Archives

You are currently viewing archive for August 2013
Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02

3月5日の新聞に「七高教授の日野光次さんは琉球鼠の悪臭は異性を呼ぶ為」記事を見て麥門冬は「ビーチャー」を書いた。
○琉球鼠と呼ぶなら下に必ずビーチャーと添名しなければならぬ。琉球にはビーチャーの外に普通の鼠もいるからである。単に琉球鼠と云ったのでは琉球にはこの悪臭を発する眼の小さい鼠しかいないようで変だ。どこまでも琉球は違っていると人に思わすのも面白くないからである。


ビーチャー

» Read More

Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02


 新作「柿を食らう岩獅子」を紹介いたします。税込 ¥9000
この柿を食らうシーサーの姿態に、可笑しみを覚え、下手ながら四首作ってみました。

柿食らう 猛暑にイラつく 岩獅子か

炎天下 柿丸かじり 岩獅子や

 猛暑日に 柿かじりたき 気分かな

 驚破事ぞ 獅子が柿を食っている


年々地球が暑くなっているのか、「今年はとっても暑いですねー」との会話をよく耳にします。その暑さにワジワジした岩獅子が柿にかぶりつく奇想天外なイメージですが、途中、柿の季語は?と調べてみましたら、秋とあり、「ありゃ、しまった」。それもこれも暑さのせいにして「まっ、いいか」。自由律俳句ということにしてスルーします。
   
   末吉陶器工房  098-887-6217
   携帯電話    080-3966-0445
   メールアドレス qqxd9ey9k@theia.ocn.ne.jp

 




 

» Read More

Category: 01-人物名鑑
Posted by: ryubun02

null

那覇市歴史博物館□川平家は、尚王家と縁の深い伊江家と血縁関係があり、首里王府で三司官を勤める士族でした。また朝申の祖父川平親雲上朝彬は欽定工工四を編纂して現在にも伝来しています。このように、川平家は首里王府の政治家であると同時に、芸能に造詣の深い家柄でもありました。川平朝申(1909~1998年)は、戦前県立二中在学中に、家族と台湾に移住しました。戦後台湾で「新沖縄建設のお願い」を沖縄民政府に提出し、「演劇、舞踊、音楽、その他芸能、演劇場の建設を促進し、健全娯楽の提供をすること」を主張しました。沖縄に引き揚げた後に沖縄民政府文化部芸術課長に就任し、アーニーパイル国際劇場の建設などに尽力しました。その後、琉球放送局長・結核予防会沖縄支部長を歴任し、その間那覇市町界町名整理審議会会長などに就任しました。

» Read More

Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02
Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02
お盆前、BOOKS じのんで渡久山朝章『周遊快々 片雲有情』を買う。

2013年9月14日『琉球新報』(ジュンク堂那覇店は新聞に書評が出ると、書評本のところに並べるはずだが在庫が無いので並べてない。)

 タイミングよく本ブログで平良リヱ子さんをアップしたばかりでこの評伝の登場である。神様の引き合わせというべきか、ちなみに著者は神主さんでもある。先ず評伝の基礎資料というべき写真が豊富である。これだけでも本書の価値は十分だが何より著者と平良りヱ子さんとの交流が昭和28年12月以来だから驚く。評伝を書くのに平良さん本人以外にこれ以上の適任者は居ないであろう。欠点をいうと、写真のキャプションの誤植が少々あるのと、リヱ子評伝だから当然ではあるがトラブル問題の殆どが平良さん側の肩を持っていることだろうか。ジュンク堂那覇店をのぞくとこの本が無いのでここで紹介する(2013年9月7日現在ー1冊。じのん□TEL:(098)897-7241 )には在庫がある。この本で岡本太郎、本田安次、鎌倉芳太郎など東京での学者・文化人とリヱ子さんとの交流が活写される。


2013年7月ー宮﨑義敬『繚乱の人』展望社(東京都文京区小石川3-1-7 エコービル202 ☎03-3814-1997)



同書よりーサントリー美術館で中央に平良リヱ子、左に森政三①、右に岡本太郎、鎌倉芳太郎,金井喜久子、矢野克子が並ぶ
□①森氏の娘・美和子さん来信「父は結婚が遅く 私は孫といっていい程 年の離れた子ですから中年の頃の父も知りませんが ご指摘下さった人物は父のようでございます。人間国宝の鎌倉芳太郎先生のお話を母にしていました。」


2013年9月22日『琉球新報』宜保榮治郎(元国立劇場常務理事)「綾乱の人ー琉舞の才能 東京で花開く」


宮﨑義敬『繚乱の人』展望社よりーサントリー美術館で中央に平良リヱ子、左に森政三①、右に岡本太郎、鎌倉芳太郎,金井喜久子、矢野克子が並ぶ
□①森氏の娘・美和子さん来信「父は結婚が遅く 私は孫といっていい程 年の離れた子ですから中年の頃の父も知りませんが ご指摘下さった人物は父のようでございます。人間国宝の鎌倉芳太郎先生のお話を母にしていました。」


2015年5月『なのはな』10号 平良リヱ子「病い」
2015年6月19日『産経新聞』平良リヱ子「別れ」
2015年7月『波濤』№260   平良リヱ子「グランドを駆け回る児ら窓越しに眺めておれば心しずまる」「わが詩の掲載されたる朝刊に目を疑いてくりかへし見つ」
2015年8月『波濤』№261  平良リヱ子「リハビリに通う日課も楽しかり加齢の友らと癒しのサロン」「老いの身に孤独のしみいる雨の夜はうからの電話に心癒さる」

» Read More

Category: 01-人物名鑑
Posted by: ryubun02

□知念積高 チニン セキコウ
あても喜ぶなうしなても泣くな人のよしあしや後ど知ゆる アティン ユルクブナ ウシナティン ナクナ フィトゥヌ ユシアシヤ アトゥドゥ シュル
Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02

□先ず歌によって彼の性格を想像すると面白い熱烈奔刹那的心熱主義の若い美しい女で彼はあったらしい。気の荒い大胆な粗大朴茂の元始的美人を想像すればやがて彼であらう。恩納の山間に育って山姫の如く天真にして露骨なざっくばらんな豪放な女であったらしく彼は思われる。人為的束縛習慣的桎桔に身を煩はれない自由なる自然児として鳥の如く歌い獣の如く眺ぬ廻る境界に彼は仲間と共にあった。そして其仲間中の代表者として彼は随分権力を振るったであろう。彼は仲間の男女間に尊信と畏怖とを有たれていたであろう。それは紫式部や清少納言が平安時代の宮廷の男女間に尊信と畏怖を維持していた彼らの勢力と同じ勢力であったらう、女じゃと軽蔑されるような世界にあんな偉い女は育たない。

□波の聲もとまれ風の聲もとまれ首里天加那志美御機拝ま ナミヌ クィン トゥマリ カジヌ クィン トゥマリ シュユイティンガナシ ミウンチ ヲゥガマ
の作のあるのも偶然ではない。波の聲も友達の聲の如く彼の耳には響く。それ程彼は自然と親しい、そのかわり又彼は首里天加那を尊崇することの深き忠誠の念に富んだやさしい無邪気な女性でもあったけでども彼の勝気な性質は時に反抗的精神を注溢せしめて
□恩納松下に禁止の牌の建ちゅす戀ひ忍ぶまでの禁止やないさめ ウンナ マツィシタニ チジヌ フェヌ タチュスィ クイシヌブ マディヌ チジヤ ネサミ
などと云って時の内務省を嘲奔したりした。丁度与謝野晶子が文藝取締に就いて今の内務省の処置に不平して妙な歌を作ったのと同じ格である。

□僕は岩野泡鳴氏①の「半獣主義」の中に紹介してあるエマーソン②の自然論を瞥見して或る暗示を与えられた其れにこんな事が云ってある「天才が一たび高尚な情操を潜って叫び出せば山河も鳴動する草木も感泣するこういう力を得てから初めて人心を制服することも出来るまた慰籍することも出来る」云々と僕は恩納なべの名を以て伝誦さるる歌の一々にこの天才の高尚な情操より来る叫びを聞きこれらの歌に山河も鳴動せしめ本草も感泣せしめる底の力を感することが出来る

①岩野泡鳴 【いわの・ほうめい】
生年: 明治6.1.20 (1873) 没年: 大正9.5.9 (1920)
明治大正時代の詩人,作家。本名美衛。他の筆名に白滴子,阿波寺鳴門左衛門など。父直夫は阿波藩蜂須賀家の江戸詰めの直参岩野家の婿養子。母はサト。淡路島の洲本生まれ。洲本小学校,私塾を経て,明治20(1887)年大阪の泰西学館に入学。伝道師にならんとして洗礼を受けるが,21年に父と共に上京し,明治学院に入学。22年専修学校(専修大学)入学,24年には押川方義を頼って仙台神学校(東北学院)に赴き,同校教師になろうとしたが,試験の結果1年に編入させられ,26年まで在籍。27年に帰京,「魂迷月中刃」を発表するがあまり反響はなく,28年竹腰こうと結婚。31年肺結核にかかり,療養をかねて32年に滋賀県大津市に移る。英語教師をしつつ,34年詩集『露じも』を自費出版。35年東京に戻り『明星』に参加して創作活動を展開,36年には『明星』を出て相馬御風らと東京純文社を興して『白百合』を創刊。詩人として活躍するが,39年から小説に主力を注ぎ,「耽溺」(1909)で自然主義作家としての地歩を確立。しかし40年の父の没後,下宿屋を継いでから私生活に問題がおこり,42年樺太で蟹缶詰事業を始め失敗。その後,青踏社の遠藤清子との同棲,再婚,さらに青踏社の蒲原英枝との同棲,2度目の再婚などで世間の注目をあびる。<著作>『復刻版泡鳴全集』全18巻<参考文献>舟橋聖一『岩野泡鳴伝』,伴悦『岩野泡鳴―「五部作」の世界』 (コトバンク)

②ラルフ・ワルド・エマーソン(Ralph Waldo Emerson、1803年5月25日 - 1882年4月27日)は、アメリカ合衆国の思想家、哲学者、作家、詩人、エッセイスト。無教会主義の先導者。ラルフ・ウォルド・エマーソン、ラルフ・ウォルドー・エマーソン、ラルフ・ワルド・エマソン、とも呼ばれる。 英語では、エマーソンのエにアクセントがあり、エマソン、またはエマスンに近くなる。アメリカ合衆国マサチューセッツ州ボストンに生まれる。 18歳でハーバード大学を卒業し21歳までボストンで教鞭をとる。 その後ハーバード神学校に入学し、伝道資格を取得し、牧師になる。 自由信仰のため教会を追われ渡欧、ワーズワース、カーライルらと交わる。帰国後は個人主義を唱え、アメリカの文化の独自性を主張した。(ウィキペディア)





» Read More

Category: 01-人物名鑑
Posted by: ryubun02


島袋さん(左)、萌子さん

島袋百恵
1986年 沖縄県沖縄市生まれ。室川小、安慶田中
2002年 沖縄県立コザ高校入学 美術部在籍
2005年 同校卒業
2009年 沖縄県立芸術大学美術工芸学部絵画専攻卒業
      専門は日本画と版画
2009年 グループ展「ユメテン」(沖縄市)
2010年グループ「tetra works Ⅴo1」(那覇市)

□蔵書票



» Read More

Category: 01-人物名鑑
Posted by: ryubun02

□写真の町東川賞受賞作家フォーラムには2012年に沖縄県立博物館・美術館の「山田實展」を担当した大城仁美さんが参加する。

写真左から前原基男氏、戸澤裕司 氏、大城仁美さん

大城仁美
1975年、沖縄県生まれ。沖縄県立芸術大学美術工芸学部デザイン工芸学科デザイン専攻卒業。真和志高等学校教諭を経て、2007年4月より沖縄県立博物館・美術館勤務。美術館開館記念展「沖縄文化の軌跡1872-2007」、美術館開館1周年記念展「移動と表現」(2009年)、「母たちの神 比嘉康雄展」(2010年)などの企画に関わる。


写真の町東川賞受賞式に山田實さん代理で勉氏が参加。
null
null


null
null

1983年11月 野町和嘉『アフリカ最後の秘境 バハル!』

野町 和嘉(のまち かずよし、1946年10月15日 - )は、日本のドキュメンタリー写真家。高知県三原村出身。高知県立高知工業高等学校卒業後、写真家・杵島隆に師事。1971年よりフリーの写真家となる。1972年よりサハラ砂漠をはじめとした乾燥地帯の撮影を行う。1980年代後半より中近東・アジア、2002年以降はアンデスを主な撮影地域としている。1990年、写真集「ナイル」等により芸術選奨新人賞美術部門受賞。2009年、紫綬褒章受章。(ウィキペディア)




» Read More

Category: 01-人物名鑑
Posted by: ryubun02

左が宮平敏子

null
1995年8月 沖縄テレビ放送編『よみがえる戦前の沖縄』沖縄出版□宮平敏子


宮平敏子ー1955年11月 沖縄文化協会「琉球の舞踊」日本青年館、学習院、早稲田大学

null
1966年2月16日、山田写真機店2階で山田實撮影。東郷青児を前に後右から宮平敏子、吉井淳二、平良進、大城皓也。

» Read More

Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02







ジュンク堂那覇店

null
2013年10月29日~11月4日 「第2回 京都展」リウボウ6階

» Read More

Category: 01-人物名鑑
Posted by: ryubun02


松村宏優






(翁長良明コレクション)


Category: 01-人物名鑑
Posted by: ryubun02


上原栄子 うえはら-えいこ 1915-1990 昭和時代の経営者。
大正4年6月22日生まれ。4歳のとき那覇の辻遊郭にうられたが,昭和15年には娼妓(しょうぎ)数名をもつ抱え親となる。戦後の沖縄でいちはやく料亭を経営し,料亭はアメリカ映画「八月十五夜の茶屋」の舞台になった。平成2年12月9日死去。75歳。沖縄県出身。著作に「辻の華」など。(コトバンク)
Category: 01-人物名鑑
Posted by: ryubun02



大宜見小太郎 おおぎみ-こたろう
1919-1994 昭和-平成時代の舞台俳優,舞踊家。
大正8年1月2日生まれ。14年八重山千歳館の多嘉良朝成一座で初舞台。昭和15年大阪の福島エビス座で琉球演劇舞踊団を結成。21年沖縄で大伸座を結成し,古典舞踊,方言せりふ劇,琉球歌劇などを上演した。平成6年7月26日死去。75歳。沖縄県出身。本名は朝義。(コトバンク)

» Read More

Category: 01-人物名鑑
Posted by: ryubun02

null






Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02
Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02

1926年9月 『琉球年刊歌集』琉球狩社
□山城正忠「序に代へて」/琉球文学会ー山城正忠、世禮国男、松根星舟、狩社同人「琉球年刊歌集発刊之辞」
□當間黙牛/北村白楊/島袋九峯/伊豆味山人/伊竹哀灯/宮里潮洋/國吉瓦百/名嘉元浪村/照屋一男/上里堅蒲/比嘉泣汀/池宮城寂泡/新田矢巣雄/間國三郎/川島涙夢/島袋哀子/漢那浪笛/山里端月/又吉光市路/美津島敏雄/江島寂潮/西平銀鳴/山城正斉/大山潮流/池宮城美登子/星野しげる/小栗美津樹/禿野兵太/新島政之助/小林寂鳥/梅茂薫村/水野蓮子/松根星舟


□国吉真哲翁は1924年4月、山城正忠を会長に、上里春生、伊波普哲、山口三路(貘)らで琉球歌人連盟を発足させた。国吉翁はこのころ、貘と一緒に歌人連盟顧問の麦門冬を訪ねた。同年暮れに麦門冬は急死した。連盟の団結は後に『琉球年刊歌集』として結実した。25年9月の『沖縄教育』(又吉康和編集)は山城正忠が表紙題字、カット(獅子)は山口重三郎である。同年11月、真境名安興が沖縄県立沖縄図書館長に就任したころ、国吉翁は又吉康和の後任の『沖縄教育』編集人となる。又吉は沖縄県海外協会に転じた。海外協会の機関誌『南鵬』には国吉翁の詩歌が載っている。琉球新報連載「むかし沖縄」285回に国吉翁撮影の写真がある。真栄田一郎の墓前で池宮城秀意、瀬長亀次郎、城間得栄、上原美津子が写っている。真哲翁は真栄田一郎が死んだ時、姉の冬子から「弟の死顔でも良いから写真に撮って送ってほしい」との依頼を受け、棺を開け写真を撮った。戦後、瀬長はうるま新報の社長、池宮城はうるま新報専務となる。瀬長と池宮城は沖縄人民党結成に参加する。その人民党誕生の瞬間を国吉翁が記録することになる。

□1897年、今帰仁村に生まれました。本名は小那覇全孝といい、彼の本業は歯科医で、県立二中の第一期卒業生にして日本歯科医大学を卒業した秀才です。愛称を「ブーテン」で呼ばれます。第二次世界大戦の戦後復興の時代に、弟子の照屋林助と村々を回って、「命の御祝事さびら」(生きていることを祝いましょう)と呼びかけ、戦禍の傷が癒えない人々に生きる力と勇気を与えました。沖縄の漫談の祖です。三味線に乗せて世相を風刺する抱腹絶倒の漫談は天歳的です。代表作には「石川小唄」「スーヤーヌパァパァ」「盗ドゥ万才」「百歳の花風」があります。1969年に亡くなりました。享年72歳でした。 →(小那覇舞天 おなはぶーてん / ラジカル・ビスケット)

Category: 01-人物名鑑
Posted by: ryubun02

1974年1月 雑誌『青い海』第29号 伊良波晃「父・伊良波尹吉のこと」

null
2000年7月9日『琉球新報』新城栄徳(書評)ー新里堅進『奥山の牡丹』与那原町教育委員会/私と芝居との付き合いは粟国島で生まれた時からで、私の実家の近隣は首里士族の末裔だと称し集まり実家の隣に「首里福原」という集会所を造った。そこでは毎年旧正月に村芝居が上演され、私の父(新城三郎)も一度だけ「金細工」のモーサー役と二才踊りで出演、母方の伯父(玉寄貞夫)は「伊江島ハンドーグヮー」のカナーヒー役で二度も出演したと当時の記録にある。私の9歳のときには伯父が照屋林助、嘉手苅林昌を粟国に連れてきて民謡ショーを開いたという。



私は家族と11歳のとき、那覇に移り住んだ。那覇劇場、テレビの郷土劇場、沖映演劇と沖縄芝居や舞踊、特に歌劇をよく見るようになった。その間には伊良波冴子の歌劇「泊阿嘉」での思鶴役の美声は歌劇の世界を十分に楽しませてもらった。その兄の伊良波晃は一度だけ沖映近くの銭湯で一緒になった。本書の主人公の伊良波尹吉の息子と娘である。1979年3月、私たち親子は大阪御堂会館で青い海出版社主催の歌劇「伊江島ハンドーグヮー」を見た。ハンドーグヮー役は兼城道子、マチグヮーに伊良波冴子、カナーヒーに伊良波晃、船頭主に真喜志康忠、村頭が大宜見小太郎であった。


資料・兼城道子



伊良波尹吉の夫人、娘・冴子さん、孫娘

前出の歌劇と我如古弥栄作「泊阿嘉」と、尹吉作「奥山の牡丹」「薬師堂」は沖縄の四大歌劇として燦然と輝いている。人生には光があれば影もある。特に芸能はさまざまなヒダがある情念の世界で倫理だけでは捕えにくい文学・芸術と共通するものがある。本書は尹吉の沖縄に生まれたがゆえに歩んだ光と影の人生を鬼才・新里堅進を得て見事に描ききっており、中でも日本帝国の超国家主義への歩みから沖縄戦へのさりげない描写は新里でなくては描けぬものである。

本書は文字通りに与那原が生んだ「沖縄歌劇の巨星・伊良波尹吉物語」で、尹吉の足跡と沖縄演劇界の動きを網羅した詳細な年表、変遷図、関係者の証言とともに21世紀沖縄への贈り物である。
私は「むんじゅる節歌碑建立期成会」で碑文検討委員、記念誌編集委員を担当した。沖縄芸能研究家の宜保栄治郎氏、當間一郎氏、仲宗根幸市氏に原稿を依頼、記念誌に華を添えてもらった。無論、私もコラムを書いた。

null

1984年8月28日ー新里堅進「水筒」出版祝賀会

» Read More

Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02

宮平敏子



(翁長良明コレクション)


1955年12月11日『沖縄タイムス』佐藤春夫「沖縄舞踊団についてーみやらびは常若」/11月27日『沖縄タイムス』「芸能祭」

12月15日『沖縄タイムス』「文部省主催の芸術祭ー沖縄舞踊が団体入賞」

1933年1月 佐藤春夫作「世はさまざまの記」


森 桂一モリ ケイイチ
昭和期の洋画家 千葉大学名誉教授;明徳短期大学名誉学長。
生年明治37(1904)年8月10日没年昭和63(1988)年3月16日
出身地岐阜県恵那市 別名号=林人子
学歴〔年〕東京美術学校〔昭和3年〕卒
主な受賞名〔年〕勲三等旭日中綬章〔昭和49年〕
経歴昭和3年帝展初入選。27年から45年まで千葉大教授。50年から56年まで明徳短大学長。美術教育を研究するかたわら、日展委嘱洋画家としても活躍。著書に「美術教育概説」など。→コトバンク


小糸源太郎 こいと-げんたろう
1887-1978 大正-昭和時代の洋画家。
明治20年7月13日生まれ。東京美術学校(現東京芸大)在学中に文展入選,昭和5年,6年に帝展で連続特選となる。官展の審査員,光風会会員として活躍し,29年「春雪」などで芸術院賞。40年文化勲章。昭和53年2月6日死去。90歳。東京出身。作品はほかに「山粧ふ」「繚乱(りょうらん)」など。 →コトバンク

» Read More

Category: 01-人物名鑑
Posted by: ryubun02





与世山澄子
ジャズシンガー、1940年生まれ、沖縄県八重山郡の小浜島出身
ビリー・ホリデイをほうふつとさせる歌声で知られるジャズ・シンガー、マル・ウォルドロンとの共演作もあり、20年ぶりの新作「インタリュード」では菊池成孔、南博、安カ川大樹がバックをつとめ、パードン木村がプロデューサーとしてZAKがエンジニアとして参加した。→はてなキーワード
(翁長良明コレクション)
Category: 01-人物名鑑
Posted by: ryubun02
nullnull
末吉麦門冬/2002年2月27日『沖縄タイムス』
Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02



2007年 沖縄県立博物館・美術館『沖縄文化の軌跡1872-2007』
新城栄徳「麦門冬の果たした役割」
□安恭の琉球風俗にふれた随筆は1915年の『琉球新報』「薫風を浴びて」が最初であるが、美術評論を試みたのは1912年である。第6回文展に入選した山口瑞雨作「琉球藩王」を見た安恭は『沖縄毎日新聞』で「王の顔に見えた表情は無意味であり無意義である。冠がどうのといっては故実家の後塵を拝するに過ぎない。作者が琉球と目ざす以上はもっと深く強く琉球人の歴史、民情、個性を研究してから筆を執らねばならなかった」と酷評。しかし長嶺華国に対しては「翁の存在は私に希望と自信と栄誉とを載せしむるに充分である」と理屈抜きで讃美している。
1911年7月27日『沖縄毎日新聞』麦門冬「忘られぬ華國會」

 華國翁は本県が琉球王国であった時代に生んだ最後の丹青家の一人である。即ち琉球王国が生んだ画家の一番末の子である、そして日本帝国の一部たる沖縄県が旧琉球から引継に譲り渡された一の誇りたるべき美術家の一人である。これだけでも私は華國會に臨んで私に希望と自信とを感せしむるに充分であるが、その上に私は華國翁と同じ字に生まれ幼年時代から其顔を知っていて華國翁というえらい画家は私の頭に古い印象を留めていると云ふ関係もあるから今度の華國會の席上に於いて私の肩身に猶更に広くならざるを得ない。私は南香主筆から今日華國會が若狭町の山城(正忠)医院で開かれるそうだから君行って見ないかと云はれた時にも私は疾うに行くと云ふことを極めてる様な気分で社を出てた。(略)私は小さい時から絵が大好きであった、探幽とか雪舟とか趙子昂とか自了とか云ふ名は私の耳には音楽のような囁きとなりそれからこれ等の名家に対する憧憬の念は私の頭に生長して段々大きく拡がっていって私自身が遂に雪舟になりたい探幽になりたいと云ふような空想をなした時代もあったがそれはすぐに或事情の為に打ち消されてしまったがそれでも猶私にはこれ等の名家の残した作物に対する憧憬崇重の念はやまない。何とかしてこれ等の名画を私の手に入れて、私がそれと日夕親しまれるようになって見たいと思ったこともある。今でもやっぱり思っている。・・・
 麦門冬が、私は華国翁と同じ字というのは首里は儀保村のことである。1960年10月の『琉球新報』に中山朝臣が「麦門冬作の『儀保の大道や今見れば小道、かんし綱引きゃめ儀保の二才達』を紹介。儀保は平地に恵まれ『儀保大道』は首里三平でも自他共に認められた大通りであった。この村の二才達(青年達)は総じて磊落、飲み、食い、歌い、踊り傍若無人の振舞で鳴らしたものである。したがって儀保村の綱引きは道路と二才達の心意気に恵まれて荒っぽい綱として有名だったという」。朝臣は11月にも麦門冬が那覇泉崎で愛妻を失って『無蔵や先立てて一人この五界に、酒と楽しみることの恨めしや』も紹介している。

□1983年1月、鎌倉の畢生の著『沖縄文化の遺宝』(岩波書店)が第10回伊波普猷賞を受賞したとき、鎌倉は談話として「沖縄美術や沖縄文化の手解きを私にしてくれた偉大な文化人、末吉安恭氏にふれたい。末吉氏に出会わなかったら、この本は世に出なかったかもしれません」と述べている。
□金城美奈子(沖縄文化の杜共同企業体・企画事業部)
東京生まれ。復帰後帰沖。高校卒業まで、国頭村で過ごした。永山信春①の画塾に通う。東京で画廊を営む叔父の影響などもあって、別府大学美術史学科に進む。同校卒業し愛媛県の私立美術館「高畠華宵大正ロマン館」の学芸員。95年秋、田河水泡「のらくろ四国上陸」企画展で出版社から未整理状態の段ボール5箱の原画が届いた。借りた全作品を資料として整理するのに半年かかった。展示したのは150点余だが好評であった。その後も漫画展や宝塚展など、大正から昭和にかけての大衆文化にかかわる展示会に参画してきた。調査や研究ばかりでなく、ミュージアム・ショップの商品や喫茶室のメニューも考えた。
□①永山信春(1939年、南大東村生まれ。琉球大学美術工芸科卒。すわ絵画道場主宰)1959年1月 那覇琉米文化会館「琉大美術クラブ絵画展」(永山信春、神山泰治、宮城孝也、平良晃、喜久村徳男、比嘉良仁、山城見信、大城宏捷、安元賢治ほか)

1981年 沖縄の雑誌『青い海』秋季号 永山信春「青い海ギャラリー/没落感覚」
帰沖し、高校の美術教諭をへて、沖縄文化の杜共同企業体に入社。2008年に沖縄県立博物館・美術館初の個展として話題になった「哀愁と血の造形 嘉手川繁夫の世界」展を担当。2009年「豊潤の美を求めて 金城安太郎と高畠華宵」、2009年「琉球絵画展~琉球王朝から近代までの絵画」、2010年「沖縄マンガ展」、2011年「生誕100年記念展 岡本太郎と沖縄ーここが世界の中心だー」、2012年「本土復帰40周年記念 田中一村展ー琉球弧で開花した美の世界」などを担当した。高畠華宵大正ロマン館の「大正イマジュリイ学会」会員。


写真ー沖縄県立博物館・美術館指定管理者 文化の杜共同企業体・金城美奈子さん


2009年7月『琉球絵画展』金城美奈子□「琉球絵画」の今日的意義ー(略)戦前、琉球の美術史研究の先駆けtなった長嶺宗恭(華国)、末吉安恭(麦門冬)、比嘉朝健、鎌倉芳太郎、伊東忠太、真境名安興、比嘉景常らが残した論考や調査研究資料は、現在でも貴重な基礎文献となっている。戦後、見識ある一部の研究者らがこれらの成果をふまえ、埋もれた絵師たちに光を当て、その発掘に尽力したことは、沖縄の美術史研究の大きな成果である。(略)1929年、平凡社から発行された『世界美術全集』には、鎌倉芳太郎、伊東忠太によって世界の絵画と同等に琉球の絵画や工芸、建築などが紹介されている。(略)戦前、伊東や鎌倉は琉球の芸術を世界の中に位置づけようと努めた。このことは現代に持ち越された沖縄の美術史の大きな課題である。
□麦門冬や鎌倉芳太郎の琉球美術史を、金城美奈子は大胆といおうか強引にも「琉球絵画展」として提示して見せた。後は琉球の芸術を世界の中にどう位置づけようとするかは若い世代に譲るべき課題かも知れない。
Category: 01-人物名鑑
Posted by: ryubun02
「沖縄・烽火のネットワーク連絡会」代表・島袋和幸(〒124-0011 葛飾区四ツ木4-18-10 携帯090-4920-6952)





(財)わびあいの里『伊江島通信』第8号 〒905-0502 伊江村東江前2300-4 ☎0980-49-3047



「沖縄・烽火のネットワーク連絡会」代表・島袋和幸(〒124-0011 葛飾区四ツ木4-18-10 携帯090-4920-6952)氏が全国の烽火跡などを訪ねた折に出会った蘇鉄。


秋田県潟上市羽白目<烽・とぶひ>遺跡ー古代の烽火場として唯一とも言われる遺跡


上の遺跡は現在 大沢さんの持ち山で、奥さんの右手前には蘇鉄が鎮座している。

2013年6月 『沖縄の軌跡』第102号 「関東大震災虐殺事件 大正12年9月1日 秋田県人・三重県人・沖縄三県人殺害の<検見川事件>の真相」/2013年7月17日『秋田魁新報』■北斗星ーこの連休中、沖縄県生まれで東京都在住の島袋和幸さん(65)は横手市内を歩き回った。関東大震災の混乱の中で命を落とした『旧横手町の藤井さん』の手掛かりを探すためだこの連休中、沖縄県生まれで東京都在住の島袋(しまぶくろ)和幸さん(65)は横手市内を歩き回った。関東大震災の混乱の中で命を落とした「旧横手町の藤井さん」の手掛かりを探すためだ。当時26歳の藤井さんは地震4日後の1923年9月5日、現在の千葉市で自警団に捕らえられて殺され、川に捨てられた。手を下した数人は有罪となり、事件は一部新聞で報道されたが、遺体は海に消えたと思われる震災後、「朝鮮人暴動」の流言が広まり、不安に駆られた住民らの手で多くの朝鮮人が殺されたことは広く知られている。だが、言葉になまりのある地方出身者が朝鮮人と誤認され、犠牲になる事件が続発したことは、あまり知られていない藤井さんと一緒に沖縄県人と三重県人も犠牲になっている。仕事を持ちながら歴史の発掘に取り組んでいる島袋さんは、当時の新聞にある3人の出身地と名前を頼りに親類捜しを続ける。だが沖縄と三重では手繰った糸が途切れ、遺族にたどり着けなかった藤井さんは横手から稼ぎに出た東京で地震に遭い、避難途中に居合わせた2人と共に犠牲になった、というのが島袋さんの見立てだ。郷里の縁者たちは、藤井さんがなぜ亡くなったか、知ることができただろうか島袋さんは「朝鮮人も日本人も、犠牲者の多くは名前さえ分かっていません。そのうちの一人の遺族でも突き止めて供養ができれば、亡くなった人も浮かばれるはずです」と話す。今年は震災から90年である。



» Read More