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Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02
「江戸上り」研究家・佐渡山安治
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後左ー佐渡山安治氏

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麦門冬・末吉安恭の甥/佐渡山安治著作目録(抄)
1935年  『紫煙』 佐渡山安治「俳諧からみた煙草」
1942年『日本及日本人』3月号 佐渡山生「楓橋夜泊の詩」/『日本及日本人』8月号 莫生「アルコールの原料」「鼓山の禅師」/『日本及日本人』9月号 莫生「生味噌の效」
1943年『日本及日本人』5月号 莫生「琉球馬」
1974年 5月ー『琉球の文化』第5号「辻の話(佐渡山安勇遺稿)」
1975年3月16日ー『沖縄タイムス』「茶のみ話ー琉球の棋客」/7月13日ー『沖縄タイムス』「墨俣宿の灯籠」
1976年3月13日ー『沖縄タイムス』「茶のみ話ー琉球塚」/7月2日ー『沖縄タイムス』「茶のみ話ー程順則の片りん」/7月20日ー『沖縄タイムス』「茶のみ話ー唐海賊情報」
1977年/3月15日ー『沖縄タイムス』「『富士山の漢詩』について」/ 6月ー『沖縄タイムス』「茶のみ話ー行路難」/8月18日ー『沖縄タイムス』「茶のみ話ー雅懐」/12月ー『沖縄タイムス』「茶のみ話ー伊波普猷の憤慨」
1978年1月10日ー『沖縄タイムス』「ブサーばなし」/ 5月25日ー『沖縄タイムス』「『江戸上り』の吟行と萍水奇賞」
1979年5月17日ー『沖縄タイムス』「風禍」
1980年 8月ー『沖縄アルマナック』「江戸上り賛歌」
1982年11月22日ー『沖縄タイムス』「鞆の浦哀歌ー琉球司楽向生碑を訪ねて」/11月27日ー『沖縄タイムス』「茶のみ話ー花売りの縁作者考」

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森銑三①→佐渡山安治宛葉書
森 銑三モリ センゾウ-大正・昭和期の書誌学者,随筆家
生年明治28(1895)年9月11日 没年昭和60(1985)年3月7日
出生地愛知県碧海郡刈谷町(現・刈谷市)
学歴〔年〕文部省図書館講習所〔大正15年〕卒
主な受賞名〔年〕読売文学賞(第23回・研究翻訳部門)〔昭和46年〕「森銑三著作集」
経歴郷里の刈谷図書館開館に伴い寄贈された国学者・村上忠順の蔵書整理・目録編纂に従事。東京大道社、代用教員、市立名古屋図書館などを経て、東京帝大史料編纂所勤務。この間、三古会、伝記学会などを創立。昭和14年尾張徳川家・蓬左文庫主任。近世の埋もれた人物の発掘、研究に力を注ぎ、在野の歴史家として「平賀源内」「渡辺崋山」「池大雅」ら多くの人物研究、伝記を手がけたが、戦災により一切の研究資料を焼失し人物研究を断念。23年古典籍商である弘文荘に入社。傍ら、25〜40年早稲田大学講師として書誌学を講じたが、その間“西鶴の浮世草子は「好色一代男」だけで他は西鶴自身の著作ではない”と論じて学界に波紋をまき起こした。主著に「近世文芸史研究」「おらんだ正月」「井原西鶴」「明治東京逸聞史」などがあり、「森銑三著作集」(全12巻・別巻1 中央公論社)、「森銑三著作集続編」(全16巻・別巻1)がある。→コトバンク





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Posted by: ryubun02
先週、15日、京都大学の学生、教員、職員の有志(自由と平和のため京大有志の会)が、安保法案に反対して、韻文調の(詩のような)声明文を発表した、それが感動を呼び賛同の波が広がっている。そこで「みどり風通信 独立22号」として皆様にご紹介すると同時に記録の為に書き残す事とした。
「みどり印刷」ここをクリック

戦争は、防衛を名目に始まる。
戦争は、兵器産業に富をもたらす。
戦争は、すぐに制御が効かなくなる。

戦争は、始めるよりも終えるほうが難しい。
戦争は、兵士だけでなく、老人や子供にも災いをもたらす。
戦争は、人々の四肢だけでなく、心の中にも深い傷を負わせる。


精神は、操作の対象物ではない。
生命は、誰かの持ち駒ではない。


海は、基地におしつぶされてはならない。
空は、戦闘機の爆音に消されてはならない。


血を流すことを貢献と考える普通の国よりは
知を生み出すことを誇る特殊な国に生きたい。


学問は、戦争の武器ではない。
学問は、商売の道具ではない。
学問は、権力の下僕ではない。


生きる場所と考える自由を守り、創るために、
私たちはまず、思い上がった権力にくさびをうちこまなくてはならない。



自由と平和のための京大有志の会
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Posted by: ryubun02
1月 親泊朝擢『沖縄県案内』発行/仲吉朝主、印刷/三秀舎「新聞雑誌ー琉球新報、沖縄毎日新聞、沖縄新聞、発展、撫子新聞、福音、沖縄教育、おきなは、演劇週報」 

1月 横山健堂『薩摩と琉球』
1月 島津長丸男爵、観光で来沖
1月 那覇松田橋の傍で徳田鉄工所設立
1月 我謝盛翼、おきなは社に記者として入社

3月 『おきなは』第2巻第3号□口絵写真「二十余年前の沖縄の名士ー美里親方、波上宮司保榮茂、玉城按司、美里按司、護得久朝惟、尚順、勝連按司、今帰仁朝和、高嶺朝申、知花朝章、伊是名朝睦、大城朝詮、大田朝敷、高嶺朝教」
    卒業生諸君へ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(1)
    鬼が島漂流実話ー危うく一命を助かりし奇談 台湾遭難者の一人 島袋松 伊波文学士の写真・・・・・・・・2
    照屋君はどうして大学に入る気になったか・・・・・おきなは社顧問・伊波普猷・・・・・・6
    沖縄演習実記・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・従軍記者・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・8 

6月2日  『琉球新報』「更衣・座喜味夢香ー桃紅季白去

 6月3日   『琉球新報』「末吉麦門冬入社」「故尚泰侯令姉(末吉御殿)葬儀」「母葬式ー男・與那城朝俊、孫・與那城朝敬、次男・與那城朝永、孫・與那城朝淳、親戚・読谷山朝法、識名朝信、佐渡山安亮、尚順、伊江朝眞、読谷山朝慶」 高相杰「送春有感」「薬師吾吉ー転地療養のため鹿児島へ」「球陽座ー歌劇ハワイ行、狂言爬龍船」「中座ー歌劇 新夫婦電車の初乗り、琉球と為朝(弓張月)」 
6月4日   『琉球新報』「金口木舌ー近頃加奈陀では日本人の漁業権剥奪を企てるし、又仝地コロンビヤでは印度人支那人と共に日本人の入国拒絶をやって居る・・・」「首里喜舎場朝賢翁琉球見聞録発売ー沖縄毎日新聞名城嗣治へ」「サクラビール王冠(口金)5個で活動写真が見られます」

7月1日『琉球新報』「中座ー琉球史劇・察度王/歌劇・残花の錦き」「球陽座ー歌劇・松之精/喜劇・主人が留守/琉球古事・南山昔物語」
7月3日『琉球新報』笑古「初夏遊奥山」
7月4日『琉球新報』「常設活動写真帝国館ー実写・京都北野神社と平野の桜」
7月7日『琉球新報』「琉球歌壇ー草秋選」
7月11日『琉球新報』「漢詩ー潤色者・高相杰」「琉球歌壇ー草秋選」

7月18日『琉球新報』「常設活動写真帝国館ー実写彩色・エジプト古跡アラビヤ風俗/新派探偵大冒険・噫名探偵」
7月26日『琉球新報』麦門冬「弔薬師楽山君-

7月30日『琉球新報』「常設活動写真帝国館ー実写・大阪南地芸者/実写・夏のモスコー/日本喜劇・ピリケン」
8月1日『琉球新報』「常設活動写真帝国館ー実写・京都清水寺/実写・米国ダーリング燐寸製造所大火」、琉球歌壇ー草秋選 らくこう『球陽座を見て』」
8月3日『琉球新報』「琉球歌壇ー草秋選 らくこう『中座の「さんげ劇』を見て』」

8月8日『琉球新報』「中座ー創立紀念興行長者ノ大主/旧喜劇・二人大名/踊リ・金細工/組踊・執心鐘入/踊リ・交遊/新喜劇・黄金一枚/歌劇・瀬長詣リ/踊リ・ムンズル笠/踊リ・諸純/組踊・花売之縁/組踊・二童敵討/踊リ・萬歳/踊リ・天川」

8月16日『琉球新報』「俳紫電」
8月18日『琉球新報』「俳紫電」
8月19日『琉球新報』「俳紫電」

8月20日『琉球新報』「専修大学 学生募集」「俳紫電」
8月21日『琉球新報』「俳紫電」

8月22日『琉球新報』「森屋本店ー和洋楽器類開店」「俳紫電」
8月23『琉球新報』「球陽座ー歌劇・人生の春/琉球史劇・宝剣地金丸 京阿波根出世伝」「常設活動写真帝国館ー日本喜劇・未来の芸者/実写・ナイヤガラ瀑布/実写・空中飛行船」「俳紫電」


8月25『琉球新報』「明治大学 学生募集」「俳紫電」

8月28『琉球新報』「中央大学 学生募集」「俳紫電」
8月29日『琉球新報』「俳紫電」

8月30日『琉球新報』「俳紫電」


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Posted by: ryubun02

1914年1月1日『沖縄毎日新聞』俳諧小僧(末吉安恭)「俳諧 鼠の句」
○俳諧 鼠の句ー子年に縁みて鼠の句を集めて見た。参考書が少ないので沢山は集め得なかった今人の句は成可く採らぬことにして主として古人のを採ったのは句の巧拙を以て論せずに古いのが有難いといふ骨董味から出た為めである。それから新年の鼠に嫁が君と云ふ異称があるが、それは俳諧では独立の題になっているので茲にはわざと省いたのである。


1月 親泊朝擢『沖縄県案内』発行/仲吉朝主、印刷/三秀舎「新聞雑誌ー琉球新報、沖縄毎日新聞、沖縄新聞、発展、撫子新聞、福音、沖縄教育、おきなは、演劇週報」 

1月 横山健堂『薩摩と琉球』
1月 島津長丸男爵、観光で来沖
1月 那覇松田橋の傍で徳田鉄工所設立
1月 我謝盛翼、おきなは社に記者として入社

3月 『おきなは』第2巻第3号□口絵写真「二十余年前の沖縄の名士ー美里親方、波上宮司保榮茂、玉城按司、美里按司、護得久朝惟、尚順、勝連按司、今帰仁朝和、高嶺朝申、知花朝章、伊是名朝睦、大城朝詮、大田朝敷、高嶺朝教」
    卒業生諸君へ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(1)
    鬼が島漂流実話ー危うく一命を助かりし奇談 台湾遭難者の一人 島袋松 伊波文学士の写真・・・・・・・・2
    照屋君はどうして大学に入る気になったか・・・・・おきなは社顧問・伊波普猷・・・・・・6
    沖縄演習実記・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・従軍記者・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・8 

6月2日  『琉球新報』「更衣・座喜味夢香ー桃紅季白去

 6月3日   『琉球新報』「末吉麦門冬入社」「故尚泰侯令姉(末吉御殿)葬儀」「母葬式ー男・與那城朝俊、孫・與那城朝敬、次男・與那城朝永、孫・與那城朝淳、親戚・読谷山朝法、識名朝信、佐渡山安亮、尚順、伊江朝眞、読谷山朝慶」 高相杰「送春有感」「薬師吾吉ー転地療養のため鹿児島へ」「球陽座ー歌劇ハワイ行、狂言爬龍船」「中座ー歌劇 新夫婦電車の初乗り、琉球と為朝(弓張月)」 
6月4日   『琉球新報』「金口木舌ー近頃加奈陀では日本人の漁業権剥奪を企てるし、又仝地コロンビヤでは印度人支那人と共に日本人の入国拒絶をやって居る・・・」「首里喜舎場朝賢翁琉球見聞録発売ー沖縄毎日新聞名城嗣治へ」「サクラビール王冠(口金)5個で活動写真が見られます」

7月1日『琉球新報』「中座ー琉球史劇・察度王/歌劇・残花の錦き」「球陽座ー歌劇・松之精/喜劇・主人が留守/琉球古事・南山昔物語」
7月4日『琉球新報』「常設活動写真帝国館ー実写・京都北野神社と平野の桜」
711日『琉球新報』「漢詩ー潤色者・高相杰」「琉球歌壇ー草秋選」

7月18日『琉球新報』「常設活動写真帝国館ー実写彩色・エジプト古跡アラビヤ風俗/新派探偵大冒険・噫名探偵」
7月30日『琉球新報』「常設活動写真帝国館ー実写・大阪南地芸者/実写・夏のモスコー/日本喜劇・ピリケン」
8月1日『琉球新報』「常設活動写真帝国館ー実写・京都清水寺/実写・米国ダーリング燐寸製造所大火」
8月8日『琉球新報』「中座ー創立紀念興行長者ノ大主/旧喜劇・二人大名/踊リ・金細工/組踊・執心鐘入/踊リ・交遊/新喜劇・黄金一枚/歌劇・瀬長詣リ/踊リ・ムンズル笠/踊リ・諸純/組踊・花売之縁/組踊・二童敵討/踊リ・萬歳/踊リ・天川」
8月20日『琉球新報』「専修大学 学生募集」
8月22日『琉球新報』「森屋本店ー和洋楽器類開店」
8月23『琉球新報』「球陽座ー歌劇・人生の春/琉球史劇・宝剣地金丸 京阿波根出世伝」「常設活動写真帝国館ー日本喜劇・未来の芸者/実写・ナイヤガラ瀑布/実写・空中飛行船」

8月25『琉球新報』「明治大学 学生募集」
8月28『琉球新報』「中央大学 学生募集」

9月2日『琉球新報』「我海軍の精華▽悉是れ良智驍勇」「常設活動写真帝国館ー女馬賊」
9月4日『琉球新報』「太平洋に於ける独墺洪海軍力」
9月5日『琉球新報』「常設活動写真帝国館ー実写着色・ベルサイユ宮殿」
9月6日『琉球新報』「中座ー琉球史劇・黒金座主(電気応用)、踊り・七月ゑひさあ、歌劇・可憐児(継親念仏)」
9月12日『琉球新報』「球陽座ー琉球史劇・琉球と薩摩」「常設活動写真帝国館ー実写・ピスピユス山噴火」
9月14日『琉球新報』「本社記者 渡口政成退社し沖縄民報社に入社」
9月15日『琉球新報』「『月刊雑誌 五人』ーダヌンチョの死せる街ー嘉手川重利/白き血ー山城正忠/脚本時計ー上間正男/小説題未定ー安次嶺栄裕/芭蕉の恋ー末吉麦門冬/本県婦人観ー美鳩楓渓/希臘思想ー仲吉良光/音楽論ー矢野勇雄/小説帽子ー池宮城寂泡/題未定ー漢那浪笛/サヨリ釣ー潮東庵主人/完成の人孔子ー山田有幹」
9月18日『琉球新報』「粟国事情」「斎藤用之助島尻郡長令弟、中頭郡書記・斎藤熊太郎死去、」

9月26日『琉球新報』素位「泡津海記ーテラの岩屋、日本一の墓、マハナ崎」「球陽座ー琉球史劇・普天間権現之由来記」
10月3日 『琉球新報』「常設活動写真帝国館ー実写・ノールウェ汽車旅行」「球陽座ー喜利 狂言・伊賀の水月(荒木又右エ門武勇伝)渡嘉敷守禮脚色 」
10月8日 『琉球新報』清村泉水「宮古女性史」①
10月11日 『琉球新報』「三越の新館成る」「常設活動写真帝国館ー実写・伊多利シシリー市街」」「球陽座ー琉球史劇・大濱赤八」
10月15日 『琉球新報』らくこう「琉球歌壇 印度古詩まはばらだ物語を読みて(1)ー我が情我れの衣につつみ行くシャンタヌ王の面白きかな/この河を渡らん人に舟漕かん王者も渡れ乞食人も/絶ち難き情の絆王もなほ黒き瞳の忘れかねつも/天人は樂を奏しぬ花降りぬ若きピスマの願ひの浄きに/仙人の神通力もいかにせむ美人を見て破れけるかも/呪はるることの恐ろしサチヤワチは岸の浮草靡かんとする/十万の矢を空中に射返して流れを下る婿選ひ舟」

10月17日 『琉球新報』「悲惨極まるラサ島移民①」「球陽座ー大喜利・英雄ト美人ーナポレオン(真境名由孝土産)」
10月21日 『琉球新報』らくこう「琉球歌壇 印度古詩まはばらだ物語を読みて(2)ーカミアカの森に入りぬる一千の宮女の群よ夕日春●/五王子は雲を支へて立てるてふサミが木ぬれに刃隠しぬ/あはれなるドラウバテイの艶なるに王妃はめでぬ且つ嫉みつつ/美しき者にともなふ禍を神よ解き去れドラウバテイに/兄嫁の為めにはかりて猛きピーマ敵を取りぬ肉丸にして/アルジユナは怖るる所ろ更にな●一騎手に持つカンデイワの弓/クリシナは高く叫びぬ天神地祇我と共にあり愚かなもの哉/武士の魂さこうカルナ行かず仕ふる家と運を共にせむ」

□『マハーバーラタ』(サンスクリット語: महाभारतम् Mahābhārata)は、古代インドの宗教的、哲学的、神話的叙事詩。ヒンドゥー教の聖典のうちでも重視されるものの1つで、グプタ朝の頃に成立したと見なされている。「マハーバーラタ」は、「バラタ族の物語」という意味であるが、もとは単に「バーラタ」であった。「マハー(偉大な)」がついたのは、神が、4つのヴェーダとバーラタを秤にかけたところ、秤はバーラタの方に傾いたためである。→ウィキペディア

10月31日 『琉球新報』「秦蔵吉、樺山氏主宰の沖縄社に入社」

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Posted by: ryubun02
1913年1月1日『沖縄毎日新聞』俳諧小僧(末吉安恭)「俳諧 牛の國」
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1914年1月3日『沖縄毎日新聞』俳諧小僧(末吉安恭)「俳諧 牛の國俳諧」「毎日二句」

1914年1月5日『沖縄毎日新聞』俳諧小僧(末吉安恭)「続俳諧 牛の国」「毎日二句」
1914年1月7日『沖縄毎日新聞』俳諧小僧(末吉安恭)「続俳諧 牛の国」「毎日二句」


1913年2月8日『沖縄毎日新聞』獏族「川柳 車上偶吟」
1913年2月11日『沖縄毎日新聞』獏族「川柳 車上偶吟ー章魚ゆでて爺は風呂を上けり」
1913年2月13日『沖縄毎日新聞』獏族「川柳 車上偶吟ー火事」
1913年2月15日『沖縄毎日新聞』獏族「川柳 車上偶吟ー火事 山火事」

1913年2月19日『沖縄毎日新聞』獏族「川柳 車上偶吟ー詠史 猪早太」

1913年2月20日『沖縄毎日新聞』獏族「川柳 車上偶吟ー居候」

1913年2月26日『沖縄毎日新聞』獏族「川柳 車上偶吟ー泥濘」




1913年3月2日『沖縄毎日新聞』獏族「川柳 車上偶吟ー巫女」




1913年3月5日『沖縄毎日新聞』玉代勢法雲「病室より」①

1913年3月6日『沖縄毎日新聞』俳諧小僧(末吉麦門冬)「俳句に現はれたる巫女(1)」
○時節柄沖縄のユタとは少し異なれども本土の巫女一名神子それも我俳諧の畑に出てたるものを一寸紹介して見よう。序に注釈まで附け加えて置く

河内路や東風吹き送る巫女が袖       蕪村
河内路と云ふと何だか暖かい野道を連想する一望尽きざる長い道が通って所々にポッチリと菜の花が咲きこぼれている。野川の薄氷も漸う融けかかり一体の空気が裕ったりと落着いた気分で道行く人の足の歩みも自づと緩りになるこの背景を前にして芝居なら花道から白衣の長い袖をひるがえして若い巫女が東風に吹き送られて出て来る袖がひらひら裳裾がほらほら丁度土蜘の狂言に出る巫女のやうな装ひであらう薩張りした清い感じのする句振りである作者蕪村は巫女が好きだったと見えて此外にも二三種作ってある。

1913年3月7日『沖縄毎日新聞』俳諧小僧(末吉麦門冬)「俳句に現はれたる巫女(2)」
○春風や廻廊下る巫女か袖         満米
今しも神楽堂で神すずしめの朝神楽が終わり古香人を襲ふて幽然たる社殿を廻りて更に続く廻廊を小忌衣の袖長う垂れシュツシュツと衣すれの音して下り来るみこの姿は端厳なるかなかかる時けにや彼女は人間の物にあらず白鳩のやうな神の使いのやうな思ひに人をして振り仰いて恍惚たらしむ春風吹いて普き洛陽の天地この境にこの景あり。

1913年3月8日『沖縄毎日新聞』俳諧小僧(末吉麦門冬)「俳句に現はれたる巫女(3)」
○巫女町によき衣すます卯月かな      蕪村
卯月は旧暦の四月初夏の候である目に青葉山ほととぎす初鰹は江戸趣味であるがこれは京都の方邊の閑静なとある町この界隈はミコの住家が多いのでミコ町の称もある位夜は卯の花月夜にホゾンカケタカ杜鵑の聲も聞こえる所であろう。夜半亭蕪村●日この町をブラリと通りのけようとして兎ある門に逢着した卯の花の垣越しにフト見入るれば此処がミコの家であって丁度一人の女が着物を洗濯してまさに竿に通す所であったそれが清い感じのする綺麗な衣であった主の齢は五十許り打見にはまだ若い卯月の一日場所俳味津々として尽きず遂に村翁薬籠の物となった。



1913年7月5日『沖縄毎日新聞』南村「禁煙日誌ー煙草を吸い始めたのは確か16才の頃であったと記憶する・・・」
1913年7月8日『沖縄毎日新聞』南村「禁煙日誌ー中学での昼食時間は僕等喫煙党の最も楽しい1時間であった・・・」

1913年7月9日『沖縄毎日新聞』南村「禁煙日誌」
1913年7月10日『沖縄毎日新聞』南村「禁煙日誌」
1913年7月23日『琉球新報』松濤「菊栽培法に就いて」(1)
1913年7月24日『琉球新報』松濤「菊栽培法に就いて」(2)
1913年7月25日『琉球新報』松檮濤「菊栽培法に就いて」(3)


1913年7月27日『琉球新報』松濤「菊栽培法に就いて」(4)
1913年7月29日『琉球新報』松濤「菊栽培法に就いて」(5)
1913年8月1日『琉球新報』松檮濤「菊栽培法に就いて」(6)
1913年8月5日『琉球新報』松濤「菊栽培法に就いて」(7)
1913年8月6日『琉球新報』松濤「菊栽培法に就いて」(8)
1913年8月8日『琉球新報』松濤「菊栽培法に就いて」(9)
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以下は『映画春秋』創刊号。1946(昭和21)年8月発刊よりの抄録(抜書き)である。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 最近、自由映画人連盟の人たちが映画界の戦争責任者を指摘し、その追放を主張しており、主唱者の中には私の名前も混じってるということ聞いた。それがいつどのような形で発表されたのか、くわしいことはまだ聞いていないが、それを見た人たちが私のところに来て、あれは本当に君の意見かときくようになった。

 そこでこの機会に、この問題に対する私の本当の意見を述べて立場を明らかにしておきたいと思うのであるが、実のところ、私にとって、近頃この問題ほどわかりにくい問題はない。考えれば考えるほどわからなくなる。そこで、わからないというのはどうわからないのか、それを述べて意見のかわりにしたいと思う。

 多くの人が、今度の戦争で騙されたという。みながみな口を揃えて騙されたという。私の知っている範囲では俺が騙したのだといった人間はまだ一人もいない。ここらあたりから、もうぼつぼつわからなくなってくる。多くの人は騙したものと騙されたものとの区別は、はっきりしていると思っているようであるが、それが実は錯覚らしいのである。たとえば、民間のものは軍や官に騙されたと思っているが、軍や官の中へ入ればみな上の方をさして、上から騙されたというだろう。上の方へ行けば、さらにもっと上の方から騙されたというにきまっている。すると、最後にはたった一人か二人の人間が残る勘定になるが、いくら何でも、わずか一人か二人の智慧で一億の人間が騙せる訳のものではない。

 すなわち、騙していた人間の数は、一般に考えられているよりもはるかに多かったにちがいないのである。しかもそれは、「騙し」の専門家と「騙され」の専門家とに画然(ぴったりと)と分かれていたわけではなく、いま、一人の人間が誰かに騙されると、次の瞬間には、もうその男が別の誰かを捕まえて、騙すというようなことを際限なく繰り返していたので、つまり日本人全体が夢中になって互いに騙したり騙されたりしていたのだろうと思う。

 このことは、戦争中の末端行政の現れ方や、新聞報道の愚劣さや、ラジオのばかばかしさやさては、町会、隣組、警防団、婦人会といったような民間の組織いかに熱心にかつ自発的に騙す側に協力していたかを思い出してみれば直ぐわかることである。

少なくとも戦争の期間をつうじて、だれが一番直接に、そして連続的に我々を圧迫し続けたか、苦しめ続けたかということを考えるとき、だれの記憶にも直ぐ蘇ってくるのは、直ぐ近所の小商人の顔であり、隣組長や町会長の顔であり。あるいは郊外の百姓の顔であり、あるいは区役所や郵便局や交通機関や配給機関などの小役人や雇員や労働者であり、あるいは学校の先生であり、といったように、我々が日常的な生活を営むうえにおいていやでも接触しなければらない、あらゆる身近な人々であったということは、いったい何を意味するのであろうか。

 いうまでもなく、これは無計画なテン狂戦争(キチガイジミタセンソウの意、テン=やまいだれに旧漢の真に頁)の必然の結果として、国民同士が相互に苦しめ合うことなしには生きて行けない状態に追い込まれてしまったためにほかならぬのである。そして、もしも諸君がこの見解の正しさを承認するならば、同じ戦争の間、ほとんど全部の国民が相互にだまし合わなければ生きて行けなかった事実をも、等しく承認されるに違いないと思う。

騙されるという事は勿論知識の不足からもくるが、半分は信念すなわち意思の薄弱からくるのである。我々は昔から「不明を謝す」という一つの表現を持っている。これは明らかに知能の不足を罪と認める思想にほかならな。つまり、騙されることも一つの罪であり、昔から決していばっていいこととは、されていないのである。

 騙すものだけでは戦争は起こらない。騙すものと騙されるものとがそろわなければ戦争は起こらないということになると、戦争の責任もまた(たとえ軽重の差はあるにしても)当然両方にあるものと考えるほかはないのである。

 そして騙されたものの罪は、ただ単に騙されたという事実そのものの中にあるのではなく、あんなにも造作なく騙されるほど批判力を失い、思考力を失い、家畜的な盲従に自己の一切を委ねるようになってしまっていた国民全体の文化的無気力、無自覚、無責任などが悪の本体なのである。

このことは、過去の日本が、外国の力なしには封建制度も鎖国制度も独力で打破することが出来なかった事実、個人の基本的人権さえも自力でつかみ得なかった事実と全くその本質を等しくするものである。
 そして、このことはまた、同時にあのような専横と圧制を支配者にゆるした国民の奴隷根性とも密接につながるものである。

 それは少なくとも個人の尊厳の冒涜(ぼうとく)、すなわち自我の放棄であり人間性への裏切りである。また、悪を憤る精神の欠如であり、道徳的無感覚である。ひいては国民大衆、すなわち被支配者階級全体に対する不忠である。

 我々は、はからずも、いま政治的には一応開放された。しかしいままで、奴隷状態を存続せしめた責任を軍や警察や官僚にのみ負担させて、彼らの跳梁を許した自分達の罪を真剣に反省しなかったならば、日本の国民というものは永久に救われるときはないであろう。
「騙されていた」という一語の持つ便利な効果におぼれて、一切の責任から開放された気でいる多くの人々の安易きわまる態度を見るとき、私は日本国民の将来に対して暗澹たる不安を感ぜざるをえない。
「騙されていた」といって平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でも騙される、いや、現在も既に別の嘘によって騙されはじめているにちがいないのである。

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今日は7月12日(日)今週、自民の安保法制の強行採決あるやも・・・という時期、
  取り置きの〈伊丹万作〉をだしてきてみた。なにかせずにはいられない!そんな午後だった。
新国立競技場問題、TPP,原発再稼動・福島避難民・中間貯蔵施設等の問題にも、『伊丹万作の言葉』は今に甦る(よみがえる)。
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安里盛昭氏と写真作品「古の製糖工場」

2014年10月 安里盛昭『粟国島の祭祀  ヤガン折目を中心に』総合企画アンリ(☎090-9784-4760)あぐに/2014年10月 安里盛昭『粟国島の祭祀 ヤガン折目を中心に』総合企画アンリ





久場とよ「白樺」、山元文子「奏子の像」

喜納勝代さんと作品「花」



2015年6月24日『東京新聞』「平和の俳句 高からずひくからず咲く石蕗の花ー喜納勝代」

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1943年7月 森繁夫『人物百談』三宅書店(大阪市東区)


森繁夫
明治15年(1883)岡山県生、大阪に住す、人物伝研究家、近代の短冊研究の第一人者、摂陽汽船、その他海運会社の役員歴任。昭和25年(1950)歿、68才。 →コトバンク/短冊蒐集家。古筆研究家・実業家。岡山県生。名は繁夫。摂陽汽船・大阪商船等海軍業の役員を歴任。短冊の蒐集では第一人者として知られ、国学者・歌人の筆跡伝記の研究に大きな成果を残す。編著に『名家筆蹟考』『人物百談』等がある。また歌を佐佐木信綱に学び、『心の花』の同人としても活躍した。蒐集書物は大阪市大に「森文庫」として収められている。昭和25年(1950)歿、68才。→思文閣美術人名辞典

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1905年3月25日『萬朝報』愛の家・末吉安持「心ひかるる九段の櫻 友の御魂は何の蕾」


1905年『明星』7月号○下ー末吉詩華「この日」/上に石川啄木せつ子夫妻の歌

1907年『明星』3月号「故末吉安持」
与謝野寛○余は佐々木秀道を亡くして一箇月の後に、また新詩社同人末吉安持をうしなった。秀道の死も意外であったが、安持の死は突然であると共に、まことに語るに忍びざる程悲惨であった。氏は二月の九日に藝苑社の講演を聴いて飯田町の下宿に帰ったが、翌十日の午前三時頃、どうしたはづみか、机上の洋燈が落ち掛かり、全身三分の二を火傷して人事不省となり、同家の友人に送られて神保院と云ふ病院に入院した。医師は種々の治術を施したが、立会った友人等は皆な目を掩うて之を見るに忍びなかった。三日の後、氏は仰臥の儘身じろぎの成らぬに拘わらず非常に元気を回復したが、併し医師は其れを却て危険なる兆候だと云った。果たして十六日の夜から昏睡にに陥り、十七日の午前五時終に不帰の人と成った。享年二十一.このうら若い、将来のある詩人を、突然と過失のために、斯かる悲惨な最期に終わらしめたのは、痛嘆至極、何と慰むる言葉も無い。

 氏は沖縄県首里区字儀保の素封家末吉安由氏の二男であった。中学にあった頃は常に優等の成績を示したと云ふ。父兄が文学の嗜好を以って居る所から、その感化を受けて文学を好むだが、父兄も氏が文学者となることを望み、氏も其積もりで三十七年の二月に出京し、爾来英語を国民英学会に学んで居た。初め長詩を前田林外氏等の雑誌『白百合』や『天鼓』に投じて居たが、三十八年の三月に新詩社に加わり、其後は専ら『明星』にのみ作物を載せた。氏は短歌を作らず、長詩のみの作者で、毎月必ず二三篇を余の手許に送った。十六歳から詩を作り始めたといふが、確かに詩人たる情熱と、独創の力と、物事に対して一種他人と異なった睨みかたとが有って、漫に先人の模倣を事とする無定見者流とは選を異にして居った。三十七年頃は児玉、平木二氏の詩風を慕ひ、三十八以後は薄田、蒲原二家の詩集を愛読し、殊に上田氏の『海潮音』に由って詩眼を開くことを得た一人であった。また能く余が厳格なる批判に聴いて『明星』に採録する氏の詩が、その所作の十が一にも過ぎざるに拘わらず、毫も不満に思ふ色なく、之に激励せられて益々慎重の心掛を加へ、精苦の作を試みた。その詩は昨年に入って頓に進境が見え出したが、本年三月の『明星』に載せた「ねたみ」一篇が、図らずも絶筆と成った。(以下略)


山城正忠○ああ、僕が詩歌の交際に於いて親しい友の一人なる詩華末吉安持君は、本年二月十七日二十一歳を一期に、燃ゆるやうな青春の希望を抱いて、空しく白玉楼中の人となってしまった。回顧すれば、僕が君を知ったのは、三十六年の夏の頃で、或友の紹介を得て、初めて君をその邸宅に訪ふたが、白百合を紫色した薬瓶に活けた氏の書斎に通され、親しくその風丰に接することを得た。『僕は山城といふものですが、以後どうぞ宜しく』と挨拶をすると、君は優しい眉根を、こころもち上げて『あ、さうですか・・・・・・』と云ったきり、何とも言って呉れぬ。そこで、僕は何だか気にくはなかった。少し横柄な人だなと、心中密かに氏の人格を疑った。併し、だんだん話して見ると、思ったよりはさばけた人で、僕の考は全く邪推に過ぎなかった。其日は面白く君の気焔にまかれて、帰ったが、それが縁となって、逢ふことが度かさなるにつれ、互いに胸襟を開いて話すやうになった。

 時には徹夜して酒を飲みながら詩を語り、或る時は深夜奥の山公園の松林で月を賞して、清興を共にした。又或時は、たわいもない事から口論をやることもあったが、それもほんの一時で、直ぐあとは光風雲月といふ塩梅に、一笑に附して了った。君は情の人で意志」の人ではなかった。その情の厚かったことは、友達が一度困厄して居るのを見ると、実に萬腔の同情を以って之を慰籍し、且つ救護したのである。それから酒を飲むとなかなか面白い男で、いつでも団十郎や菊五郎の假色をつかふのが十八番であったらしい。その頃から君は新詩社の詩風に私淑して居って、詩の話になると、すぐ『紫』や『みだれ髪』を持出し、言葉を極めて賞讃した。それに僕も与謝野氏の歌は『東西南北』『天地玄黄』時代から、ひそかに景仰して居ったのであるから、互いに負けぬ気になって、讃辞を交換すると云ふ風であった。それからもう一人君の敬慕して居た詩人は薄田泣菫氏で、その『行く春』『暮笛集』は、いつ行っても氏の机の上に飾られてあった。その為め僕も君に感化せられては又泣菫氏の詩を愛読するやうになり愈愈両人は趣味が一致した。

 これが僕等の交際をして益々親密ならしめた楔子である。泰国の詩人では、君はバイロンとダンテを称揚し、僕はアナクレオンを賛美した。今一人我国では、故人樗牛氏を崇拝して居たらしい。併し近頃は何う変わって居たか、琉球と東京と隔って居たから僕には分からない。なんでも夏目氏と上田敏氏とに大層私淑して居たといふことを外から聞いた。さうかうする内、君は突然上京して了ったので、僕は何だか離れ小島に独りとり残された思がした。爾来音信を絶つこと殆ど二年、時々友人からその消息の一端を聞くばかりで、氏からは端書一枚をも寄越してくれない。随って互いに疎遠に成って居た。然るに三十八年の四月、僕は補充兵で上京し、青山の第四聯隊に入営することになった。毎日練兵が忙しくって、つい君を尋ねることも出来ず、直ぐ近所の与謝野氏の御宅にさへ伺ふことが出来ぬと云ふ始末、それが殆ど七箇月に亘って、十月の中頃、病気に罹って召集解除となり、再び故山の人となった。

 兵営を出て明日帰郷すると云ふ晩、神田の或る本屋の店頭で『天鼓』といふ雑誌を見た。何心なく披いて見ると、末吉詩花として『平和の歌』(たしかさうであったとおもふ)といふ新體詩が出ているので急になつかしい思がした。併し尋ねるにも君の下宿が分からないから終に其儘逢はずに帰国して了ったのは、今から思ふと実に遺憾である。それから僕が琉球に帰って、初めて末吉君は近来『明星』に筆を執って居るといふことを聞いて、愈愈素志の如くやり出したなと、密かに氏の努力を羨んだ。昨年の夏君は帰省したので、久し振りに某酒亭に会して、親しく新詩社の現状を聞き且つ与謝野氏の御話なども受売して貰った。その時氏の語る所によると『与謝野氏は一見何だかコハイやうな方だが、詩に就いては至極親切に指導して下さるから有難い。君も新詩社の一人に加わって真面目に詩を作りたまへ』とのことであった。併し、僕はまだ早からうと述べた。その日は月の佳い夜であった。その月の光が、君と僕と此世で一緒に浴びる最終のものだとは、両人ともつゆ想ひ及ばなかった。ああその夜の光景と君が音容とは、今猶ありありと想ひ泛べ得るのに、君は既に世に居ないのであらうか。僕はまだ何うも君が死を信じ得られない

○1987年8月『沖縄県図書館協会誌』弟12号 仲程昌徳「新詩社同人・詩崋の作品ー末吉安持ノートー」
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