Archives

You are currently viewing archive for May 2013
Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02




写真左から新城栄徳、平良幸春氏
ここをクリック「平良幸春一門作陶展出展作品紹介 春奈」

» Read More

Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02
2013年5月 俳句同人誌『天荒』45号 野ざらし延男 〒904-0105 北谷町字吉原726番地の11 電話・FAX098-936-2536



2013年5月 『非世界』№26(復刊16号)同人会(平敷武焦 沖縄市字古謝1044 電話FAⅩ 098-934-2006



Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02



先日、久方ぶりに麦門冬研究家のA女史と図書館で出会って談話。私が「インターネット時代は麦門冬の時代の到来だ」と言うと、「それで最近は『琉文21』に麦門冬関連が多くなっているんですね」。「そう奈良女子大学人間文化研究科・南方熊楠の学際的研究プロジェクト『南方熊楠に学ぶ』の麦門冬書簡の解説に就いては、ネット上でのエログロ話は●●●が多くなるかも知れない。神坂次郎さんの『南方熊楠の宇宙: 末吉安恭との交流』は大方この手の内容で、女性が関わるべき世界ではない。また、この面白いものは紙の世界でしか出来ないし、ネット上では猥褻露出になる」。



大正7年9月の書簡に、「『御膳本草』(著者は国王の侍医たりし渡嘉敷と申す人)には羊とせるも、山羊のことに候。・・・」/左が麦門冬旧蔵の『御膳本草』(コピー)、右が中城御殿の旧蔵(コピー)

『御膳本草』右は1963年8月発行の當間清弘編、左は前出の麦門冬の旧蔵(コピー)

» Read More

Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02

1973年12月 沖縄の雑誌『青い海』1月号 通巻19号 石垣博孝「やさしさと桃林寺の仁王像」

1975年3月『青い海』41号 石垣博孝「八重山の祭事ーニライカナイの思想を記録する」

2013年9月15日 那覇市民ギャラリー「新生美術展」

石垣博孝氏とその作品「日輪」「人面」

2012年5月26日ー画家・石垣博孝

新生美術展会場でー石垣博孝氏と、その作品

2013年5月21日~26日 那覇市民ギャラリー「新生美術展」


2014年5月21日 那覇市民ギャラリー「新生美術展」石垣博孝氏、新城栄徳


2015年9月5日 那覇市民ギャラリー「新生美術展秋展」石垣博孝氏と、その作品
Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02
Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02
Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02
null
池宮城友子さん、その作品「島の子守歌ー辺野古2008」


高田陽子さん、その作品「よじれ/distortion」「NO SING」


當銘弓佳さん、その作品「再生」「imitation」

null
「沖縄~現代日本画作家展2013~」を観賞する佐藤文彦氏
□さとう ふみひこ(美術家/大学講師)1966年東京生まれ。1973年両親とともに沖縄へ移住、現在に至る。沖縄県立芸術大学絵画専攻卒業(1990年)。東京藝術大学大学院後期博士課程油画専攻修了。大学院時代は「琉球の絵画様式」の研究に打ち込み、『「御後絵」再生の現代的意義』にて博士学位取得(1995年)。鎌倉芳太郎著「沖縄文化の遺宝」と出会い、1945年の沖縄戦で消失した歴代の琉球国王の肖像画「御後絵」10点をモノクロ写真をもとに再現し注目された。琉球・沖縄の文化継承や琉球語の消滅、歴史認識が危惧される今日にあって、再現された琉球国王の「御後絵」に対面する事は多くの発見があるだろう。今展では歴代の国王肖像画と佐藤氏の研究の原点とも言える作品を展示する。
null

» Read More

Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02
みどり風通信に「アーチって何だろう?」が写真と共に載っている。 「みどり印刷」ここをクリック

辞書によれば、[建造物で、弓形に曲がった梁(はり)。半円・尖頭形・馬蹄形などがあり、窓・入り口・門・橋などに用いる。迫持(せりもち)とある。 その昔「琉球へおじゃるなら 草履はいておじゃれ 琉球石原小石原♪」 と薩摩の侍にからかわ れたが、首里城や勝連城、中城城、今帰仁城の立派な石積みを例に出すまでもなく、県内各地に 残る石畳道や石垣、また竹富島のサンゴ焦の石垣、農家の立派なフール(ウヮーフール・豚小屋と トイレを兼用した施設)など、沖縄の建造物は石と切り離す事は出来ない。  古代ローマ時代にすでに完成された石造のアーチの技術がシルクロードを伝って、中国に入り、 中国では主に城郭都市の城門として結実し、それが朝鮮(南大門は馬蹄形アーチ)や琉球にも伝 わった。


いつの頃からか、私は沖縄に多く見られる優美な三心円アーチという天井部が「かまぼこ型」の アーチに興味を持った。文系の私は、アーチ構造の力学的な解説や重力の方向や集中・分散等 の説明は出来ないので、現在も残っている歴史的な建造物、最近造られた新しいアーチ、現在 進行形のアーチと、その形状を収集し写真で載せる事で幼い頃からの「私のアーチへの想い入 れ」の一里塚としてみようと思ったのである。

アーチの基本型 単心円アーチ
沖縄自動車道橋脚部(南風原町大名)規模の大きさにおいても、連続性という点でも、他を 圧倒する県下最大のアーチ橋 [下]若杉保育園園舎(首里大名町)アーチの連続は幾何学的 な美しさがあり、スペイン瓦の屋根とマッチして夢のあるエキゾチックな雰囲気を醸しだしている。

三心円アーチとは?
 大きな1個の円弧を天井部として、2個の小さな同大の円弧が重なって、左右両面の壁と繋がる形状、これが三心円アーチと呼ばれるもので、大きな円弧と2個の小さな円弧の大きさの割合 いによって、2つのタイプに分かれる。[上]をAタイプ[下]をBタイプとしよう。

先ずAタイプ  (注意深く見ないと、単心円に見えてしまう。)
上之橋(ウィーヌハシ) 首里当蔵町と赤平町の境、真嘉比川中流域に架かる現役の石橋。 その200M下流の下之橋(シムヌハシ)も同じく現役の石橋だが、直角に近い湾曲部にある為、 他家の屋敷に侵入しなければ撮影できなかったので載せられなかった。天女橋(テンニョバシ)1502年 龍潭上部(南側)の円鑑池(エンカンチ)の中島にある弁財天堂に架かる。日本百名橋の一つ。


円覚寺左腋門 下川原橋(シチャーラ)沖縄自動車道那覇インターの北、県道との谷間にある。第2尚氏の最高神君、聞得大君(チフィジンウドゥン)の叙任式への斎場御嶽 への道にあり、島尻東方への宿道(国道)上の橋でもある。よく見ると左右の壁は下に狭まり馬 蹄形にも見える。金城ダムの上流部、安里川の上流、弁ヶ嶽のふもとにある。ヒジ川橋 首里城から南苑(識名園)への道にある。金城ダム敷地内、ダムで新しく水路を造った為、現在川床に水は無い。[右]金城ダム(上池水路)2001年竣工。

Bタイプ   数としても多く、典型的な三心円アーチ 
天井のアーチ部がカマボコ型。アンパンマンの友人、食パンマンの頭部に似て、ゆるやかで優 美な曲線である。琉球を代表するフォルムの一つだと思う。なお、ここでは写真掲載出来なかっ たが、県内各地に残るウヮーフールの屋根部分もきれいな三心円アーチである。安谷川御嶽(アダニガーウタキ)石碑などもあり、琉球王府でも格式の高い拝所の一つ、 アーチ上部の宝珠があることがそれを物語っている。前の道は、首里城・久慶門を起点とする 本島中北部への宿道(シュクミチ、国道) 崇元寺石門 三連アーチの安定感!


龍淵橋[リュウエンキョウ] 1502年頃 Aタイプにあった、天女橋のある円鑑池(エンカンチ)からのオーバーフロー(溢れた水)が龍潭へ 流れ込む短い水路。龍潭側から、東から見た龍淵橋、以前は石彫りの欄干があった。余談だが、円鑑池に中島があり、そこに弁財天が祀られている。琵琶湖には竹生島があり、 弁財天がある。東京上野、不忍池にも中島があり、弁財天がある。長野・野尻湖には琵琶島 があり弁財天が祀られている。


» Read More

Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02

Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02

島袋百恵さん、その作品「とぶとぶ むしむし さようなら」「プレゼント」


喜屋武千恵さん、その作品「蘇生」


2013年5月14日~19日 沖縄県立博物館・美術館「沖縄~現代日本画作家展2013~」②

上原ちはるさん、その作品「九份」


平良優季さん、その作品「浮游」「うたたね」


古謝茜さん、その作品「星の声を聴く」

» Read More

Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02
null
○百浦添之欄干之銘に・・・


» Read More

Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02

写真ー大阪天満宮/大阪知事官舎

null
写真ー中之島公園、中之島図書館近く/下ー八尾市

2004年3月、大阪の大丸ミュージアム・心斎橋で「奄美を描いた画家 田中一村」を仲間恵子さんから貰った入場券で見た。前に那覇でも見たことがある。奄美時代の一村は当然ながら奄美ではどこにもある蘇鉄を描いている。もともと天才と謳われた人物だが奄美の自然と出会ってますますその画才を開花させたと云えよう。「不喰芋と蘇鉄」は代表作にもなっている。一村は東京時代にも偶然と云うか「蘇鉄図」「蘇鉄と躑躅」を描いている。
Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02


平山郁夫 ひらやま-いくお
1930-2009 昭和後期-平成時代の日本画家。
昭和5年6月15日生まれ。前田青邨(せいそん)に師事。院展に出品,昭和39年日本美術院同人となる。シルクロードを取材旅行し,仏教東漸などをテーマにした作品を発表。48年東京芸大教授,平成元年学長,13年2度目の学長につく。10年文化勲章。国内外の文化財の保護につくし,16年朝日賞。平成21年12月2日死去。79歳。広島県出身。東京芸大卒。作品に「入涅槃(ねはん)幻想」「雲崗盧遮那仏(るしゃなぶつ)」など。(→コトバンク)

○わが古里・粟国とは全く関わりはないが、川岸に宿泊した玄奘たちは、翌日川を渡り、南へゆくこと四十里にしてついに阿耆尼国(カラシャール)の王城に着いた。阿耆尼とは「境の国」の意とも、「火(サンスクリット語のアグニ)」の意ともいう。すでに地域はまったく胡語の世界であった。阿耆尼の旧名は焉耆である。→2010年4月 前田耕作『玄奘三蔵、シルクロードを行く』岩波新書。インド神話の火神にアグニというのが居られたが、現在ではアグニVと云うミサイルの名前となって嫌われ者となった。そのミサイルは2012年4月19日にインド東部のオリッサ州沿岸にあるWheeler島(英語版) において打上げ試験が実施され成功したとされる。(→ウィキペディア)

以前、薬師寺で平山郁夫画伯作「大唐西域壁画」を見たことがある。その平山画伯は被爆者であるが被爆体験を絵にしたのは被爆から34年後の作「広島生変図」、画面の殆どが真っ赤な炎で占められ左上に憤怒の不動明王が現れている。






1998年1月 平山美知子『道はあとからついてくるー「家計簿」にみる平山画伯家の足跡』主婦と生活社
1998年11月 平山郁夫『絵と心』読売新聞社
○科学技術が進めば効率が上がり生活が向上する。しかし、核エネルギーのように、軍事的に利用すると、破壊力が強大なだけにいまだもって人間には制御が困難なものもある。(略)日本は、今一度、この失いかけた真善美や自然の摂理を再認識して、しっかりとした日本のグローバルな目標を示せば、世界は日本を認め国際信用が高まるだろう。豊かになって、心が貧しくなった我々日本人を、恥ずかしいと反省することからすべては始まるのではないだろうか。

公益財団法人平山郁夫シルクロード美術館
1988年.平山郁夫,鎌倉にシルクロード研究所を創設.1993年4月.平山郁夫,シルクロード研究所を正式設立.1999年7月.平山美知子、八ヶ岳南麓(JR甲斐小泉駅前)に「八ヶ岳シルクロードミュージアム」開館.2003年11月.シルクロード研究所を母胎として、財団法人平山郁夫シルクロード美術館を設立.2004年4月.「八ヶ岳シルクロードミュージアム」を「平山郁夫シルクロード美術館」に改称.7月.JR甲斐小泉駅前に新展示棟完成(現平山郁夫シルクロード美術館本館).2007年.山梨県指定美術館に認定.10月.2006年10月に財務省の認可を受けた指定寄附(「財税第377」号)により、新館増築工事開始.2008年3月12日.所得税法施行令第217条第1項第3号カ及び法人税法施行令第77条第1項第3号カに掲げる特定公益増進法人の認可を受ける.7月12日.新館開館.2010年6月29日.公益財団法人としての認定を受け、法人の名称が「公益財団法人平山郁夫シルクロード美術館」となる。

» Read More

Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02
「沖縄・烽火のネットワーク連絡会」代表・島袋和幸(〒124-0011 葛飾区四ツ木4-18-10 携帯090-4920-6952)氏が全国の烽火跡などを訪ねた折に出会った蘇鉄。●補足


長崎県口之津港<与論館>の蘇鉄


長崎県南島原市口之津町の烽火山の蘇鉄


長崎県・島原城の蘇鉄

» Read More

Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02
自民党の憲法改正草案を総点検する
日時 5月18日(土)14;00~17;00

場所 沖縄大学 3号館101教室 (定員120人)
講師 加藤 裕(沖縄県憲法普及協議会事務局長) 高良鉄美(沖縄県憲法普及協議会会長)

今、憲法改正が大きな政治課題になっています。
安倍政権は、現在の日本国憲法を「改正」することを公約に掲げ、来る7月
の参議院選挙後の国会で、憲法改正発議要件に関する憲法96条の「改正」をめざすと主張しています。
憲法は国の最高法規であり、国の基本法です。それだけに落ち着いて、冷静かつ綿密に検討し、
現在の各法令との整合性など、具体的、総合的、体系的に検討することが求められます。
また、憲法は、グローバル化する国際社会では一国のみの影響にとどまらない外交・防衛など、
国際社会からの反響にも配慮することも必要でしょう。
自民党が2012年4月に公表した「日本国憲法改正草案」は、
第九条の条項改正だけでなく、
主権者たる国民の権利や義務、基本的人権の各規定、
国の仕組みなどを全面的抜本的に「改正」する案ですが、
多くの国民にはその具体的内容について、知らされていません。
そのため、私たちはこの国の主権者として、
現在公表されている自民党案について各条文に沿って具体的に検討してみたいと考えました。
憲法問題は主権者たる国民すべてが参加議論することが求められます。
憲法は抽象的でよくわからないという方のための講座です。
どうぞご参加ください。

主催  沖縄県憲法普及協議会TEL098-853-3281
Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02
null
名瀬港
null
吉原の路地裏
null
十貫瀬
○砂守氏は、1951年奄美から沖縄に来ていた母と、米軍属でエンジニアのフィリピン人を父として浦添で生まれる。やがて父は失職しマニラへ帰郷。砂守氏は奄美から大阪に出てプロボクサー「サベロン砂守」としてデビュ。1975年に大阪写真専門学院を卒業。その経歴ゆえ本書にはボクサー平仲明信の父が写っている。P.80に父の写真がある。

○2011年8月21日の「とよチャンネル」(豊里友行)で本書についてふれている□『漂う島とまる水』は、砂守勝巳の写真集だ。父がある日を境にぷっつりといなくなってしまった。本書はその父を探す旅だ。沖縄、奄美、マニラを辿る彼の写真文体は、砂守勝巳マジックと言いたい。父を探しだして行くイメージの足跡が強力な文脈を持っている。『オキナワン・シャウト』(砂守勝巳)のルポルタージュを写真集にした長い期間があるせいか写真構成が熟成している。土門拳賞受賞後の第一作『オキナワ紀聞』(砂守勝巳)は短編小説みたい。写真関係では不評だったと記憶しているがよく沖縄を取り込んだ取材と撮影は、写真の文体と文脈を開拓した功績にただ頭が下がる。私も自分のストーリーを語るべき写真の文体と文脈を模索している。それには写真という時の果実の点を線に結び付ける明確な意思が必要だ。余談だが砂守勝巳さんの娘さんが、現在、砂守勝巳さんの美術館を作るためにブログやTwitterで活動中なので多くの方がぜひ応援してください!


2013年5月 市民ギャラリーで沖縄の写真家・俳人の豊里友行氏と戸澤裕司 氏


» Read More

Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02
null
○藤原氏は本書で、28歳の頃八重山の島々を2カ月ほど渡り歩いたという。○藤原「外洋を旅している回遊魚がこのくちだな、やつらは一生のうち何十万マイルもの海を泳ぎ続ける。海が荒れれば底にひそみ、疲れれば流れ藻の下で休み、魚の群に当たればおそろしいスピードでその中に突進し、来る日も来る日も泳ぎ続けるんだ。やつらは旅の間にさまざまないい体験をするだろう。旅の途中でまるで楽園みたいなリーフや巨大な龍宮城みたいな隠れ磯のとりこになる。しかし、残念なことによい場所を見つけてもやつらの性格は一カ所にじっとしておれないたちでね。つまり旅するうちにものごとを較べたり計ったりする厄介な能力が身についてしまったんだな。だからその海の向こうにもうちょっとよい場所がないものかとすぐその場を離れてしまうんだ。そうこうしているうちに年月がたちゃあ、歳をとり体も弱ってくる。やつらはそれで、全身傷だらけ疲労困憊して自分の生まれた場所にいそいそともどって行く。そしてそこで死ぬ。」


藤原新也の本

Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02
nullnull
字東の我が家(ニーブーヤー)の周辺、左上がブートゥー大ヤー/粟国島

我が家(ニーブーヤー)の通り
null
ブートゥー大ヤー/私(新城栄徳)は4、5歳の頃、この家によく出入りし主人の安里蒲翁から蓄音機で意味不明な琉球古典音楽を聞かされたり、床の間の中国の「福神」の軸絵を描いている現場に居合わせた。また、祝い事で御馳走の「三枚肉」を腹いっぱい食べたら脂に酔ってしまった。それ以来、三枚肉は脂をのけて食べるようになった。

null
安里蒲1986年2月ー安村勇祥『想い出の記』「父(安里蒲)は、若いころ那覇港のワタンジ前で燃料の薪を商っていた。商売も順調に行き、生活は粟国村では上の部に属していたといえよう。父が那覇で商売をしている関係で、村には長男の善盛兄の家族3名と祖母と私(勇祥)と妹のトシが残っていた。」


1915年6月           「不勉強屋」支那そばを琉球そばと表示(和田那覇暑長が指示)

1920年10月16日-新里有一郎「井筒屋」(琉球そば)開業

null

null

null
1924年3月-伊佐三郎、粟国尋常高等小学校訓導
1927年4月-新城三郎、粟国尋常高等小学校入学/5月ー伊佐三郎、白金小学校(牧口常三郎校長)に新里朝彦の斡旋で同校訓導
1929年4月ー仲里誠順「万人屋」開業
1934年1月ー新城三郎、那覇市辻町(御願の坂)國吉料理店で板場修行。同年の粟国出身の調理士は、四つ竹の新里。みはらしの玉寄松。玉川の仲間、一味亭の新城、仲里、山城、新城。京ヤの又吉。國吉料理店は与那  風月ロの糸洲、仲里、新里。三杉ロの福本。幸楽の安里、新川幸栄。美崎の玉寄米吉、赤嶺、玉寄三郎。花咲の上原保一、新里次郎、上原健夫。木村屋の安里善徳。ならはら館の上原。宝来館の新城。山本は浦崎。川津館の新城。モリタ館の与那城。
業者ー万人ヤの仲里。朝日ヤの神里。三角ヤの吉元。みかさヤの与儀。井筒ヤの新里。一味ヤの新城。福力ヤの神里。公園入口の金城。朝日橋前の新城。松田橋前の新城。安里松竹の糸洲。
1935年8月『関西沖縄興信名鑑』ー東淀川区之部 安里善盛(大戦前に那覇に引き揚げ食堂経営、戦争で一家全滅)、仁祥、善太郎(のち安村書店主)、勇祥(のちレストランアサヒ経営)
1936年10月2日ー沖縄県知事正五位勲四等・蔵重久「粟国村字東9490番地の新城蒲(50)、8月1日午後9時に那覇市北明治橋右海岸に於いて那覇市垣花町1の88平良カメ(31)が溺死せんとするを救助したるは殊勝なりよって金1封を贈りこれを賞す」

1939年4月5日ー安里幸一郎、粟国村字東で生まれる。父・宗幸、母チヨ(イザニサ大ヤー)
                                                                                1986年1月『オキナワグラフ』「現代の名工 安里幸一郎さん」                                                              

2013年1月29日
2012年6月 粟国郷友会『創立50周年 記念植樹・石碑建立』






新城栄徳「ふるさと粟国の温故知新」
1983年、母の兄・玉寄貞夫が仲里秀雄元粟国村長と『粟国民謡集』を出すというので編集協力した。早速、アポなしで玉寄伯父と同行し琉球民謡協会名誉会長の川平朝申氏を訪ね、その場で序文を書いてもらった。民謡集の編集過程で郷友会関係の料理屋、琉球音楽、舞踊研究所などを訪ねた。伯父が郷友会活動に熱心だということが分かった。


1992年、粟国郷友会から『三十周年記念誌』に何か書けと言われたので「歴史の一コマ」を書き、中で1905年に粟国島に来た志賀重斯昴、06年に来た菊池幽芳の紀行文を引用し当時の粟国島にふれた。また1910年代の『琉球新報』が那覇に流入している粟国人を面白おかしく偏見を煽る記事も紹介した。

1920年代、そういった偏見にもめげず、大手の料理屋に粟国人の料理長が増え、井筒屋、三角屋、万人屋など粟国人の経営者も増えた。渡地で安里蒲(ブートゥ大ヤー)が燃料の薪などを商っていた。商売も順調で琉球古典音楽も嗜んで、粟国人としては出世頭である。その薪をヤンバルから運んだ一人に安里蒲の義兄弟の新城蒲(ニーブーヤー)が居た。蒲はヤンバル船船頭で那覇から日用品などを運び、ヤンバルで薪、材木などを那覇に運んでいた。蒲が暴風で奄美に流され不在のとき息子・三郎は1922年に三重城近くで生まれている。程なく新城一家は粟国島に引揚げた。三郎は粟国で小学校を終えると那覇辻町の國吉料理店で板場修行を始めた。34年のことである。同時期に三郎の従兄弟で安里蒲の息子・善太郎、勇祥兄弟は大阪で働いていた。

写真左上から玉寄貞夫、4人目が新城三郎/下左から3人目が安村勇祥、善太郎兄弟




2003年、東京の日外アソシエーツが発行する『沖縄を深く知る事典』に私は「沖縄の雑誌(青い海)に見る『自意識』」、「ヤマト風のスタイルへのなじみ方ー系列化」を書き、後のほうで粟国の先祖のことにふれた。

鉄の暴風と言われた沖縄戦を経て、戦後(今も続いているが)。1950年、沖縄と奄美出身者で調理師会「沖美会」を結成。玉寄博昭、新城三郎、福永平四郎、赤崎一成、又吉太郎らが参加した。この前後に大阪から安村善太郎、勇祥兄弟が引揚げてきて、今の平和通に「安村書店」「レストランアサヒ」を開業した。奄美が日本復帰すると調理師会は「沖縄調理師会」と改称する。調理師会は粟国郷友会の様相を呈していた。

1955年、安里幸一郎が伯父・玉寄松の居る料亭「松乃下」に調理師見習として住込みこんでいる。60年5月、那覇栄町豊福亭で粟国郷友会創立総会が開かれ、会長に安村勇祥が選出された。副会長は与那誠正、玉寄誠一、伊佐伝一の諸氏であった。65年の5代会長に安村善太郎が選出された。

私達のころの粟国島は電気もガスも無い静かな「離島」であった。今はクルマもテレビもあり那覇と変わらない。「離島」性は少しも変わらない。

» Read More

Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02

宮里榮弘ご夫妻と、戸澤裕司氏(戸澤氏が撮影したご夫妻の写真をバックに)、仲里正雄氏

沖縄県那覇市若狭3-44-13 ストロベリーファーム1F http://miyazatoeikou.com 宮里榮弘「天芸団」団長
民謡、舞踊、空手、古武術、エイサー、寸劇、武術太鼓、大獅子、龍の舞
沖縄県空手道連盟公認
琉球古武道「榮龍会」宗家会長
玉城流糸和会
(会主)稲嶺盛秀、稲嶺末子琉舞道場「教師」
1989年製作 映画『ウンタマギルー』出演
(沖縄県西原町に伝わる民話運玉義留をベースに日本復帰直前の沖縄を描いた作品)に小林薫さんらと共にキジムナー役として出演いたしました。

宮里榮弘芸能館は2010年から那覇市若狭に移りました。 宮里榮弘芸能館では、空手・古武術の演舞、大獅子の舞をご覧いただけます。
沖縄民謡・琉球舞踊はもちろん、空手・古武術の演舞や寸劇、武術太鼓、大獅子の舞までありとあらゆる琉球芸能を極めた琉球エンターテイナー・宮里榮弘ならではのステージを堪能していただけます


Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02
○山田弘「学童疎開引率日記抄」○1993年6月 那覇市文化振興課『那覇学童疎開体験座談会』/1991年6月『沖縄県学童疎開者名簿ー宮崎県学事関係諸令達通牒ー』
1944年8月15日 学童疎開で、早朝5時20分抜描。那覇港出港
     8月16日  早朝2時ごろ、敵潜水艦が爆雷投下。迅鯨艦内緊張する。じぐざぐコースをとり午後1時55分に鹿児島に入港。一行131名、鶴鳴館に落ち着く。疎開先を宮崎に決定。
     8月18日  城間喜春・仲地清・石川芳子、引率の第二陣140名余到着。
     8月19日  先発隊のみ午後前に宮崎駅着。泊校とともに武徳殿が宿舎。
     8月21日  第二陣の本隊、2回に分かれ宮崎駅に到着。先着の城間・石川先生の班は宮崎神宮近くの江陽女学校、仲地班は     宮崎県庁近くの女子実践商業学校が宿舎。

     
写真ー全員対馬丸に乗り込んだ学童たち。後列左から4人目 山里昌男14歳(翁長良明所蔵)
 対馬丸は、日本郵船のT型貨物船の一隻で、総トン数6,754トンの貨物船。日本郵船所有船としては初代にあたる。 太平洋戦争中の1944年8月22日、政府命令による学童疎開輸送中にアメリカ海軍の潜水艦の攻撃を受け沈没し、犠牲者数1,476名を出した。 ウィキペディア

     8月27日  宮崎市内の理髪業組合が児童の散髪奉仕。対馬丸遭難の情報が入る。
     9月8日   各校先発隊は本隊へ合体。武徳殿の児童は江陽寮舎に移動。児童数107名の大所帯。夕7時より第二宮崎国民     学校の児童による慰問学芸会。
     9月11日  対馬丸で遭難した桃原信子が来る。
     9月12日  第二宮崎国民学校の児童として初登校。引率3名も同校職員身分。
     9月24日  青島の「こどもの国」へ遠足。
     
     10月16日 宮崎県庁で那覇市灰燼に帰すと聞かされびっくり仰天する。

1945年5月12日  団体下校中、機銃掃射を受けるが全児童無事。宮崎師範に爆弾命中、大道校疎開児童1名即死、5名負傷の惨事。/以後、空襲が激しくなる。
     6月25日  空襲の被害を避けるために郊外の新宿舎に移動する。報道で沖縄作戦終了の悲報を聞く。
     8月3日   暴風雨。空襲の心配なくかえって天佑と喜び。翌日、小林町西小林に移動し、ほぼ一カ年の宮崎市生活を終える。

○社会福祉法人 宮崎県大島振興協会 TEL 0985(25)3668〕
宮崎漆器は琉球漆器の流れをくんでいます。太平洋戦争の末期、沖縄から宮崎に移住してきた琉球漆器の技術者によって漆器作が始まりました。汁椀は、ミズメサクラをくり抜いたもので、底の部分を和紙などで補強し、下地塗りと研磨を何度も繰り返した後、漆で上塗りして仕上げています。

○『宮崎日日新聞』2012年5月14日
宮崎市波島地区は太平洋戦争中や戦後、疎開などで沖縄県から約300世帯が移住し、“リトルオキナワ”が形成された。民家の軒先には魔よけのシーサーや石敢当が飾られ、商店にはサーターアンダーギーが並ぶ。終戦から67年、沖縄文化の息づく同地区でも戦争を経験していない人が多くを占めるようになり、移住者の3世代目はすでに成人を迎えた。「波島でも沖縄の方言が通じなくなったね。聞くことはできても、話せる若者はほとんどいない」。同市波島1丁目の会社経営崎原秀和さん(63)は移住第2世代。「沖縄への関心には(自分と)同世代でも温度差がある。3世代目となるとなおさら」と、時間の経過とともに、第2世代以降に生じた意識格差も強く感じている。宮崎沖縄県人会(大城規由会長)によると、同会会員は10年ほど前には約200世帯だったが、現在は半減したという。第3世代になると多くが県外に出ていく状況で、大城会長(68)は「時代の流れなので仕方がない」と寂しげに話す。


» Read More

Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02
null
2004年11月 仲里正雄(携帯090-9781-0089)『御孵化果報』(戸澤裕司写真「粟国島ハンガーを背景に仲里チヨさん」)母の人生から看た粟国史
2004年11月/仲里正雄『御孵化果報ー風車祝を迎えた阿母に感謝して』まさお塾出版(〒900-0022那覇市樋川2-2-39 ☎仲里正雄090-9781-0089)「第1章ー故郷粟国(蘇鉄の実の収穫)/粟国の1年の生活誌/
母(仲里チヨ)の介護日記/索引」


粟国風土記 島の景観ー(略)島の南西、真塙(尖って岩肌がゴツゴツした小高い痩せ地)はイギリスの「ドーバーの白い崖」が切り立ったような嶮岨な断崖絶壁である。凝灰岩の露出や整合面が見られ、壮大な全景が開けている。このような島の誕生は、推し量ることのできない秘められた、激しい火山活動の産物でもある。

null
ウィリアム・ダイス「イギリス、ケント(Kent, England)沿岸で、画家自身は遠方に立ち崖の先端を見上げ、その家族はペグウエル湾(Pegwell Bay)の浅瀬で貝を掘っている」

» Read More

Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02
null

05/04: 沖縄戦

Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02
68年前の今日は沖縄戦の最中

1990年6月 浜松昭『沖縄戦こぼれ話』月刊沖縄社○歴史に『もしも』は禁句ですが、沖縄戦の始まる前年の昭和19年11月に、二個師団に匹敵する第三二軍の最精鋭だった第九師団(武部隊)が台湾に移動しなけば、沖縄戦の様相はずいぶん変わったものになっていただろう、とはよくいわれる話です。虎の子の師団を引き抜かれた第三二軍は、海岸地帯での決戦方針から、米軍を内陸に引きずり込んでの持久戦に作戦を変更したからです。第三二軍司令部が南部に撤退せず首里で全滅していたら、住民にあれほどの犠牲を強いずにすんだはずだ、という反省から考えると、武部隊がもし沖縄戦に参加していたら、戦闘は一カ月は延び、県民はもっと悲惨な結果に遭遇していただろうと、今では考えられるようになりました。○朝鮮から徴用されて来た女性たちの『花代』ー十・十空襲の前、三二軍は各部隊に慰安所をつくる手配をした。そこに連れられて来たのは、当時『朝鮮ピー』と呼ばれた独身の60名であった。佐久田繁ー沖縄戦の写真、あなたでも買えます/琉球文化社の大城精徳君によると、『金さえ出せば、ペンタゴンでは誰でも買えるんだ』というのである。そして大城君が注文した写真が二か月後に、ペンタゴンから郵送されてきた。その写真をもとに私は、1977年8月『日本最後の戦い・沖縄戦記録写真集』を出版、沖縄三越で写真展もやった。

1995年6月 金城重明『「集団自決」を心に刻んで』高文研○沖縄戦の悲劇の象徴というべき「集団自決」は、明治以来の国家がほどこした皇民化教育を抜きにしたは、その真相を把握することはできません。
金城重明(きんじょう・しげあき) 1929年、沖縄県渡嘉敷島に生まれる。55年、青山学院大学文学部キリスト教学科卒業。60年、ユニオン神学大学(ニューヨーク)修士課程卒業(M.DIV.)。日本キリスト教団糸満教会(1955~58)並びに同首里教会牧師(1960~75)。沖縄キリスト教短期大学創設(1957)以来、94年3月定年まで、講師・教授として教鞭をとる。キリスト教学を担当。その間に理事・副理事長・宗教部長・学長1期(1975~79)を務める。 《論文》「パウル・ティリッヒの存在論的神学の方法論に関する研究」1984『沖縄キリスト教短期大学紀要』第13号、「沖縄キリスト教短期大学の草創期の歴史と建学の精神」1988『沖縄キリスト教短期大学紀要』第17号、「沖縄戦の本質と課題としての平和」1991北星学園大学宗教部編『現代に生きる信仰』山本書店

Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02
2013年4月30日~5月5日 那覇市民ギャラリー「戸澤裕司写真展ーカジマヤー(風車祝い)~島人をめぐる断章~」
□この写真展は2012年10月5日~18日まで新宿エプソンイメージングギャラリーーepSITEでの展覧会、11月3,4日の聖路加看護大学の学園祭でのミニ写真展「カジマヤー(風車祝い)~ある親子の命の物語~」と継続巡回展の第3会場です。沖縄では、数えで九十七歳を子供に生まれ変わる歳として風車を飾って祝う。

鉄の暴風が荒れ狂った沖縄戦。辛酸をなめた戦後の極貧の離島苦から那覇に移り、
老いるまで清貧を貫き必死に生き抜いたある親子の晴れ晴れしい『カジマヤー』祝い。
そして40年ぶりの故郷粟国島へ、母と連れ立っての凱旋。
だが数年後、百歳誕生祝直前の母の死。
離島特例、島懐に守られた土葬での別れ。
カジマヤーから十年、奇しくも東日本大震災の年の暮れ、再び棺を開けて執り行われた『洗骨式』。
島の風土、親子の生き様や死までを見つめ、人や情とは何かを考える機会になればと、
写真家がまとめた十数年間の人間ドキュメント!

null
2013年5月4日

写真家 戸澤裕司 氏
1964年12月、石川県小松市生まれ。東京綜合写真専門学校芸術学部第一学科卒業。「朝日ジャーナル」、「週刊朝日」のグラビア専属カメラマンを経てフリーランスカメラマンとして活躍。90年半ばから作家藤原新也①氏助手。人物のドキュメント、ポートレイト、作家との紀行写真などを雑誌で発表。沖縄の竹富島に十数年通い、島の写真など多数発表。主な著書に「旅する作家五木寛之2001~2006」「海上晩餐会 魅惑の料理クルーズ 山岸一茂」「下川裕治編『アジア大バザール』」、『AERA』(朝日新聞社)の現代の肖像シリーズ、ドキュメント、ルポ、CDのジャケットなど幅広い媒体で写真作品を発表している。現在は、則子夫人が編集している、世界へ発信!日本の魅力再発見!地域活性マガジン『ADVENTURE JAPAN』や、『Asahi Shimbun GLOBE』の写真を担当している。

①藤原 新也(ふじわら しんや、1944年3月4日 - )は、日本の作家・写真家である。
福岡県門司市(現:北九州市門司区)の門司港地区生まれ。生家は旅館を営んでいた。東京藝術大学美術学部絵画科油画専攻中退。インド、東京、アメリカなどを対象に、写真とエッセイを組み合わせた作品を発表。1972年の処女作『印度放浪』は青年のインド放浪記として、当時の青年層に大きな影響を与えた。1977年、『逍遙游記』で第3回木村伊兵衛写真賞。1981年に発表した『全東洋街道』で第23回毎日芸術賞を受賞した。1983年に発表した『東京漂流』は、大宅壮一ノンフィクション賞及び日本ノンフィクション賞に推挙されたが、本人の意思により辞退となった。(→ウィキペディア)


愛用のカメラと『AJ~ADVENTURE JAPAN』(田畑 則子①編集)

①田畑 則子  Noriko Tabata
ライター
1971(昭和46)年 埼玉県生まれ。短大児童教育学科卒。
カード会社に勤務の後、ワーキングホリデイにてオーストラリアに1年間滞在。現地ツアーデスク、日本語教師などを経験。帰国後、出版社勤務などを経て、1995年、フリーライターとして独立。著書に『起業本能~夢を生み出す女性たち~』 (サンマーク出版)共著に、『笑うアジア』 『女ひとり旅読本 (シリーズ第一弾)』 『HAPPY HAWAII (シリーズ第一弾)』 (共に双葉社)、『ワーキングママのための時間管理術』 (阪急コミュニケーションズ)など。
日本の魅力再発見! をキャッチフレーズに『AJ~ADVENTURE JAPAN~』(株式会社Adventure JAPAN発行)、英語、中国語、タイ語、仏語の五ヶ国語(日本語含)で配信する同名のサイトを運営。
著書

『起業本能~夢を生み出す女性たち~』 (サンマーク出版)
『笑うアジア』  (双葉社)
『女ひとり旅読本』 (双葉社)
『HAPPY HAWAII』 (双葉社)
『ワーキングママのための時間管理術』  (阪急コミュニケーションズ)

null
2013年5月3日 ポールさん夫妻

○上記の展覧会は継続巡回展の第3会場で、第4会場は2013年6月いっぱい宮崎市広島1-6-11-1 ギャラリー「ArtSpace色空」

» Read More

Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02
連休中スタジオジブリ・レイアウト展は連日入場制限

2013年5月6日


2013年5月5日




2013年5月4日


2013年5月3日

» Read More

05/02: 内暈

Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02
太陽や月に薄雲がかかると大きな光の輪が現れることがあります。これは暈(かさ)、内暈(うちかさ、ないうん)という現象で、太陽の場合は日暈(ひがさ、にちうん)、月の場合は月暈(つきがさ、げつうん)などとも呼ばれます。

null
パレットくもじ2階で12時、佐和子さん撮影
Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02
5月1日


宮城護氏と戸澤裕司氏


大塚勝久氏と戸澤裕司氏

大塚勝久
1941年大阪市に生まれる(本籍 兵庫県伊丹市)。那覇市在住。1964年に関西大学新聞学科卒業、大阪トヨタ自動車本社、宣伝広報課に配属される。同社に勤務しつつ、1967~1968年には日本写真専門学校(夜間)に入学。 写真撮影技術をさらに磨く。同社16年の在籍中は、カメラマン兼宣伝広報マン。おもにPR紙の編集に携わり、全国各地を「ドライブ旅行取材」で巡る。 1972年に沖縄本島の自然や風俗を撮りはじめ、翌年から、盆、正月、有給休暇を利用して竹富島など八重山の島々に通う。1980年にフリー写真家として独立し写真事務所を設立。自然・風俗・祭祀・旅など八重山諸島を中心に沖縄50島の取材活動を続けている。1989年には大阪から那覇市首里に移住し、沖縄専門の「オリジナルフォトライブラリー」設立。現在、取材35年分のストックフイルム&デジタルフォトをそろえている。

» Read More