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Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02
9年前のことである。家兄が京都に行った後で、迷子同様になった自分は、当時國光社に居られた恩師田島隋々庵氏の京橋南小田原町の僑居に這入り込むことになった所が、元来閑静な所が好きな自分は、間もなく牛込は喜久井なる誓閑寺に、今の甲辰の校長東恩納氏と同居して自炊することになった。お寺に引越したのは8月の上旬である。日はよくは覚えていないが、恰度同郷の友人を誓閑寺の隣なる大龍寺の墓地に葬ってから2日目の夕暮れであった。お寺は浄土宗で、住職の外に、小学校に通う子供と仙台辺の田舎者だと云う婆さんがいた。その婆さんが住職の梵妻なので、住職より10歳も老けて見えた。自分は三畳の室をあてがわれた。室は南向きで風通しはよかったが、戸端から一間先に、墳墓が並んでいたのには、聊か閉口した。併し後では墳墓と親しむようになった。自分が今日墓畔を逍遥するを一種の快楽とするようになったのは詩人イプセンの感化ばかりでもないのである。10日位たつと当間浮鷗氏が其の親戚の外間氏と共に引越して来て仲間になった。それから間もなく諸見里南香氏が上京された。沖縄時論が解散したので、この10年間は郷里には帰れないといって居られた。南香氏は10日ばかりすると日本新聞の記者となられた。誓閑時は俄かに賑わったのである。

8月中は、学校が休みなので、何れものんきに法螺を吹いて暮らしていた。朝は木魚の音と読経の声に目が覚める。総がかりで朝飯の支度をする。朝飯がすむと銘々で散歩に出かける。散歩から帰って来ると昼飯の用意に取りかかる。昼飯がすむと、下町の方に出かけるものもあれば、華胥の國に遊ぶのもいた。共同生活の快楽は一つ釜から飯を食べるということである。併し社会主義というものが、到底地上で行われるべきでないと思ったのはこの時である。一番戦闘力が強かったのは東恩納氏で、一番戦闘力が弱かったのは外間氏であった。外間氏は列強の略奪に遭って泣き出したこともある。浮鷗氏は此頃からの潔癖家である。東恩納氏は有名な無精者で、自分が座っていた2尺平方の掃除も碌にしなかった位である。南香氏は郷里で奮闘した結果、意気消沈してしまって、何らの特色も発揮しなかった。自分は其時からの酔漢で、5名のうちで酒屋の信用が一番重かった方である。

木魚の音と読経の声は聞きなれると心持のよいものである。浮鷗氏が禅味を帯び始めたのもこの頃からであろう。自分が耶蘇に帰依したのも此頃である。誓閑寺時代は自分に取っては忘れることの出来ない時代である。今から考えて見ると誓閑寺の一隅は沖縄の社会の或る一部の縮図であった。9月になって皆下町の方に引越した。思えば昨今のことのようであるが、足かけた年になる。自分は依然たる呉下の旧阿の蒙である。

毎日紙の発刊当時、自分は社友となって、いかがわしい翻訳物を出して世の物笑となって居る所に、去る15日の朝、當間氏から来て呉れとの手紙を受けて、早速いって見ると記者にするつもりであるが如何かとのことであった。自分は一人で決定が出来ないので、帰ってきて家兄と相談した後で承諾と云う意味の手紙を出した。所が文章一つ書けけない自分がどうして記者などになれる。家兄に聞くと君が平常使用している普通語で、君の思想感情を飾りなく、、偽りなくせんじつめて吐き出せ。形容詞も知らなければ知らないでいい。漢字も知らなければ知らなくてもいい。只だ耳障りにならないように書け、10年も書いたらいくらか物になるとのことである。自分は此教訓に遵って書くつもりである。

新聞を起こして見ようということは誓閑寺時代から先輩諸氏が口ぐせのようにいっていたことであるが、10年後の今日この小理想は漸く実現せられて、自分までが編集室の一椅子を占めるようになった。さアこれから自分は、どういう方面に、どう働いたらよかろう?心配でたまらない。(をはり)

1900年4月8日「東京・沖縄青年会ー平良保一君卒業記念」

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写真/伊江朝助、伊波普猷、伊波普成、當間重慎、渡久地政瑚、東恩納寛文ら後に沖縄の新聞界で活躍する面々が居並ぶ。この写真は沖縄県立図書館の東恩納洋資料にあるもの。この写真の時代背景は伊波普成が1909年3月19日『沖縄毎日新聞』に書いた入社の辞「誓閑寺時代の回顧」でよく分かる。私が最初にこの写真を紹介したのは1994年『沖縄タイムス』粟国恭子「末吉麦門冬」の8月8日。次いで1997年、那覇市文化局資料室の『おもろと沖縄学の父・伊波普猷ー没後50年』に収録した。


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Posted by: ryubun02
1952年11月 『改造』増刊号 改造社(東京都中央区京橋)
この原爆禍□永井潜「人よ、原爆をどうする」/W・オースチン「世界平和と原子力兵器」/菊地正士「準戦態勢下の科学」
□原子文明の曙
玉木英彦「太陽エネルギーと原子力」/杉本朝雄「動力としての原子力ー平和的利用の可能性」/富岡定俊「潜水艦・航空機の進化」/武谷三男「日本原子力研究の方向」
□アインシュタイン「日本人への私の弁明」/シンクレア「この罪業」/R・ムーン「原子力時代の生き方」
□丸木スマ「絵と文・老いたる隠亡」

丸木スマ まるき-スマ
1875-1956 昭和時代後期の日本画家。
明治8年1月2日生まれ。70歳をすぎたころから長男の丸木位里(いり)と俊(とし)の夫妻に絵をならい,昭和24年から各種美術展に出品。女流美術展,院展などに入選し,28年院友となった。昭和31年11月14日死去。81歳。広島県出身。作品に「蝶」「池の友達」など。(→コトバンク)




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最近は「日流同祖論」と言うと伊波普猷が何かと話題になる。1910年5月18日に伊波普猷と会話した河東碧梧桐は「沖縄那覇紀行」で伊波の話を紹介している。□5月18日。半晴。臺灣、朝鮮には目下土着人を如何に馴致すべきかの重大な問題が何人の頭をも重圧しつつある。琉球のように多年親日の歴史ある土地に、さような社会問題があろうとは夢想だもせぬところであった。が、人種上に生ずる一種の敵愾心、表面に現れた痕跡は絶無であるにしても、心の奥底に拭うべからざるある印象の存することは争われぬ。伊波文学士ー沖縄人ーの観察はあるいは一方面であるかも知れぬが、這般の消息について多少聞くべきものがある。曰く琉球が親日に勤めたことは、すでに数百年前のことで、時の為政者は大抵そのために種々の施設をしておる。なかんずく向象賢などは時の名宰相であったのであるが、その親日に尽くしたことも一通りではなかった。下って宜湾朝保の如き、八田知紀の門下生となって三十一文字の道にも心を寄せたという位である。が、琉球人の方を主として見ると、島津氏の臨監は、これを支那の恩恵に比すると余り苛酷であった。支那は琉球から租税を徴したことがない。進貢船を派しても、必ずそれ以上の物と交易して呉れる。のみならず、能く諸生の教導をして、留学生なども懇篤な待遇をした。沖縄人が親日の束縛を受けながらも、暗に支那に欸を通じて、衷心その恩を忘れざるものはこれがためである。殊に廃藩置県の際における内地人の処置は、沖縄人の心あるものをして、新たなる敵愾心を起さしめた。蓋し土着の沖縄人を軽蔑することその極に達したからである。

爾来その敵愾心は学問の上に進展して、沖縄人と雖も習字次第内地と拮抗するに足ることを証拠立てた。今日如何に焦燥れても如何に運動しても一種の不文律は沖縄人に政治上及び実業上の権力は与えられぬ。已むなくさる制裁のない学問に向かって力を伸ばす外はないのである。この気風は殊に今日の青年間に隠約の勢力となっておる。今日小中学または師範学校などの教師ー内地人ーは内地で時代後れになった人が多い。新進気鋭の秀才が、かかる南洋の一孤島に来ぬのは自然の数であるけれども、現在の権力掌握者はまた余りに時勢に取り残され方が甚だしい。そこになると、青年の方が遥かに時代の推移を知っておる。如何に圧制的に新刊の書を読むなと禁じても、生徒は暗に、どういうことが書いてあるかも知らずに、と冷笑しておる始末である。殊に我々は沖縄人だという自覚の上に、このまま単に内地人の模倣に終わるべきであろうかという疑問がある。つまらぬ事のようであるけれども、島津氏に対する祖先伝来の一種の嫌悪心も手伝ふて来る。さらばというてもとより沖縄県庁に対して謀反を計るなどという馬鹿なこともないが、それらの暗々裡の不平は、いつか妙な方向に走らせて、青年に社会主義の書物や、露西亜小説の悲痛な物やなど読むものが多くなった。もしこの気風が段々助長して行けば、あるいは人種上の恐るべき争いとならぬとも限らぬ。要するにこの十年前までは単に旧物破壊、日本模倣の単純な社会であったのが、今日は沖縄人としての自覚が芽を萌して、旧物保存、模倣敗斥の端を啓いたのである。

河東碧梧桐 かわひがし-へきごとう1873-1937 明治-昭和時代前期の俳人。
明治6年2月26日生まれ。高浜虚子とともに正岡子規にまなび,新聞「日本」の俳句欄の選者をひきつぐ。のち新傾向俳句運動をおこし,中塚一碧楼(いっぺきろう)らと「海紅」を創刊,季題と定型にとらわれない自由律俳句にすすむ。大正12年「碧(へき)」,14年「三昧(さんまい)」を創刊。昭和12年2月1日死去。65歳。愛媛県出身。本名は秉五郎(へいごろう)。作品に「碧梧桐句集」,紀行文に「三千里」など。
(→コトバンク)
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井伊文子資料

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『首里城跡』資料

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『中城御殿跡』資料
2012年3月 沖縄県埋蔵文化財センター『中城御殿跡ー県営首里城公園 中城御殿跡発掘調査報告書(3)ー』
□1917年5月20日 尚昌の長女 文子が東京で生誕する
1920年 このころ文子が中城御殿を訪れる
1933年 文子が来訪し新御殿に滞在する
1937年4月 文子が井伊家に嫁ぐ
1959年 井伊文子が中城御殿跡を訪れる

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フランス革命ー王政からギロチン恐怖政治へ
フランス革命とは、極右学者で何かと物議を醸している中川八洋筑波大教授『正統の哲学・異端の思想ー「人権」「平等」「民主」の禍毒』(徳間書店1996)によると、「フランス革命という歴史(歴史上の行動)がなければ、マルクス・レーニン主義を構築する狂った発想も勇気ももちえなかったそのことにおいて、フランス革命とは、この『悪魔の宗教』創造における役割はとてつもなく大きいというより、フランス革命こそその原点であり源流の礎である。」と言い切っている。マリー・アントワネットフアンの私としてはこの意見だけには同調する。

 本城靖久・渡部雄吉『紀行フランス革命200年』(新潮社1989年5月)に「1792年の対オーストリア宣戦布告に始まり1815年のワーテルローの敗北で終る戦争と革命の時代に、200万人のフランス人が生命を失った。1789年当時のフランスの総人口が二千六百万だから、大変な損失である。おかげでそれまで覇権国であったフランスは、イギリスにとって換られてしまった。」「1793年、革命裁判所は93年3月に国民公会によって創設された。93年10月3日、国民公会はマリー‐アントワネット 王妃の裁判の開始を決定した。そして16日の朝4時、外国と共謀して共和国に反逆を企てたとして死刑(ギロチン)の判決が下された。この裁判を指揮したのは冷血漢といわれた検事のフーキエ・タンヴィル。(略)この検事は政変から」5日目に逮捕、大虐殺の責任を問われて死刑の判決。裁判官6人のうち3人と出廷した証人のうちの14人はギロチンにかけられている。そして3人の証人は横死しており、陪審員12人のうち革命を生きのびたのはたったの3人である。」とある。

関連し連想するのがアメリカの南北戦争である。1852年、黒人奴隷の惨状をストウ夫人が『アンクル・トムの小屋』で描いた。聖書に次ぐベストセラーになり南北戦争の発端をつくった。戦争は、お互いにあらゆる国力を投入したことから、南北戦争は世界で最初の総力戦のひとつだった。最終的な動員兵力は北軍が156万人、南軍が90万人[7]に達した。両軍合わせて62万人(北軍36万人、南軍26万人)もの死者を出し、これはアメリカがこれ以降、今日まで体験している戦役史上、最悪の死者数である。(ウィキペディア)

アメリカ兵士の主な戦死者
独立戦争・・・・・・・1万2千人
第一次世界大戦・・11万2千人
第二次世界大戦・・32万2千人
朝鮮戦争・・・・・・・・5万4千人
ヴェトナム戦争・・・・5万8千人

マリー‐アントワネット 【Marie-Antoinette】
[1755~1793]フランス王ルイ16世の妃。マリア=テレジアの四女。浪費癖と無思慮な行動で民衆の反感を買い、フランス革命の際、国外逃亡を企てたが失敗し、革命の敵として処刑された。(→コトバンク)

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1986年7月 多和田真助『門中風土記』沖縄タイムス社□雍姓(目取真家)ー雍姓。同じ門中で首里と泊の二つの系統がある。もともとは泊村の出身だったらしいが、大宗・目取真家の二世が首里の寒水川村に家屋敷を賜った。その三世の時代に至り、分家が泊村に移転、ここで首里と泊村の両系統が誕生した。

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2013年1月22日~27日 那覇市民ギャラリー「比嘉清眞 写真展(年輪ⅤⅢ 生活)」

01/22: 馬姓家譜

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馬姓家譜

1974年11月12日『那覇市史だより』第2号□小橋川秀義「家譜収集余話・・・馬姓家譜について・・・」
1986年7月 多和田真助『門中風土記』沖縄タイムス社□馬姓(小禄殿内)名門と呼ぶにふさわしい家柄ーP.126~130
2001年7月 宮里朝光監修『沖縄門中大事典』那覇出版社(仲程正吉編集)□馬姓(氏)ーP.218~220

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Category: 01-人物名鑑
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沖縄コレクター友の会メンバーと宮里さん(新城栄徳撮影)


宮里朝光の本

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2013年5月18日、南風原レストランで沖縄コレクター友の会例会

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英国人宣教師・医師ベッテルハイムの来琉を記念して居住地跡に建てられた記念碑。
キリスト教の布教のため来日した英国人宣教師・医師ベッテルハイムは、1846年に琉球に訪れ、家族とともに那覇市波の上(なみのうえ)の護国寺(ごこくじ)に滞在していました。滞在期間の8年間、本来の目的である布教活動を含め、英語講師、聖書の琉球語訳「流訳聖書」の発行、泊の仲地紀仁(なかち・きじん)医師にイギリスで発見されたジェンナーの牛痘接種法と西洋医学の伝授に努めました。記念碑は居住地跡である護国寺境内にあります。(→おきなわ物語)

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□新聞週間(15-21日)期間中の18日、戦没新聞人慰霊の集いが那覇市若狭の旭ケ丘公園内に建てられた「戦没新聞人の碑」前で行われた。県内の新聞人ら約20人が出席、碑に花をささげ、平和への誓いを新たにした。 琉球新報社の野里洋取締役が「戦時中、壕の中で新聞を発行し、多くの先輩が犠牲になった。沖縄の記者としてこの事実を心に刻み、住みよい沖縄をつくるために力を入れていきたい」とあいさつ。沖縄タイムスの真久田巧(さとし)中部支社編集部長が戦没新聞人の碑が建立されたいきさつなどを説明した。建立にかかわった共同通信初代那覇支局長の横田球生さんからメッセージが寄せられ、藤塚正道共同通信那覇支局長が「ただ先人たちの霊を慰めるだけでなく、先人たちの前に反戦平和を誓う場所がこの碑ではないか」と読み上げた。集いは県内の新聞社、全国紙の那覇支局長らが呼び掛けた。碑には沖縄戦で亡くなった沖縄新報、同盟通信、毎日新聞、朝日新聞の14人がまつられている。今年は碑建立から40年になる。(『琉球新報』2001年10月19日)

Category: 01-人物名鑑
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真久田正氏(まくた・ただし=詩人・作家、沖縄文化の杜取締役) 17日午前5時ごろ、心不全のため那覇市首里末吉町3の50の1の自宅で死去、63歳。

写真左から大城立裕氏、真久田正氏


写真左が真久田正氏


写真左から2番目が真久田正氏

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とまり会館前
1872年「9月10日午前11時に三使(伊江王子・宜野湾親方・喜屋武親雲上)並びに安田親雲上、浅草内田九一宅へ行き像影を写す。堀江少録同伴」とある。内田は明治天皇の肖像写真で知られている。三使に隋行し上京したのは山里親雲上(長賢)、翁長親雲上、與世田親雲上、上江洲親雲上、伊波親雲上、仲嶺親雲上、安田親雲上、比嘉親雲上、喜舎場筑登之、花城里之子、親泊里之子、真壁里之子、豊村里之子、當真筑登之、仲村渠筑登之、屋嘉比筑登之、松嶋子、仲宗根子、東恩納子、仲山子、東江、宮城、島袋、仲本、備瀬、嶋袋、金城、又吉、新垣、國吉、與那嶺、知念、宮城、仲宗根と記されている。


山里長賢翁頌徳碑の前でーひより


ソテツを持つひより




2013年8月25日


2013年6月9日のひより

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2012年9月、関西沖縄文庫の金城馨氏から「住吉神社北側(那覇港が見渡せる高台)に拝領墓を頂いた山城尓也(ヤマグスク ニヤ)の背景にあるもの」を貰った。河内長野市の子孫・高安繁彦氏が作成した先祖についての考察であった。氏集にも新参狄氏と載っていて、大宗は狄懋芳・高安筑登之高吉とある。子孫によれば、この系図は太平洋戦争で行方不明となったようである。


2013年3月2日午後2時ー沖縄県立博物館・美術館で、右が高安繁彦氏( 090-6550-3643)、新城栄徳

琉球王府を救った若者たち
薩摩の侵略後、薩摩役人(警備担当等大和衆と呼ばれた足軽)が那覇等で徘徊していた。質の悪い役人は琉球王府にとって治安の上で目にあまるものがあり、また経済的にも大きな負担であった。そこで、異国船が先島沖に来たことを理由に彼らを先島に派遣する。しかし、洋上で船もろとも沈没させ、薩摩役人を処分した。いわゆる事故に見せかけた事件である。事故を装うため2名の琉球役人と共に船頭が犠牲になった。

先祖 山城(ヤマグシク)尓也は腕の良い船大工であった。ある日 琉球王府から薩摩役人を船ごと沈めるよう命を受け、先島へ向かう船を操船し出航したが帰らぬ人となった。代償は子孫を士族として取り上げ生活を保障するとともに本人には御拝領墓を与える条件であった。彼の墓の前で太平洋戦争直前まで清明祭が執り行われ、この出来事は子孫の口伝として今日まで語り伝えられている。墓はアメリカ軍によって削りとられ現在は海中に沈められている。


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2012年10月 来間泰男『シリーズ沖縄史を読み解く 2<流求国>と<南島>古代の日本史と沖縄史』日本経済評論社 定価(本体3800円+税)〒101-0051 千代田区神田神保町3-2 ☏03-3230-1661 FAⅩ 03-3265-2993

来間泰男
1941年、那覇市に生まれる。
1965年、宇都宮大学農学部農業経済学科を卒業後3年間、琉球政府農林局に勤めて、同大学院農学研究科(修士課程)に入り、1970年修了。
1970年、国際大学法経学部講師、沖縄復帰の72年に統合・新設の沖縄国際大学商経学部に移籍、74年助教授、82年教授、2010年定年退職。沖縄国際大学名誉教授。
著書
『戦後沖縄の歴史』(共著、日本青年出版社)、『沖縄の農業』(日本経済評論社)、『変貌する遠隔地農業』(共著、日本経済評論社)、『沖縄経済論批判』(日本経済評論社)、『沖縄経済の幻想と現実』(日本経済評論社・伊波普猷賞受賞)、『沖縄県農林水産行政史』第1・第2巻(農林統計協会・九州農業経済学会学術賞受賞)、『稲作の起源・伝来と”海上の道”』(日本経済評論社)など

□2013年1月6日『琉球新報』田名真之「書評ー<流求国>と<南島> 研究者にとっては何とも厄介な読者であり、評者である。自ら『非歴史家』を称する著者が、沖縄史を学び、理解するため、また一般の読者のために上梓したとする本書は、研究者にとっても看過できない書なのである。」
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「みどり印刷」は創設者である石川逢正が昭和31年(1955年)に創設し、首里の地で産声を上げました。 以来、約半世紀に亘って首里の街の印刷会社として、チラシ・名刺・パンフレット・ポスター・自分史・製本などの各種印刷物を取り扱っております。 私共のような「小さき者」には「企業理念」や「資本金」などを並べ立てても仕方がないものと考え、「みどり風通信」のページを定期的に更新して身の回りに起こったことを中心に写真をご紹介したり、所感を述べたりと知人、友人、お客様との出会いの交差点(あじまぁー)のようなホームページになればと思っています。 また、首里の丘からの「定点観測」のような役割を担うことができれば望外の幸せです。
代表 石川 和男
〒903-0823
沖縄県那覇市首里大中町1-36-2
TEL:098-884-3702

「みどり印刷」ここをクリック
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2013年1月 俳句同人誌『天荒』44号 野ざらし延男 〒904-0105 北谷町字吉原726番地の11 電話・FAX098-936-2536


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下は島袋氏が送ってくれた『東京新聞』切抜き

□東京新聞はよく「沖縄問題」を取り上げる。地元紙『琉球新報』8日に「空自が下地島活用ー防衛省は米軍普天間飛行場に配備されている垂直離陸輸送機オスプレイ導入の調査費800万円も要求する。」と報じている。9日の地元紙には「嘉手納にもオスプレイ配備」とある。私自身は自衛隊は国土を災害などから守る為に必要と感じている。現状の自衛隊はかつてのロッキード事件や思いやり予算でも分かるように日米防衛利権が入り混じっている。だから、国土保全のための自衛隊に替える必要がある。


□外国資本の森林買収に危機感が高まる中、水資源保護を目的に土地買収の監視を強める条例を4道県が制定し、9県が検討していることが分かった。尖閣問題で政府はやれ領土を守れとか、言うてる傍ら中国・韓国マネーが東京のマンションやら土地を買いあさっている。最近では東京の銀行まで台湾業者に売っているという。尖閣問題は如何にアメリカ基地の抑止力が無いということに尽きる。だから敗戦国・日本も自前で国を守る気概を持つと同時に「思いやり予算」を直ちに止め、独自に防衛力を強化す必要がある。日米軍需産業の利権漁りには十分に警戒することも肝要である。

□『東京新聞』中日新聞社東京本社発行の一般紙。”首都圏の主読紙”と銘打つ。1884年、「今日新聞」として創刊。都新聞に改題。国民新聞と合併し「東京新聞」となる。1967年、旧・東京新聞社が中日新聞社に経営権を譲渡。


「原爆の図 丸木美術館」



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那覇市
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啄木歌碑の前列左、藤田嗣治画の山城正忠像を手にしているのが國吉眞哲、左に宮里栄輝、その後が末吉安久、右が正忠の息子の山城守一。歌碑の右側前列、真教寺住職の田原惟信。その後が喜納勝代、右へ4人目が真喜志康徳、屋部公子。


初詣で沖縄県仏教会発行「れんげ」第85号をもらった。真教寺の田原大興副住職が「現代社会を末法五濁の世であると断言はできませんが、多少なりとも当てはまる部分はあると思います。近代の人類の活動によって土壌や大気は汚染され、自然環境はバランスを失い、たくさんの生物が絶滅しています。竟には戦争や温暖化、放射能汚染に至って私たち人類が害を受けることになりました。仏教はこのような人類の未来に、遠い昔から警鐘を鳴らし続けていたのです。(略)私たちは、今どんな時代を生きているのかを再確認し、そして一人ひとりが自身(正報)の生き方を見つめながら、自然環境(依報)との関係回復を考えることが大切ではないでしょうか。」と説いている。
釧路市



「港文館」ここをクリック

(撮影・渡部貴子)


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山田真山(本名・渡嘉敷兼慎、童名・真山戸)は 1885年(明治18)、壺屋村(現那覇市壺屋)に生まれました。父は儒学者でしたが、世替わりの時代に一家で八重山に移住し、苦しい生活を送りました。真山は幼少時から手先が器用なことで知られ、その才に着目した大工に引き取られて十代前半に東京に移り住みました。大工仕事を通じてしだいに造形に目覚めた真山は、苦労の末、東京美術学校(現東京芸術大学)に入学し、彫刻と日本画を学びました。山田泰雲、小堀鞆音ら高名な芸術家たちに師事した真山は才能を開花させ、1914年(大正3)に文展に入賞したことを皮切りに数々の絵画・彫刻作品が入選を果たしました。芸術家として地位を築いた真山は、昭和初期には明治神宮聖徳記念絵画館の「琉球藩設置」(首里市奉納)描きました。

本企画展では、山田真山の絵画・彫刻とともに、関連資料を展示し、その足跡と作品世界を紹介します。

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「詳細はこちら」ここをクリック



1926年6月『沖縄及沖縄人』眞帆「山田眞山画伯出世物語」
山田真山表紙絵




2013年1月16日 RBCiラジオ「民謡で今日拝なびら」で上原直彦氏が東恩納の文化部の絵の技官の話で山田真山、金城安太郎らにふれ、沖縄美術家協会から首里のニシムイ美術村、沖展まで話が展開していた。民謡は「梅の香り」を聴いた。→「梅の香り」

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2013年1月19日ー写真左から山田昇作氏、波照間三蔵氏(金城安太郎弟子/全九州水墨画協間会常任理事・審査員)

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近頃は「維新」とか称するアナクロニズムが流行っている。これは手垢がつきすぎた坂本竜馬が象徴となっている。私は1960年8月に那覇の琉映本館で「壮烈新撰組/幕末の動乱」を見て以来の新撰組大好き人間だから「維新」を口にする人間は生理的に合わない。そのころオリオンでは「地底探検」「類猿人ターザン」を上映していた。

東京江戸博物館や京都国立博物館で開かれた「新撰組展」



「壮烈新撰組/幕末の動乱」中央・片岡千恵蔵


東映太秦映画村の片岡千恵蔵コーナー

かたおかちえぞう【片岡千恵蔵】 1904‐83(明治37‐昭和58)
映画俳優。本名植木正義。群馬県生れ。ヒット作の一つに《七つの顔》があるが,遠山の金さん18本,多羅尾伴内11本,宮本武蔵10本,国定忠治9本,浅野内匠頭8本,大石内蔵助6本,机竜之介6本と,当り役の作品本数に明らかなように,まさしく〈七つの顔〉をもつ映画スターであった。それらに共通する個性の特徴は明朗さで,若いころの美剣士ぶりにはユーモアの気配があり,中年以降,豪快さを演ずるときはむろん,一転して虚無的な心情を演じても,どこか明るさを感じさせた。(→コトバンク)

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Category: 01-人物名鑑
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Category: 04-書の森
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ブータン


琉球

01/04: 阿氏門中

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元祖の守忠は、南山王汪応祖の二男で、尚巴志に滅ぼされた他魯毎王の弟。南山城が攻撃されたとき城から脱出して具志頭間切の安里大親に助けられ、のちに大親の嗣子になったことが家譜にある。二世守知(守忠の長男)は首里に上り、偶然に世子尚真の養父を命ぜられる。長女真嘉戸樽は知念間切謝氏知名親雲上成良に嫁した。その女子がのちに尚真王夫人となった華后。三世守庸(守知の二男)。四世守良(守庸の長男)は柳姓元祖・摩文仁掟親雲上康長の父。下の「王位継承」陰謀には南山王統系阿氏一門が関わっているのは間違いない。→「柳姓・真喜志」

2012年の12月発行の『週刊新潮』に岸朝子さんが「私は来年で90歳。祖先のルーツを探ってみたくなりました。大宜味尋常小学校校長で教育者だった私の母方の祖父、親泊朝擢は琉球王国第二尚氏3代尚真王の長男・尚維衡(浦添王子朝満)の後裔にあたります。」と情報を提供してほしいと書いている。与並岳生氏は『新 琉球王統史⑦尚寧王』などに、「おそらく、尚維衡の”追放”が、明らかに誤りであったことが、”陰謀”によって生まれた尚清王系尚永王の死去、そして嗣子がなかったことにより、公然と主張され、この機会にその”復権”をはかり、かつ正統に戻そうと至った」と書いている。続けて「つまり、尚元王の妃(尚永王の母)真和志聞得大君加那志(号・梅岳)は、尚維衡の長男、尚弘業(広徳寺浦添親方ともいった)の娘であり、尚弘業の息子尚懿の妻は尚元王の長女・首里大君加那志(尚永王の姉で、真和志聞得大君加那志の子)で、つまりいとこ同士で結婚したわけであり、その子が尚寧です。」と記す。

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2000年3月 沖縄県教育委員会『沖縄の歴史と文化』
b>大城将保・沖縄県立博物館長「4沖縄戦」
□沖縄戦の特徴
沖縄戦は、勝者のアメリカ軍でさえ「地獄の戦場」と呼んだように、長い激しいみにくい戦闘でした。南北約130キロの細長い沖縄本島にうちこまれた砲弾の数だけでも艦砲弾約60万発、地上砲弾約176万発といわれ、山の形が変わるまでに「鉄の暴風」が3カ月以上も吹き荒れたのです。対抗する日本軍は、九州や台湾から約2400機の特攻機、沖縄諸島の海岸からは数百の特攻艇を出撃させ、また陸上では爆雷」を背負って戦車に体当たりするなど、徹底した肉弾攻撃で時間かせぎの抵抗を続けました。その結果、20数万の人々が悲惨な最後をとげました。日本軍将兵(沖縄県人をのぞく)約7万2,900人、アメリカ軍将兵約1万4,000人が戦死し、軍人や軍属をふくむ沖縄県民の犠牲者数はまだ不明ですが13~14万人にのぼるものと推定されます。正規軍人よりも沖縄住民の犠牲者がはるかに多かったことが沖縄戦の特徴の一つでした。

沖縄住民の犠牲をさらに悲劇的なものにしたのは、日本軍による住民の犠牲が各地で数多く発生したことでした。軍と一体となって戦闘準備に協力したきた40数万の住民は、いざ敵軍が上陸してくると前線に放置されてパニックにおちいりました。日本軍は避難民を保護するどころか、「沖縄人はスパイになるおそれがある」と警戒して「捕虜」になることを禁じ、ついには「集団自決」や「住民殺害」などの惨劇においこんだいきました。

(略)
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01/02: 片山春帆

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昨年の12月18日、国立劇場おきなわの資料展示室で「片山春帆記録画帳」を見た。「片山春帆民俗芸能記録画帳」研究会の片山春帆年譜によると、春帆は1879年頃東京に生まれている。1897年,村上弦斎『日出島曙の巻』に挿絵を描いている。1901年には博文館発行の巌谷小波作品に挿絵を担当するようになった。1939年、アチックミューゼアム発行の「アチックミューゼアム彙報 第39 御鷹匠同心片山家日常襍記抄」に春帆は「はしがき」を書いている。『図説 絵本・挿絵画家事典』(大空社2008・11)には、別号雲汀、呼潮。竹内桂舟、川合玉堂に学び、その画風を究め、中沢弘光に洋画を学ぶ。と記されている。

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「富士山」撮影・山田勉氏□(社)日本写真家協会会員 〒900-0033 沖縄県那覇市久米1-1-14 電話098-868-3841

宜野湾朝保「富士」
大空のものとや空も思ふらん 雲ゐにたてるふじのしば山
ふじのねをふりさけ見れば白雲の 上にも雪は積る也けり
国といふ国の空まで高き名は あらはれわたるふじの芝山