊「二童敵討」(阿麻和利・玉城盛重、鶴松・嘉手納良芳、亀千代・田島清郷)を見る。
1937年9月 『沖縄県人事録』沖縄朝日新聞社
1929年10月 伊波普猷『校註 琉球戯曲集』春陽堂□本書の写真には玉城盛重の写真が2枚ある。
1、琉球古劇「二童敵討」阿麻和利に扮したる琉球最後の名優玉城盛重
2,名優玉城盛重
玉城盛重「高平良万才」/「伊野波節」
玉城盛重「阿摩和利」
□1923年2月24日『沖縄タイムス』田邉尚雄「音楽史上の参考資料ー琉球の琴八橋流 徳川初期のもので今は内地では消滅」
○玉城盛重氏は舞踊の外に八橋流の琴曲も奏せられたが私はここに此の八橋流の琴について一言したいと思ふ、八橋流と云ふのは勿論徳川の初めに京都で八橋検校が開いた箏であって、我が俗箏の開祖である。内地では八橋流は元禄時代に生田流が起こり文化文政時代に江戸で山田流が出たために今では生田や山田に圧倒されて八橋流は全く消えてしまった。然るに琉球には此の八橋流のみが伝わって生田流や山田流はあめり入って居ないのは頗る面白いことであると共に、又内地で滅びたものが琉球に残っていると云ふ点に於いて非常に音楽史上貴重なる材料であると云はなければならぬ。・・・
中央が玉城盛重(山田有昴所蔵)
写真集那覇百年のあゆみ/写真番号404/P107/裏書あり/地方文化が軽視、否定された昭和13年頃琉球芸能の抹殺を恐れた人々が、琉球舞踊の大家、玉城盛重の至芸を後世に残すため、その舞踊を16ミリにおさめた。写真は撮影の終わった日の記念撮影。/(1938頃)
写真前列左より田代タカ子、玉城盛重、根路眼たま子 後列左よりー山田有邦、千原成悟、比嘉良篤
玉城盛重の墓→識名
12/04: 沖縄の古書店史/ロマン書房
じのん天久店長がブログに「当店の歴史」を書いている。それによると、1982年2月、照屋全芳氏が浦添市西原に新刊書店「ロマン書房」をオープンした。その年の夏、現在の場所が空き店舗になったので移転してきた。だが新刊書だけではスペースがありすぎ古本も扱うことになった。先ず古本の本場・東京へ向う。そして東京で球陽書房を営む西平守良さんと交渉。照屋氏と西平さんは同郷(今帰仁)、当時2代目として球陽書房を切り盛りしていた西平守次さんとは誕生日が同年同月ということもあって意気投合。以後、東京の古書市場から古本が大量に沖縄のロマン書房へコンテナで運ばれた。
左から新城栄徳、平良美十利さん、照屋全芳氏
1985年8月 沖縄の雑誌『青い海』144号 照屋全芳「短編小説シリーズ(16)自分がうるさい」
沖縄タイムス[訃報]照屋全芳さん 元ロマン書房店主 2020年5月27日 05:00 照屋全芳さん(てるや・ぜんぽう=元ロマン書房店主)12日午前9時ごろ、大動脈瘤(りゅう)解離のため愛知県春日井市で死去、67歳。今帰仁村出身。 1981年にロマン書房を創業。当時としては斬新な手法で県内の出版業界をけん引したが、97年に倒産。経営を離れ、近年は愛知県に居住していた。
12/03: 上江洲久
上江洲智克
政治家。元沖縄県人会兵庫県本部名誉会長。1916年12月1日うまれ、1997年11月20日没。沖縄出身。別名:上江洲久(かみえす ひさし)。社会党に所属し兵庫県議会議員や尼崎市議会副議長を務めた。著書に『天皇制下の沖縄』(三一書房)がある。甥に外務官僚で『国家の罠』著者の佐藤優がいる。→はてなキーワード
写真ー上江洲久(2000年9月『ヤマトゥのなかの沖縄』大阪人権博物館 所収)