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Category: 01-人物名鑑
Posted by: ryubun02


1935年3月 『海邦』創刊号 島袋源一郎「琉球の美術工藝」
琉球紅型
友禅と加賀染とは、我国服飾界の覇者であったが、十数年来世に紹介された琉球紅型は、一躍此の王座を占むるに至り其絢麗なる美は驚異的感激を以って迎えられました。

抑も紅型は型紙を使用して、之に五彩を施したもので、支那に於いては琉球の貿易品として東洋花布の名を以て呼ばれていました。其染色の技法は、初期の友禅染、加賀染に類似し、支那の染色法にも似て居り、更に文様より言えば和漢両用の中間に在る如く、又南亞及南洋に淵源を発しているといわれている。

由来琉球は日本本土と交通せるは勿論、其の後明清、両朝に朝貢し、朝鮮、南亞及び南洋諸国に遠征して、東洋の貿易権を把握し、此等の文化を吸収咀嚼して独特の琉球文化を発揮し、所謂黄金時代を現出しました。隋って此等の諸国より各種の藝術作品及び其の原料を購入し、又彼地の染色などを輸入していました。室町時代以後は本土と密接なる関係を保ち、慶長以後は、島津氏の勢力治下にあったので、一層本土の影響を受くることになりました。

要するに琉球紅型は支那より輸入した、醒臙脂に配するに朱、藍、紫、緑、黄を以てし、染料としては土産の山藍、クチナシ、ウコン、福木皮等を使用しています。猶ほ紅型以外の染料としては、揚梅皮、紅露、グール、テカチ、シバキ(ヤブ肉桂)等各種の自然物をも利用していました。

伊東博士は琉球藝術は南島の自然を背景として、民族固有の思想と趣味によって之を処理している、琉球紅型は其表現が純真無垢で、悠暢寛濶の気分(大陸的)に充ち其の色彩の明快衎麗にして、雅趣荘重の品位に富んでいるのは其藝術的価値を一層高からしめる所謂であろうといって居られます。

吾等県民が郷土の藝術を認識しない間に、中央では夙に琉球藝術に驚異の眼を睜り、曩に啓明会では千五百点の紅型を蒐集展覧して居り、某美術家は百点以上の逸品を所蔵して来客の鑑賞を乞ひ垂涎せしめているという。遅蒔きながら県民は郷土藝術の保護に努力しなけでばなりません。

吾等は此の誇るべき郷土藝術によって偉大なりし、祖先の功業を讃仰すると共に、萎微した今日の有様を思い以て将来の一大飛躍を期しだいことを念じて止まない次第であります。

琉球陶器

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Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02
麦門冬・末吉安恭旧蔵の『中山世譜』(写本)には麦門冬が家譜などから引用した毛筆の記述がある。妃居仁のところには「尚宣威王之女」、尚維衡には「童名思徳金」とある。

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Category: 01-人物名鑑
Posted by: ryubun02

今回は焼物(シーサー)を出品した照屋重男氏(電話090-1945-3125)


前列中央が照屋重男さん

戦前、那覇で運行 路面電車“幻”の切符・定期券入手2012年7月22日 『琉球新報』
路面電車や軽便鉄道の資料を数多く集めている照屋重男さん=9日、北谷町
 沖縄の貴重な紙資料などを収集している自営業の照屋重男さん(56)=北谷町=は21日までに、戦前の1914年から20年近く県内を走っていた路面電車の切符や定期券などを入手した。県内の鉄軌道に詳しいエッセイストのゆたかはじめさんは路面電車が短い期間しか運行していなかったことに触れ「切符はなかなか見られない。かなり珍しい」と驚き、照屋さんとともに「これまで公表された実物は見たことがない」と話している。
 沖縄の路面電車は14年5月に開業した。同年12月に開業した軽便鉄道よりも7カ月早く県内を走っており、沖縄初の公共交通機関といわれている。当時の路面電車は那覇市首里から坂下、崇元寺、西武門などを経由し、通堂までの約6・9キロを結んでいた。県内にバスが普及したため、33年に運行を休止した。照屋さんが入手したのは路面電車の回数券や定期券、学生用の乗車券、車両が写った絵はがきなど多数に上る。このほかにも軽便鉄道の時刻表や切符も持っている。これらは全て県外の骨董(こっとう)品店やオークションなどで見つけたという。
 小学生のころから切手収集をしていた照屋さんは、20年ほど前から路面電車や鉄道関係の物品を集め始めた。「なかなか見られない珍しいものだ」と感じながら収集を続けるうちに、切符や写真などが多くそろったという。照屋さんは「今後は与那原と泡瀬などを結んでいた軌道馬車の切符や、路面電車の時刻表を探したい」と話している。ゆたかさんは「沖縄戦まで運行した軽便鉄道の存在は広く知られているが、沖縄に路面電車があったことは、運行していた期間が短かったため、あまり知られていない」と説明。路面電車の切符について「これまでコピーを見たことはあるが、本物は初めて見た。とても貴重なものだ」と話した。
(平安太一)


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Category: 04-書の森
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Category: 04-書の森
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Category: 01-人物名鑑
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具志頭得助像/宮城仁四郎像


石川逢篤像/嘉数昇像

「程順則聖人像」 /昭和四十一年春/ 彫刻 後藤光行 金丸家喜 鋳造 堺幸山

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Category: 04-書の森
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H24年11月21日『粟国村教育委員会便り』〒901-3702 粟国村字東580 ℡098-988-2449

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イシンヂチ大ヤー(我が家の本家)
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関連写真

「民家」

「葬具」

琉球政府の博物館に神里金達(ガイヤー)伯父が1968年にタカヤーマ(釣り用おもり)、ウーチバーイ(烏賊針)、ナーマチ(縄巻き)、海フジョウ(煙草入)、クルバシャー(畑砕土具)、ターラ(俵)、ユクティ(槌)2個、タンナーワヤー(蘇鉄実割台)、フタディル(蓋かご)、ムンジャラサバチ(麦わら櫛)を寄贈している。今も沖縄県立博物館・美術館にある。
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マハナの断崖

イキントゥガー/エーガーグスク


ウフェージ/内嶺善徳氏


ハンタおばさん、江、さやか


左から粟国郷友会23代会長・屋宜宗篤氏、新城栄徳


写真前右、2013年5月ー屋宜宗徳先生(粟国郷友会23代会長)、山城勝行氏(粟国郷友会19代会長)、後右、仲里正雄氏、比嘉律子さん、新城栄徳




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Category: 02-関西の沖縄
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天神橋筋商店街(てんじんばしすじしょうてんがい)は、大阪市北区にあるアーケード商店街。 南北2.6キロメートル、600店の日本一長い商店街である。天六(天神橋筋六丁目)の阪急の元ターミナルビルが2010年に解体され、その跡地にマンション「ジオタワー天六」が2013年に竣工するという。□→ブログ「十三のいま昔を歩こうーさよなら天六阪急ビル」

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大阪環状線都島駅手前の風景


1975年ー粟国小学校から大阪の粟国出身者の子弟が学んだ大阪市立豊崎本庄小学校にソテツ植樹




大阪の天六と言えば今でも粟国島出身者が多い。1988年3月4日の『沖縄タイムス』「ヤマトに生きるー関西沖縄人国記(34)『大阪粟国村人会』」□建設業が多い/小さな島の大きな村人会がある。大阪市大淀区の『大阪粟国村人会』ー。粟国島から上阪した人たちの90%が大阪市大淀区に住んでいるという。会長の新垣重雄(62)はこう語る。『自分たちの住んでいる本庄や長柄に大正の初めごろ、最初に上原仁王が上阪したと聞いている』。大淀の「本庄」は大阪駅・梅田にも近い。交通の便利さがある。島チャビを背負った人たちが大阪へ。粟国島出身者は那覇では調理師が多いが、大阪では目立たなかった。島の人たちは、知人を頼りに、また、呼び寄せの方法で紡績、染工場のあった本庄(ほんじょう)地域に集まったようである。現在は土木工事者が多数いる。会長の新垣も新垣組の代表者である。新垣は昭和17年、徴用で佐世保、博多などに行っている。昭和20年、召集で軍隊へ。終戦は戸畑市で迎えた。兄を頼り、九州から大阪に向っている。

活発な組織運営/粟国出身者らは戦後、組織づくりに情熱を燃やしながら、親睦団体をつくっては自然消滅を繰り返してきたという。年配者の苦悩がうかがえる。粟国小学校の60周年を記念し、青年たちが協力、母校にピアノ、書籍、テレビなどを贈っている。この募金活動をきっかけに組織化がすすみ、在阪粟国青年会が結成された(昭和37年)。初代会長に上原芳一(建設業代表者)、副会長・新垣重雄らを選んでいる。同会は数年後に「大阪粟国村人会」へと発展している。初代会長は仲間正直(故人)だった。大阪と粟国村人との結束も強い。総会、敬老会には新城実村長、末吉信輝議会議長らが出席する。粟国村出身の新城彪(38)は昨年大淀区から立候補し、三百六十四票差で次点に泣いた。新城(民社)は村人会の力が強すぎると地元の人から”よそ者に投票するよりは”といわれるのがこたえると語った。4月から大淀区の一部が北区に変更される。新城の父永秀は浦添市に住んでいる。

姉妹校の縁結び/同会副会長の新里利雄(新里組社長)、テニアンからの引き揚げ者。泡瀬に上陸、糸満のサンテン森の下でテント小屋生活をした。敗戦になると「中国、朝鮮の人がいばりましたわ」沖縄の人は最後に送還されたという。1955年、上阪。事業は数回も失敗したが、今は大成功。親の墓は大阪に造るという。同会に青年部ができた。民謡研究所の糸洲広志が部長。勝子夫人は琉舞の師匠である。糸洲は大正区から名護へ帰郷した富村一文に師事。民謡の大御所。普久原朝喜にも師事した。反物を買いに大阪へ行き、定住するようになった。婦人部は新里芳子(58)らがきり回す。積み立てで温泉旅行を楽しんでいる。

豊崎本庄小学校には粟国村の子弟が約15%、毎年入学するという。同校内には粟国島から運んだソテツがある。先人たちならソテツ地獄を思い出すだろう。同校の教頭、PTA会長が粟国村を訪れたことがある。また同校の百周年(1975年)を記念し、粟国小中学校は姉妹校を結んでいる。「二世たちは琉球だろう」といわれ、友達には「九州や」といい、隠して遊んでいたともいわれる。村人会は約二百世帯。未組織世帯を入れると六百世帯になりそうだという。過疎化の進む島を在阪の村関係者は心配する。粟国空港はどうなっているか。島への関心はつきないようである。大阪の県人会連合会の下部組織「大淀沖縄県人会」は粟国出身の友利仁三郎、大城栄三郎、伊佐栄元らが会長を務め活躍してきた。


Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02

フェリーあぐに船上にて、左から平良知二氏、平良昭隆氏、新城栄徳(中村愛撮影)
11月15日、文化の杜、博物館・美術館の職員と同行し粟国島へ行った。久場政彦氏、平良知二氏、中村さん,琉球物流の平良氏と同行し粟国村教育委員会に行き伊良皆賢哲教育長と談。博物館の崎原さんが那覇に帰るというので見送りしながら序に車で村内の古墓や番屋塚、番屋原広場の上空に米軍用機2機が思いやり予算で爆音を轟かし飛んでいた。そういえば学校近くにオスプレイ反対の旗が並んでいた。洞寺公園の鍾乳洞、「むんじゅる節之碑」らを見学した。久場氏には実家(母方、父方)を案内した。

11月16日、番屋塚で日の出写真を撮る。ここは粟国村で一番高い海抜96mの高台にあって昔、番屋遠見台として異国船が近海を通るときに慶良間諸島にタイマツで告げ首里王府に知らせた場所。粟国村指定の史跡となっている。後、西を通りながら観音堂を見て、ヲコノ御嶽、砂浜で遊ぶ。粟国村離島振興総合センターに行くと、大濵さん、千明さん、白保館長が着いていた。9時すぎ「第5回 沖縄県立博物館・美術館移動展ⅰn粟国」のテープカット、白保台一館長、村長代理、平良社長、伊良皆賢哲教育長が参加した。博物館の千春さんが那覇からフェリーで着いた。伊良皆賢哲教育長案内のクルマで粟国港へ白保氏、平良氏と同行。海上は穏やかでアッというまに那覇泊に着いた。




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Category: 02-関西の沖縄
Posted by: ryubun02
大阪鐵工所(Osaka Iron Works)→日立造船
沿革
創業者E.H.ハンター 明治・大正 [編集]1881年(明治14年)4月1日 - イギリス人実業家・E.H.ハンターにより、大阪鐵工所(Osaka Iron Works)として創業。
1900年(明治33年)4月 - 桜島工場が操業開始。
1907年(明治40年) - 日本初の洋式捕鯨船「第二捕鯨丸」を建造。
1908年(明治41年) - 日本初のタンカー「虎丸」を建造。(スタンダード石油向け)
1911年(明治44年)9月 - 因島船渠株式会社を買収し、因島工場とする。
1914年(大正3年)3月 - 株式会社大阪鐵工所に改組。代表者は、E.H.ハンターの子である範多竜太郎。(→ウィキペディア)

明治14年7月 『朝日新聞』広告「沖縄県泡盛酒」
明治15年5月 『朝日新聞』広告「琉球カスリー西平筑登之」
明治17年2月6日 大阪中之島自由亭で尚典新婚帰郷の饗応に岩村通俊、西村捨三ら参加。
明治17年3月 大阪西区立売堀に鹿児島沖縄産糖売捌所設立。
明治17年5月 大阪商船会社、大阪北区冨島町に開業。


知花朝章氏談ー明治19年の事であった。尚家東京御邸では、本県商業及産業の不振を遺憾に思はれて、此際是非商業及産業の発展期せらんものとて本県に汽船会社の設立を計画された。そして大阪鉄工所主人の範多氏と契約の上金75,000で新造汽船一隻を英国に注文された。会社は株式組織にして資本金は75,000その8分は尚家の持株とし、残り2分は一般希望者から募集して愈汽船会社の設立を見るに至った。(→大正6年9月『琉球新報』)

明治20年6月18日『神戸又新日報』「球陽丸、此の程初航海をなしたる同船は1昨日神戸港へ着船」

明治21年4月27日『日出新聞』「琉球人、数名大阪に来りて西区立売堀に南通5丁目に三ヵ所の倉庫を借り入れ琉球物産会社を準備中。」

明治26年6月 寺内某が来沖し那覇の料理屋・東家の協力で沖縄芝居の俳優、囃子方を雇う。7月ー大阪道頓堀角座 8月ー京都祇園座 9月ー名古屋千歳座で興行。 

明治28年4月1日 京都で第四回内国勧業博覧会(~7-31、113万人が入場)沖縄県事務所は上京区新麩屋町仁王門超勝寺内

明治33年4月21日 『琉球新報』社告「職工数名募集」
明治33年4月21日 『琉球新報』社告「職工数名募集ス望ミノモノハ本社事務掛ヘ名刺差出スベシ/但二十二歳以上三十五歳以下ノモノニシテ保証人ヲ要ス/四月二十一日/琉球新報社」
明治33年5月9日 『琉球新報』「大阪鉄工所の職工募集ー本紙にも広告せるか如く長浜真欣及び本社の小那覇朝親の名義を以て大阪鉄工所の職工募集を為せるが右は直接に同鉄工所より依頼を受けたるにあらず広運社長護得久朝惟氏が在阪の折り同鉄工所主より職工募集の依頼を受け更に氏より小那覇長浜の両氏に依託したる次第なりと云ふ募集人員凡そ三十名計の予定にして一旦募集に応じ職工雇契約をなしたる時は大阪迄の運賃並に衣食住其の他小遣い銭等は一切鉄工所より支給する筈にて而して雇契約期限経過し一人前の職工となりたる上は其技量に応じて相当の俸給を与えて更に雇を継続するか或いは之を他の鉄工所又は汽船の機関師等へ昇進するの楷梯にて六七年間も鉄工所に雇いれて一人前の職業を覚えたる以上は自分の生活には毫も差支なきのみならず自分の腕次第にて立派な生活を為し得べしとなり殊に西洋各国に於いては鉄工の需要多ければ鉄工の職業を覚えたる後には望み次第にて西洋各国へ行くも自由にして実に鉄工は今日の世界に於いて前途有望の職業なりと謂ふべし偖て一人前の鉄工となれば凡そ幾許の俸給を与ふるやと云ふに其技量に依り各々差あるべしと雖とも若し其職工に於いて中学校卒業以上の学力を有せる者ならば鉄工所に於いては之を雇ふ日給百圓位も貰ひ得べき良職工を養成し得るの見込みなりと云ふ尤も今回の募集は必ずしも教育ある者に限れるにあらざれば身体強壮にして苟も志望の者は奮って之に応ずべし但し応募の手続き及び詳細の事は小那覇長浜の両氏に就き承合すべきなり」
広告「今般大坂鉄工所より職工募集の依託を受候に付年齢十六歳以上二十二歳以下の男子三十名を募集す希望の方は御申込あるべし但契約の方法等は本人若は父兄の御来談を煩す/首里 長浜真欣/新報社内 小那覇朝親」
明治33年7月21日 『琉球新報』「鉄工所職工志願者の出発ー過日来募集中なりし大坂鉄工所の職工志願者は都合三十三名にして長浜真欣氏これを引き連れ昨日出港の球陽丸便より出発せり」

明治34年7月21日 『琉球新報』「労働社会の不名誉ー昨年広運社長抔の尽力にて大阪鉄工所へ入所したる職工等にて入所間もなく逃げ帰り周施人等に対し不穏の挙動をなす者ありたる趣きは当時の紙上にも記載したるが其後何の消息もなかりし故残留者は真面目に各自受持の業務に従事し居るものと思ひの外逃亡したる十九名の外更に此程五名の逃亡者あり鉄工所よりは周施人に対して損害賠償請求の督促を申し来りたる由なるが其金額は総計六百九十五圓二十八銭にして周施人等の迷惑一方ならずと云ふ最初非常の熱心にて希望し長浜真欣氏が引率されて上阪したるものは三十三名なりしが今は二十四名は逃亡し残留して誠実に勤め居るものは僅々九名に過ぎず逃亡者の滞在日数は短きものは十日間長きものは二百三十九日間にて本県の労働者が此等逃亡者の為めに信用を害したること甚しと云ふ/鉄工所残留職工の書簡ー別項所載の通り大阪鉄工所二十四名の職工の不始末は実に言語同断にて本県の労働者が忍耐力なく規律と信用を重んぜざるを広告したるも同様逃亡者の所業は実に憎むべき事なり これに 引換へ 当銘朝弼、山村三良、渡久山朝常、又吉東茂、花城清彰、山口全保、花城清順、島袋慶紀、譜久村朝祥九名の残留者は猶ほ真面目に勤務し此程周施者の許に左の書簡来りたる由 『(前略)早速御礼申上へき筈の処多忙に取紛れ乍不本意御無音に打過ぎ候段御海恕被下度候残留者九名は無事入職誠に難有奉存候此九名は結約書之通り是非五年間相勤め沖縄人之数多逃亡者等の不真面目までも取返し乍不肖第一県下の名誉を挙くる心得を以て日夜勉強致し居候(中略)残る九名早晩とは相異り工所長甲賀様よりも日々懇々御高諭を蒙り望外の喜びに不堪実に誠の子の如く御教示被下候事御通知申上候云々』此書簡の趣きにては逃亡者共は鉄工所の取扱ひが残酷にてそれに堪へず逃亡したるが如き事情抔は一切これなく全く彼等の怠惰なるより僅かの労働に堪へず同県人の面目までも汚したること明白なり」
Category: 04-書の森
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那覇市中核市移行記念
那覇市歴史博物館・那覇市教育委員会文化財課共同企画展
「那覇の神社・寺院 ~先祖が拝んだ神・仏~」

□平成17年12月『貝寄風』通巻258号
新城栄徳「琉球の風ー(略)私と熊野との関係を述べる。1964年4月、私は集団就職で白雲丸に乗船し那覇港から上京。途中、暴風で船は和歌山の串本に避難したのが熊野との出会いである。熊野そのものの熊楠、その熊楠が書いた文から私は麦門冬・末吉安恭を日比谷図書館で知ることになる。69年2月に南方熊楠記念館を訪ねる。この年の夏、京都の料理屋の慰安旅行で紀伊勝浦で遊び熊野那智大社を参拝。75年10月、満一歳の息子(江)を連れ高野山(金剛峰寺)に遊んだ。1993年9月、新宮市を訪ね、徐福の墓、神倉神社、佐藤春夫記念館は休館だった。熊野速玉大社を参拝。新宮図書館で熊野特集『熊野誌』37号を入手、中瀬喜陽さんは「南方熊楠・母すみの日記」を書かれていた。旧知の元沖縄都ホテル社長で熊野人の桑原守也さんが「私の熊野ショックー古道・熊楠・沖縄」と題し「南西諸島の島々に熊野分社が10社もあるのは潮流による文化の交流によるためであろうが、那智からの渡海上人といわれた日秀上人は琉球王朝の帰依をうけ又、京都三条駅前の法林寺の住職となった袋中上人は、有名な琉球神道記を残している。浄土宗の流布がこの地に熊野信仰を広めたものであろう」と書かれている。桑原さんとは近鉄資料室、袋中上人の墓、京都の古書展などに親子同様に同行したが、今は亡い。

佐藤春夫記念館□佐藤春夫は、明治25年(1892年)、現在の新宮市に生まれました。代表作「殉情詩集」「秋刀魚の歌」はじめ、あらゆるジャンルにわたる著作を遺しています。熊野速玉大社境内にある記念館は、昭和2年(1927年)に西村伊作の弟、大石七分の設計で建てられた佐藤春夫の邸宅を移築したもので、自筆原稿や生活用具等が展示されています。

11/06: 池宮正治

Category: 01-人物名鑑
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写真左、池宮正治氏、新城栄徳
池宮正治(1940年― )は、日本の琉球文学研究者、琉球大学名誉教授。 1964年早稲田大学文学部国文科卒、67年同大学院修士課程修了、琉球大学法文学部助教授、教授、2006年定年退官。 1980年沖縄文化協会賞、96年伊波普猷賞受賞。





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11/06: 垣花秀武

Category: 01-人物名鑑
Posted by: ryubun02

上記の砂川さんが宮古出身の詩人を紹介していたので、『サンデーおきなわ』1971年11月6日に紹介されていた垣花秀武氏を思い出した。氏は沖縄二世であるが、同紙で「私の方法じゃあ、核燃料はできるけど、人類を破滅に導く原水爆は絶対にできない」と言いきる国際的な原子物理学の権威である。また「正直にいって私の意識の中には、沖縄というイメージはなかった。自然科学者の宿命というか、私たちは未来だけを見つめる。生まれや人種なんかどうだっていい。私はそう思っていた。だが一昨年、生まれて初めて沖縄を訪れたとき美しいと思った。空から島をながめて先ず、ギリシャのクレタ島を思い出した。父が師範学校を追われて(学生運動で、ちなみに大浜信泉はラブ・レター事件で退校)以来、半世紀ぶりに垣花の人間が帰ったというのに、だれもが暖かった。」と発言している。氏の略歴は、一高から昭和19年、東大理学部卒。戦時中は仁科博士のもとに理研で湯川秀樹、朝永振一郎らと原子物理学を研究した。戦後は東大助手をへて、量子科学でウィーン大学客員教授、ストックホルム工科大学教授、アメリカのアイオワ大学原子力研究所などに招かれる。

垣花秀武 かきはな-ひでたけ
1920- 昭和-平成時代の核化学者。
大正9年6月8日生まれ。昭和33年東京工業大教授となり,52年から国際原子力機関次長もつとめる。55年名大教授,同大プラズマ研究所長。のち上智大教授。ウランの新濃縮法や海水からのウラン採取法を開発。またキリスト教思想を研究する。日本海水学会会長。東京出身。東京帝大卒。著作に「エネルギー資源」「奇会―新井白石とシドティ」など。(→コトバンク)

2011年4月 ジョージ・W・ブッシュ/伏見威蕃『決断のとき』日本経済新聞出版社
□江主席は慇懃に話を聞いていたが、北朝鮮は自分の問題ではなくアメリカの問題だと告げた。「北朝鮮に影響力を行使するのは、いたって込み入ったことなのですよ」といった。数カ月間、なんの進展もなかったので、べつの方向から説得することにした。2003年1月、北朝鮮に核兵器開発をつづけさせれば、日本ーアジアにおける中国の歴史的な競争相手(ライバル)ーが核兵器を開発するのを止められなくなると、江沢民主席を説いた。「おたがいに核兵器競争が起こらないように協力する立場にありますよ」私はそういった。


2012年1月 「NHKスペシャル」取材班『”核”を求めた日本ー被爆国の知られざる真実』光文社
□垣花秀武氏は戦時中、理化学研究所の仁科芳雄博士のもとで、原爆製造研究(通称「二号研究」)に携わっていたことでも知られ、戦後は核物理学者として、ウランの濃縮法に関する研究などを手がけたほか、(日本人として始めて)IAEA=国際原子力機関の副事務局長(1977~80年)も務めている。垣花氏は、内閣調査室の研究の中で「技術的には可能であるが、(核は)持つべきではない」と主張したという。


2012年10月22日『琉球新報』社説□被爆国として矛盾だー相矛盾する態度を続けていれば、いずれ国際社会から相手にされなくなる。16カ国が国連に提出した核兵器の非合法化を促す声明案に対し、日本政府が署名を拒否したことが分かった。声明案は核兵器の非人道性を強調する内容だ。日本は19年連続で核兵器廃絶決議案を国連に提出している。それなのに、核兵器の非合法化は認められないというのは明らかに矛盾だ。今からでも遅くない。むしろ率先して署名し、非合法化の波を強力に広げる努力をしてほしい。日本政府が署名を拒否したのは、「米国の『核の傘』の下にいるという政策と整合性が取れないから」だという。
(略) 
そもそも米ロ英仏中など、既に核を持つ国々が「自国は持っていてもよいが、新たに別の国が保有し始めるのは許さない」と主張するのは論理的に破綻している。現に核を保有する国がある以上、新たに自らも核を持とうとする国が登場するのは避けがたい。核保有を非合法化しなければ、究極的には核の拡散防止は不可能なはずだ。核廃絶を決議しようというのならなおさらだ。声明に背を向ける米国の姿勢もおかしい。オバマ大統領は「核なき世界」を提唱したのではなかったか。「具体的な措置を取る」という自らの発言にほおかむりを続けるのは無責任すぎる。言うまでもなく米国は最初の核開発国で、実際に兵器として使った唯一の国だ。特別の責任があるはずだが、国際的に高まる核軍縮の機運に同調するどころか、むしろ「抵抗勢力」になっているようにすら見える。一刻も早く今の姿勢を転換し、「核なき世界」の提唱を有言実行してほしい。

Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02
11月5日 リブロリウボウでマーティン・ファクラー(ニューヨーク・タイムズ東京支局長)『「本当のこと」を伝えない日本の新聞』双葉新書を買った。中に「記者クラブを拠点にする日本人の記者は、市長や市職員、多くの住民がまだ暮らしているにもかかわらず、南相馬市から逃げ出してしまった。普段は記者クラブを拠点として役所の情報を独占しているのに、最も肝心なときに取材を放り出してしまったのだ。メディアを使って情報を発信する手段を失った桜井市長は、ユーチューブという新しいメディアを利用することにした。記者やカメラマンの手を借りることなく、自らがニュースの発信者としてチャンネルを開いたのだ。ユーチューブの映像は世界を駆けめぐり、ニューヨーク・タイムズの記者である私が突然アポイントなしで取材に訪れた。新メディアであるユーチューブの映像を追いかける形で、紙の新聞であるニューヨーク・タイムズが桜井市長の声を報じた。さらにウェブ版のニューヨーク・タイムズによって、紙の新聞を手にしない世界中の人々が南相馬市の現状を知った。」

「田中角栄総理を失脚させたFCCJ(The Foringn Correspondents' Club of Japan )-ロッキード事件をめぐる金脈問題が露見し、田中角栄総理が失脚したのは、立花隆氏の調査報道によると認識されていることが多い。それは間違いではないが、もうひとつ、FCCJ」での記者会見が関係している。あの記者会見は、記者クラブメディアの限界が露呈したエポックメイキングな出来事でもあった。(略)日本の記者クラブメディアが突っこめない質問を、外国人記者がぶつけた。それがきっかけとなり、ようやく記者クラブメディアにも火がついて田中角栄を追い込んだー。」「先ほど述べたように、日本の新聞は貧困問題や人種差別といった社会問題を記事に取り上げたがらない。地味なテーマは、読者の耳目を惹きつけにくいという事情もあるのだろう。だがこうした問題にこそ、この国が抱える病巣があると考え、日本の市民団体や弁護士を招き、日本のマスコミが取り上げないテーマについて記者会見の場で存分に語ってもらうこともある。」

「2011年3月11日、日本は東日本大震災と福島第一原発の事故によって『第二の敗戦』を迎えた。1945年8月15日の『第一の敗戦』では、GHQが日本に民主主義を与えた。日本人自身が、自分たちの力で民主主義を獲得したわけではない。日本とは対照的に、韓国や台湾は自分たちの手で民主主義を作り上げた経験がある。軍事政権と戦った歴史がある。自分たちの力で勝ち取った記憶があるから、民主主義の大切さや価値を皮膚感覚でわかっている。アメリカにもフランスにも同様の歴史がある。こうした国では市民社会がいまでも強く、メディアによる権力チェックも厳しい。民主主義が脅かされるような事態が到来すれば、市民もメディアも一丸となって立ち上がる。(略)日本の有権者はどこか受け身だ。国に、お上に任せていれば、平和な世のなかが築かれると人々は信じている。記者クラブメディアが長らく存在していたのは、国民がそれを無意識のうちに認めていたからだとも言える。」

「地方紙のこそ大きなチャンスがあるーこれからの日本では、地方の新聞にこそ大きなチャンスがある。牢固とした組織に閉じこもる朝日新聞や読売新聞、日本経済新聞などの”メガ新聞社”は、残念ながら新聞業界のチャレンジャーになることは難しいだろう。むしろ、地方紙が業界を変え、読者を増やす可能性を秘めている。(略)河北新報や琉球新報はその地方のニュースに重点をおき、東京に拠点を置く東京新聞が政治のニュースに力を入れるといった大胆な棲み分けをしてもいい。ストレートニュースは、共同通信や時事通信のような通信社に任せてしまう。全国紙が手がけない長期にわたる調査記事を地方紙が書き、新しいネットメディアを通じて全国に発信すれば、他の地域に住む新たな読者が生まれるはずだ。」

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Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02

1970年10月 栗原達男『写真報告 オキナワ1961~1970』朝日新聞社(山田實所蔵)


山田實様 勉様   2012、10、25
沖縄へ1961年2月~3月と2ヶ月近い
旅をした写真に、その後朝日の出版写真部で
6年間勤めた後で辞め、1968年から沖縄へ
数回来てまとめました、本土復帰前の
沖縄の「写真報告」です。
自分の本の中で一番いとおしい内容です。
山田さんにお目にかかれたのも1961年2月でした。
           感謝をこめて
                   栗原達男

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