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Posted by: ryubun02





どうぶつ博士(比嘉源和・沖縄こどもの国園長)の話を聞く子供たち
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Posted by: ryubun02
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写真右・佐渡山安勇


写真・佐渡山安正
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1970年12月ー佐渡山安正『古陶器文様の美』東文堂

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○今日、岐阜県土岐市下石というところに行ってきました。
愛知の沖縄調査の仕事です。で、ついでに、この町を流れる川に架かる橋のたもとに据えられているシーサーを見てきました。しっかり橋と町を守っているようですね。これは、琉球王国時代の絵師佐渡山安健を先祖に持つ、故佐渡山安正の作品です。
町を守りながら、遠く故郷を望んでいるように見えました。写真ではわかりづらいですが、町を囲む山々の紅葉も見頃で、その紅葉をバックに、シーサーもとても見栄えがしました。→2007年12月01日「干瀬のまれびとの座ーまれびとの見る沖縄を語る」


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Posted by: ryubun02
「江戸上り」研究家・佐渡山安治
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後左ー佐渡山安治氏

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Posted by: ryubun02
○1年間で最も完成度の高い短編小説に贈られる第41回川端康成文学賞(川端康成記念会主催)は15日、大城立裕さん(89)の「レールの向こう」(「新潮」2014年5月号)に決まった。賞金は100万円。贈呈式は6月26日、東京・虎ノ門のホテルオークラ東京で行われる。89歳での同賞受賞は、2003年に受賞した青山光二さんの90歳に次いで2番目。

 同小説は、妻が脳梗塞で倒れたことから、日常と個人の記憶が不安定となる様子を描いた物語。記憶障がいのリハビリに寄り添いながら、夫婦を取り巻くさまざまな記憶が、巧みに織り交ぜられていく。 受賞の報を受けた大城さんは「家内の病気をきっかけにして生まれた私小説。これまで2度、川端賞の候補になっているがここまで待って受賞でき良かった。彼女も喜んでくれると思う」と話した。 県出身者では2000年、目取真俊さんが「魂込め(まぶいぐみ)」で同賞を受賞している。(2015年4月16日『沖縄タイムス』)

黒古一夫・編『大城立裕 文学アルバム』に戦後来沖した川端康成と、池田和、太田良博、大城立裕、南風原朝光、宮城聡、豊平良顕と写した写真が載っている。昨年、大城氏に深澤さんの話を電話で聞くと、この頃の記憶は殆ど無いという。川端文学賞の記事を見て、写真家で、大城氏の二中の先輩の山田實さんは大城氏の受賞を祝し手紙で「川端さんを桜坂に案内している大城氏を見かけたことや、伊豆の踊り子を書いた旅館に宿泊した思い出」を書いて送ったという。

○2014年6月 川端康成学会『川端文学への視界』(年報 №29)深澤晴美「川端康成と沖縄ー幻の長編『南海孤島』/米国占領下の沖縄行』」



〇1938年1月 『月刊琉球』山里永吉□壺中天地ー印象 昭和13年の新春早々、作家川端康成氏が来県し、沖縄を主題とした小説『南島孤島』を執筆するといふ私の趣味からいふと、右の『南島孤島』といふ題はあまり感心出来ない今迄、誰もが使い古した平俗な響きと内容を思はせる言葉であり、川端康成氏のやうな作家が琉球を表現するに、果たしてあんな安つぽい題を採用するかどうか、甚だ疑問に思っているが、先ずさういふ枝葉の問題は暫くおいて、川端氏来県の報をいち早く耳にした蔵重知事は、東京の本宅から鎌倉の川端氏に電話して、敬意を表しておいたといふ。

蔵重知事が川端康成の愛読者である事は、本誌創刊号の知事の随筆を読んでも解るが、知事は川端氏が来県せば、その書斎として官舎の離室を提供したいと筆者に語った・・・

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Posted by: ryubun02
1950年3月18日、熊本市在住の沖縄県人有志によってガリ版刷りの『オキナワの友』第一号が発行された。部数は300部。編集発行人の富川盛次(1928年6月29日生まれ。1944年8月、開南中学3年のとき疎開、京都、熊本を経て1966年帰沖)、編集員は当間淳、中山、花城ら5人であった。配布先は熊本市大江町の青葉住宅、長六市場、健軍町、京塚住宅、帯山地区、三菱住宅ら沖縄県人が集中する地域であった。同紙は1951年10月に15号で廃刊した。□→沖縄県立図書館にマイクロ複製本

富川盛次の父・盛徳の兄弟に剣道の富川盛武、京都で医師をしている富川盛甫(私は1971年に京都の沖縄青年会の相談で会ったことがある)が居る。私は富川盛次さんから戦争中、空手の宮城長順から送られた葉書、戦後の比嘉春潮の手紙のコピーを頂いた。個人史『ある一市民の軌跡ー小さな戦後史』も。富川さんは1999年10月29日に亡くなられた。享年72歳。

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左、新城栄徳、右、富川盛次氏




1944年 宮城長順の葉書


1950年 比嘉春潮の手紙

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Posted by: ryubun02
表紙「首里之印」(首里王府が使用する印)
文化沖縄新年号目次/みたみわれ この大みいくさに勝ちぬかん
巻頭言ー大詔奉載日二週年を経て茲にまた新たなる年を迎へた。開戦以来我が皇軍の進み進んだ跡を観 我が国力の伸び伸ぶ先を看るに、赫々たり、洋々たり、僅々二ヶ年にも足らずして、西欧の魔手を払い除けたる東亜の諸邦は早くも大東亜会議を開催して、道義と親和に基づく新秩序を建設し、以って大東亜の安定を図り、進んで世界萬邦の共栄を期する共同宣言を声明した。洵に前古未曾有の盛大事で、八紘一宇、萬邦をして其の処を得しめ、億兆をして其の堵に安ぜしめんとの高遠なる我が肇國の理想は着々実現せられつつある。
 然りと雖も我々の進み行く先が必ずしも坦々たる大道のみにあらざることは三尺の童子も知る所、何しろ敵は多年世界に覇を称し、資源の豊富を恃む米英である。幾度も反攻を企てて幾度も惨敗の憂目を見たにも拘わらず、尚懲りずまに反攻を続けようとして居る。固より蟷螂の斧に過ぎないけれども、勝って兜の緒を締め、百里の道を行くに九十里を半とするの心構を以って、不撓不屈、如何なる困苦欠乏にも耐へ忍び、一億一心、戦線銃後一体となって戦力の増強を図り、勝って々々勝ち抜いて所期の目的を達成するやうにしなければならぬ。
沖縄の文化・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・伊場信一沖縄県内政部長・・・・2
沖縄のもつ東亜性ー旧友におくるー・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・新屋敷幸繁・・・4
葉書回答ー小嶺幸慶、比嘉榮眞、名渡山愛順、屋部憲、諸見里朝清、世禮國男、宮里榮輝・・5
名渡山愛順(画家)
(1)沖縄の古典文化は日本的なる上に更に支那及び南方諸国との交渉があり、日本美術報国会にもある。大東亜文化の建設に大きな役割を今後なすものと思ひます。もっと積極的保存の方法を考へたい。
(2)標準語は全県民残らずつかへなくてはいけない。奨励の方法は考へて戴きたい。方言も国語、解する事も又嬉しい。
世禮國男(二中教諭)
沖縄の古典文化 就中美術工芸は中央の学者の深い研究と地方文化としての高い評価がある。けれども歌謡方面は言語の問題があるために、郷土出身者の徹底的研究に俟つ外はない、私はおもろが、日本歌謡史に一頁を占めることが出来るやう、又その時期が早く到来するやう祈る者である。
屋部憲(書家)
沖縄地方文化の保存及び改善に就いては、各個人の意見を取り纏むべき組織化されたる機関を持ち、各部門の意見を良く討議して最善なる方針の下に直ちに実行に移すことで、従来斯かる問題で議論倒れになったのは実効性に富む強力なる機関が無かった為では無いかと思はれます。
宮里栄輝(開南中学教諭)
1、日本文化の一環としての琉球文化を過大評価することなく、郷土の古文化を明日の文化建設にの為に有効適切に生かすことこそ過去の文化財を保存する所以であり、それが又正しき文化政策であると信ずる。本問題に関する過去の幾度かの困乱を思ひ、翼支文化部あたりの奮闘を望むこと切である。
1、標準語 標準語奨励を阻まんとする者一人もなく、方言を卑下する者又尠し、標準語問題の動向自ら明らかなるべし。
1、演劇、演劇の世道人心に及ぼす影響が他の文化部門に比し遥かに大なるを痛感すれ共その具体的改善方法に就いては知る所尠し。
又吉康和(沖縄新報常務監査役)
○過去の文化財の保存、お互いに認識を深めることが先決問題ではないでせうか。認識不足は国宝にさへ顔を背ける危険があるから。・・・但歌踊に就いては卑俗低調な流行唄の類は断然整理すべきである。然し豪宕雄勁キビキビした大衆に魅力るリズムはよし。それが異国情調でも東亜民族共存共栄圏への用意に研究すべきだと思ふ。 
○将来への文化の動向、史家は明治維新後の我国の文化が急速の進歩をした原因の一として江戸期に於ける参勤交代の制度が標準語普及の上に役立ち、廣く会議を起こすに当たり意志の疎通に便ならしめた點を擧けている。現に秀吉が九州征伐をした時は通弁を使用したさうである。沖縄語は学問上は貴い資料のさうだが死語となって不便である。その不便を除去する為めわれわれの先輩は置県以来標準語奨励に一貫して来た。然し沖縄語は日本語でないと云ふ途方もない間違った観念から方言を禁止することは慎まねばならぬ、演劇の改善は複雑だから一言には尽くせない。指導者階級の善処を切望する。
東亜の愛情を求めて・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・富原初子・・・・・・7
屍を越えて・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・11
産後銃後・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・石川正通・・・・・・・12
 (略)母は私達の生まれる前から、春風秋雨、夏冬の分ちなく、渡地中島辻と那覇三村の街々を素足で頭の上には重い石油と更に重い一家族の生命を載せてその石油を行商しながら良人と我々3人の兄弟妹を何不自由なく育てて下さったー自分は多くの不自由を忍びつつ。地球上の如何なる名花、如何なる香料の香よりも私は石油の香が好きだ。私は死ぬ時は石油の香を嗅ぎつつ死に度い。母の背中に負われて嗅いだあの石油、幼年時代の全ての思ひ出を秘めているあの石油の香を。

 那覇の電燈は伝統的に暗い。私の母が石油を売っていた時代の那覇の夜は今の那覇の夜よりも、断然明るかったに違ひない。私は自分の母ながら、母を那覇を明るくした恩人の一人に数へさせて戴き度い。その母の為にも尊い石油を空費する米英の巨頭一味は憎むべき敵だ。親の仇を討つ日本精神の強烈さに於いて私は敢て曾我兄弟に譲らない。米英の戦争挑発さへ無かったらば石油は人類殺戮の為に悪用されず、人類の福祉向上の為に善用されたであらう。

琉球の橋・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・伊東忠太・・・15
東京の思出・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・尚順・・・・16
水仙・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・小野十露・・18
勇敢なる糸満人・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・東恩納寛惇・・・19
文化沖縄「或る種の趣味から言ふと”文化沖縄”といふ表題、つまり雑誌名にはあまり好感が持てないといふ。成程文化鍋、文化草履、文化住宅、等、等と冠に文化といふ字をくつつけた品物にロクな物は無かった。(略)けれども”琉球文化”が過去の文化の意である代わりに”文化沖縄”といふ言葉の中には将来に対する意が含まれている。”文化沖縄”は、沖縄人が未来への大きな希望でなけでばならない。今は戦争と同時に建設の時代であると言はれている。従って大東亜共栄圏の一翼であり、南方への基地たる沖縄の新しい文化は、それだけ重要であり、又その建設は吾々沖縄人の手によって為すべきでありまた為さなければならない。東條首相は沖縄で着陸第一声、沖縄工芸の自給自足を説かれたが、旧藩以前、沖縄の工芸は殆ど自給自足であった。現在、工藝品のみが、日用品の大部分は殆ど本土からの輸入を仰いでいるが、せめて工藝品ばかりでも県内自給自足の体制をとりたいものである。恐らく、陶器は指導の如何に依って、明日からでも県内の需要を充分満たし得るであらう。漆器は、自給自足どころか、かへって県外や外国に輸出していた位だから、漆不足の今時でも県内の需要を満たしてなほ余りがある。何よりも面倒なのは繊維製品である。(略)ブーゲンビル島沖に、ギルバート諸島沖に、マーシャル諸島沖に、櫛の歯を引くやうな戦果に応へて、米英撃滅の決意を新にし、戦力増強に邁進しゃうではないか。」・・・20-21
武士の家庭・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・新崎寛直・・・・22-25
玉御殿・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・山口由幾子・・23
空・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・伊良波長純・・・25ー27
或る刑餘者・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・又吉良輝・・・27-28
もののつながり・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・嘉手川重利・・・・28-31
学徒決意・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・西幸夫・・・・・・・・・・29
猿年に因んで植物名の二三・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・多和田眞淳・・・31-32
時言「東亜精神の昂揚」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・33
思想戦の勝利・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・眞榮田義見・・・・・・34-35
琉歌「世界の大いくさ世直しのいくさ あたて物知ゆさ國のお蔭」・・・鷺泉・・・35
過去の美学・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・柳宗悦・・・37
 個人主義的な自由な振舞、自由な主張は美術家の特権であるかの如く考へられて来ました。多くの天才は悪魔的なもの、廃頽的なもの虚無的なもの、神経的なもの時としては醜悪なものにさへ美の対象を求めました、併し是等の自由主義芸術が吾々に示したものは畢竟変態的なもの、病的なものに外ならないでせう。是等のものも一種の美ではあり、或時代に存在理由を有ったものではありませう。併し是等の美によって人間の幸福が約束されたわけではありません又かかる異常な美が最高のものとか最善のもととかのいふ意味にもならないのです。或る過渡期の特殊現象といふ迄に過ぎないのです。美の世界での自由主義は、多くの秩序を破壊しました。多くの尊い伝統を犠牲にしました。併しそれはもう過去の美学に過ぎないのです。
郷土史物語ー牧志恩河の勤皇・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・山里永吉・・・・38-44
沖縄のかすり・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・田中俊雄・・40-41
琉球堂書舗 移転広告ー那覇市久米町1丁目二十四番地・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・44
編集後記ー用紙不足の限られた頁数では思切った編輯も出来なかった。それに雑誌報国のたてまへから国体観念の昂揚に資するか戦力増強の一助ともならなければ、文化沖縄の存在理由も無い訳である。従って編輯が一律になる事は当然であらう。
決戦下必勝の新年を奉賀候 昭和十九年元旦 文化沖縄社「新崎盛珍、山里永吉、大嶺眞英、持主・馬上太郎」

山里永吉「編集後記」○新年号だから新年らしい編輯と考へたのであるが、用紙不足の限られた頁数では思い切った編集も出来なかった。それに雑誌報国のたてまへから国体観念の昂揚に資するか戦力増強の一助ともならなければ、文化沖縄の存在理由も無い訳である。従って編輯が一律になる事は当然であらう。(略)尚順男は我国国運進展の跡を顧られて逐次東京の思い出を執筆される事になった。石川正通氏の英文学者としての感想は微笑ましいといふより寧ろ痛快である。
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Posted by: ryubun02
先週、15日、京都大学の学生、教員、職員の有志(自由と平和のため京大有志の会)が、安保法案に反対して、韻文調の(詩のような)声明文を発表した、それが感動を呼び賛同の波が広がっている。そこで「みどり風通信 独立22号」として皆様にご紹介すると同時に記録の為に書き残す事とした。
「みどり印刷」ここをクリック

戦争は、防衛を名目に始まる。
戦争は、兵器産業に富をもたらす。
戦争は、すぐに制御が効かなくなる。

戦争は、始めるよりも終えるほうが難しい。
戦争は、兵士だけでなく、老人や子供にも災いをもたらす。
戦争は、人々の四肢だけでなく、心の中にも深い傷を負わせる。


精神は、操作の対象物ではない。
生命は、誰かの持ち駒ではない。


海は、基地におしつぶされてはならない。
空は、戦闘機の爆音に消されてはならない。


血を流すことを貢献と考える普通の国よりは
知を生み出すことを誇る特殊な国に生きたい。


学問は、戦争の武器ではない。
学問は、商売の道具ではない。
学問は、権力の下僕ではない。


生きる場所と考える自由を守り、創るために、
私たちはまず、思い上がった権力にくさびをうちこまなくてはならない。



自由と平和のための京大有志の会
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上原信雄 うえはら-のぶお
1897-1987 昭和時代の救らい運動家,歯科医。
明治30年4月15日生まれ。昭和13年から沖縄のハンセン病療養所国頭(くにがみ)愛楽園につとめる。戦後,沖縄らい予防協会(のち沖縄県ハンセン病予防協会)の創立につくし,救らい運動を展開した。32年沖縄学徒援護会を創立。昭和62年2月7日死去。89歳。沖縄県出身。東京歯科医学校(現東京歯大)卒。

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写真左から二人目の立っているのが山城正忠、その下が上間正雄、4人目の立っているのが末吉麦門冬、その下の真ん中が渡嘉敷唯選。庭で左端に立っているのが池宮城積宝

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1991年1月ー『沖縄近代文芸作品集』(新沖縄文学別冊)新城栄徳「沖縄近代文芸略年表」

 1991年1月発行の『沖縄近代文芸作品集』(新沖縄文学別冊)には「アルバム 麦門冬と正忠ー近代沖縄文壇の二大山脈ー」がある。また正忠の文芸四作品、麦門冬の文芸一作品が収録されている。1997年1月発行の『近代日本社会運動史人物大事典』の「山城正忠」は私が担当した。山城正忠の研究は、2000年7月発行の大西照雄『啄木と沖縄』、2008年6月発行の渡英子『詩歌の琉球』(砂子屋書房)などで進んでいる。前著には「『沖縄の啄木享受の歴史』の探究はここで終わりにしたいと思います。以後は沖縄の戦前の文学・芸術などあらゆる分野で愚直なまでの資料収集を行い、国吉家とも深い交流のある新城栄徳、また学生の頃から啄木の研究を続け、生前の国吉真哲と親しく、国吉の唯一の歌集『ゲリラ』の出版にかかわった宮城義弘などの研究が公にされることを期待したいと思います。」と記して私に宿題を残してくれている。最近では屋部公子さんや真栄里泰山氏が石川啄木と正忠関連で『岩手日報』の取材を受けている。

 2015年5月に沖縄タイムス1階ロビーで開かれた「琉球弧の雑誌展」を監修した。その図録に、その他の雑誌と題し次のように記した。
 本編に解説出来なかった雑誌にふれておく。山里永吉の『月刊琉球』(1937年5月創刊)に1938年、本山豊が入社した。『月刊琉球』第2巻第4号は「観光沖縄号」の特集である。その本山が1940年8月に石川文一、金城安太郎を同人にして『月刊文化沖縄』を創刊している。1944年の10・10空襲、1945年の沖縄戦で、多くの文化遺産と同様に、戦前に刊行された雑誌の多くも失われた。現在は確認できない現物も多いため、本展では雑誌にかかわる人物も柱の一つに位置づけた。戦前の人脈を見ると、雑誌と新聞は密接に結びついており、人間のつながりはまた、雑誌の性質を物語ってくれる。人脈の流れの一つにジャーナリストで俳人でもあった末吉麦門冬と、同じくジャーナリストで歌人の山城正忠を置いた。沖縄では『アソビ』や『五人』などの雑誌で文芸活動を行った山城正忠は、歌人の与謝野鉄幹、晶子の弟子であり、また石川啄木の友人でもあった。山城正忠を文学の師匠と仰いでいた国吉真哲は、山城の夢だった「啄木歌碑」建立を戦後に実現した。今回はその経緯も分かるように展示している。と、書いて戦時体制下の『月刊琉球』や『月刊文化沖縄』の解説は気が重くてふれなかった。

 日本敗戦直後の東久邇稔彦内閣は〈一億総懺悔(ざんげ)〉による天皇への敗戦の謝罪を唱え,また国民の多くも敗戦の悲惨と戦後の苦境をもたらした軍部,官僚など戦争指導者を怨嗟(えんさ)する敗戦責任論に共感した。丸山真男は天皇を頂点とした「大アジア主義」が、日本が第2次世界大戦を起こした名分だと指摘した。大アジア主義とは、天皇が追求する正義を日本のほかのアジアと世界へ伝播しなければならないという論理だ。こうした概念が日本のナショナリズム・軍国主義とかみ合い、韓国・中国・東南アジア国家に対する侵略を正当化させたという。 広島市の原爆死没者慰霊碑に刻まれた有名な碑文「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」主語がはっきりせず、まるで日本人が「原爆を落とされるような悪いことはもうしません」と言っているかのようにも読める。絵画でも「戦争画」が負の遺産を考えるとして藤田嗣治「アッツ島玉砕」などが東京国立近代美術館で展示公開されている。以上の矛盾は昨日「戦争法案」が強行採決され成立に向かっているので、今や日本国民の間では戦争責任は死語となりつつある。私も戦時体制下の沖縄の雑誌を紹介するに理想的環境になった。ではなく問題は、最低でも次の総選挙で間違いなく自公を壊滅させることだ。



1930年8月12日『琉球新報』「写真館・とまりー親泊興夫、有銘光、国吉真鉄」
1930年11月  沖縄から初めて日本歯科医師会総会に楊長積(永井長積)出席 
1931年7月9日『琉球新報』馬天居士「馬天堂川柳」
1931年11月  日本歯科医師会総会に今井小四郎が出席 

1933年11月  日本歯科医師会総会に山城正忠が出席 
1934年5月  竜田丸で来布せし洋園時報社招聘の唐手師範宮城長順は今朝移民局より上陸、九州屋旅館に宿泊(~1935年1月)
1934年11月  日本歯科医師会総会に山城正忠が出席 


1935年4月20~24日 下村海南、飯島曼史来沖
○短歌新聞沖縄通信員・名嘉元浪村□文芸レポ・中央歌壇に報告された沖縄地方歌壇一年ー隣県の鹿児島歌壇に比較してあまりに淋しい沖縄である。本年も相変わらず短歌誌一つ出現せず、当地日刊三新聞並びに「沖縄教育」誌の文芸欄に時たま発表される短歌を通じてのみ、いはゆる歌壇的命脈を支へているにすぎない状態である。かつては新詩社の逸材であり本県歌壇の大先輩である山城正忠氏 歌壇の低調を見くびってか、独り高く安楽椅子にふんぞりかへって後輩指導の熱意なきかに見受けられ一層の寂寥を感ぜしめている未来性を待望されている新進気鋭の原神青酔、国吉真起、泉国夕照の力作も散見されたがもっと積極性を発揮して貰ひたかった。但し原神青酔の旅の歌(琉球新報所載)は本年度に於ける逸品であらう。中央結社歌誌に籍を置くことのうすい本県歌人群の中にあって桃原邑子が「詩歌」の新人欄に前進し「アララギ」に勉強中の比嘉俊成が本県師範学校に転任した事は歌壇に一縷の光明を与えた。
 四月二十日、下村海南博士を迎へたるも来県早々講演行却に東西奔走の多忙を極めたために歌人としての博士に対し一夕の歌迎歌会すら催す事の出来なかったのは県歌壇にとって痛恨事とされている。同じく四月二十日、新詩社出の山城正忠氏に依って与謝野寛追悼歌会がはるかにオキナワ、ナハで催され沖縄歌話会員多数出席し海南博士をして奇異の目を瞠らしめた事は特記すべきであらう。十二月下旬、県教育会の招聘で折口信夫博士が来県され「萬葉集に現われたる日本精神」に就いて講習会が開催され、冬眠期の県歌壇にとって強き刺戟であった。   
1935年8月6日『琉球新報』馬天居士「六菖記(2)」
1935年9月26日『琉球新報』山里永吉「鮫丸物語(15)」金城安太郎 絵
1935年11月   日本歯科医師会総会に山城正忠が出席 

1936年1月28日 大阪堺筋の明治商店で宮城長順・大日本武徳会沖縄県支部常議員「唐手道について」と題し講演
1936年10月14日『琉球新報』古波鮫弘子「女の気持ちー馬天居士へ送る文」
1936年11月8日『琉球新報』古波鮫弘子「颱風」
1936年11月11日『沖縄朝日新聞』鳥小堀浄・文/西條寛・絵「首里風景ー弁ケ岳」、糸数幸緒「歓楽極まりて」


1936年11月26日『琉球新報』山里永吉「百日紅」84 金城安太郎絵/馬天居士「八方雑記(22)」
1936年11月   日本歯科医師会総会に山城正忠が出席 
1936年11月28日『琉球新報』馬天居士「八方雑記(24)」
1938年11月   日本歯科医師会総会に山城正忠が出席 
1939年11月   日本歯科医師会総会に友寄英彦が出席 
1940年9月 井上友一郎が『琉球新報』に「新体制と文学」と題し書いている。
1941年7月  美術雑誌30数種が廃刊、新たに『新美術』『國畫』『國民美術』『畫論』『季刊美術』などが創刊された。

1941年9月『月刊文化沖縄』義村仁斎「自傳武道記」
1941年12月8日 真珠湾攻撃
1942年1月    日本民藝協会『民藝』編集後記「いまや史上空前の大戦が展開しつつある。日本民族の優秀性と強大さを世界に示すときが来た」
1942年2月    日本民藝協会『民藝』「大東亜戦争の発展とともに、国民の気持ちは実に明るくなった。」
1942年5月    日本民藝協会『民藝』<満州建国十周年>
1942年7月    月刊『文化沖縄』第三巻第五号(編集兼発行人・馬上太郎)は革新号とし主幹に山城正忠、編集に新崎盛珍を迎えた。表紙題字は尚順、表紙絵は山城正忠である。編集後記に新崎が「他人から何か頼まれると、大抵の事なら断りきれない性分を有って居る私は、とうとう本誌の編集を引き受けて了った。・・・」、正忠は「時節柄寸分の余白でも出来得る限り利用するのが奉公の途だと思ひ、国民精神を作興するに足るべき名歌名詩並びに標語を記入することにした。・・・」と記した。



1942年8月 月刊『文化沖縄』第三巻第六号 宮城長順「法剛柔呑吐ー空手雑藁ー」

1943年1月    月刊『文化沖縄』仲村渠「魚雷の歌 ・・・魚雷なり 美しき魚雷なり 頬あかき空の兵ものの 『命中たのむ』と念じ給ひし魚雷なり /」クワンタン沖 真珠湾 スラバヤ沖 珊瑚海よ 目をつぶれば 頬あかき空の兵ものの かの御姿のうかぶなり・・・」

1985年11月『歌人・山城正忠』(琉文手帖3号)

1943年2月    日本民藝協会『民藝』「いよいよ決戦の年が来た。国力をあげて戦争の目的完遂につくさねばならぬ」
1943年10月    月刊『文化沖縄』第四巻第十号 新崎盛珍「時局と科学」○時運の進展と共に、科学は戦争に於いて死命を制する一因となった。日露戦争には火薬、第一次欧州大戦には内燃機関に於ける研究の勝敗がやがて戦争の勝敗を決定したと謂はれて居る。年来有り余る財力を利用して、諸外国の高名なる科学者を招聘することに力めて居た米国は、今次の大戦が勃発するや、逸早く科学振興局を中心とする大統合を行ひて、あらゆる部門の研究機関とあらゆる科学者を総動員し、之を推進力となして戦力の増強を計り、数に於いて我を圧迫しようと意図して居るやうである。
  我が政府亦曩に「科学研究の緊急整備方策」を決定し、之が遂行に就いて各大学、各専門家に呼び掛けて居る。今や勝ち抜くための色々の主張の中、科学振興に対する叫びは、最も声高く、力強いものとなって来た。由来我が国に於いては、学者の研究と日常生活とは相乖離して居る憾があった。今後銃後の生活を拡充して戦力の増強を図らんが為めには、学者の実験室に於ける研究の結果が、翌日は日常生活の上に反映するやうにせねばならぬ。
  新崎盛珍「編集後記」○雑誌の経営に深い経験を有する山里永吉氏が此度入社することになった。之に依って本誌は一層光彩を放つことであらう。
1944年3月 全国の新聞の夕刊が廃止。11月には朝刊も2頁になる

1944年7月、山城正忠疎開。
この頃のことを1949年12月発行の『うるま春秋』創刊号(編集・仲村渠致良)山城正忠「香扇抄」に書いている。
 抑々、勇吉は男として、世のつねならぬ、臆病者であった。沖縄に米軍上陸が予想され、学童疎開の噂が出ると、俄かに度を失い、瞼の裏には、行住座臥、うづまく赤い風と山成す豚の丸焼がこびりついてはなれず、いくら丹田に力をいれてみても、はらえぬ状態になっていた。思い余って、妻に疎開の意嚮をもらしたが、てんで受け付けず、再三押してゆくと、しまいには、そんなにこわければ、あなた一人で、勝手な行動をおとりなさいと、ついに、われとわが最後のほぞをかため、昭和十九年七月の疎開船に投じ、途中、魚腹を肥やすことなんか考える余裕もなく、ひたすら、本土安穏に一すぢにひかれて行った。
 幸、今まで多くの生霊をのんだ、魔の海もつつがなく航り、鹿児島の埠頭に吐き出された途端に、一時、おこりのおちたような感激を覚えたが、ここでもまた、いろいろな流言飛語にただならぬ火気が感じられてくると、一刻も安まらずいよいよあわただしい行程をたどりつつ、播州龍野、備中高梁、寧楽の三輪と転々するうちには、一人旅の気散じが、彼をくつろがせ、果ては、日ごろ自らたのむ殉情の使徒としての太陽を、心の空にあおぐゆとりができていた。
 そこへ、十十空襲の報がつたわり、那覇市の灰滅とともに、家族との連絡が絶たれ、爾来、ようとして、生死のほどもしれずにいたら、あくる年の一月の末に一家無事、九州に疎開すとの急電に接し(龍野の住所を知らせてあったので、そこから転送された)さすがに肉親の絆は絶ちがたく、思い出ふかい、三輪のねぐらを忍びて立ち退き、ここH村の家族に合流したのである。
1946年10月 帰郷し玉城村堀川に居住。

 1949年   平野萬里①『晶子鑑賞』「正忠を恋の猛者ぞと友の云ふ戒むるごと そそのかすごと 正忠は山城正忠君の事で、琉球那覇の老歯科医である同君は年一度位上京され、その都度荻窪へも立ち寄られた。同君は古い明星の同人で、若い時東京に留学されその時先生の門を叩いたのであるから古い話だ。当時一しょに私の家などで運座をやった仲間の生き残っているのは吉井君であるが、大家を別とすれば今だに作歌を続けているのは同君位のものであらう。戦争で大分辺に逃げて来て故江南君によると単衣一枚で慄へて居られるから何か著物を送るようとの事であったが、その時は最早小包便など利かなくなっていたので如何とも致し様がなくその儘にしてしまったが今頃は如何して居られることだらうか。・・・・』と記されている。

①平野萬里
ひらのばんり(1885-1947)
埼玉県遊馬村生まれ。本名久保(ひさよし)。 6歳で上京、東大工学部応用科学科卒。早くから文学に関心を
もち、岡野知十主宰の俳句雑誌「半面」などへの投稿のかたわら、一高俳句会にも名を連ね、同時に与謝野
鉄幹に師事して短歌に親しみ、「明星」の若手同人として活躍した。処女歌集『若き日』(1907)には、青春
を歌った夢幻的な抒情が特色をなしている。「明星」終刊後はつめに新詩社系統の消長に身をゆだね、「ス
バル」・第二次「明星」・「冬柏」・第三次「明星」の各創刊に参画、旺盛な活動を展開した。しかし新詩
社の正統にこだわりすぎてついに生涯、その作風を大きく飛躍させることができなかった。遺稿集に『晶子
鑑賞』(1949)がある。/「日本現代詩辞典」より


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1月 親泊朝擢『沖縄県案内』発行/仲吉朝主、印刷/三秀舎「新聞雑誌ー琉球新報、沖縄毎日新聞、沖縄新聞、発展、撫子新聞、福音、沖縄教育、おきなは、演劇週報」 

1月 横山健堂『薩摩と琉球』
1月 島津長丸男爵、観光で来沖
1月 那覇松田橋の傍で徳田鉄工所設立
1月 我謝盛翼、おきなは社に記者として入社

3月 『おきなは』第2巻第3号□口絵写真「二十余年前の沖縄の名士ー美里親方、波上宮司保榮茂、玉城按司、美里按司、護得久朝惟、尚順、勝連按司、今帰仁朝和、高嶺朝申、知花朝章、伊是名朝睦、大城朝詮、大田朝敷、高嶺朝教」
    卒業生諸君へ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(1)
    鬼が島漂流実話ー危うく一命を助かりし奇談 台湾遭難者の一人 島袋松 伊波文学士の写真・・・・・・・・2
    照屋君はどうして大学に入る気になったか・・・・・おきなは社顧問・伊波普猷・・・・・・6
    沖縄演習実記・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・従軍記者・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・8 

6月2日  『琉球新報』「更衣・座喜味夢香ー桃紅季白去

 6月3日   『琉球新報』「末吉麦門冬入社」「故尚泰侯令姉(末吉御殿)葬儀」「母葬式ー男・與那城朝俊、孫・與那城朝敬、次男・與那城朝永、孫・與那城朝淳、親戚・読谷山朝法、識名朝信、佐渡山安亮、尚順、伊江朝眞、読谷山朝慶」 高相杰「送春有感」「薬師吾吉ー転地療養のため鹿児島へ」「球陽座ー歌劇ハワイ行、狂言爬龍船」「中座ー歌劇 新夫婦電車の初乗り、琉球と為朝(弓張月)」 
6月4日   『琉球新報』「金口木舌ー近頃加奈陀では日本人の漁業権剥奪を企てるし、又仝地コロンビヤでは印度人支那人と共に日本人の入国拒絶をやって居る・・・」「首里喜舎場朝賢翁琉球見聞録発売ー沖縄毎日新聞名城嗣治へ」「サクラビール王冠(口金)5個で活動写真が見られます」

7月1日『琉球新報』「中座ー琉球史劇・察度王/歌劇・残花の錦き」「球陽座ー歌劇・松之精/喜劇・主人が留守/琉球古事・南山昔物語」
7月3日『琉球新報』笑古「初夏遊奥山」
7月4日『琉球新報』「常設活動写真帝国館ー実写・京都北野神社と平野の桜」
7月7日『琉球新報』「琉球歌壇ー草秋選」
7月11日『琉球新報』「漢詩ー潤色者・高相杰」「琉球歌壇ー草秋選」

7月18日『琉球新報』「常設活動写真帝国館ー実写彩色・エジプト古跡アラビヤ風俗/新派探偵大冒険・噫名探偵」
7月26日『琉球新報』麦門冬「弔薬師楽山君-

7月30日『琉球新報』「常設活動写真帝国館ー実写・大阪南地芸者/実写・夏のモスコー/日本喜劇・ピリケン」
8月1日『琉球新報』「常設活動写真帝国館ー実写・京都清水寺/実写・米国ダーリング燐寸製造所大火」、琉球歌壇ー草秋選 らくこう『球陽座を見て』」
8月3日『琉球新報』「琉球歌壇ー草秋選 らくこう『中座の「さんげ劇』を見て』」

8月8日『琉球新報』「中座ー創立紀念興行長者ノ大主/旧喜劇・二人大名/踊リ・金細工/組踊・執心鐘入/踊リ・交遊/新喜劇・黄金一枚/歌劇・瀬長詣リ/踊リ・ムンズル笠/踊リ・諸純/組踊・花売之縁/組踊・二童敵討/踊リ・萬歳/踊リ・天川」

8月16日『琉球新報』「俳紫電」
8月18日『琉球新報』「俳紫電」
8月19日『琉球新報』「俳紫電」

8月20日『琉球新報』「専修大学 学生募集」「俳紫電」
8月21日『琉球新報』「俳紫電」

8月22日『琉球新報』「森屋本店ー和洋楽器類開店」「俳紫電」
8月23『琉球新報』「球陽座ー歌劇・人生の春/琉球史劇・宝剣地金丸 京阿波根出世伝」「常設活動写真帝国館ー日本喜劇・未来の芸者/実写・ナイヤガラ瀑布/実写・空中飛行船」「俳紫電」


8月25『琉球新報』「明治大学 学生募集」「俳紫電」

8月28『琉球新報』「中央大学 学生募集」「俳紫電」
8月29日『琉球新報』「俳紫電」

8月30日『琉球新報』「俳紫電」


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1914年1月1日『沖縄毎日新聞』俳諧小僧(末吉安恭)「俳諧 鼠の句」
○俳諧 鼠の句ー子年に縁みて鼠の句を集めて見た。参考書が少ないので沢山は集め得なかった今人の句は成可く採らぬことにして主として古人のを採ったのは句の巧拙を以て論せずに古いのが有難いといふ骨董味から出た為めである。それから新年の鼠に嫁が君と云ふ異称があるが、それは俳諧では独立の題になっているので茲にはわざと省いたのである。


1月 親泊朝擢『沖縄県案内』発行/仲吉朝主、印刷/三秀舎「新聞雑誌ー琉球新報、沖縄毎日新聞、沖縄新聞、発展、撫子新聞、福音、沖縄教育、おきなは、演劇週報」 

1月 横山健堂『薩摩と琉球』
1月 島津長丸男爵、観光で来沖
1月 那覇松田橋の傍で徳田鉄工所設立
1月 我謝盛翼、おきなは社に記者として入社

3月 『おきなは』第2巻第3号□口絵写真「二十余年前の沖縄の名士ー美里親方、波上宮司保榮茂、玉城按司、美里按司、護得久朝惟、尚順、勝連按司、今帰仁朝和、高嶺朝申、知花朝章、伊是名朝睦、大城朝詮、大田朝敷、高嶺朝教」
    卒業生諸君へ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(1)
    鬼が島漂流実話ー危うく一命を助かりし奇談 台湾遭難者の一人 島袋松 伊波文学士の写真・・・・・・・・2
    照屋君はどうして大学に入る気になったか・・・・・おきなは社顧問・伊波普猷・・・・・・6
    沖縄演習実記・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・従軍記者・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・8 

6月2日  『琉球新報』「更衣・座喜味夢香ー桃紅季白去

 6月3日   『琉球新報』「末吉麦門冬入社」「故尚泰侯令姉(末吉御殿)葬儀」「母葬式ー男・與那城朝俊、孫・與那城朝敬、次男・與那城朝永、孫・與那城朝淳、親戚・読谷山朝法、識名朝信、佐渡山安亮、尚順、伊江朝眞、読谷山朝慶」 高相杰「送春有感」「薬師吾吉ー転地療養のため鹿児島へ」「球陽座ー歌劇ハワイ行、狂言爬龍船」「中座ー歌劇 新夫婦電車の初乗り、琉球と為朝(弓張月)」 
6月4日   『琉球新報』「金口木舌ー近頃加奈陀では日本人の漁業権剥奪を企てるし、又仝地コロンビヤでは印度人支那人と共に日本人の入国拒絶をやって居る・・・」「首里喜舎場朝賢翁琉球見聞録発売ー沖縄毎日新聞名城嗣治へ」「サクラビール王冠(口金)5個で活動写真が見られます」

7月1日『琉球新報』「中座ー琉球史劇・察度王/歌劇・残花の錦き」「球陽座ー歌劇・松之精/喜劇・主人が留守/琉球古事・南山昔物語」
7月4日『琉球新報』「常設活動写真帝国館ー実写・京都北野神社と平野の桜」
711日『琉球新報』「漢詩ー潤色者・高相杰」「琉球歌壇ー草秋選」

7月18日『琉球新報』「常設活動写真帝国館ー実写彩色・エジプト古跡アラビヤ風俗/新派探偵大冒険・噫名探偵」
7月30日『琉球新報』「常設活動写真帝国館ー実写・大阪南地芸者/実写・夏のモスコー/日本喜劇・ピリケン」
8月1日『琉球新報』「常設活動写真帝国館ー実写・京都清水寺/実写・米国ダーリング燐寸製造所大火」
8月8日『琉球新報』「中座ー創立紀念興行長者ノ大主/旧喜劇・二人大名/踊リ・金細工/組踊・執心鐘入/踊リ・交遊/新喜劇・黄金一枚/歌劇・瀬長詣リ/踊リ・ムンズル笠/踊リ・諸純/組踊・花売之縁/組踊・二童敵討/踊リ・萬歳/踊リ・天川」
8月20日『琉球新報』「専修大学 学生募集」
8月22日『琉球新報』「森屋本店ー和洋楽器類開店」
8月23『琉球新報』「球陽座ー歌劇・人生の春/琉球史劇・宝剣地金丸 京阿波根出世伝」「常設活動写真帝国館ー日本喜劇・未来の芸者/実写・ナイヤガラ瀑布/実写・空中飛行船」

8月25『琉球新報』「明治大学 学生募集」
8月28『琉球新報』「中央大学 学生募集」

9月2日『琉球新報』「我海軍の精華▽悉是れ良智驍勇」「常設活動写真帝国館ー女馬賊」
9月4日『琉球新報』「太平洋に於ける独墺洪海軍力」
9月5日『琉球新報』「常設活動写真帝国館ー実写着色・ベルサイユ宮殿」
9月6日『琉球新報』「中座ー琉球史劇・黒金座主(電気応用)、踊り・七月ゑひさあ、歌劇・可憐児(継親念仏)」
9月12日『琉球新報』「球陽座ー琉球史劇・琉球と薩摩」「常設活動写真帝国館ー実写・ピスピユス山噴火」
9月14日『琉球新報』「本社記者 渡口政成退社し沖縄民報社に入社」
9月15日『琉球新報』「『月刊雑誌 五人』ーダヌンチョの死せる街ー嘉手川重利/白き血ー山城正忠/脚本時計ー上間正男/小説題未定ー安次嶺栄裕/芭蕉の恋ー末吉麦門冬/本県婦人観ー美鳩楓渓/希臘思想ー仲吉良光/音楽論ー矢野勇雄/小説帽子ー池宮城寂泡/題未定ー漢那浪笛/サヨリ釣ー潮東庵主人/完成の人孔子ー山田有幹」
9月18日『琉球新報』「粟国事情」「斎藤用之助島尻郡長令弟、中頭郡書記・斎藤熊太郎死去、」

9月26日『琉球新報』素位「泡津海記ーテラの岩屋、日本一の墓、マハナ崎」「球陽座ー琉球史劇・普天間権現之由来記」
10月3日 『琉球新報』「常設活動写真帝国館ー実写・ノールウェ汽車旅行」「球陽座ー喜利 狂言・伊賀の水月(荒木又右エ門武勇伝)渡嘉敷守禮脚色 」
10月8日 『琉球新報』清村泉水「宮古女性史」①
10月11日 『琉球新報』「三越の新館成る」「常設活動写真帝国館ー実写・伊多利シシリー市街」」「球陽座ー琉球史劇・大濱赤八」
10月15日 『琉球新報』らくこう「琉球歌壇 印度古詩まはばらだ物語を読みて(1)ー我が情我れの衣につつみ行くシャンタヌ王の面白きかな/この河を渡らん人に舟漕かん王者も渡れ乞食人も/絶ち難き情の絆王もなほ黒き瞳の忘れかねつも/天人は樂を奏しぬ花降りぬ若きピスマの願ひの浄きに/仙人の神通力もいかにせむ美人を見て破れけるかも/呪はるることの恐ろしサチヤワチは岸の浮草靡かんとする/十万の矢を空中に射返して流れを下る婿選ひ舟」

10月17日 『琉球新報』「悲惨極まるラサ島移民①」「球陽座ー大喜利・英雄ト美人ーナポレオン(真境名由孝土産)」
10月21日 『琉球新報』らくこう「琉球歌壇 印度古詩まはばらだ物語を読みて(2)ーカミアカの森に入りぬる一千の宮女の群よ夕日春●/五王子は雲を支へて立てるてふサミが木ぬれに刃隠しぬ/あはれなるドラウバテイの艶なるに王妃はめでぬ且つ嫉みつつ/美しき者にともなふ禍を神よ解き去れドラウバテイに/兄嫁の為めにはかりて猛きピーマ敵を取りぬ肉丸にして/アルジユナは怖るる所ろ更にな●一騎手に持つカンデイワの弓/クリシナは高く叫びぬ天神地祇我と共にあり愚かなもの哉/武士の魂さこうカルナ行かず仕ふる家と運を共にせむ」

□『マハーバーラタ』(サンスクリット語: महाभारतम् Mahābhārata)は、古代インドの宗教的、哲学的、神話的叙事詩。ヒンドゥー教の聖典のうちでも重視されるものの1つで、グプタ朝の頃に成立したと見なされている。「マハーバーラタ」は、「バラタ族の物語」という意味であるが、もとは単に「バーラタ」であった。「マハー(偉大な)」がついたのは、神が、4つのヴェーダとバーラタを秤にかけたところ、秤はバーラタの方に傾いたためである。→ウィキペディア

10月31日 『琉球新報』「秦蔵吉、樺山氏主宰の沖縄社に入社」

11月5日 『琉球新報』「飛耳張目ー目下東京で雑誌雄弁を書いている安元碧海君はどうした動機からか知らないが易の研究を初め・・・」

11月7日 『琉球新報』「昨日真教寺で故和田勇氏追悼会」


11月8日 『琉球新報』「写真ー大正天皇」

11月9日 『琉球新報』「城間恒仁秋田県川辺郡長帰県、尚典侯爵妹サヨ子姫と華燭の典を挙ぐべし」「唐沢 光徳博士①、昨日入港の平攘丸で来県」
①唐沢 光徳カラサワ ミツノリ明治〜昭和期の小児科学者 慶応義塾大学教授。
生年明治11(1878)年10月20日/没年昭和24(1949)年3月30日
出生地東京・日本橋/別名俳号=浜郎
学歴〔年〕東京帝大医科大学〔明治35年〕卒
経歴明治44年東大小児科学教室講師、三井慈善病院小児科部長兼任。大正9年慶応義塾大学教授となり、小児科学教室を創設。昭和4年日本小児科学会が社団法人に組織替えした時、会長となった。また8年には小児保健研究会を発足させ、小児保健活動に尽力、小児病、特にジフテリア研究では世界的に知られる業績を残した。→コトバンク
11月15日 『琉球新報』「小児の食物に就いて-唐澤医学博士の講演」①
11月22日 『琉球新報』「粟国通信」
11月28日 『琉球新報』「宗教と哲学ーシュワルツ博士講演」①
11月29日 『琉球新報』「沖縄県鉄道開通紀念号」

12月5日 『琉球新報』「中座ートルストイ作島村抱月再脚色 復活」
12月15日 『琉球新報』当山善真「布哇通信」
12月20日 『琉球新報』「曝書山房記ー伊波普猷氏と語る」(上)
12月21日 『琉球新報』「マアニ会ー汀鳥、玉塵、戎衣、紅梯梧、麦門冬=禁酒理由も薄過ぎて君に年暮ぬ 任地火鉢に落着きぬ旅の心なる 余談残灰に火鉢馬病む消息も 馬鞍冷えし尻あぶる火鉢陣の朝」「球陽座ー白虎隊(会津戦争)」
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1913年1月1日『沖縄毎日新聞』俳諧小僧(末吉安恭)「俳諧 牛の國」
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1914年1月3日『沖縄毎日新聞』俳諧小僧(末吉安恭)「俳諧 牛の國俳諧」「毎日二句」

1914年1月5日『沖縄毎日新聞』俳諧小僧(末吉安恭)「続俳諧 牛の国」「毎日二句」
1914年1月7日『沖縄毎日新聞』俳諧小僧(末吉安恭)「続俳諧 牛の国」「毎日二句」


1913年2月8日『沖縄毎日新聞』獏族「川柳 車上偶吟」
1913年2月11日『沖縄毎日新聞』獏族「川柳 車上偶吟ー章魚ゆでて爺は風呂を上けり」
1913年2月13日『沖縄毎日新聞』獏族「川柳 車上偶吟ー火事」
1913年2月15日『沖縄毎日新聞』獏族「川柳 車上偶吟ー火事 山火事」

1913年2月19日『沖縄毎日新聞』獏族「川柳 車上偶吟ー詠史 猪早太」

1913年2月20日『沖縄毎日新聞』獏族「川柳 車上偶吟ー居候」

1913年2月26日『沖縄毎日新聞』獏族「川柳 車上偶吟ー泥濘」




1913年3月2日『沖縄毎日新聞』獏族「川柳 車上偶吟ー巫女」




1913年3月5日『沖縄毎日新聞』玉代勢法雲「病室より」①

1913年3月6日『沖縄毎日新聞』俳諧小僧(末吉麦門冬)「俳句に現はれたる巫女(1)」
○時節柄沖縄のユタとは少し異なれども本土の巫女一名神子それも我俳諧の畑に出てたるものを一寸紹介して見よう。序に注釈まで附け加えて置く

河内路や東風吹き送る巫女が袖       蕪村
河内路と云ふと何だか暖かい野道を連想する一望尽きざる長い道が通って所々にポッチリと菜の花が咲きこぼれている。野川の薄氷も漸う融けかかり一体の空気が裕ったりと落着いた気分で道行く人の足の歩みも自づと緩りになるこの背景を前にして芝居なら花道から白衣の長い袖をひるがえして若い巫女が東風に吹き送られて出て来る袖がひらひら裳裾がほらほら丁度土蜘の狂言に出る巫女のやうな装ひであらう薩張りした清い感じのする句振りである作者蕪村は巫女が好きだったと見えて此外にも二三種作ってある。

1913年3月7日『沖縄毎日新聞』俳諧小僧(末吉麦門冬)「俳句に現はれたる巫女(2)」
○春風や廻廊下る巫女か袖         満米
今しも神楽堂で神すずしめの朝神楽が終わり古香人を襲ふて幽然たる社殿を廻りて更に続く廻廊を小忌衣の袖長う垂れシュツシュツと衣すれの音して下り来るみこの姿は端厳なるかなかかる時けにや彼女は人間の物にあらず白鳩のやうな神の使いのやうな思ひに人をして振り仰いて恍惚たらしむ春風吹いて普き洛陽の天地この境にこの景あり。

1913年3月8日『沖縄毎日新聞』俳諧小僧(末吉麦門冬)「俳句に現はれたる巫女(3)」
○巫女町によき衣すます卯月かな      蕪村
卯月は旧暦の四月初夏の候である目に青葉山ほととぎす初鰹は江戸趣味であるがこれは京都の方邊の閑静なとある町この界隈はミコの住家が多いのでミコ町の称もある位夜は卯の花月夜にホゾンカケタカ杜鵑の聲も聞こえる所であろう。夜半亭蕪村●日この町をブラリと通りのけようとして兎ある門に逢着した卯の花の垣越しにフト見入るれば此処がミコの家であって丁度一人の女が着物を洗濯してまさに竿に通す所であったそれが清い感じのする綺麗な衣であった主の齢は五十許り打見にはまだ若い卯月の一日場所俳味津々として尽きず遂に村翁薬籠の物となった。



1913年7月5日『沖縄毎日新聞』南村「禁煙日誌ー煙草を吸い始めたのは確か16才の頃であったと記憶する・・・」
1913年7月8日『沖縄毎日新聞』南村「禁煙日誌ー中学での昼食時間は僕等喫煙党の最も楽しい1時間であった・・・」

1913年7月9日『沖縄毎日新聞』南村「禁煙日誌」
1913年7月10日『沖縄毎日新聞』南村「禁煙日誌」
1913年7月23日『琉球新報』松濤「菊栽培法に就いて」(1)
1913年7月24日『琉球新報』松濤「菊栽培法に就いて」(2)
1913年7月25日『琉球新報』松檮濤「菊栽培法に就いて」(3)


1913年7月27日『琉球新報』松濤「菊栽培法に就いて」(4)
1913年7月29日『琉球新報』松濤「菊栽培法に就いて」(5)
1913年8月1日『琉球新報』松檮濤「菊栽培法に就いて」(6)
1913年8月5日『琉球新報』松濤「菊栽培法に就いて」(7)
1913年8月6日『琉球新報』松濤「菊栽培法に就いて」(8)
1913年8月8日『琉球新報』松濤「菊栽培法に就いて」(9)
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2015年7月22日~8月31日 古代出雲歴史博物館「琉球王国ー東アジア交流の盛華」琉球王国のすべてが出雲に集結

出雲/島根県と沖縄

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前列左から前田所長、當間次長、兵庫県人会婦人部ー大城一史の作品を背景に

沖縄県大阪事務所は前田所長、當間次長のとき(1980年)島根県ビルから大阪駅前第3ビルに移転してきた。だから梅田に行くと島根県事務所もよく寄るが、島根(出雲)はまだ行ったことがない。熊野は熊野本宮大社だけが残っている。1937年7月の『月刊琉球』に沖縄県総務部長の清水谷徹が「王仁三郎を捕ふ」というのを書き「元来、島根県は松江市は有力な大本教の地盤で、その大本教松江分院なるものが、また素晴らしく豪奢なものであった。面白いことには、その隣りが皮肉にも島根県警察部長官舎で、当時私が住んでいた訳である。」と述べている。私は最近、千田稔『華族総覧』講談社を愛読しているが、島根県・亀井家を見ると「王政復古以後、議定、神祇局副知事となり、同局判事に大国隆正を登用した。まさに津和野藩主主従が宗教行政を握ったかであり、廃仏毀釈で神道国教化政策を推進した。(略)亀井家では西周が亀井玆明の養育を担い、森林太郎も同世代として玆明と交流した。日清戦争が勃発すると、亀井玆明は祖先玆矩が琉球守として外征の大志を抱いたことに触発され、従軍写真家として中国に赴く。のちに『明治廿七八年戦役写真貼』を皇室に献本した。」とある。



○森鴎外記念館もりおうがいきねんかん 島根県津和野町町田イ238 電話番号 0856-72-3210
営業時間 9時~16時45分  定休日 12月~3月中旬の月曜(祝日の場合は翌日)
料金 入館600円(森鴎外旧宅の見学料含む)  アクセス JR津和野駅→石見交通バス鴎外旧居・長野行きで7分、バス停:鴎外旧居前下車、徒歩3分
森鴎外旧宅に隣接して立つ記念館。軍医であり、文学者でもあった鴎外の生涯を、遺品や直筆の原稿、ハイビジョン映像などで紹介している。鴎外は、幼くして『論語』や『孟子』を学び、天才少年の誉れ高かった。7歳から2年間、養老館で学び、10歳で上京し、その後、鴎外は陸軍軍医となり総監に就任。そのかたわら『舞姫』『山椒大夫』『阿部一族』など多くの小説を著した。鴎外が妻や子どもたちに宛てた書簡や、日記も展示。

○安部榮四郎記念館ー〒690-2102 島根県八束郡八雲村東岩坂1754 ☎FAⅩ(0852)54-1745
安部栄四郎 あべ-えいしろう
1902-1984 昭和時代の和紙製作家。
明治35年1月14日生まれ。出雲国(いずものくに)製紙伝習所で修業し,家業の和紙づくりにはげむ。昭和6年柳宗悦(むねよし)と出あい民芸運動に参加,雁皮紙(がんぴし)の特色をいかした出雲民芸紙を創作。43年人間国宝。昭和59年12月18日死去。82歳。島根県出身。著作に「出雲民芸紙譜」「和紙三昧(ざんまい)」など。(コトバンク)

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以下は『映画春秋』創刊号。1946(昭和21)年8月発刊よりの抄録(抜書き)である。
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 最近、自由映画人連盟の人たちが映画界の戦争責任者を指摘し、その追放を主張しており、主唱者の中には私の名前も混じってるということ聞いた。それがいつどのような形で発表されたのか、くわしいことはまだ聞いていないが、それを見た人たちが私のところに来て、あれは本当に君の意見かときくようになった。

 そこでこの機会に、この問題に対する私の本当の意見を述べて立場を明らかにしておきたいと思うのであるが、実のところ、私にとって、近頃この問題ほどわかりにくい問題はない。考えれば考えるほどわからなくなる。そこで、わからないというのはどうわからないのか、それを述べて意見のかわりにしたいと思う。

 多くの人が、今度の戦争で騙されたという。みながみな口を揃えて騙されたという。私の知っている範囲では俺が騙したのだといった人間はまだ一人もいない。ここらあたりから、もうぼつぼつわからなくなってくる。多くの人は騙したものと騙されたものとの区別は、はっきりしていると思っているようであるが、それが実は錯覚らしいのである。たとえば、民間のものは軍や官に騙されたと思っているが、軍や官の中へ入ればみな上の方をさして、上から騙されたというだろう。上の方へ行けば、さらにもっと上の方から騙されたというにきまっている。すると、最後にはたった一人か二人の人間が残る勘定になるが、いくら何でも、わずか一人か二人の智慧で一億の人間が騙せる訳のものではない。

 すなわち、騙していた人間の数は、一般に考えられているよりもはるかに多かったにちがいないのである。しかもそれは、「騙し」の専門家と「騙され」の専門家とに画然(ぴったりと)と分かれていたわけではなく、いま、一人の人間が誰かに騙されると、次の瞬間には、もうその男が別の誰かを捕まえて、騙すというようなことを際限なく繰り返していたので、つまり日本人全体が夢中になって互いに騙したり騙されたりしていたのだろうと思う。

 このことは、戦争中の末端行政の現れ方や、新聞報道の愚劣さや、ラジオのばかばかしさやさては、町会、隣組、警防団、婦人会といったような民間の組織いかに熱心にかつ自発的に騙す側に協力していたかを思い出してみれば直ぐわかることである。

少なくとも戦争の期間をつうじて、だれが一番直接に、そして連続的に我々を圧迫し続けたか、苦しめ続けたかということを考えるとき、だれの記憶にも直ぐ蘇ってくるのは、直ぐ近所の小商人の顔であり、隣組長や町会長の顔であり。あるいは郊外の百姓の顔であり、あるいは区役所や郵便局や交通機関や配給機関などの小役人や雇員や労働者であり、あるいは学校の先生であり、といったように、我々が日常的な生活を営むうえにおいていやでも接触しなければらない、あらゆる身近な人々であったということは、いったい何を意味するのであろうか。

 いうまでもなく、これは無計画なテン狂戦争(キチガイジミタセンソウの意、テン=やまいだれに旧漢の真に頁)の必然の結果として、国民同士が相互に苦しめ合うことなしには生きて行けない状態に追い込まれてしまったためにほかならぬのである。そして、もしも諸君がこの見解の正しさを承認するならば、同じ戦争の間、ほとんど全部の国民が相互にだまし合わなければ生きて行けなかった事実をも、等しく承認されるに違いないと思う。

騙されるという事は勿論知識の不足からもくるが、半分は信念すなわち意思の薄弱からくるのである。我々は昔から「不明を謝す」という一つの表現を持っている。これは明らかに知能の不足を罪と認める思想にほかならな。つまり、騙されることも一つの罪であり、昔から決していばっていいこととは、されていないのである。

 騙すものだけでは戦争は起こらない。騙すものと騙されるものとがそろわなければ戦争は起こらないということになると、戦争の責任もまた(たとえ軽重の差はあるにしても)当然両方にあるものと考えるほかはないのである。

 そして騙されたものの罪は、ただ単に騙されたという事実そのものの中にあるのではなく、あんなにも造作なく騙されるほど批判力を失い、思考力を失い、家畜的な盲従に自己の一切を委ねるようになってしまっていた国民全体の文化的無気力、無自覚、無責任などが悪の本体なのである。

このことは、過去の日本が、外国の力なしには封建制度も鎖国制度も独力で打破することが出来なかった事実、個人の基本的人権さえも自力でつかみ得なかった事実と全くその本質を等しくするものである。
 そして、このことはまた、同時にあのような専横と圧制を支配者にゆるした国民の奴隷根性とも密接につながるものである。

 それは少なくとも個人の尊厳の冒涜(ぼうとく)、すなわち自我の放棄であり人間性への裏切りである。また、悪を憤る精神の欠如であり、道徳的無感覚である。ひいては国民大衆、すなわち被支配者階級全体に対する不忠である。

 我々は、はからずも、いま政治的には一応開放された。しかしいままで、奴隷状態を存続せしめた責任を軍や警察や官僚にのみ負担させて、彼らの跳梁を許した自分達の罪を真剣に反省しなかったならば、日本の国民というものは永久に救われるときはないであろう。
「騙されていた」という一語の持つ便利な効果におぼれて、一切の責任から開放された気でいる多くの人々の安易きわまる態度を見るとき、私は日本国民の将来に対して暗澹たる不安を感ぜざるをえない。
「騙されていた」といって平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でも騙される、いや、現在も既に別の嘘によって騙されはじめているにちがいないのである。

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今日は7月12日(日)今週、自民の安保法制の強行採決あるやも・・・という時期、
  取り置きの〈伊丹万作〉をだしてきてみた。なにかせずにはいられない!そんな午後だった。
新国立競技場問題、TPP,原発再稼動・福島避難民・中間貯蔵施設等の問題にも、『伊丹万作の言葉』は今に甦る(よみがえる)。
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安里盛昭氏と写真作品「古の製糖工場」

2014年10月 安里盛昭『粟国島の祭祀  ヤガン折目を中心に』総合企画アンリ(☎090-9784-4760)あぐに/2014年10月 安里盛昭『粟国島の祭祀 ヤガン折目を中心に』総合企画アンリ





久場とよ「白樺」、山元文子「奏子の像」

喜納勝代さんと作品「花」



2015年6月24日『東京新聞』「平和の俳句 高からずひくからず咲く石蕗の花ー喜納勝代」

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1943年7月 森繁夫『人物百談』三宅書店(大阪市東区)
森繁夫
明治15年(1883)岡山県生、大阪に住す、人物伝研究家、近代の短冊研究の第一人者、摂陽汽船、その他海運会社の役員歴任。昭和25年(1950)歿、68才。 →コトバンク/短冊蒐集家。古筆研究家・実業家。岡山県生。名は繁夫。摂陽汽船・大阪商船等海軍業の役員を歴任。短冊の蒐集では第一人者として知られ、国学者・歌人の筆跡伝記の研究に大きな成果を残す。編著に『名家筆蹟考』『人物百談』等がある。また歌を佐佐木信綱に学び、『心の花』の同人としても活躍した。蒐集書物は大阪市大に「森文庫」として収められている。昭和25年(1950)歿、68才。→思文閣美術人名辞典

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自民党も公明党も野党もそして国民がもっとしっかりしなければ、この国は、「美しい国」から「醜い国」になりそうです。

 「阿修羅」69. 2015年7月01日 20:23:42 : 8q3qeXT2cgに掲載の安倍批判。多分多くの人は悪ふざけで度が過ぎると思うであろう。
 しかし、一つ一つ検証していくと、それが事実であったり、十分な疑惑が存在する。
 こうした問題点を抱えながら、高い支持率をえていることこそ問題だ。
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と言うことで、安倍総理にインタビューしました! 安倍総理、どうぞ!

私はアベです。ボクはペテン師です。国民の税金で米国CSIS・財界・官僚機構を潤します。

私はアベです。原発イケイケ政策・日中戦争勃発計画はナイさんアミさんの命令です。

私はアベです。米国と財界のポチです。いいですか皆さん、わたくしはポチなんです。

私はアベです。日本の再生は福島からと言いました。その場しのぎの嘘っぱちです。

私はアベです。衆参選挙でTPP反対と言いました。あれはブレることのない嘘です。

私はアベです。福祉の充実のための消費増税と言いました。それも真っ赤なウソです。

私はアベです。統一教会と草加の皆さんはオトモダチです。どちらも本物のカルトですから。

私はアベです。「経済再生・これしかない!」はウソです。経済のことは考えてません。

私はアベです。考えているのは、米国への献上と、財界・官僚への利益供与だけです。

私はアベです。有権者の皆さん。信じて下さい。ボクの言ったことは全てウソですから。

私はアベです。官僚は原稿を作って、振り仮名を振ってくれます。アホでもできます。

私はアベです。大事なことは、既得権益群の保護と売国です。国民ではありません。

私はアベです。国民の生命と財産を守るために防衛費を増やします。これもウソです。

私はアベです。国民の生命など、何も考えていません。もちろん、防衛利権が優先です。

私はアベです。諸外国へ巨額のODAとバラマキを決めました。もちろん大企業の利権です。

私はアベです。大雪や土砂崩れ、でも大事なのは財界と食べる超高級な天麩羅です。

私はアベです。官房機密費でマスコミを懐柔しました。もちろんアホな国民の税金です。

私はアベです。癒着との指摘はあたっていません。癒着と腐敗の極致が適切です。

私はアベです。NHKはボクの応援団です。モミガラ君と島田君はボクの応援団です。

私はアベです。この前、マスコミを脅しました。ホントのことを伝えるからです。

私はアベです。辺野古への米軍移設は利権です。それ以外に何もありません。土建利権です。

私はアベです。ボクにはインチキムサシがついています。今後も大勝利を期待しています。

私はアベです。ボクの顔を見ると嘔吐を催すと言う人がいます。ボクはいつでも下痢気味です。

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■特集 画家・新城剛の世界
今から25年前の1991年7月2日、画家・新城剛は海難事故で急逝した。44歳だった。
「とてもとても暑い日でした」と知子夫人は言う。
スペイン美術賞展優秀賞、オーストラリア美術賞展入選、沖展賞受賞などを受賞し、42歳の時には沖展審査員となって、今後のさらなる展開を期待された画家だった。

○1989年11月 『光扇会 新城知子の会ー『知子の作品集』ー糸・あや・布ー』(表紙・デザイン、題字、編集制作ー新城剛)
           舞台監督ー玉木陽、崎山克馬、大田静男/舞台・照明・音響ー新舞台(那覇公演)、沖縄タイムス(那覇公演)/            結髪・着付ー小波則夫/事務局ー前嵩西勇




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1905年3月25日『萬朝報』愛の家・末吉安持「心ひかるる九段の櫻 友の御魂は何の蕾」


1905年『明星』7月号○下ー末吉詩華「この日」/上に石川啄木せつ子夫妻の歌

1907年『明星』3月号「故末吉安持」
与謝野寛○余は佐々木秀道を亡くして一箇月の後に、また新詩社同人末吉安持をうしなった。秀道の死も意外であったが、安持の死は突然であると共に、まことに語るに忍びざる程悲惨であった。氏は二月の九日に藝苑社の講演を聴いて飯田町の下宿に帰ったが、翌十日の午前三時頃、どうしたはづみか、机上の洋燈が落ち掛かり、全身三分の二を火傷して人事不省となり、同家の友人に送られて神保院と云ふ病院に入院した。医師は種々の治術を施したが、立会った友人等は皆な目を掩うて之を見るに忍びなかった。三日の後、氏は仰臥の儘身じろぎの成らぬに拘わらず非常に元気を回復したが、併し医師は其れを却て危険なる兆候だと云った。果たして十六日の夜から昏睡にに陥り、十七日の午前五時終に不帰の人と成った。享年二十一.このうら若い、将来のある詩人を、突然と過失のために、斯かる悲惨な最期に終わらしめたのは、痛嘆至極、何と慰むる言葉も無い。

 氏は沖縄県首里区字儀保の素封家末吉安由氏の二男であった。中学にあった頃は常に優等の成績を示したと云ふ。父兄が文学の嗜好を以って居る所から、その感化を受けて文学を好むだが、父兄も氏が文学者となることを望み、氏も其積もりで三十七年の二月に出京し、爾来英語を国民英学会に学んで居た。初め長詩を前田林外氏等の雑誌『白百合』や『天鼓』に投じて居たが、三十八年の三月に新詩社に加わり、其後は専ら『明星』にのみ作物を載せた。氏は短歌を作らず、長詩のみの作者で、毎月必ず二三篇を余の手許に送った。十六歳から詩を作り始めたといふが、確かに詩人たる情熱と、独創の力と、物事に対して一種他人と異なった睨みかたとが有って、漫に先人の模倣を事とする無定見者流とは選を異にして居った。三十七年頃は児玉、平木二氏の詩風を慕ひ、三十八以後は薄田、蒲原二家の詩集を愛読し、殊に上田氏の『海潮音』に由って詩眼を開くことを得た一人であった。また能く余が厳格なる批判に聴いて『明星』に採録する氏の詩が、その所作の十が一にも過ぎざるに拘わらず、毫も不満に思ふ色なく、之に激励せられて益々慎重の心掛を加へ、精苦の作を試みた。その詩は昨年に入って頓に進境が見え出したが、本年三月の『明星』に載せた「ねたみ」一篇が、図らずも絶筆と成った。(以下略)


山城正忠○ああ、僕が詩歌の交際に於いて親しい友の一人なる詩華末吉安持君は、本年二月十七日二十一歳を一期に、燃ゆるやうな青春の希望を抱いて、空しく白玉楼中の人となってしまった。回顧すれば、僕が君を知ったのは、三十六年の夏の頃で、或友の紹介を得て、初めて君をその邸宅に訪ふたが、白百合を紫色した薬瓶に活けた氏の書斎に通され、親しくその風丰に接することを得た。『僕は山城といふものですが、以後どうぞ宜しく』と挨拶をすると、君は優しい眉根を、こころもち上げて『あ、さうですか・・・・・・』と云ったきり、何とも言って呉れぬ。そこで、僕は何だか気にくはなかった。少し横柄な人だなと、心中密かに氏の人格を疑った。併し、だんだん話して見ると、思ったよりはさばけた人で、僕の考は全く邪推に過ぎなかった。其日は面白く君の気焔にまかれて、帰ったが、それが縁となって、逢ふことが度かさなるにつれ、互いに胸襟を開いて話すやうになった。

 時には徹夜して酒を飲みながら詩を語り、或る時は深夜奥の山公園の松林で月を賞して、清興を共にした。又或時は、たわいもない事から口論をやることもあったが、それもほんの一時で、直ぐあとは光風雲月といふ塩梅に、一笑に附して了った。君は情の人で意志」の人ではなかった。その情の厚かったことは、友達が一度困厄して居るのを見ると、実に萬腔の同情を以って之を慰籍し、且つ救護したのである。それから酒を飲むとなかなか面白い男で、いつでも団十郎や菊五郎の假色をつかふのが十八番であったらしい。その頃から君は新詩社の詩風に私淑して居って、詩の話になると、すぐ『紫』や『みだれ髪』を持出し、言葉を極めて賞讃した。それに僕も与謝野氏の歌は『東西南北』『天地玄黄』時代から、ひそかに景仰して居ったのであるから、互いに負けぬ気になって、讃辞を交換すると云ふ風であった。それからもう一人君の敬慕して居た詩人は薄田泣菫氏で、その『行く春』『暮笛集』は、いつ行っても氏の机の上に飾られてあった。その為め僕も君に感化せられては又泣菫氏の詩を愛読するやうになり愈愈両人は趣味が一致した。

 これが僕等の交際をして益々親密ならしめた楔子である。泰国の詩人では、君はバイロンとダンテを称揚し、僕はアナクレオンを賛美した。今一人我国では、故人樗牛氏を崇拝して居たらしい。併し近頃は何う変わって居たか、琉球と東京と隔って居たから僕には分からない。なんでも夏目氏と上田敏氏とに大層私淑して居たといふことを外から聞いた。さうかうする内、君は突然上京して了ったので、僕は何だか離れ小島に独りとり残された思がした。爾来音信を絶つこと殆ど二年、時々友人からその消息の一端を聞くばかりで、氏からは端書一枚をも寄越してくれない。随って互いに疎遠に成って居た。然るに三十八年の四月、僕は補充兵で上京し、青山の第四聯隊に入営することになった。毎日練兵が忙しくって、つい君を尋ねることも出来ず、直ぐ近所の与謝野氏の御宅にさへ伺ふことが出来ぬと云ふ始末、それが殆ど七箇月に亘って、十月の中頃、病気に罹って召集解除となり、再び故山の人となった。

 兵営を出て明日帰郷すると云ふ晩、神田の或る本屋の店頭で『天鼓』といふ雑誌を見た。何心なく披いて見ると、末吉詩花として『平和の歌』(たしかさうであったとおもふ)といふ新體詩が出ているので急になつかしい思がした。併し尋ねるにも君の下宿が分からないから終に其儘逢はずに帰国して了ったのは、今から思ふと実に遺憾である。それから僕が琉球に帰って、初めて末吉君は近来『明星』に筆を執って居るといふことを聞いて、愈愈素志の如くやり出したなと、密かに氏の努力を羨んだ。昨年の夏君は帰省したので、久し振りに某酒亭に会して、親しく新詩社の現状を聞き且つ与謝野氏の御話なども受売して貰った。その時氏の語る所によると『与謝野氏は一見何だかコハイやうな方だが、詩に就いては至極親切に指導して下さるから有難い。君も新詩社の一人に加わって真面目に詩を作りたまへ』とのことであった。併し、僕はまだ早からうと述べた。その日は月の佳い夜であった。その月の光が、君と僕と此世で一緒に浴びる最終のものだとは、両人ともつゆ想ひ及ばなかった。ああその夜の光景と君が音容とは、今猶ありありと想ひ泛べ得るのに、君は既に世に居ないのであらうか。僕はまだ何うも君が死を信じ得られない

○1987年8月『沖縄県図書館協会誌』弟12号 仲程昌徳「新詩社同人・詩崋の作品ー末吉安持ノートー」
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