Archives

You are currently viewing archive for October 2015
Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02

1972年1月 沖縄の雑誌『青い海』9号 大嶺信一「美術団体の封建性と沖縄の中央コンプレックス」

2015年10月27日~11月1日 沖縄県立博物館・美術館「父(大嶺信一)子(大嶺信孝/北山千雅子)三人展」


北山千雅子さんと作品「2014」

大嶺信孝氏と作品「繁殖の季節」/左 大嶺信一「繁殖の季節」


 大嶺信孝氏作品「南蛮鬼の腕〕→浄心窯 〒905-0427 今帰仁村字兼次817-2 ☏098-056-3365

2015年9月、山田實さんの所に遊びに行くと
大城立裕『レールの向こう』川端康成文学賞受賞記念の短篇集があった。沖縄に生きて、その風土を呼吸しながら創作を続けてきた八十九歳の作家の、初の私小説。時の移ろいを生き抜く老年の日常。妻の入院をきっかけに、出会ってきた人々の面影とともに、遠い記憶が鮮明に蘇り、いまを生きる私を、強く激しく揺り動かす――川端康成文学賞を受賞した表題作と新作『病棟の窓』を収録したもの。山田さんも大城さんも県立二中で、 山田さんに中樹緑会の写真を見せてもらった。

 1933年 二中樹緑会ー写真中央が志喜屋孝信校長、その左が名渡山愛順で、その右は大嶺政寛。1列右端は荒木遼一、その左が益田信行、2列右端は山田實、その後ろが大嶺政敏、その後ろは具志堅以徳。後列左から7人目が大嶺信一.3列目左2人目が伊波國男。この他に同期として、太田良博、渡口武彦、奥田良寛春らがいる。私の余り知らない大嶺信一の名前が出てきた。帰り那覇市民ギャラリーをのぞくと「父子三人展ーそれぞれの軌跡ー」の案内ハガキがあった。三人とは故 大嶺信一、長男の大嶺信孝、長女の北山千雅子で、大城立裕氏が信孝作品に感想を寄せているのは大城氏と大嶺信一が二中の先輩後輩の関係ということもあるだろうか。

写真左から北山千雅子さん、大城立裕氏、大嶺信孝氏
その展覧会には90歳という高齢をおして観覧し「お父様の肖像写真を見ていると、そのナーファムニーの語り口や笑い声を思い浮かべました」と図録の感想を寄せている。。2015年9月『沖縄タイムス』に大城冝武氏が「沖縄マンガ史」のなかで大嶺信一のマンガを紹介している。

写真左から仲原弘哲氏(今帰仁村歴史文化センター館長)、大嶺信孝氏

null

那覇市歴史資料室収集写真には/大嶺信一氏(真中)、金城安太郎氏(左側)/(1950頃)がある。

 1974年発行の『琉球の文化』第5号の特集は<沖縄戦と終戦直後の生活>であった。掲載の戦後沖縄の写真はハンナ少佐が撮ったもので、少佐の友人ジョージ・H・ケアから博物館研修で渡米中の大城精徳に譲られ沖縄の博物館に収蔵されたものである。同誌には画家・大嶺信一の戦後回顧が載って「終戦後の行政の中心地は石川市であったが、当時沖縄最大の人口密集地帯で、バラックやテントの人家がまるでカスバの街のようにひしめきあっていた」と記し続けて「諮詢委員会が東恩納に軍政府の下に設立され、志喜屋孝信氏を長として多くの部が作られ、その中に文化部があって故当山正堅を部長として、官費の芸能団が組織され、官費の画家が誕生して、荒んだ戦後の人心に慰安を与えた。軍政府の文化部担当将校がハンナ少佐で、理解の深い人であったらしく、大城皓也、山元恵一、金城安太郎の3氏が毎日出勤して絵画に専念」と記した。


資料・金城五郎
1961年9月 『沖縄公論』編集発行・金城五郎 沖縄公論社(那覇市前島)大嶺信一表紙画、「マンガ ラ大使につづけ」/船越義彰「あきかぜの塔」大嶺信一・画
1961年10月 『沖縄公論』編集発行・金城五郎 大嶺信一表紙画 マンガ「ゴ―ホーム派遣医師」「禁じられた遊び」/船越義彰「壕」大嶺信一・画
1961年11月 『沖縄公論』編集発行・金城五郎 大嶺信一表紙画/「秋の沖縄画壇ー二科展に大城皓也、山里昌弘『福木』、城間喜宏『殻』、行動展に儀間比呂志、一陽会に与儀達治」「琉米文化会館『晃孝見敏展』山城見信、平良晃、比嘉敏夫、前田孝允、石川初子、上原浩、永山信春の琉大グループ」「南風原朝光 交通事故で急逝」/嘉陽安男「尚徳とくにちゃさ」大嶺信一・画
1961年12月 『沖縄公論』編集発行・金城五郎 大嶺信一表紙画「表紙のことば」/仲本政基「壕の中で作られた新聞」①大嶺信一・画
1962年1月 『沖縄公論』編集発行・金城五郎 大嶺信一表紙画「表紙のことば」/山里永吉「完備した図書館を」/仲本政基「壕の中で作られた新聞」②大嶺信一・画
1962年2月 『沖縄公論』編集発行・金城五郎 沖縄公論社(那覇市美栄橋) 大嶺信一表紙画、仲本政基「壕の中で作られた新聞」③写真使用
1962年3月 『沖縄公論』編集発行・金城五郎 大嶺信一表紙画/「美術ー神山泰治、永山信春、安元賢治 三人展」/大田昌秀「自殺断崖」①大嶺信一画

1962年6月 『沖縄公論』編集発行・金城五郎 大嶺信一表紙画、「表紙のことばー突然に妻子を失って」
1962年7月 『沖縄公論』編集発行・金城五郎 大嶺信一表紙画、「表紙のことば」/大田昌秀「自殺断崖」④大嶺信一画
1962年8月 『沖縄公論』編集発行・金城五郎 大嶺信一表紙画、「表紙のことば」/大田昌秀「自殺断崖」⑤大嶺信一画
1962年9月 『沖縄公論』編集発行・金城五郎 大嶺信一表紙画、「表紙のことば」/大田昌秀「自殺断崖」⑥大嶺信一画、亜吐里武(大嶺信一)「悲しみよ こんにちわ」「音を出さない音楽界」
1962年11月 『沖縄公論』編集発行・金城五郎 大嶺信一表紙画、「表紙のことば」/大田昌秀「自殺断崖」⑦大嶺信一、画亜吐里武(大嶺信一)「ボカブンド」
1962年12月 『沖縄公論』編集発行・金城五郎 大嶺信一表紙画、「表紙のことば」/「НHK交響楽団来演」/大田昌秀「自殺断崖」⑧大嶺信一、画亜吐里武(大嶺信一)「乏しい宣伝美術」「新劇と私」
1963年1月 『沖縄公論』編集発行・金城五郎 大嶺信一表紙画、「表紙のことば」/「НHK交響楽団来演」/大田昌秀「自殺断崖」⑨大嶺信一画、亜吐里武(大嶺信一)「サクラ坂人生劇場」/「文化ー欲しい政府立の美術館」「外地での正月ー稲嶺ひろみ、川平ワンダリー」
1963年2月 『沖縄公論』編集発行・金城五郎 大嶺信一表紙画、「表紙のことば」、亜吐里武(大嶺信一)「不審尋問」
1963年3月 『沖縄公論』編集発行・金城五郎 大嶺信一表紙画、「表紙のことば」、亜吐里武(大嶺信一)「散髪無精」
1963年4月 『沖縄公論』編集発行・金城五郎 大嶺信一表紙画、「表紙のことば」、亜吐里武(大嶺信一)「喫茶店閑話」/嘉陽安男「疑獄」大嶺信一画/中島蕉園「俳句漫言ー旧来の観念から脱皮」


1965年3月『ウルマグラフ』大嶺信一「暴力団事業は有望株かー暴力団という商売は随分モウかる事業のようである。コザ派に手入れがあったとき、親分なるものがポンと1万ドルの保釈金を積んで社会復帰したのにはド肝を抜かれた。そんなにモウかる仕事なら真面目に働いても借金ばかり残る絵描き商売などサラリと捨ててこちらも暴力団へ商売替えしょうかと真剣に考えたものだ。コザ派、那覇派に総手入れがあったのは確か金融検査部の簡清手入れとほとんど時を同じくして行われたと記憶している。・・・」


» Read More

Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02

2015年10月23日『琉球新報』仲村顕「「眠れる先人たちー松氏仲地家墓」
null
1968年8月ー仲泊良夫『医師・仲地紀仁』大同印刷
null
nullnull
Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02

2019-12-11


沖縄県立博物館・美術館 ふれあい体験室
ふれあい体験室は、「自然のしくみ」や「先人の知恵」をテーマとし、じかに手に取って観察し、考えながら学習することができる27の体験キットが準備されています。各キットは、サンゴ礁をすみかとする生き物たちの共生や、グスクの石積みの技術、また沖縄の島コトバや民具、玩具など常設展示の内容とリンクしており、子供たちに展示の内容について興味をもってもらう糸口となるよう構成されています。




ふれあい体験室で遊ぶ ひより




» Read More

Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02





撮影ー仲嶺絵里奈


2015年10月21日『沖縄タイムス』吉田健太「展評・まなざしの地層ー洗練された粋な映像作品」

2015年10月21日『沖縄タイムス』仲嶺絵里奈「・・・辻の女性たちが担った沖縄の芸能があり、発展した文化がある。」


2014年2月 フォトネシア沖縄『Photonsesia沖縄』仲嶺絵里奈「近代沖縄写真史ー????宮城昇の写真表現」
Category: 03-所感
Posted by: ryubun02

2015年10月10日『琉球新報』「大綱挽に平和願いー渡口彦邦さん」










» Read More

Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02
null
沖縄風俗踊図(1903年)/琉球藩王図(1912年)




1908年5月 菊池幽芳『琉球と為朝』

1911年  那覇尋常高等小学校卒。卒業後香港に渡りイギリス人の会社に就職。5年ほど滞在。

1918年  趣味は琉球古典音楽、古典舞踊、組踊。幼少のころから父・盛輝と祖父・盛矩から影響を受ける。この頃から玉城盛重に琴を師事。さらに三味線を伊佐川世瑞に師事。
null
写真ー玉城盛重
□1923年2月24日『沖縄タイムス』田邉尚雄「音楽史上の参考資料ー琉球の琴八橋流 徳川初期のもので今は内地では消滅」
○玉城盛重氏は舞踊の外に八橋流の琴曲も奏せられたが私はここに此の八橋流の琴について一言したいと思ふ、八橋流と云ふのは勿論徳川の初めに京都で八橋検校が開いた箏であって、我が俗箏の開祖である。内地では八橋流は元禄時代に生田流が起こり文化文政時代に江戸で山田流が出たために今では生田や山田に圧倒されて八橋流は全く消えてしまった。然るに琉球には此の八橋流のみが伝わって生田流や山田流はあめり入って居ないのは頗る面白いことであると共に、又内地で滅びたものが琉球に残っていると云ふ点に於いて非常に音楽史上貴重なる材料であると云はなければならぬ。・・・

1922年~1946年  沖縄県鉄道局管理所経理課勤務。  

玉城盛重師と仲嶺盛竹(→2013年5月 仲嶺貞夫『琉球箏曲の研究』)

1936年6月1日ー日本民俗協会『日本民俗』第12号□解説ー折口信夫「組踊りの話」、伊波普猷「組踊りの独自性」、東恩納寛惇「台詞・隈・服装」、比嘉春潮「琉球の村芝居」、小寺融吉「舞踊を観る人に」/島袋全発「てきすと」ー昔楽、舞踊、組踊「執心鐘入、二童敵討、銘刈子、花売の縁
1936年7月ー沖縄県教育会『沖縄教育』№239□島袋盛敏「琉球芸能感想記」、上間正敏「古典芸能帝都公演に就て」
null
nullnull
右ー音楽の部に琴・仲嶺盛竹
null
写真ー前列右から」仲嶺盛竹、玉城盛義、折口春洋、新垣松含、眞境名澄子、玉城盛重、眞境名苗子、伊佐川世瑞、古堅盛保、池宮城喜輝、渡口政興。中央右から眞境名由康、上間正敏、名護愛子、田代タカ、根路銘千鶴子、新垣芳子、二人おいて二代目宜保松男。後列右から島袋源一郎、金武良章、伊波普猷、親泊興照一人おいて山口ちづ子。(雅叙園で)


映画「オヤケアカハチ」制作・東京発声映画製作所/配給・東宝映画/監督・重宗務、豊田四郎/脚本・八田尚之/原作・伊波南哲/撮影・小倉金弥/音楽・大村能章/美術・河野鷹思/録音・奥津武/出演・大日方伝、藤井貢、三井秀男、市川春代、山口勇
写真ー上右から八木明徳、3人目・山城正樹、13人目・山田有登、田代タカ子、玉城盛重、17人目・護得久朝章、19人目・上間朝久、渡口政興、22人目・國場世保、23人目・仲嶺盛竹。中列左端・山田有昴、3人目・奥津。前列左から4人目・藤井貢、監督、8人目・大日方伝、高江洲康享、上間郁子1937年


那覇市歴史資料室収集写真/閑院宮春仁王殿下御前演芸記念写真 /同写真1枚あり/氏名記載あり/前列右より古堅盛保、金城幸吉、玉城盛重、仲嶺盛竹、与世田朝保。後列右より浦崎康華、金城隹子(現在真境名隹子)、渡口政興、国場世保、国場徳八、高嶺てる子。(1941/03/07)

1949年8月『芝居と映画』屋部憲「戦争と藝能」
○終戦当時国頭羽地大川のほとり、川上の山宿で始めて仲嶺盛竹氏の琴を聴いた時、何とはなしに熱ひものが頬を伝はるのを覚えた。別に悲しいのではない。さりとて歓びの感激でもない。勿論生延びた喜びはあるが、それのみの為めじやない。又戦禍に斃れし人々のことを考へた時悲痛の思いはするが、それのみののためでもない。亦死に勝る戦争中の飢餓と労苦を考えた時、血がにじみ出るやうな思ひ出はあるが、然し、その追憶のためでもなひ。今私はこの名状すべからざる感激の詮索に隙を假すことを憚り乍ら、筆を持ちなほしていく。

null
1954年2月14日 「火野葦平先生招待記念」
前列右から南風原朝光、真境名由康、火野葦平、平良リヱ子、仲嶺盛竹、真境名由祥。中列右から山里永吉、真境名澄子、真境名由苗、宮里春行。後列右から国吉真哲、一人おいて豊平良顕、真境名由乃、真境名佳子、勝連盛重。


1955年 第10回文部省芸術祭公演参加のメンバー(那覇・世界館)前列右から大嶺政寛、玉那覇正吉、國吉眞哲、山本義樹、豊平良顕、南風原朝光、末吉安久、田島清郷。後列右から宮里春行、識名盛人、眞境名由乃、眞境名由苗、牧志尚子、平良雄一、眞境名由康、勝連盛重、宮平敏子、屋嘉宗勝、眞境名佳子、喜納幸子、南風原逸子、仲嶺盛竹、嘉手苅静子、屋嘉澄子、仲嶺盛徳。

仲嶺盛竹(→2013年5月 仲嶺貞夫『琉球箏曲の研究』)□箏は竜になぞらえて作られたと言われ、各部の名称に竜の字が多く使われている。


稽古風景ー仲嶺盛竹師と仲嶺貞夫氏(→2013年5月 仲嶺貞夫『琉球箏曲の研究』)


元氏 仲嶺本家の墓

1993年3月『沖縄芸能史研究会会報』第190号 「第190回研究報告/仲嶺盛竹師を語るー仲嶺貞夫」

写真左が仲嶺貞夫氏(仲嶺盛竹の嗣子)、新城栄徳

写真左が仲嶺貞夫氏(仲嶺盛竹の嗣子)、姪の仲嶺絵里奈さん

» Read More

Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02


10月6日午後2時ー午後3時30分 (公財)おきなわ女性財団「ギャラリーリレートーク 戦後70年 過去から未来へ/次世代の女性達へ伝えたいこと」大城貴代子、平田正代、仲井間文子、安里和子、吉川文子、大城光代

 沖縄県男女共同参画センター「てぃるる」女性史パネル展「沖縄の今を築いた女性達」(主催・沖縄県男女共同参画センター管理運営団体)が10月6日から11日まで、那覇市の沖縄県立博物館・美術館で開かれる。戦後、さまざまな分野で復興を支え、平和や人権擁護、女性の地位向上に貢献した女性たちを紹介する。観覧無料。関連事業として6日午後2時から、おきなわ女性財団主催のギャラリーリレートークもある。大城貴代子さんがコメンテーターを務め、デザイナーの仲井間文子さん、国際福祉相談に尽力した平田正代さん、沖縄県庁で女性初の部長を務めた安里和子さん、教育界で活躍した吉川文子さん、沖縄県内初の女性弁護士・裁判官の大城光代さんら5人のパネリストが「次世代の女性達へ伝えたいこと」をテーマに登壇する。

» Read More

Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02

左ー1928年9月『旅と伝説』「八丈島の大蘇鉄」/浦添大公園-蘇鉄

浦添大公園-蘇鉄

浦添大公園ーガジマル



浦添大公園ー猫
Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02

1980年1月『青い海』89号 上地隆裕「カラヤンをきく」/2018年10月『月刊琉球』№60上地隆裕「ぼくたちだけの秘密日誌」

» Read More

Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02
 那覇市歴史博物館で外間政明氏から『歴博』を貰った。同誌に外間氏が「博物館展示のいま44那覇市歴史博物館」を紹介している。法政大学大原社会問題研究所、大阪産業労働資料館、成田空港 空と大地の歴史館が紹介されている。大阪産業労働資料館はハシシタ大阪知事に就任して最初に廃止したと記されている。このハシシタは大阪人権博物館の予算も廃止している。同誌編集後記に「政府の安全保障法案を懸念する世論が、世代を超えてこれほど急速に広がり、連日の抗議行動が、国会周辺だけでなく全国的な広がりを見せるとは夢にも思わなかった・・・」とあって編集者は同じ国立テレビのアベチャンネルと違いモノゴトを公平に見ている。
 沖縄の地元紙に共産党が民主党など野党に「戦争法[安保法制]廃止の国民連合政府」の実現を呼びかけているという。昨年の総選挙の沖縄1~4区の小選挙区選挙で行った、「米軍新基地建設反対」を掲げての選挙協力の延長だろう。先の『歴博』編集後記に「一人一人が我が事として今と向き合い、戦争の時代と戦後の歴史を創ってきた地下水脈は健在であった。」とあるが、これはアベ自公政権は当然だが、ハシシタ独裁も壊滅させなければ意味はない。





» Read More

Category: 01-人物名鑑
Posted by: ryubun02
 石川正通は1897年9月25日ー沖縄県那覇区下泉町にて父正芳・母ツルの二男一女の長男として出生。 1905年、那覇区立甲辰尋常小学校入学。5年生頃よりメソジスト教会牧師H・B・シュワルツ師に英語を学ぶ。この時の小学校の恩師で薫陶を受けたのが佐久本嗣宗。甲辰小学校を初の六年制で卒業。嘉手納時代の沖縄県立第二中学校に入学、通学不便で沖縄県立第一中学校へ入学したのが1911年。当時メソジスト教会牧師のH・B・シュワルツに英語を学んでいた正通は、すでに中学の先生の水準を抜いていた。在学中の1914年に一中代表として英語演説。南方熊楠は、山口沢之助校長と同郷和歌山県の大先輩、奇行に富む世界的大学者。山口校長が折に触れて話した、南方熊楠の逸話は一冊の本にも纏め得るほど、あざやかに正通は覚えている。山口校長の講義は、正通にとっては生理学でなく、熊楠学であった。脱線学の妙味ここにあり、という。

 1916年、一中退学し、私立麻布中学校へ転校。傍ら、正則英語学校文学科教室で斎藤秀三郎校長に英語を学ぶ。いつも最前列に陣取り、全身を耳にして講義を聴いていた。ある講義のとき、斉藤先生の誤りを指摘「違います」、再三指摘すると校長室に呼ばれた。斉藤先生「君、あしたからこの学校の先生になれ」の鶴の一声で正則英語学校講師となる。1918年、国民英学会講師、逗子開成中学校講師(ここでの教え子に、平野威馬雄、岡田時彦・女優茉莉子の父、徳山環ー歌手)。

1919年、保善商業学校講師(国語担当)、明治学院専門部講師(現明治学院大学)。1922年、第三版『全訳・シャーロックホームズ』越山堂。文部省中等教員英語科検定試験合格。1923年、8月ー沖縄県立第二中学校講堂で石川正通「英語講座」、伊佐三郎、赤嶺康成ら参加。1924年、東北帝国大学法文学部文学科入学。在学中、土井晩翠の寵愛を受けた。
1922年5月に正通は饒平名智太郎の依頼で鹿子木員信・饒平名智太郎『ガンヂと真理の把握』改造社の英訳も手伝った。

        
 後年、土井晩翠の荒城の月を引いて、正通は漫筆「大阪礼讃 工場の月」の中で、月ヤ昔カラ変ル事無サミ 変テ行ク物ヤ人ヌ心 月には故郷があり、故郷には月がある。十海ヤ距ミテン照ル月ヤ一チ アリン眺ミユラ今日ヌ月ヤ 十海でも渡海でもよい。月で心を清め、心で故郷を浄めよう。「太陽と月と、どちらが必要だ」「勿論、月だ。太陽は明るい昼間に照る。月は暗い夜を照らす」斯ういう二人のウスノロの問答にも捨て難い味がある。通堂港頭で交す「儲キテ来ーヨー」という激励の挨拶に全沖縄の運命は宿り、全沖縄人の希望は繋がる。私は世界語の中にこれほど力強さと哀調とのいみじく融け合った言葉を知らない。故郷への送金額第一位の王座を占める関西五万の沖縄ン人御スーヨー、高らかに歌いましょう。 春工場の鼻の煙/廻る機械に油注して/那覇の港を船出し/ウルマの光今此処に(1939年8月)。

 1928年、東北帝国大学法文学部国文科卒業。卒論「近松門左衛門の世話浄瑠璃について」。国民英学会講師に復職、京華高等学校教諭、日本女子高等学院英文学科教授。1929年、雑誌『イギリス文学』に「ヘルンの『沙翁論』」。1933年、『南島』1月1日の消息欄に石川正通氏ー伊波普猷先生と共力で近く日英両文の沖縄案内を発刊する由」。1934年の『南島』8月の漫筆に「友の首途を祝して故郷を語る=武元朝朗・國吉休微両君を叱咤する=(略)最近出た某書店の百科辞典を引いて見たが、おもろ、蔡温、程順則、尚泰侯爵も出て居ない。沢田正二郎、田健次郎等は写真まで出て居る。土田杏村が第二の万葉集と言った『おもろ』も国語国文学校の士すら全般的に知られて居ない」と記す。
 
 1934年4月15日『琉球新報』に山城正忠「旅塵抄」の連載がある。その16回に「東京も琉球」と題し、東京の石川正通の自宅を訪ねたときのことが書かれている。
 山城です。と名乗りを上げると、矢庭に襖が放いて、見知り越しの奥さんが顔を見せる。 上がれといふので、遠慮無しにあがった。小ざっぱりとした、八畳の間である。(略)額が二面、襖の上にかかっている。ひとつは、英文で斎藤秀三郎先生の毛筆揮毫だとすぐ判った。勿論、私にそれが読める筈もないが、かねて此家の主人から、その事をきいて居たからである。今ひとつは、巻紙に書いた手紙を表装したもので、おしまひの処に、短歌が一首、書かれて有ったやうに覚えて居る。能くこなされた筆づかひで、酒悦な風格を偲ばせる迫力があった。何人の心憎い業であらうかと、態々立上ってみると「晩翠」といふ署名が鮮やかに、私の網膜に映った。それと同時に、これが、その昔、有名な「天地有情」によって、一代の詩名を謳はれた、土井先生の筆蹟だといふ事を知ったので、一しほ、懐かしく仰がれた。(略)こんな閑寂な処にいて、常住心を落ちつけていたら、きっとそのうちには、自然の脈搏が聴かれるだらう。そしたら、思ふ存分に、自分の貧しい想も練られて行くにちがいない。などと、空想してる所へ「ハイサイ。イチメンソウチャガ」と、例の開けっ放しな聲で、斯う云ひ乍らはいって来たのは、紛れもない、あるじの石川正通君であった。正忠は触れていないが庭には空手家の本部サールーが建てた巻藁もあった。 
 1944年、戦時中の英語教育政策により京華高等学校退職。東洋大学講師、本海上火災保険に入社(外国課勤務)、同年1月の月刊『文化沖縄』第五巻第一号に石川正通は「産後銃後」と題して母の思い出を書いている。
 「(略)母は私達の生まれる前から、春風秋雨、夏冬の分ちなく、渡地中島辻と那覇三村の街々を素足で頭の上には重い石油と更に重い一家族の生命を載せてその石油を行商しながら良人と我々3人の兄弟妹を何不自由なく育てて下さったー自分は多くの不自由を忍びつつ。地球上の如何なる名花、如何なる香料の香よりも私は石油の香が好きだ。私は死ぬ時は石油の香を嗅ぎつつ死に度い。母の背中に負われて嗅いだあの石油、幼年時代の全ての思ひ出を秘めているあの石油の香を。那覇の電燈は伝統的に暗い。私の母が石油を売っていた時代の那覇の夜は今の那覇の夜よりも、断然明るかったに違ひない。私は自分の母ながら、母を那覇を明るくした恩人の一人に数へさせて戴き度い。その母の為にも尊い石油を空費する米英の巨頭一味は憎むべき敵だ。親の仇を討つ日本精神の強烈さに於いて私は敢て曾我兄弟に譲らない。米英の戦争挑発さへ無かったらば石油は人類殺戮の為に悪用されず、人類の福祉向上の為に善用されたであらう」。戦後、正通は親しい友人・横内圓次に母を偲んで詠んだ歌「果てし日も 骨さえ分かぬ命かも 母親返えせ 昭和天皇」を披露している。

» Read More