07/21: 年譜・末吉麦門冬/1914(大正3)年
1月 親泊朝擢『沖縄県案内』発行/仲吉朝主、印刷/三秀舎「新聞雑誌ー琉球新報、沖縄毎日新聞、沖縄新聞、発展、撫子新聞、福音、沖縄教育、おきなは、演劇週報」
1月 横山健堂『薩摩と琉球』
1月 島津長丸男爵、観光で来沖
1月 那覇松田橋の傍で徳田鉄工所設立
1月 我謝盛翼、おきなは社に記者として入社
3月 『おきなは』第2巻第3号□口絵写真「二十余年前の沖縄の名士ー美里親方、波上宮司保榮茂、玉城按司、美里按司、護得久朝惟、尚順、勝連按司、今帰仁朝和、高嶺朝申、知花朝章、伊是名朝睦、大城朝詮、大田朝敷、高嶺朝教」
卒業生諸君へ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(1)
鬼が島漂流実話ー危うく一命を助かりし奇談 台湾遭難者の一人 島袋松 伊波文学士の写真・・・・・・・・2
照屋君はどうして大学に入る気になったか・・・・・おきなは社顧問・伊波普猷・・・・・・6
沖縄演習実記・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・従軍記者・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・8
6月2日 『琉球新報』「更衣・座喜味夢香ー桃紅季白去
6月3日 『琉球新報』「末吉麦門冬入社」「故尚泰侯令姉(末吉御殿)葬儀」「母葬式ー男・與那城朝俊、孫・與那城朝敬、次男・與那城朝永、孫・與那城朝淳、親戚・読谷山朝法、識名朝信、佐渡山安亮、尚順、伊江朝眞、読谷山朝慶」 高相杰「送春有感」「薬師吾吉ー転地療養のため鹿児島へ」「球陽座ー歌劇ハワイ行、狂言爬龍船」「中座ー歌劇 新夫婦電車の初乗り、琉球と為朝(弓張月)」
6月4日 『琉球新報』「金口木舌ー近頃加奈陀では日本人の漁業権剥奪を企てるし、又仝地コロンビヤでは印度人支那人と共に日本人の入国拒絶をやって居る・・・」「首里喜舎場朝賢翁琉球見聞録発売ー沖縄毎日新聞名城嗣治へ」「サクラビール王冠(口金)5個で活動写真が見られます」
7月1日『琉球新報』「中座ー琉球史劇・察度王/歌劇・残花の錦き」「球陽座ー歌劇・松之精/喜劇・主人が留守/琉球古事・南山昔物語」
7月3日『琉球新報』笑古「初夏遊奥山」
7月4日『琉球新報』「常設活動写真帝国館ー実写・京都北野神社と平野の桜」
7月7日『琉球新報』「琉球歌壇ー草秋選」
7月11日『琉球新報』「漢詩ー潤色者・高相杰」「琉球歌壇ー草秋選」
7月18日『琉球新報』「常設活動写真帝国館ー実写彩色・エジプト古跡アラビヤ風俗/新派探偵大冒険・噫名探偵」
7月26日『琉球新報』麦門冬「弔薬師楽山君-
7月30日『琉球新報』「常設活動写真帝国館ー実写・大阪南地芸者/実写・夏のモスコー/日本喜劇・ピリケン」
8月1日『琉球新報』「常設活動写真帝国館ー実写・京都清水寺/実写・米国ダーリング燐寸製造所大火」、琉球歌壇ー草秋選 らくこう『球陽座を見て』」
8月3日『琉球新報』「琉球歌壇ー草秋選 らくこう『中座の「さんげ劇』を見て』」
8月8日『琉球新報』「中座ー創立紀念興行長者ノ大主/旧喜劇・二人大名/踊リ・金細工/組踊・執心鐘入/踊リ・交遊/新喜劇・黄金一枚/歌劇・瀬長詣リ/踊リ・ムンズル笠/踊リ・諸純/組踊・花売之縁/組踊・二童敵討/踊リ・萬歳/踊リ・天川」
8月16日『琉球新報』「俳紫電」
8月18日『琉球新報』「俳紫電」
8月19日『琉球新報』「俳紫電」
8月20日『琉球新報』「専修大学 学生募集」「俳紫電」
8月21日『琉球新報』「俳紫電」
8月22日『琉球新報』「森屋本店ー和洋楽器類開店」「俳紫電」
8月23『琉球新報』「球陽座ー歌劇・人生の春/琉球史劇・宝剣地金丸 京阿波根出世伝」「常設活動写真帝国館ー日本喜劇・未来の芸者/実写・ナイヤガラ瀑布/実写・空中飛行船」「俳紫電」
8月25『琉球新報』「明治大学 学生募集」「俳紫電」
8月28『琉球新報』「中央大学 学生募集」「俳紫電」
8月29日『琉球新報』「俳紫電」
8月30日『琉球新報』「俳紫電」
9月2日『琉球新報』「我海軍の精華▽悉是れ良智驍勇」「常設活動写真帝国館ー女馬賊」「俳紫電」
9月3日『琉球新報』「俳紫電」
9月4日『琉球新報』「太平洋に於ける独墺洪海軍力」「俳紫電」
9月5日『琉球新報』「常設活動写真帝国館ー実写着色・ベルサイユ宮殿」「俳紫電」
9月6日『琉球新報』「中座ー琉球史劇・黒金座主(電気応用)、踊り・七月ゑひさあ、歌劇・可憐児(継親念仏)」「俳紫電」
9月7日『琉球新報』「俳紫電」
9月8日『琉球新報』「俳紫電」
9月9日『琉球新報』「俳紫電」
9月10日『琉球新報』「俳紫電」
9月11日『琉球新報』「俳紫電」
9月12日『琉球新報』「球陽座ー琉球史劇・琉球と薩摩」「常設活動写真帝国館ー実写・ピスピユス山噴火」
9月13日『琉球新報』「俳紫電」
9月14日『琉球新報』「本社記者 渡口政成退社し沖縄民報社に入社」
9月15日『琉球新報』「『月刊雑誌 五人』ーダヌンチョの死せる街ー嘉手川重利/白き血ー山城正忠/脚本時計ー上間正男/小説題未定ー安次嶺栄裕/芭蕉の恋ー末吉麦門冬/本県婦人観ー美鳩楓渓/希臘思想ー仲吉良光/音楽論ー矢野勇雄/小説帽子ー池宮城寂泡/題未定ー漢那浪笛/サヨリ釣ー潮東庵主人/完成の人孔子ー山田有幹」「俳紫電」
9月16日『琉球新報』渡口政成「琉球新報社退社し沖縄民報社入社」
9月17日『琉球新報』「俳紫電」
9月18日『琉球新報』「粟国事情」「斎藤用之助島尻郡長令弟、中頭郡書記・斎藤熊太郎死去、」
9月18日『琉球新報』「俳紫電」
9月19日『琉球新報』「俳紫電」
9月20日『琉球新報』「俳紫電」
9月21日『琉球新報』美鳩ゆき子「妾の初旅日記」(1)
9月21日『琉球新報』「俳紫電」
9月22日『琉球新報』「俳紫電」
9月23日『琉球新報』「俳紫電」
9月26日『琉球新報』素位「泡津海記ーテラの岩屋、日本一の墓、マハナ崎」「球陽座ー琉球史劇・普天間権現之由来記」
10月3日 『琉球新報』「常設活動写真帝国館ー実写・ノールウェ汽車旅行」「球陽座ー喜利 狂言・伊賀の水月(荒木又右エ門武勇伝)渡嘉敷守禮脚色 」
10月7日『琉球新報』「沖縄県庁移転計画ー在京知事は前任地山形県庁新築に従事せし工学士中條精一郎氏に設計を・・・」
10月8日 『琉球新報』清村泉水「宮古女性史」①
10月11日 『琉球新報』「三越の新館成る」「常設活動写真帝国館ー実写・伊多利シシリー市街」」「球陽座ー琉球史劇・大濱赤八」
10月15日 『琉球新報』らくこう「琉球歌壇 印度古詩まはばらだ物語を読みて(1)ー我が情我れの衣につつみ行くシャンタヌ王の面白きかな/この河を渡らん人に舟漕かん王者も渡れ乞食人も/絶ち難き情の絆王もなほ黒き瞳の忘れかねつも/天人は樂を奏しぬ花降りぬ若きピスマの願ひの浄きに/仙人の神通力もいかにせむ美人を見て破れけるかも/呪はるることの恐ろしサチヤワチは岸の浮草靡かんとする/十万の矢を空中に射返して流れを下る婿選ひ舟」
10月17日 『琉球新報』「悲惨極まるラサ島移民①」「球陽座ー大喜利・英雄ト美人ーナポレオン(真境名由孝土産)」
10月21日 『琉球新報』らくこう「琉球歌壇 印度古詩まはばらだ物語を読みて(2)ーカミアカの森に入りぬる一千の宮女の群よ夕日春●/五王子は雲を支へて立てるてふサミが木ぬれに刃隠しぬ/あはれなるドラウバテイの艶なるに王妃はめでぬ且つ嫉みつつ/美しき者にともなふ禍を神よ解き去れドラウバテイに/兄嫁の為めにはかりて猛きピーマ敵を取りぬ肉丸にして/アルジユナは怖るる所ろ更にな●一騎手に持つカンデイワの弓/クリシナは高く叫びぬ天神地祇我と共にあり愚かなもの哉/武士の魂さこうカルナ行かず仕ふる家と運を共にせむ」
□『マハーバーラタ』(サンスクリット語: महाभारतम् Mahābhārata)は、古代インドの宗教的、哲学的、神話的叙事詩。ヒンドゥー教の聖典のうちでも重視されるものの1つで、グプタ朝の頃に成立したと見なされている。「マハーバーラタ」は、「バラタ族の物語」という意味であるが、もとは単に「バーラタ」であった。「マハー(偉大な)」がついたのは、神が、4つのヴェーダとバーラタを秤にかけたところ、秤はバーラタの方に傾いたためである。→ウィキペディア
10月31日 『琉球新報』「秦蔵吉、樺山氏主宰の沖縄社に入社」
11月5日 『琉球新報』「飛耳張目ー目下東京で雑誌雄弁を書いている安元碧海君はどうした動機からか知らないが易の研究を初め・・・」
11月7日 『琉球新報』「昨日真教寺で故和田勇氏追悼会」
11月8日 『琉球新報』「写真ー大正天皇」
11月9日 『琉球新報』「城間恒仁秋田県川辺郡長帰県、尚典侯爵妹サヨ子姫と華燭の典を挙ぐべし」「唐沢 光徳博士①、昨日入港の平攘丸で来県」
①唐沢 光徳カラサワ ミツノリ明治〜昭和期の小児科学者 慶応義塾大学教授。
生年明治11(1878)年10月20日/没年昭和24(1949)年3月30日
出生地東京・日本橋/別名俳号=浜郎
学歴〔年〕東京帝大医科大学〔明治35年〕卒
経歴明治44年東大小児科学教室講師、三井慈善病院小児科部長兼任。大正9年慶応義塾大学教授となり、小児科学教室を創設。昭和4年日本小児科学会が社団法人に組織替えした時、会長となった。また8年には小児保健研究会を発足させ、小児保健活動に尽力、小児病、特にジフテリア研究では世界的に知られる業績を残した。→コトバンク
11月15日 『琉球新報』「小児の食物に就いて-唐澤医学博士の講演」①
11月22日 『琉球新報』「粟国通信」
11月28日 『琉球新報』「宗教と哲学ーシュワルツ博士講演」①
11月29日 『琉球新報』「沖縄県鉄道開通紀念号」
12月5日 『琉球新報』「中座ートルストイ作島村抱月再脚色 復活」
12月15日 『琉球新報』当山善真「布哇通信」
12月20日 『琉球新報』「曝書山房記ー伊波普猷氏と語る」(上)
12月21日 『琉球新報』「マアニ会ー汀鳥、玉塵、戎衣、紅梯梧、麦門冬=禁酒理由も薄過ぎて君に年暮ぬ 任地火鉢に落着きぬ旅の心なる 余談残灰に火鉢馬病む消息も 馬鞍冷えし尻あぶる火鉢陣の朝」「球陽座ー白虎隊(会津戦争)」
年譜・末吉麦門冬/1915(大正4)年
10月8日 『琉球新報』「今般沖縄朝日新聞社創設ー當眞嗣合、仲吉良光、小橋川朝明、末吉安恭、嘉手川重利、野村安茂」
10月9日 『琉球新報』「那覇の興行界」「球陽座ー北谷眞牛」
10月20日『琉球新報』「秋閏ー酔明、泉南、松涛、笑古、莫夢」
10月21日 『琉球新報』莫夢山人「秋風夕」
10月23日『琉球新報』「那覇区の紋章改正ー明治42年以来用い来りたるー蘇鉄葉にて縄を巻きその中に区の字を現し縄区にて那覇区を象徴したー複雑なる紋章」』「重陽ー酔明、泉南、松涛、笑古、莫夢」
11月7日 『琉球新報』宮城鉄夫「琉球に於ける有用植物(1)」~
11月10日 『琉球新報』「日本地図を背景に『万歳』の文字ー我が読者を代表し、寶祚の萬歳を奉祝する」/大正天皇、京都御所紫宸殿で即位礼を挙行
11月14日 『琉球新報』「大嘗祭」「野間五造ー祝電」
11月20日 『琉球新報』「琉球音楽奨励会ー大聲蓄音器と琉歌音譜大割引」「東町さくらやーさくらぱん、サトーパン、ジャムパン、ロースパン、バンズパン、カタパン、食パン」
12月4日 『琉球新報』神山政良 訳「奈翁とホ氏の琉球問答=セントヘレナ島に於ける=」(1)
12月13日 『琉球新報』神山政良 訳「奈翁とホ氏の琉球問答」(9)
12月14日 『琉球新報』金口木舌ーナポレオンは英の一船長を引見した時▲「卿は曾て尊父が予の事を話すのを聞かれた事があるか▲卿は曾て尊父が予に逢いたいと云うのを聞いたことがあるか▲と云うようなことを荐(しきり)に聴いて居る▲之が絶世の英雄ナポレオンの言葉である▲罪のない可愛い人間性が現れて居るではないか▲又彼が彼の少年時代を送ったブリアンの事なら如何に詰まらぬ事にも非情な興味を持って居た▲と云う事にも人間性の懐味が滲み出て居るではないか▲偶像化された英雄豪傑でも祭壇から引きずり下して見ると▲意外に無邪気な人間性の欠点や凡庸人と異らない人情味が見出される▲近世の芸術は一切の偶像を祭壇から引き下ろそうとして居る▲それは然うとナポレオンが琉球の地理的位置を聴いて▲琉球人の風習制度等が他国の干渉によって影響されたに相違ない▲と話したと云う事は其の炯眼に驚かざるを得ない▲事実我が琉球は他国の干渉に依って風習や制度に影響される處があった▲其處が又渾身活動慾制服慾に満たされたナポレオンが想像することも出来ない▲全然武器なき國として立って行かれた所以となったのだ
1915年3月5日『琉球新報』「海を越た婦人」
1915年8月18日 『琉球新報』麦門冬「薫風を浴びて(1)」~
○人生最も幸福な最も愉快な婚礼のことを紹介したから、今度は人生最も不幸な最も不愉快な葬式のことを述べよう。老少不定は何処の島の果てでも免れぬ、老いてこの世に用のない人は、遮莫(さもあればあれ)だが、是からが人間の働き盛りと云ふ若い人でも死の神に取憑かれると、いくら首を振って行くを肯んしないのでも、冷酷無情に冥土の使いがアッと云へば、無理にも引立てられて行かねばならぬ、人の世の果敢なさは是非もない。ああ朝に紅顔の美少年でも暮れに白骨となる。三寸息絶れば万事休す、一門眷族泣き叫べども又止めんようもあらず涙と共に棺を蔽へば死出の旅路の鹿島立、吾輩の旅はまた帰ってくるも、永久帰らぬ旅客はあわれなる哉。
人生最も不幸な不愉快な葬式は、吾輩この島に来て遂に出会なかったのはよかったが、かねてこの島や並びに遠い田舎では今現に行われると聞いた葬式の異風に就き訊ねて見たら、成程異った所もあれど又多くは変遷改廃して噂に聞くほどのものはなかったが、そのあらましを記すると、老人の死んだ時は別に異ったこともないが、若い男女の死ぬる時はあるある、以前は大いにあったが今でもある。何処も同じ人情で若いのは惜しまるる習いだが、情深い島の人々はわけても惜しみ悲しのあまり、一旦棺に詰めて墓に葬るの後も生前親しかりし友人知己が、初七日を終えぬ中は毎日墓に集うて別れを惜み甚だしきは死骸を引き出して、生ける人に物言うごとく慰め語り携ふる所の御馳走を口に充がい、酒を飲ますなど云うことも昔はあった。けれども世が進むに従い開け行く人智は遂に古風の改造となり、今は若い人と雖もさることなく、埋葬の後は死骸に手を触るることがない。
1月 横山健堂『薩摩と琉球』
1月 島津長丸男爵、観光で来沖
1月 那覇松田橋の傍で徳田鉄工所設立
1月 我謝盛翼、おきなは社に記者として入社
3月 『おきなは』第2巻第3号□口絵写真「二十余年前の沖縄の名士ー美里親方、波上宮司保榮茂、玉城按司、美里按司、護得久朝惟、尚順、勝連按司、今帰仁朝和、高嶺朝申、知花朝章、伊是名朝睦、大城朝詮、大田朝敷、高嶺朝教」
卒業生諸君へ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(1)
鬼が島漂流実話ー危うく一命を助かりし奇談 台湾遭難者の一人 島袋松 伊波文学士の写真・・・・・・・・2
照屋君はどうして大学に入る気になったか・・・・・おきなは社顧問・伊波普猷・・・・・・6
沖縄演習実記・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・従軍記者・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・8
6月2日 『琉球新報』「更衣・座喜味夢香ー桃紅季白去
6月3日 『琉球新報』「末吉麦門冬入社」「故尚泰侯令姉(末吉御殿)葬儀」「母葬式ー男・與那城朝俊、孫・與那城朝敬、次男・與那城朝永、孫・與那城朝淳、親戚・読谷山朝法、識名朝信、佐渡山安亮、尚順、伊江朝眞、読谷山朝慶」 高相杰「送春有感」「薬師吾吉ー転地療養のため鹿児島へ」「球陽座ー歌劇ハワイ行、狂言爬龍船」「中座ー歌劇 新夫婦電車の初乗り、琉球と為朝(弓張月)」
6月4日 『琉球新報』「金口木舌ー近頃加奈陀では日本人の漁業権剥奪を企てるし、又仝地コロンビヤでは印度人支那人と共に日本人の入国拒絶をやって居る・・・」「首里喜舎場朝賢翁琉球見聞録発売ー沖縄毎日新聞名城嗣治へ」「サクラビール王冠(口金)5個で活動写真が見られます」
7月1日『琉球新報』「中座ー琉球史劇・察度王/歌劇・残花の錦き」「球陽座ー歌劇・松之精/喜劇・主人が留守/琉球古事・南山昔物語」
7月3日『琉球新報』笑古「初夏遊奥山」
7月4日『琉球新報』「常設活動写真帝国館ー実写・京都北野神社と平野の桜」
7月7日『琉球新報』「琉球歌壇ー草秋選」
7月11日『琉球新報』「漢詩ー潤色者・高相杰」「琉球歌壇ー草秋選」
7月18日『琉球新報』「常設活動写真帝国館ー実写彩色・エジプト古跡アラビヤ風俗/新派探偵大冒険・噫名探偵」
7月26日『琉球新報』麦門冬「弔薬師楽山君-
7月30日『琉球新報』「常設活動写真帝国館ー実写・大阪南地芸者/実写・夏のモスコー/日本喜劇・ピリケン」
8月1日『琉球新報』「常設活動写真帝国館ー実写・京都清水寺/実写・米国ダーリング燐寸製造所大火」、琉球歌壇ー草秋選 らくこう『球陽座を見て』」
8月3日『琉球新報』「琉球歌壇ー草秋選 らくこう『中座の「さんげ劇』を見て』」
8月8日『琉球新報』「中座ー創立紀念興行長者ノ大主/旧喜劇・二人大名/踊リ・金細工/組踊・執心鐘入/踊リ・交遊/新喜劇・黄金一枚/歌劇・瀬長詣リ/踊リ・ムンズル笠/踊リ・諸純/組踊・花売之縁/組踊・二童敵討/踊リ・萬歳/踊リ・天川」
8月16日『琉球新報』「俳紫電」
8月18日『琉球新報』「俳紫電」
8月19日『琉球新報』「俳紫電」
8月20日『琉球新報』「専修大学 学生募集」「俳紫電」
8月21日『琉球新報』「俳紫電」
8月22日『琉球新報』「森屋本店ー和洋楽器類開店」「俳紫電」
8月23『琉球新報』「球陽座ー歌劇・人生の春/琉球史劇・宝剣地金丸 京阿波根出世伝」「常設活動写真帝国館ー日本喜劇・未来の芸者/実写・ナイヤガラ瀑布/実写・空中飛行船」「俳紫電」
8月25『琉球新報』「明治大学 学生募集」「俳紫電」
8月28『琉球新報』「中央大学 学生募集」「俳紫電」
8月29日『琉球新報』「俳紫電」
8月30日『琉球新報』「俳紫電」
9月2日『琉球新報』「我海軍の精華▽悉是れ良智驍勇」「常設活動写真帝国館ー女馬賊」「俳紫電」
9月3日『琉球新報』「俳紫電」
9月4日『琉球新報』「太平洋に於ける独墺洪海軍力」「俳紫電」
9月5日『琉球新報』「常設活動写真帝国館ー実写着色・ベルサイユ宮殿」「俳紫電」
9月6日『琉球新報』「中座ー琉球史劇・黒金座主(電気応用)、踊り・七月ゑひさあ、歌劇・可憐児(継親念仏)」「俳紫電」
9月7日『琉球新報』「俳紫電」
9月8日『琉球新報』「俳紫電」
9月9日『琉球新報』「俳紫電」
9月10日『琉球新報』「俳紫電」
9月11日『琉球新報』「俳紫電」
9月12日『琉球新報』「球陽座ー琉球史劇・琉球と薩摩」「常設活動写真帝国館ー実写・ピスピユス山噴火」
9月13日『琉球新報』「俳紫電」
9月14日『琉球新報』「本社記者 渡口政成退社し沖縄民報社に入社」
9月15日『琉球新報』「『月刊雑誌 五人』ーダヌンチョの死せる街ー嘉手川重利/白き血ー山城正忠/脚本時計ー上間正男/小説題未定ー安次嶺栄裕/芭蕉の恋ー末吉麦門冬/本県婦人観ー美鳩楓渓/希臘思想ー仲吉良光/音楽論ー矢野勇雄/小説帽子ー池宮城寂泡/題未定ー漢那浪笛/サヨリ釣ー潮東庵主人/完成の人孔子ー山田有幹」「俳紫電」
9月16日『琉球新報』渡口政成「琉球新報社退社し沖縄民報社入社」
9月17日『琉球新報』「俳紫電」
9月18日『琉球新報』「粟国事情」「斎藤用之助島尻郡長令弟、中頭郡書記・斎藤熊太郎死去、」
9月18日『琉球新報』「俳紫電」
9月19日『琉球新報』「俳紫電」
9月20日『琉球新報』「俳紫電」
9月21日『琉球新報』美鳩ゆき子「妾の初旅日記」(1)
9月21日『琉球新報』「俳紫電」
9月22日『琉球新報』「俳紫電」
9月23日『琉球新報』「俳紫電」
9月26日『琉球新報』素位「泡津海記ーテラの岩屋、日本一の墓、マハナ崎」「球陽座ー琉球史劇・普天間権現之由来記」
10月3日 『琉球新報』「常設活動写真帝国館ー実写・ノールウェ汽車旅行」「球陽座ー喜利 狂言・伊賀の水月(荒木又右エ門武勇伝)渡嘉敷守禮脚色 」
10月7日『琉球新報』「沖縄県庁移転計画ー在京知事は前任地山形県庁新築に従事せし工学士中條精一郎氏に設計を・・・」
10月8日 『琉球新報』清村泉水「宮古女性史」①
10月11日 『琉球新報』「三越の新館成る」「常設活動写真帝国館ー実写・伊多利シシリー市街」」「球陽座ー琉球史劇・大濱赤八」
10月15日 『琉球新報』らくこう「琉球歌壇 印度古詩まはばらだ物語を読みて(1)ー我が情我れの衣につつみ行くシャンタヌ王の面白きかな/この河を渡らん人に舟漕かん王者も渡れ乞食人も/絶ち難き情の絆王もなほ黒き瞳の忘れかねつも/天人は樂を奏しぬ花降りぬ若きピスマの願ひの浄きに/仙人の神通力もいかにせむ美人を見て破れけるかも/呪はるることの恐ろしサチヤワチは岸の浮草靡かんとする/十万の矢を空中に射返して流れを下る婿選ひ舟」
10月17日 『琉球新報』「悲惨極まるラサ島移民①」「球陽座ー大喜利・英雄ト美人ーナポレオン(真境名由孝土産)」
10月21日 『琉球新報』らくこう「琉球歌壇 印度古詩まはばらだ物語を読みて(2)ーカミアカの森に入りぬる一千の宮女の群よ夕日春●/五王子は雲を支へて立てるてふサミが木ぬれに刃隠しぬ/あはれなるドラウバテイの艶なるに王妃はめでぬ且つ嫉みつつ/美しき者にともなふ禍を神よ解き去れドラウバテイに/兄嫁の為めにはかりて猛きピーマ敵を取りぬ肉丸にして/アルジユナは怖るる所ろ更にな●一騎手に持つカンデイワの弓/クリシナは高く叫びぬ天神地祇我と共にあり愚かなもの哉/武士の魂さこうカルナ行かず仕ふる家と運を共にせむ」
□『マハーバーラタ』(サンスクリット語: महाभारतम् Mahābhārata)は、古代インドの宗教的、哲学的、神話的叙事詩。ヒンドゥー教の聖典のうちでも重視されるものの1つで、グプタ朝の頃に成立したと見なされている。「マハーバーラタ」は、「バラタ族の物語」という意味であるが、もとは単に「バーラタ」であった。「マハー(偉大な)」がついたのは、神が、4つのヴェーダとバーラタを秤にかけたところ、秤はバーラタの方に傾いたためである。→ウィキペディア
10月31日 『琉球新報』「秦蔵吉、樺山氏主宰の沖縄社に入社」
11月5日 『琉球新報』「飛耳張目ー目下東京で雑誌雄弁を書いている安元碧海君はどうした動機からか知らないが易の研究を初め・・・」
11月7日 『琉球新報』「昨日真教寺で故和田勇氏追悼会」
11月8日 『琉球新報』「写真ー大正天皇」
11月9日 『琉球新報』「城間恒仁秋田県川辺郡長帰県、尚典侯爵妹サヨ子姫と華燭の典を挙ぐべし」「唐沢 光徳博士①、昨日入港の平攘丸で来県」
①唐沢 光徳カラサワ ミツノリ明治〜昭和期の小児科学者 慶応義塾大学教授。
生年明治11(1878)年10月20日/没年昭和24(1949)年3月30日
出生地東京・日本橋/別名俳号=浜郎
学歴〔年〕東京帝大医科大学〔明治35年〕卒
経歴明治44年東大小児科学教室講師、三井慈善病院小児科部長兼任。大正9年慶応義塾大学教授となり、小児科学教室を創設。昭和4年日本小児科学会が社団法人に組織替えした時、会長となった。また8年には小児保健研究会を発足させ、小児保健活動に尽力、小児病、特にジフテリア研究では世界的に知られる業績を残した。→コトバンク
11月15日 『琉球新報』「小児の食物に就いて-唐澤医学博士の講演」①
11月22日 『琉球新報』「粟国通信」
11月28日 『琉球新報』「宗教と哲学ーシュワルツ博士講演」①
11月29日 『琉球新報』「沖縄県鉄道開通紀念号」
12月5日 『琉球新報』「中座ートルストイ作島村抱月再脚色 復活」
12月15日 『琉球新報』当山善真「布哇通信」
12月20日 『琉球新報』「曝書山房記ー伊波普猷氏と語る」(上)
12月21日 『琉球新報』「マアニ会ー汀鳥、玉塵、戎衣、紅梯梧、麦門冬=禁酒理由も薄過ぎて君に年暮ぬ 任地火鉢に落着きぬ旅の心なる 余談残灰に火鉢馬病む消息も 馬鞍冷えし尻あぶる火鉢陣の朝」「球陽座ー白虎隊(会津戦争)」
年譜・末吉麦門冬/1915(大正4)年
10月8日 『琉球新報』「今般沖縄朝日新聞社創設ー當眞嗣合、仲吉良光、小橋川朝明、末吉安恭、嘉手川重利、野村安茂」
10月9日 『琉球新報』「那覇の興行界」「球陽座ー北谷眞牛」
10月20日『琉球新報』「秋閏ー酔明、泉南、松涛、笑古、莫夢」
10月21日 『琉球新報』莫夢山人「秋風夕」
10月23日『琉球新報』「那覇区の紋章改正ー明治42年以来用い来りたるー蘇鉄葉にて縄を巻きその中に区の字を現し縄区にて那覇区を象徴したー複雑なる紋章」』「重陽ー酔明、泉南、松涛、笑古、莫夢」
11月7日 『琉球新報』宮城鉄夫「琉球に於ける有用植物(1)」~
11月10日 『琉球新報』「日本地図を背景に『万歳』の文字ー我が読者を代表し、寶祚の萬歳を奉祝する」/大正天皇、京都御所紫宸殿で即位礼を挙行
11月14日 『琉球新報』「大嘗祭」「野間五造ー祝電」
11月20日 『琉球新報』「琉球音楽奨励会ー大聲蓄音器と琉歌音譜大割引」「東町さくらやーさくらぱん、サトーパン、ジャムパン、ロースパン、バンズパン、カタパン、食パン」
12月4日 『琉球新報』神山政良 訳「奈翁とホ氏の琉球問答=セントヘレナ島に於ける=」(1)
12月13日 『琉球新報』神山政良 訳「奈翁とホ氏の琉球問答」(9)
12月14日 『琉球新報』金口木舌ーナポレオンは英の一船長を引見した時▲「卿は曾て尊父が予の事を話すのを聞かれた事があるか▲卿は曾て尊父が予に逢いたいと云うのを聞いたことがあるか▲と云うようなことを荐(しきり)に聴いて居る▲之が絶世の英雄ナポレオンの言葉である▲罪のない可愛い人間性が現れて居るではないか▲又彼が彼の少年時代を送ったブリアンの事なら如何に詰まらぬ事にも非情な興味を持って居た▲と云う事にも人間性の懐味が滲み出て居るではないか▲偶像化された英雄豪傑でも祭壇から引きずり下して見ると▲意外に無邪気な人間性の欠点や凡庸人と異らない人情味が見出される▲近世の芸術は一切の偶像を祭壇から引き下ろそうとして居る▲それは然うとナポレオンが琉球の地理的位置を聴いて▲琉球人の風習制度等が他国の干渉によって影響されたに相違ない▲と話したと云う事は其の炯眼に驚かざるを得ない▲事実我が琉球は他国の干渉に依って風習や制度に影響される處があった▲其處が又渾身活動慾制服慾に満たされたナポレオンが想像することも出来ない▲全然武器なき國として立って行かれた所以となったのだ
1915年3月5日『琉球新報』「海を越た婦人」
1915年8月18日 『琉球新報』麦門冬「薫風を浴びて(1)」~
○人生最も幸福な最も愉快な婚礼のことを紹介したから、今度は人生最も不幸な最も不愉快な葬式のことを述べよう。老少不定は何処の島の果てでも免れぬ、老いてこの世に用のない人は、遮莫(さもあればあれ)だが、是からが人間の働き盛りと云ふ若い人でも死の神に取憑かれると、いくら首を振って行くを肯んしないのでも、冷酷無情に冥土の使いがアッと云へば、無理にも引立てられて行かねばならぬ、人の世の果敢なさは是非もない。ああ朝に紅顔の美少年でも暮れに白骨となる。三寸息絶れば万事休す、一門眷族泣き叫べども又止めんようもあらず涙と共に棺を蔽へば死出の旅路の鹿島立、吾輩の旅はまた帰ってくるも、永久帰らぬ旅客はあわれなる哉。
人生最も不幸な不愉快な葬式は、吾輩この島に来て遂に出会なかったのはよかったが、かねてこの島や並びに遠い田舎では今現に行われると聞いた葬式の異風に就き訊ねて見たら、成程異った所もあれど又多くは変遷改廃して噂に聞くほどのものはなかったが、そのあらましを記すると、老人の死んだ時は別に異ったこともないが、若い男女の死ぬる時はあるある、以前は大いにあったが今でもある。何処も同じ人情で若いのは惜しまるる習いだが、情深い島の人々はわけても惜しみ悲しのあまり、一旦棺に詰めて墓に葬るの後も生前親しかりし友人知己が、初七日を終えぬ中は毎日墓に集うて別れを惜み甚だしきは死骸を引き出して、生ける人に物言うごとく慰め語り携ふる所の御馳走を口に充がい、酒を飲ますなど云うことも昔はあった。けれども世が進むに従い開け行く人智は遂に古風の改造となり、今は若い人と雖もさることなく、埋葬の後は死骸に手を触るることがない。