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08/30: 山田有勝

Category: 01-人物名鑑
Posted by: ryubun02


山田有勝は同人誌『カルト・ブランシュ』を1938年に創刊した。稲垣足穂はその第14号に「あべこべになった世界に就いて」を書いた。足穂に原稿を依頼したのが編集発行人の山田有勝である。有勝は詩集『残照』で「我が家の明治大正期の古い本は既に色あせ 古い辞書の皮革はボロボロとなる/岩本修蔵さんのロイドメガネ イナガキタルホさんの鼻メガネ」と足穂が出てくる。また過ぎた日と題し「六十三年前の思い出 阪神電車の鳴尾駅を降りて 右へつきあたり 左へ折れて 一町先の左側 白壁の四軒長屋 その端のガチョウが二羽いた家」が写真家の山田實さんの出生地である。


1955年7月22日『琉球新報』山田有勝「桑江良行先生を追悼」

1962年4月、PL内部向け機関誌『芸術生活』が総合芸術雑誌として創刊された。私の手元に残っているものは1971年4月号で特集<エロスの妖光/コレクター>、古沢岩美の画、稲垣足穂「菫色のANUS」、横尾忠則「イラストレーター休業日記」「ダリが描いたピカソの肖像画」、映画沖縄列島の東陽一監督などが載っている。→1973年1月『芸術生活』は特集<ファンタジー・マップ>、目次絵は藤本蒼、土方巽の暗黒舞踊が紹介されている。1974年8月号は特集<さしえの黄金時代>。

写真家の山田實さんの長兄・山田有勝は東京丸ビルのバトラー歯科院の歯科医であった。また詩人でもあった。『紙碑』(紙碑之会)に発表した名古屋の星たちと題する詩には「小谷剛さんは診療所を開業しながら/作家活動を続けていた/そして 文芸誌『作家』を編輯発行し/多くの作家詩人を育てた/晩年の稲垣足穂さんの作品も数多く掲載された/晩年のタルホさんは/夫人や折目博子さん/萩原幸子さんに見守られて/酒を飲み 創作に専念し/安らかに昇天した/そして 小谷剛さんも/今は この世にいない/亀山巌さんは/名古屋の新聞社の社長をしながら/独自の詩の世界を展開し/楽しい名古屋豆本を出版したー」と書かれている。


1982年2月 山田有勝『詩集カオス』□山田實「ある日のこと真栄田義見先生に『山田君、東京のアリカツから難しい詩集が贈られてきたよ』と笑っておられた。」
1986年3月 『薔薇園傳説ーカルト・ブランシュ コント集』デカドクラブ(山田有勝)刊

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□山田さんは西脇順三郎を師と仰ぎ、稲垣足穂らと「同じ釜(かま)のメシを喰った」詩人でもある。数年前に作った詩は「水原茂さん去り 三原脩さん逝く」で始まっている。二人の名監督も山田さんの患者であった。
山田實氏の兄・山田有勝(歯医者)



バトラー歯科医院の前ー山田有勝氏

1988年3月『丸の内』松山茂「双葉山そっくりの偉丈夫 ドクトル・バトラー 丸ビル異色の社交場・バトラー歯科医院」


写真ーエル・イー・バトラー


□エル・イー・バトラー(1888~1972)
アイオイ州ロルクの農場主の次男。ノースウェスタン大学の医学部を出て大正4年に来日。たまたま大学時代の恩師ウォルフ教授が横浜とバンコクで診療所を開いており、その教授の奨めで日本行を決意した。来日して先ず横浜の診療所を手伝い、ついでバンコクに渡って開業。大正7年には再び横浜に戻って山下町でバトラー医院を開いた。秘書募集で応募してきた松本ユキとの出会いで日本永住を決意。丸ビル建設の担当だったフラー建築会社のアメリカ人技師モーガンが昔からの友人だったことから丸ビルに進出した。



昭和11年5月、シャリアビンがバトラー医院を訪ねてバトラー院長が抜歯。山田有勝氏も立ち会った。山田さんは昭和10年の就職だから2年目の新米医師だった。


フョードル・イワノヴィッチ・シャリャピン(ロシア語読み)またはフョードル・イワノヴィッチ・シャリアピン(英語読み)(ロシア語: Фёдор Ива́нович Шаля́пин、ラテン文字転写例: Fyodor Ivanovich Chaliapin、1873年2月13日(当時ロシアで使用されていたユリウス暦では2月1日)- 1938年4月12日)は、20世紀前半に活躍したロシア出身のオペラ歌手である(声域はバス)。力に満ち溢れ、柔らかな美声とともに、舞台人としての精神、心理的描写に卓越した表現法で「歌う俳優」とも呼ばれた。シャリャピンは、オペラの歴史において偉大な名手のひとりと目され、オペラにおける自然な演技の伝統的様式を洗練させたと見做される。(ウィキペディア)

当時歯痛(入れ歯の不具合という説もあり)に悩まされていたシャリアピンの、柔らかいステーキが食べたいという欲求に応えて、帝国ホテル「ニューグリル」の料理長であった筒井福夫により考案された。肉を柔らかくするためによく叩いて薄くした牛肉をタマネギのみじん切り(磨り下ろすと細胞壁が破壊され苦味が出る為)に漬け込む料理法が特徴である。タマネギに含まれるタンパク質分解酵素の作用で肉が柔らかくなるとされている。筒井福夫はすき焼きからタマネギを使用する調理法の発想を得たという説もある。(ウィキペディア)


1997年10月7日『沖縄タイムス』星雅彦「詩人・山田有勝の足跡」

2013年9月24日 十貫瀬橋近くでー詩人・星雅彦氏

1997年10月14日『沖縄タイムス』牧港篤三「山田有勝さんのこと」



昭和4年10月9日ー左前から仲尾次政補、山田實、仲尾次、山田有登。右後から山田いく、豊、貞子。

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Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02

3月5日の新聞に「七高教授の日野光次さんは琉球鼠の悪臭は異性を呼ぶ為」記事を見て麥門冬は「ビーチャー」を書いた。
○琉球鼠と呼ぶなら下に必ずビーチャーと添名しなければならぬ。琉球にはビーチャーの外に普通の鼠もいるからである。単に琉球鼠と云ったのでは琉球にはこの悪臭を発する眼の小さい鼠しかいないようで変だ。どこまでも琉球は違っていると人に思わすのも面白くないからである。


ビーチャー

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Posted by: ryubun02

1982-10  鎌倉芳太郎『沖縄文化の遺宝』岩波書店(新城栄徳所蔵/鎌倉さんの署名入り)   
             

○1990年5月『新生美術』8/9合併号に私(新城栄徳)は「琉球美術史家たち」を書いた□鎌倉芳太郎の琉球美術史研究については、ことさら紹介するまでもないが、その研究は啓明会から『琉球芸術大観』の発刊計画、戦後は琉球大学から『琉球芸術論』の発刊の話があったが、いずれも流れ、1982年、外間守善らの協力もあって『沖縄文化の遺宝』として結実された。鎌倉芳太郎は1975年、八重山に遊び、麦門冬の長女である石垣氏庭園の石垣初枝さんに会った。翌年元旦に麦門冬を偲び歌を書いて初枝さんに贈っている。「天さかる/南の海に/寄る波や/星形の砂/初日晃りつつ」。


鎌倉芳太郎資料の整理研究を展開している沖縄県立芸術大学附属研究所の紀要『沖縄芸術の科学』
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2009年5月、沖縄タイムス社発行の『豊潤の美を求めてー金城安太郎と高畠華宵』に私は「安太郎挿絵が誕生するまで」を書いた。□1900年前後に琉歌会に参加し琉歌を残した人物に小那覇朝親(琉球新報社)、渡久地政勗(琉球新報社)、小橋川朝真(小橋川南村の義父)、恩河朝朝祐、山田有度(写真家・山田實の祖父)。1910年頃は、長嶺宗恭(華國、絵師)、末吉安由(末吉麦門冬・末吉詩華の父)、①名護朝直(末吉麦門冬の妻の父)、山里永昌(山里永吉の父)らがいた。

□ここでは末吉安由の琉歌を列記する。
「こころから姿朝清めしちゆて我か君の御公亊てわないさたら」(1908年6月西森琉歌會)
「匂や来る春のおもかけのたちゆさ雪にましりても梅の花の」」(1909年1月西林琉歌會)
「冬こもりしちゆる深山鶯もわか肝のことに春よまちゆら」(1909年1月西林琉歌會)
「雪かかる山も覚らすに越ちやさはなのおもかけや先にたてて」」(1909年4月二六琉歌會)

赤印が末吉家と、周辺の民俗地図


①向氏名護家家譜
尚質王第3王子、母 美里按司加那志(羽地王子朝泰の娘)・1世  朝光、尚弘仁、妻 新里按司加那志(摩文仁王子朝信の娘)ー2世 朝有 尚承勲ー3世 朝栄 向世恩ー3男は粟国親族の祖ー4世 朝義 向伯忠 妻馬氏仲里良直の娘ー5世 次男・朝長 向允猷(兄朝永は北谷王子の養子)妻・玉川按司朝計の娘ー6世 朝寛 向克明、妻・眞松金(識名親方朝超の娘)ー7世 朝郁 向良輔ー8世 朝紀(6世朝寛次男)ー9世 朝英 向國棟ー10世 名護王子朝睦(尚灝王王子) ー11世 朝挙 向國柱ー12世 朝忠 向文治

6世 朝寛 ー向克明4男 朝教次男朝功ー次男・朝直 向文煥(1860年正月1日~)ー長女・眞松 末吉安恭に嫁す 次女・眞鶴 崎原朝睦に嫁す 3女・眞牛 翁長良雄に嫁す(以上は稲福の娘との間に出来た子)、継妻との間に、長男・朝扶、長女・カマド、次女・奈美(糸数昌運に嫁す。長女・田鶴子を生み離別、小酒部縫造と再婚。小田原市で空襲で死亡)。朝直は辻に2人の妾。一人は垣花町ウサーで3人の男を生む。その長男・朝穎が朝直の後を継ぐ。もう一人ホートグァーのマカターの母、マカターは馬上太郎の妻。
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前島小学校の同級生、左から名護朝康氏(父朝慧は9世 朝昭の長男。仲宗根源和の写真帖に協力)、新城栄徳、糸数隆氏

Category: 04-書の森
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 新作「柿を食らう岩獅子」を紹介いたします。税込 ¥9000
この柿を食らうシーサーの姿態に、可笑しみを覚え、下手ながら四首作ってみました。

柿食らう 猛暑にイラつく 岩獅子か

炎天下 柿丸かじり 岩獅子や

 猛暑日に 柿かじりたき 気分かな

 驚破事ぞ 獅子が柿を食っている


年々地球が暑くなっているのか、「今年はとっても暑いですねー」との会話をよく耳にします。その暑さにワジワジした岩獅子が柿にかぶりつく奇想天外なイメージですが、途中、柿の季語は?と調べてみましたら、秋とあり、「ありゃ、しまった」。それもこれも暑さのせいにして「まっ、いいか」。自由律俳句ということにしてスルーします。
   
   末吉陶器工房  098-887-6217
   携帯電話    080-3966-0445
   メールアドレス qqxd9ey9k@theia.ocn.ne.jp

 




 

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Category: 01-人物名鑑
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那覇市歴史博物館□川平家は、尚王家と縁の深い伊江家と血縁関係があり、首里王府で三司官を勤める士族でした。また朝申の祖父川平親雲上朝彬は欽定工工四を編纂して現在にも伝来しています。このように、川平家は首里王府の政治家であると同時に、芸能に造詣の深い家柄でもありました。川平朝申(1909~1998年)は、戦前県立二中在学中に、家族と台湾に移住しました。戦後台湾で「新沖縄建設のお願い」を沖縄民政府に提出し、「演劇、舞踊、音楽、その他芸能、演劇場の建設を促進し、健全娯楽の提供をすること」を主張しました。沖縄に引き揚げた後に沖縄民政府文化部芸術課長に就任し、アーニーパイル国際劇場の建設などに尽力しました。その後、琉球放送局長・結核予防会沖縄支部長を歴任し、その間那覇市町界町名整理審議会会長などに就任しました。

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Category: 04-書の森
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琉球の古典音楽が、仏教音楽を母体としたものならば仏教史も研究しなければならない。前述の南方熊楠と文通で親交があった琉球の麦門冬・末吉安恭は「琉球画人伝」で、先ず最初に仏教の起源と芸術の揺藍として英祖王朝に建立された極楽寺から説き起こしている。次いで琉球文化の最初の興隆期とし察度王朝及び第一尚氏時代(尚思紹王統)を詳しく記している。

末吉麦門冬(麦生)「不羈脱心に就いて」□不羈と脱心が異名同人ならん歟と私の書いたのに対し、過日糸満の蓮華院の住持岱嶺和尚より高教を賜ったことを私は深く感謝する。岱嶺和尚も愚説に賛成され、間違い無かろうと云われ更に脱心に就いて語りて曰く「脱心は古波津家から出られた。この古波津が沖縄で算数の名人として有名であった古波津大主を出した家で、脱心は即ち大主の伯父に当たるのである。脱心は其の家の総領であったが、、夙に俗を厭ひ仏道を慕ふて遂に万松院の二世松屋和尚の得度を受けて剃髪したと伝えられている。尚貞王から賜ったという黄色浮織五色の袈裟同色の掛落があって掛落だけは今も私が寺宝として保存している。詩稿その他記録と云っては何も無い。廃藩前までは掛物や巻物などもあって箱一杯色々のものがあったが、悉く虫や鼠に食い散らされて、今日一つも残っていない(略)」と、麦門冬は岱嶺和尚の話を紹介し、矢袋喜一『琉球古代数学』の益氏古波津と諸寺重修記並造改諸僧縁由記の喬氏古波津と合わないのは何故かと疑問を呈している。喬氏だと名乗りは宣であるから、また喬氏は屋宣家だけである。したがって前者が合っている。


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お盆前、BOOKS じのんで渡久山朝章『周遊快々 片雲有情』を買う。

2013年9月14日『琉球新報』(ジュンク堂那覇店は新聞に書評が出ると、書評本のところに並べるはずだが在庫が無いので並べてない。)

 タイミングよく本ブログで平良リヱ子さんをアップしたばかりでこの評伝の登場である。神様の引き合わせというべきか、ちなみに著者は神主さんでもある。先ず評伝の基礎資料というべき写真が豊富である。これだけでも本書の価値は十分だが何より著者と平良りヱ子さんとの交流が昭和28年12月以来だから驚く。評伝を書くのに平良さん本人以外にこれ以上の適任者は居ないであろう。欠点をいうと、写真のキャプションの誤植が少々あるのと、リヱ子評伝だから当然ではあるがトラブル問題の殆どが平良さん側の肩を持っていることだろうか。ジュンク堂那覇店をのぞくとこの本が無いのでここで紹介する(2013年9月7日現在ー1冊。じのん□TEL:(098)897-7241 )には在庫がある。この本で岡本太郎、本田安次、鎌倉芳太郎など東京での学者・文化人とリヱ子さんとの交流が活写される。


2013年7月ー宮﨑義敬『繚乱の人』展望社(東京都文京区小石川3-1-7 エコービル202 ☎03-3814-1997)



同書よりーサントリー美術館で中央に平良リヱ子、左に森政三①、右に岡本太郎、鎌倉芳太郎,金井喜久子、矢野克子が並ぶ
□①森氏の娘・美和子さん来信「父は結婚が遅く 私は孫といっていい程 年の離れた子ですから中年の頃の父も知りませんが ご指摘下さった人物は父のようでございます。人間国宝の鎌倉芳太郎先生のお話を母にしていました。」



2013年9月22日『琉球新報』宜保榮治郎(元国立劇場常務理事)「綾乱の人ー琉舞の才能 東京で花開く」

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Category: 01-人物名鑑
Posted by: ryubun02

□知念積高 チニン セキコウ
あても喜ぶなうしなても泣くな人のよしあしや後ど知ゆる アティン ユルクブナ ウシナティン ナクナ フィトゥヌ ユシアシヤ アトゥドゥ シュル
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□先ず歌によって彼の性格を想像すると面白い熱烈奔刹那的心熱主義の若い美しい女で彼はあったらしい。気の荒い大胆な粗大朴茂の元始的美人を想像すればやがて彼であらう。恩納の山間に育って山姫の如く天真にして露骨なざっくばらんな豪放な女であったらしく彼は思われる。人為的束縛習慣的桎桔に身を煩はれない自由なる自然児として鳥の如く歌い獣の如く眺ぬ廻る境界に彼は仲間と共にあった。そして其仲間中の代表者として彼は随分権力を振るったであろう。彼は仲間の男女間に尊信と畏怖とを有たれていたであろう。それは紫式部や清少納言が平安時代の宮廷の男女間に尊信と畏怖を維持していた彼らの勢力と同じ勢力であったらう、女じゃと軽蔑されるような世界にあんな偉い女は育たない。

□波の聲もとまれ風の聲もとまれ首里天加那志美御機拝ま ナミヌ クィン トゥマリ カジヌ クィン トゥマリ シュユイティンガナシ ミウンチ ヲゥガマ
の作のあるのも偶然ではない。波の聲も友達の聲の如く彼の耳には響く。それ程彼は自然と親しい、そのかわり又彼は首里天加那を尊崇することの深き忠誠の念に富んだやさしい無邪気な女性でもあったけでども彼の勝気な性質は時に反抗的精神を注溢せしめて
□恩納松下に禁止の牌の建ちゅす戀ひ忍ぶまでの禁止やないさめ ウンナ マツィシタニ チジヌ フェヌ タチュスィ クイシヌブ マディヌ チジヤ ネサミ
などと云って時の内務省を嘲奔したりした。丁度与謝野晶子が文藝取締に就いて今の内務省の処置に不平して妙な歌を作ったのと同じ格である。

□僕は岩野泡鳴氏①の「半獣主義」の中に紹介してあるエマーソン②の自然論を瞥見して或る暗示を与えられた其れにこんな事が云ってある「天才が一たび高尚な情操を潜って叫び出せば山河も鳴動する草木も感泣するこういう力を得てから初めて人心を制服することも出来るまた慰籍することも出来る」云々と僕は恩納なべの名を以て伝誦さるる歌の一々にこの天才の高尚な情操より来る叫びを聞きこれらの歌に山河も鳴動せしめ本草も感泣せしめる底の力を感することが出来る

①岩野泡鳴 【いわの・ほうめい】
生年: 明治6.1.20 (1873) 没年: 大正9.5.9 (1920)
明治大正時代の詩人,作家。本名美衛。他の筆名に白滴子,阿波寺鳴門左衛門など。父直夫は阿波藩蜂須賀家の江戸詰めの直参岩野家の婿養子。母はサト。淡路島の洲本生まれ。洲本小学校,私塾を経て,明治20(1887)年大阪の泰西学館に入学。伝道師にならんとして洗礼を受けるが,21年に父と共に上京し,明治学院に入学。22年専修学校(専修大学)入学,24年には押川方義を頼って仙台神学校(東北学院)に赴き,同校教師になろうとしたが,試験の結果1年に編入させられ,26年まで在籍。27年に帰京,「魂迷月中刃」を発表するがあまり反響はなく,28年竹腰こうと結婚。31年肺結核にかかり,療養をかねて32年に滋賀県大津市に移る。英語教師をしつつ,34年詩集『露じも』を自費出版。35年東京に戻り『明星』に参加して創作活動を展開,36年には『明星』を出て相馬御風らと東京純文社を興して『白百合』を創刊。詩人として活躍するが,39年から小説に主力を注ぎ,「耽溺」(1909)で自然主義作家としての地歩を確立。しかし40年の父の没後,下宿屋を継いでから私生活に問題がおこり,42年樺太で蟹缶詰事業を始め失敗。その後,青踏社の遠藤清子との同棲,再婚,さらに青踏社の蒲原英枝との同棲,2度目の再婚などで世間の注目をあびる。<著作>『復刻版泡鳴全集』全18巻<参考文献>舟橋聖一『岩野泡鳴伝』,伴悦『岩野泡鳴―「五部作」の世界』 (コトバンク)

②ラルフ・ワルド・エマーソン(Ralph Waldo Emerson、1803年5月25日 - 1882年4月27日)は、アメリカ合衆国の思想家、哲学者、作家、詩人、エッセイスト。無教会主義の先導者。ラルフ・ウォルド・エマーソン、ラルフ・ウォルドー・エマーソン、ラルフ・ワルド・エマソン、とも呼ばれる。 英語では、エマーソンのエにアクセントがあり、エマソン、またはエマスンに近くなる。アメリカ合衆国マサチューセッツ州ボストンに生まれる。 18歳でハーバード大学を卒業し21歳までボストンで教鞭をとる。 その後ハーバード神学校に入学し、伝道資格を取得し、牧師になる。 自由信仰のため教会を追われ渡欧、ワーズワース、カーライルらと交わる。帰国後は個人主義を唱え、アメリカの文化の独自性を主張した。(ウィキペディア)





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Posted by: ryubun02


島袋さん(左)、萌子さん

島袋百恵
1986年 沖縄県沖縄市生まれ。室川小、安慶田中
2002年 沖縄県立コザ高校入学 美術部在籍
2005年 同校卒業
2009年 沖縄県立芸術大学美術工芸学部絵画専攻卒業
      専門は日本画と版画
2009年 グループ展「ユメテン」(沖縄市)
2010年グループ「tetra works Ⅴo1」(那覇市)


□蔵書票



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□写真の町東川賞受賞作家フォーラムには2012年に沖縄県立博物館・美術館の「山田實展」を担当した大城仁美さんが参加する。

写真左から前原基男氏、戸澤裕司 氏、大城仁美さん

大城仁美
1975年、沖縄県生まれ。沖縄県立芸術大学美術工芸学部デザイン工芸学科デザイン専攻卒業。真和志高等学校教諭を経て、2007年4月より沖縄県立博物館・美術館勤務。美術館開館記念展「沖縄文化の軌跡1872-2007」、美術館開館1周年記念展「移動と表現」(2009年)、「母たちの神 比嘉康雄展」(2010年)などの企画に関わる。


写真の町東川賞受賞式に山田實さん代理で勉氏が参加。
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1983年11月 野町和嘉『アフリカ最後の秘境 バハル!』

野町 和嘉(のまち かずよし、1946年10月15日 - )は、日本のドキュメンタリー写真家。高知県三原村出身。高知県立高知工業高等学校卒業後、写真家・杵島隆に師事。1971年よりフリーの写真家となる。1972年よりサハラ砂漠をはじめとした乾燥地帯の撮影を行う。1980年代後半より中近東・アジア、2002年以降はアンデスを主な撮影地域としている。1990年、写真集「ナイル」等により芸術選奨新人賞美術部門受賞。2009年、紫綬褒章受章。(ウィキペディア)




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左が宮平敏子

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1995年8月 沖縄テレビ放送編『よみがえる戦前の沖縄』沖縄出版□宮平敏子


宮平敏子ー1955年11月 沖縄文化協会「琉球の舞踊」日本青年館、学習院、早稲田大学

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1966年2月16日、山田写真機店2階で山田實撮影。東郷青児を前に後右から宮平敏子、吉井淳二、平良進、大城皓也。

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ジュンク堂那覇店

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2013年10月29日~11月4日 「第2回 京都展」リウボウ6階

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松村宏優






(翁長良明コレクション)


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上原栄子 うえはら-えいこ 1915-1990 昭和時代の経営者。
大正4年6月22日生まれ。4歳のとき那覇の辻遊郭にうられたが,昭和15年には娼妓(しょうぎ)数名をもつ抱え親となる。戦後の沖縄でいちはやく料亭を経営し,料亭はアメリカ映画「八月十五夜の茶屋」の舞台になった。平成2年12月9日死去。75歳。沖縄県出身。著作に「辻の華」など。(コトバンク)
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大宜見小太郎 おおぎみ-こたろう
1919-1994 昭和-平成時代の舞台俳優,舞踊家。
大正8年1月2日生まれ。14年八重山千歳館の多嘉良朝成一座で初舞台。昭和15年大阪の福島エビス座で琉球演劇舞踊団を結成。21年沖縄で大伸座を結成し,古典舞踊,方言せりふ劇,琉球歌劇などを上演した。平成6年7月26日死去。75歳。沖縄県出身。本名は朝義。(コトバンク)

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□1954年9月 亀川恵信(平良市下里571)『宮古先覚者の面影』池間利秀、義武息廣、佐久田繁「高良一氏半生記」
1924年、大阪実業学校入学。25年中退し早稲田法制学校入学。1927年、徴兵検査で宮古へ帰郷。大阪谷水力伸鋤動社入社。1928年、大阪沖縄県人会運動に参加。1931年、関西沖縄県人会連合会理事。1934年、月刊『礦源社』発行。国粋大衆党此花区第二班遊説部長。1936年、時事写真同盟通信社にニュース記者。波之上丸処女航海の試乗招待で帰沖。本部町政刷新運動に参加。公聲新聞記者。1941年、本部町産興商事組合長。映画演劇「みなと館」経営。本部、那覇、与論間の海運事業「合同運輸会社」設立。那覇で「昭和織物工場」設営。
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1926年9月 『琉球年刊歌集』琉球狩社
□山城正忠「序に代へて」/琉球文学会ー山城正忠、世禮国男、松根星舟、狩社同人「琉球年刊歌集発刊之辞」
□當間黙牛/北村白楊/島袋九峯/伊豆味山人/伊竹哀灯/宮里潮洋/國吉瓦百/名嘉元浪村/照屋一男/上里堅蒲/比嘉泣汀/池宮城寂泡/新田矢巣雄/間國三郎/川島涙夢/島袋哀子/漢那浪笛/山里端月/又吉光市路/美津島敏雄/江島寂潮/西平銀鳴/山城正斉/大山潮流/池宮城美登子/星野しげる/小栗美津樹/禿野兵太/新島政之助/小林寂鳥/梅茂薫村/水野蓮子/松根星舟


□国吉真哲翁は1924年4月、山城正忠を会長に、上里春生、伊波普哲、山口三路(貘)らで琉球歌人連盟を発足させた。国吉翁はこのころ、貘と一緒に歌人連盟顧問の麦門冬を訪ねた。同年暮れに麦門冬は急死した。連盟の団結は後に『琉球年刊歌集』として結実した。25年9月の『沖縄教育』(又吉康和編集)は山城正忠が表紙題字、カット(獅子)は山口重三郎である。同年11月、真境名安興が沖縄県立沖縄図書館長に就任したころ、国吉翁は又吉康和の後任の『沖縄教育』編集人となる。又吉は沖縄県海外協会に転じた。海外協会の機関誌『南鵬』には国吉翁の詩歌が載っている。琉球新報連載「むかし沖縄」285回に国吉翁撮影の写真がある。真栄田一郎の墓前で池宮城秀意、瀬長亀次郎、城間得栄、上原美津子が写っている。真哲翁は真栄田一郎が死んだ時、姉の冬子から「弟の死顔でも良いから写真に撮って送ってほしい」との依頼を受け、棺を開け写真を撮った。戦後、瀬長はうるま新報の社長、池宮城はうるま新報専務となる。瀬長と池宮城は沖縄人民党結成に参加する。その人民党誕生の瞬間を国吉翁が記録することになる。

□1897年、今帰仁村に生まれました。本名は小那覇全孝といい、彼の本業は歯科医で、県立二中の第一期卒業生にして日本歯科医大学を卒業した秀才です。愛称を「ブーテン」で呼ばれます。第二次世界大戦の戦後復興の時代に、弟子の照屋林助と村々を回って、「命の御祝事さびら」(生きていることを祝いましょう)と呼びかけ、戦禍の傷が癒えない人々に生きる力と勇気を与えました。沖縄の漫談の祖です。三味線に乗せて世相を風刺する抱腹絶倒の漫談は天歳的です。代表作には「石川小唄」「スーヤーヌパァパァ」「盗ドゥ万才」「百歳の花風」があります。1969年に亡くなりました。享年72歳でした。 →(小那覇舞天 おなはぶーてん / ラジカル・ビスケット)

Category: 03-所感
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8月4日の地元紙2紙は当然ながら「オスプレイ」特集である。沖縄ケンミンはアンポ容認の知事、宜野湾は防衛局推薦の市長を選んだことを如何考えるのか。地元紙は事が起きてからガス抜き的に特集するのではなく、日頃から読者に考える資料を提供することが重要だと考える。オスプレイ反対であの勇ましかった那覇市長は最近どういうスタンスか。いつもマンネリの大学教授のコメントでお茶を濁すな。

『しんぶん赤旗』□麻生氏が撤回したのはナチスにふれた部分ですが、ナチスが果たした役割を考えれば、麻生氏がナチスについて肯定的に口にしたこと自体、許されるものではありません。麻生氏の発言を批判した外国のメディアは「全人類を公然と挑発するもの」などと強い調子で非難しています。ナチスは戦前のイタリアや日本の軍国主義勢力とともに、第2次世界大戦を引き起こしました。戦後結成された国際連合の憲章は「われらの一生のうちに二度まで言語に絶する悲哀を人類に与えた戦争の惨害から将来の世代を救(う)」ために活動することを明記しています。戦前のナチスや日本の軍国主義を肯定し美化することが、戦後の国際社会で許されないのは明らかです。麻生氏の発言は7月29日、都内の講演会でのものです。「ドイツのワイマール憲法もいつの間にかナチス憲法に変わっていた。誰も気がつかなかった。あの手口に学んだらどうかね」―。麻生氏はナチスを例示した発言を撤回したさい「悪い例としてあげた」「誤解された」などと言い訳しました。

しかし講演では「わーわー騒がないで…みんな納得してあの憲法変わっている」と、あたかも国民が納得していたかのように主張しました。いいのがれは通用しません。ナチスは、政権を取ったあと国会放火事件などをでっち上げ、国会議員を含む共産党員や社会民主党員を徹底的に弾圧し、これらの議員が国会に出てこられないようにしておいて、政権の思うままに政治を動かす悪名高い「授権法」を制定し、事実上憲法を停止しました。国民は「納得した」のでなく封じ込められたのです。麻生氏のことば通りなら民主主義を破壊し独裁を築いたナチスを称賛しているとしかとりようがありません。

帯に小泉純一郎「一気に読んだ」と絶賛している守屋武昌『「普天間」交渉秘録』新潮文庫□最近も麻生太郎財務相が21日の社会保障制度改革国民会議で、終末期医療について「私は少なくともそういう必要はないと遺書を書いているが、いいかげんに死にたいと思っても『生きられますから』と生かされたらかなわない。さっさと死ねるようにしてもらわないと」などと発言。同書には麻生大臣の発言「沖縄の五ノ日の会(仲村正治、嘉数知賢、西銘恒三郎、安次冨修、西銘順志郎)が俺の所に来た時に、事務方を引かせてから、オメーラ、まさか梯子はずすことはしないだろうなといったら、アイツら皆下を向いて、うつむいているの」も紹介していた。「ゴルゴ13」を愛読しているからか沖縄選出議員を見下し土人扱いしている。コイツがまた安倍内閣の副総理となった。沖縄選出の自民党国会議員がどう扱われるか見ものではある。

東京の島袋兄からの便り□<デージナトゥシガ・イイジマヤ>の昨今、またも沖縄・伊江島は苛められはじめています。<沖縄と原発>を<見ないふり>する安倍政権は<日本国民><お年寄り>も苛めるはずです。それを皆知らない、知りたくない、無関心を決め込む日本国民。やがて世相は戦前回帰よろしく戦争をおっぱじめる。

ヤマトの<オスプレイはアメリカへ帰れ>は横田の事だ。<沖縄や横田はオスプレイはいらない>は沖縄はどうでもいいのだと私には聞こえる。7月30日の朝テレビコメンテーターはこう言った。「横田にオスプレイねー、私は横田を身近に知っているが、どうもねー」、自分の所はイヤダ、知っているところはイヤダ、都会はイヤダ、危ないものはイヤダ。ゴネテる他府県人の発想は、沖縄には思いを至らない。□その沖縄も上記のごとく安保容認県政である。与那国は自衛隊を誘致するという。<戦争回帰>が現実になりつつある。

1973年11月15日『講座 現代ジャーナリズム 第4巻 出版』時事通信社

b1973年12月1日ー沖縄関係資料室主宰の西平守晴、久子夫妻が世話人で、大阪梅田の東映会館中華料理店で友人たちを招き結婚祝をした。祝儀で本屋に寄って本書を購入、友人たちに記念の署名をしてもらった。


□ジャーナリズムに対する疑惑がひろがっている。ジャーナリズムはまた、いつか来た道を歩みはじめているのではないか。権力と癒着して、読者、視聴者である人民大衆をだます側に加担しはじめているのではないか。いや、もうとっくに、そうなってしまっている、手遅れだ、と断言する人もいる。国家権力の言論統制のしかたは、戦前とは比較にならぬほど巧妙になった。マスコミは権力の手中にまるみこまれて、身動きもできないほど、がんじがらめになっている。



憲法を尊重するといいながら、その憲法を空洞化して進められる再軍備。とめどもなく膨張する国防予算。国民生活と国土破壊の上に成り立つ日本列島改造。大企業、大資本本位の高度経済成長政策。そのなかに組み込まれて、ひたすら企業利益の追求に狂奔するマスコミ産業。そのかげで、ジャーナリズムの活力は、日ごとに衰弱し、枯渇してゆくかに見える。経済的繁栄のなかで、何が失われ、何が死にひんしているのか。権力におし流され、抵抗を忘れ、批判を棄てたジャーナリズムーそれはマスコミではあっても、ジャーナリズムではない。「講座・現代ジャーナリズム」編集委員会(代表・城戸又一)

以上の「刊行のことば」は今でも十分に新聞・雑誌で通用するから驚く。テレビが作った知事やら政治家(小泉劇場)が輩出(排出)している。例えば東京都知事「石原軍団」「たけし軍団」の候補者がテレビを利用し選挙活動を有利に導いている。大阪ではこれまたタレント知事が同じ手法で選挙を有利に展開している。テレビは電機を食う。節電のためテレビのスイッチは抜こう。今はネット社会である。ネット上ではテレビに対し無遠慮にも「マスゴミ」という。これらマスゴミが官僚と結託しアメリカ依存、原発依存の日本をつくった。ネットも電気を喰う。シャープの創業者やグーグルも承知し太陽光発電に力を入れていた。 今は通信といえばネットである。これは電機を食う。シャープの創業者やグーグルも承知し太陽光発電に力を入れている。

グーグル
東日本大震災を受け、世界中でエネルギーのあり方が見直されている。かねてから自然エネルギーの分野に投資を続けてきたGoogleは、ヨーロッパで新たに500万ドル(約4億円)を、太陽光電力施設に投資することを発表した。Googleは4月7日にドイツのベルリン近郊の太陽光発電プラントへの投資を決定した。広さ47ヘクタール、東京ドーム10個分に相当する広さのプラントで、電力量はドイツ最大規模の18.65メガワットピーク。この電力をプラントのある地域、5000世帯に供給することを計画しているという。同社の自然エネルギーへの取組みは、今に始まったことではない。米ノースダコタの風力発電所にも4000万ドル(約33億円)投資している。また非営利機関「google.org」を立ち上げて、環境や自然災害に関する情報提供への取組みを続けているのだ。すでに1億ドル(84億円)以上をかけて、技術開発を行っているとのことである。GooleはITの分野だけでなく、自然エネルギーにおいても世界をけん引する企業になりそうだ。




Category: 01-人物名鑑
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2000年7月9日『琉球新報』新城栄徳(書評)ー新里堅進『奥山の牡丹』与那原町教育委員会/私と芝居との付き合いは粟国島で生まれた時からで、私の実家の近隣は首里士族の末裔だと称し集まり実家の隣に「首里福原」という集会所を造った。そこでは毎年旧正月に村芝居が上演され、私の父(新城三郎)も一度だけ「金細工」のモーサー役と二才踊りで出演、母方の伯父(玉寄貞夫)は「伊江島ハンドーグヮー」のカナーヒー役で二度も出演したと当時の記録にある。私の9歳のときには伯父が照屋林助、嘉手苅林昌を粟国に連れてきて民謡ショーを開いたという。



私は家族と11歳のとき、那覇に移り住んだ。那覇劇場、テレビの郷土劇場、沖映演劇と沖縄芝居や舞踊、特に歌劇をよく見るようになった。その間には伊良波冴子の歌劇「泊阿嘉」での思鶴役の美声は歌劇の世界を十分に楽しませてもらった。その兄の伊良波晃は一度だけ沖映近くの銭湯で一緒になった。本書の主人公の伊良波尹吉の息子と娘である。1979年3月、私たち親子は大阪御堂会館で青い海出版社主催の歌劇「伊江島ハンドーグヮー」を見た。ハンドーグヮー役は兼城道子、マチグヮーに伊良波冴子、カナーヒーに伊良波晃、船頭主に真喜志康忠、村頭が大宜見小太郎であった。


資料・兼城道子



伊良波尹吉の夫人、娘・冴子さん、孫娘

前出の歌劇と我如古弥栄作「泊阿嘉」と、尹吉作「奥山の牡丹」「薬師堂」は沖縄の四大歌劇として燦然と輝いている。人生には光があれば影もある。特に芸能はさまざまなヒダがある情念の世界で倫理だけでは捕えにくい文学・芸術と共通するものがある。本書は尹吉の沖縄に生まれたがゆえに歩んだ光と影の人生を鬼才・新里堅進を得て見事に描ききっており、中でも日本帝国の超国家主義への歩みから沖縄戦へのさりげない描写は新里でなくては描けぬものである。

本書は文字通りに与那原が生んだ「沖縄歌劇の巨星・伊良波尹吉物語」で、尹吉の足跡と沖縄演劇界の動きを網羅した詳細な年表、変遷図、関係者の証言とともに21世紀沖縄への贈り物である。
私は「むんじゅる節歌碑建立期成会」で碑文検討委員、記念誌編集委員を担当した。沖縄芸能研究家の宜保栄治郎氏、當間一郎氏、仲宗根幸市氏に原稿を依頼、記念誌に華を添えてもらった。無論、私もコラムを書いた。

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1984年8月28日ー新里堅進「水筒」出版祝賀会

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Category: 04-書の森
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宮平敏子



(翁長良明コレクション)


1955年12月11日『沖縄タイムス』佐藤春夫「沖縄舞踊団についてーみやらびは常若」/11月27日『沖縄タイムス』「芸能祭」

12月15日『沖縄タイムス』「文部省主催の芸術祭ー沖縄舞踊が団体入賞」

1933年1月 佐藤春夫作「世はさまざまの記」


森 桂一モリ ケイイチ
昭和期の洋画家 千葉大学名誉教授;明徳短期大学名誉学長。
生年明治37(1904)年8月10日没年昭和63(1988)年3月16日
出身地岐阜県恵那市 別名号=林人子
学歴〔年〕東京美術学校〔昭和3年〕卒
主な受賞名〔年〕勲三等旭日中綬章〔昭和49年〕
経歴昭和3年帝展初入選。27年から45年まで千葉大教授。50年から56年まで明徳短大学長。美術教育を研究するかたわら、日展委嘱洋画家としても活躍。著書に「美術教育概説」など。→コトバンク


小糸源太郎 こいと-げんたろう
1887-1978 大正-昭和時代の洋画家。
明治20年7月13日生まれ。東京美術学校(現東京芸大)在学中に文展入選,昭和5年,6年に帝展で連続特選となる。官展の審査員,光風会会員として活躍し,29年「春雪」などで芸術院賞。40年文化勲章。昭和53年2月6日死去。90歳。東京出身。作品はほかに「山粧ふ」「繚乱(りょうらん)」など。 →コトバンク

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Category: 01-人物名鑑
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与世山澄子
ジャズシンガー、1940年生まれ、沖縄県八重山郡の小浜島出身
ビリー・ホリデイをほうふつとさせる歌声で知られるジャズ・シンガー、マル・ウォルドロンとの共演作もあり、20年ぶりの新作「インタリュード」では菊池成孔、南博、安カ川大樹がバックをつとめ、パードン木村がプロデューサーとしてZAKがエンジニアとして参加した。→はてなキーワード
(翁長良明コレクション)
Category: 01-人物名鑑
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清水正二郎

清水正二郎 しみずしょうじろう (読書)
後の直木賞作家・胡桃沢耕史が、大量にエロ文学の執筆・翻訳をしていた祭の筆名。大正14年神奈川生まれ。拓大卒。漁色家としても知られ、源氏鶏太の「精力絶倫物語」のモデルにもなった。(はてなキーワード)

胡桃沢耕史 くるみざわ-こうし
1925-1994 昭和後期-平成時代の小説家。
大正14年4月26日生まれ。昭和32年「近代説話」の同人となり,清水正二郎の本名でポルノ小説を量産する。のち筆名にかえて,57年「天山を越えて」で推理作家協会賞,58年モンゴル抑留体験をえがいた「黒パン俘虜記」で直木賞。ユーモアミステリーに「翔(と)んでる警視」シリーズがある。平成6年3月22日死去。68歳。東京出身。拓殖大卒。(コトバンク)


愛染 恭子と胡桃沢耕史
□愛染恭子(あいぞめ きょうこ、1958年(昭和33年)2月9日 - )は、日本のポルノ監督、元ポルノ女優、元AV女優。千葉県野田市出身、東京都立忍岡高等学校卒業。血液型はB型。旧芸名、青山 涼子(あおやま りょうこ)。→ウィキペデイア
□2013年9月26日『琉球新報』世良利和「発掘 沖縄映画史21-ピンク映画の中の沖縄」で『愛染恭子in沖縄 本番快感ツアー』(1991)が紹介されている。




Category: 01-人物名鑑
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2013年7月26日『琉球新報』仲村顕「眠れる先人たちー鎌倉芳太郎」

鎌倉芳太郎が1975年11月、八重山に遊び麦門冬の娘・初枝さんと感激の再会。翌年の元旦に詠んだものを書いて石垣市の初枝さんに贈ったもの。


左から折口信夫(複製)短冊ー麦門冬の娘・初枝さんに贈ったもの。/山城正忠/鎌倉芳太郎短冊ー麦門冬のことを聞いた新城栄徳に鎌倉氏が贈ったもの。娘の嫁ぐ日に詠んだ歌だが、その娘の名が恭子さんであるのは偶然なのか。



仲村顕□千葉県鋸南町にある鎌倉芳太郎の墓。墓誌に「人間国宝 石垣市名誉市民」とある。(写真提供:仲村顕)
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末吉麦門冬/2002年2月27日『沖縄タイムス』
Category: 04-書の森
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2007年 沖縄県立博物館・美術館『沖縄文化の軌跡1872-2007』
新城栄徳「麦門冬の果たした役割」
□安恭の琉球風俗にふれた随筆は1915年の『琉球新報』「薫風を浴びて」が最初であるが、美術評論を試みたのは1912年である。第6回文展に入選した山口瑞雨作「琉球藩王」を見た安恭は『沖縄毎日新聞』で「王の顔に見えた表情は無意味であり無意義である。冠がどうのといっては故実家の後塵を拝するに過ぎない。作者が琉球と目ざす以上はもっと深く強く琉球人の歴史、民情、個性を研究してから筆を執らねばならなかった」と酷評。しかし長嶺華国に対しては「翁の存在は私に希望と自信と栄誉とを載せしむるに充分である」と理屈抜きで讃美している。
□1983年1月、鎌倉の畢生の著『沖縄文化の遺宝』(岩波書店)が第10回伊波普猷賞を受賞したとき、鎌倉は談話として「沖縄美術や沖縄文化の手解きを私にしてくれた偉大な文化人、末吉安恭氏にふれたい。末吉氏に出会わなかったら、この本は世に出なかったかもしれません」と述べている。

□金城美奈子(沖縄文化の杜共同企業体・企画事業部)
東京生まれ。復帰後帰沖。高校卒業まで、国頭村で過ごした。永山信春①の画塾に通う。東京で画廊を営む叔父の影響などもあって、別府大学美術史学科に進む。同校卒業し愛媛県の私立美術館「高畠華宵大正ロマン館」の学芸員。95年秋、田河水泡「のらくろ四国上陸」企画展で出版社から未整理状態の段ボール5箱の原画が届いた。借りた全作品を資料として整理するのに半年かかった。展示したのは150点余だが好評であった。その後も漫画展や宝塚展など、大正から昭和にかけての大衆文化にかかわる展示会に参画してきた。調査や研究ばかりでなく、ミュージアム・ショップの商品や喫茶室のメニューも考えた。

□①永山信春(1939年、南大東村生まれ。琉球大学美術工芸科卒。すわ絵画道場主宰)1959年1月 那覇琉米文化会館「琉大美術クラブ絵画展」(永山信春、神山泰治、宮城孝也、平良晃、喜久村徳男、比嘉良仁、山城見信、大城宏捷、安元賢治ほか)


1981年 沖縄の雑誌『青い海』秋季号 永山信春「青い海ギャラリー/没落感覚」

帰沖し、高校の美術教諭をへて、沖縄文化の杜共同企業体に入社。2008年に沖縄県立博物館・美術館初の個展として話題になった「哀愁と血の造形 嘉手川繁夫の世界」展を担当。2009年「豊潤の美を求めて 金城安太郎と高畠華宵」、2009年「琉球絵画展~琉球王朝から近代までの絵画」、2010年「沖縄マンガ展」、2011年「生誕100年記念展 岡本太郎と沖縄ーここが世界の中心だー」、2012年「本土復帰40周年記念 田中一村展ー琉球弧で開花した美の世界」などを担当した。高畠華宵大正ロマン館の「大正イマジュリイ学会」会員。



写真ー沖縄県立博物館・美術館指定管理者 文化の杜共同企業体・金城美奈子さん


2009年7月『琉球絵画展』金城美奈子□「琉球絵画」の今日的意義ー(略)戦前、琉球の美術史研究の先駆けtなった長嶺宗恭(華国)、末吉安恭(麦門冬)、比嘉朝健、鎌倉芳太郎、伊東忠太、真境名安興、比嘉景常らが残した論考や調査研究資料は、現在でも貴重な基礎文献となっている。戦後、見識ある一部の研究者らがこれらの成果をふまえ、埋もれた絵師たちに光を当て、その発掘に尽力したことは、沖縄の美術史研究の大きな成果である。(略)1929年、平凡社から発行された『世界美術全集』には、鎌倉芳太郎、伊東忠太によって世界の絵画と同等に琉球の絵画や工芸、建築などが紹介されている。(略)戦前、伊東や鎌倉は琉球の芸術を世界の中に位置づけようと努めた。このことは現代に持ち越された沖縄の美術史の大きな課題である。

□麦門冬や鎌倉芳太郎の琉球美術史を、金城美奈子は大胆といおうか強引にも「琉球絵画展」として提示して見せた。後は琉球の芸術を世界の中にどう位置づけようとするかは若い世代に譲るべき課題かも知れない。




Category: 01-人物名鑑
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「沖縄・烽火のネットワーク連絡会」代表・島袋和幸(〒124-0011 葛飾区四ツ木4-18-10 携帯090-4920-6952)





(財)わびあいの里『伊江島通信』第8号 〒905-0502 伊江村東江前2300-4 ☎0980-49-3047



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