Archives

You are currently viewing archive for October 2021
Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02
コメントはメールにお願いします→shinjo8109@gmail.com

nullnullnullnull
10-19/10-20


 毛ば部とる子 10-14 野党が勝つと共産主義になるってのは、自公が勝つと国民が学会員になるって言ってるようなもの。この理屈のバカバカしさに気づかなきゃいかん。

null
 井上伸@雑誌KOKKO 10-13 岸田首相は「成長なくして分配はない」と言いますがこの23年間で大企業は経常利益を2.45倍にも増やし分配は減らしています。この23年間の客観的事実は「大企業は成長しても分配を減らした」「成長したのに分配はない」です。そして日本の1人当たりGDPは23年間で4位から24位に転落しました(IMFデータ)

null
大濱 聡 10月13日

映画ー1965年11月 那覇 沖映本館「血と掟」(安藤昇)

空手家・赤嶺嘉栄
null
写真ー前列左から友寄英彦実行委員長、平良良松那覇市長、比嘉佑直保存会長。後列左から備瀬政太郎経民部長、前田武行助役、稲嶺成珍助役、赤嶺嘉栄審判長。→2001年12月 『那覇大綱挽』那覇大綱挽保存会
空手の人物事典や上地流の本を見ると赤嶺嘉栄が出てくる。沖縄人連盟史関連にも名前が出てくる。その沖縄人連盟では赤嶺が中心となりヤクザ鴻池組系井上組に抗議している。また又吉世喜(1975年)や喜舎場朝信(1977年)の葬儀に、宮城嗣吉と共に友人代表のひとりに名をつらねている。また赤嶺の葬儀のとき友人代表のひとりとして東京の万年東一の名がある。万年は横井英樹銃撃事件で知られる安藤昇の親分格である。
nullnullnull
写真ー赤嶺嘉栄/万年東一の名刺/安藤組組織図、上の方に万年東一の名がある。
nullnull
 2016/5 大下 英治『激闘! 闇の帝王 安藤昇』 / ◇石原慎太郎が晩年『あるヤクザの生涯 安藤昇伝』2021/5を出している。

1939年6月10日 蜂須賀正氏侯爵 来沖

蜂須賀正氏 はちすか-まさうじ
1903-1953 昭和時代の動物学者。
明治36年2月15日生まれ。もと阿波(あわ)徳島藩主の蜂須賀家18代。フィリピンなど海外の鳥類や絶滅鳥ドードーを研究。日本生物地理学会会頭,日本鳥類保護連盟会長などをつとめた。昭和28年5月14日死去。50歳。東京出身。ケンブリッジ大卒。著作に「世界の涯(はて)」など。→コトバンク ○戦争末期には自家用機で日本脱出を計画して問題となったり、子爵高辻正長と共謀して白金の密輸に関与した廉で検察の取調べを受けたりするなど醜聞にまみれ、「醜類有爵者」と嘲笑された。密輸の件では1945年5月10日に国家総動員法違反容疑で起訴。1945年7月28日、敗戦直前に爵位を返上して平民となる。戦後は、在米中に結婚した智恵子夫人との壮絶な離婚訴訟や、遺産相続の揉め事、財宝の行方不明事件、横井英樹への貸し金をめぐる訴訟などで週刊誌に数多くのゴシップを提供した。昭和14年(1939年)3月10日、永峰智恵子(日系アメリカ人永峰治之長女、明治42年(1909年)1月20日生 - 平成8年(1996年)5月27日没)と入籍、長女正子(蜂須賀家17代当主、昭和16年(1941年)1月7日生)が入る。○事件の顛末ー1958年(昭和33年)6月、安藤組安藤昇組長は、三栄物産代表取締役・元山富雄から、「昭和25年(1950年)に蜂須賀元侯爵が、年2割金利で東洋郵船社長・横井英樹に3000万円を貸し付けた。3000万円のうち2000万円が未払いになっている。蜂須賀元侯爵夫人が訴訟を起こして最高裁で勝訴したが、1年を過ぎても横井英樹からの支払いがない。横井英樹から2000万円を取り立ててほしい」との依頼を受けた。1958年6月11日午後3時、安藤昇(当時32歳)は、元山富雄とともに、銀座8丁目の第2千成ビル8階にあった東洋郵船本社を訪れ、横井と交渉したが、横井は支払いを拒否した。同日午後7時10分、安藤組赤坂支部・千葉一弘(後の住吉会住吉一家石井会相談役 当時25歳)が、東洋郵船本社の社長室に押し入り、横井をブローニング32口径の拳銃で1発銃撃した。横井は右腕から左肺と肝臓右を貫通し右わき腹に達する銃弾を受け、意識不明の重体に陥った。千葉一弘は逃走した。→ウィキ

» Read More

Category: 04-書の森
Posted by: ryubun02
nullnull
 2021年10月 上江洲儀正『島を出るーハンセン病回復者・宮良正吉の旅路』水曜社(新宿区)
 10歳の少年は、兄に連れられて故郷の石垣島を出た。病気がなおればすぐに帰れると思っていた。長い旅のはじまりだった。1956(昭和31)年、島を出た宮良正吉(みやらせいきち)は現在76歳。大阪で暮らし、ハンセン病関西退所者原告団「いちょうの会」の会長である。いまだにやまないハンセン病への差別・偏見の解消をめざし、回復者の語り部として各地で自身の体験を伝えている。ハンセン病の歴史は悲惨である。患者はらい病と呼ばれて差別され村の外へ追いやられ、隔離された。療養所内では男性に断種手術を施し、妊娠した女性には堕胎を強要した。「この病気は死んだら喜ばれる」……。
 回復した正吉は大阪の印刷会社で働いた。社会は荒波だった。恋人ができた。プロポーズの時に回復者だと打ち明けた。「それがどうしたの?」。その言葉にあたらしいふるさとができた。ふたりの子どもに恵まれた。娘に元患者だったと告白してから5 年後、新聞記事で公にカミングアウトし、ハンセン病語り部の道を歩みだした。本書はロングインタビューの積み重ねにより、ひとりのハンセン病患者の半生を「生の声をできるだけ生のまま」「わたし(著者)自身に教えるように」ハンセン病問題の歴史をかさねあわせて書かれた「長い旅」、その現在進行形の経過報告でもある。
 宮良 正吉(みやら・せいきち)1945 年7月沖縄県石垣町に生まれる。小学4年身体検査でハンセン病罹患が判明。翌年、沖縄本島のハンセン病療養所愛楽園に収容のため島を出る。1961年患者専用列車で高校入学。1965 年高校卒業後大阪で就職。2001年らい予防法違憲国家賠償請求訴訟原告団に加わる。2008年はじめて自身の体験を語りはじめる。

 
大濱 聡 2021年11月■「過去の思い出を振り返ってみましょう」として2017.11.10の投稿が。「日本最南端の出版社」南山舎と、代表の友人・上江洲儀正さん(現会長)についての紹介でした。■1987年の創業以来、八重山をテーマに数々の良書を世に送り出してきましたが、このたび初めて自身の本『島を出る―ハンセン病回復者・宮良正吉の旅路―』(水曜社刊)を出版。2019-20年の2年にわたって、南山舎発行の『月刊やいま』で自ら10回連載したルポ「島を出た八重山人」に加筆修正してまとめたものです。
■ハンセン病患者として10歳の幼い身で親元を離れ、島外の療養所でひとりで生きていかねばならなかった人生――〈一人の元患者の半生とハンセン病問題の歴史を重ねあわせて書かれた、現在進行形のノンフィクション〉(新聞広告より)■〈島を出る。島人にとってこのことばは特別な響きがある〉〈島を出るのは、若者にとって宿命のようなものである。しかも一度出てしまうと、島に働く場はそう多くはないから、なかなか戻ることはできない。したがって、「島を出る」ということばには、覚悟、希望、別れ……などさまざまな思いが入り混じる〉(あとがきより)読み応えのある本です。お薦めします。

週刊誌は個人で保存するには限界がある。後に雑誌図書館・大宅壮一文庫が開館したときは早速に訪ね整理法を学んだ。そのときは西沢昌司氏が応対してくれた。次に行くと、八重山出身の上江洲榕氏と出会った。『琉文手帖』2号の東京連絡所が大宅文庫(http://www.oya-bunko.or.jp/)となっているのは上江洲氏が引き受けたからである。
null
 上江洲儀正氏との出会いは1976年。『週刊ポスト』に「雑誌図書館『大宅文庫』活用の手引き」が載っていて雑誌17万冊を辞典のように利用できると紹介されていた。早速、京都駅から新幹線で上京。文庫を訪ね西沢昌司氏に会い「大宅壮一と沖縄」を話題にして歓談した。その次に尋訪ねると上江洲氏が居たので書庫を見たり大宅の生前の書斎で上江洲氏の仕事が終わるのを待ち新宿の沖縄料理屋へ繰り出した。そのうち上江洲氏から自分の小説が載っている『早稲田文学』『じくうち』が贈られてきた。手元にある『大宅壮一文庫索引目録』の扉には彼に押して貰った文庫の印がある。そのときの名刺には「財団法人大宅壮一文庫事務局次長」とあった。彼は『じくうち』の同人で4号に東京とシマをテーマに小説「二ーラン神の島」を書いている。5号に「肝苦さんさあ」、6号に「義足」、7号「人形」であった。私は彼が文庫に居る時、松島記者担当の『琉球新報』落ち穂欄にエッセイを書いてもらったが今では良い記念となっている。数年後『八重山手帳』や『情報ヤイマ』創刊号が贈られてきた。那覇で会ったときの名刺には「企画・出版・情報処理・南山舎」とあった。

» Read More

Category: 01-人物名鑑
Posted by: ryubun02
null
第17代那覇市長・兼次佐一


 1953年9月『沖縄婦人の友』創刊(表紙画・山田真山)。社長・兼次佐一、編集兼発行人・比嘉寿助
 1953年11月『沖縄婦人の友』2号
 1954年1月
 1954年2月
 1955年『沖縄婦人之友』新春号□大宜味朝徳(沖縄出版協会長)/沖縄婦人之友の発展を祝すー出版事業は難事業の一つである。これ位、体力・智力を使うなら他にいくらでも楽な仕事はある筈だ。智識階級を相手の仕事だけに一寸でもヘマをやるともう相手にされない。沖縄における出版業は全く宿命の仕事である。これは過去の出版受難史が雄弁に物語っている。
 永続した雑誌と云うのは今まで皆無の状態である。三号雑誌は良い方で一号でつぶれたものや計画だけで本の姿を見せず流産するのが多い。この難事業を比嘉君がコツコトと継続し、逐年発展の一途を辿りつつあることは比嘉君の信念と情熱の然らしむるものとして敬意を表するものである。今度更に新年度を期し編集方針を改革し誌面を公開し、雑誌文化を通じて沖縄の発展に寄与したいということは非常に意のあることでその発展に期待している次第である。
 私が比嘉君を知ったのは昨年彼が那覇市会議員に落選したとき、私の事務所を訪ねて会ったときが始めてである。そのときの言草がふるっている。「どうも那覇市民は私の人物を知らぬようだ。どうか権威のある沖縄興信所発行の『琉球人物名鑑』に私の経歴を紹介してくれ」ということであった。
 比嘉寿助(□1915年2月10日~1978年6月27日)代書業サイン社
本籍・那覇市西新町 住所・那覇市二区九/大正3年2月10日生 南大東島尋常高等学校卒。 趣味・一人で夜道を歩いて考えること。/家族・妻豊子、長女祥子、二女美津子、三女小夜子、四女市子。昭和8年あの有名な琉球天一坊事件をまきおこし後に日刊沖縄新聞記者。23歳の時に沖縄批判社を創立、初版で解散となり、24歳の時上京すべく鹿児島から土方をやりつつ1年がかりで25歳の暮れの鐘を東京新宿の安酒屋で聞くという放浪の旅をなし、26歳の時サンゴ座脚本部に入り、戦争と共に徴用され八重山飛行場の作業班長となる。終戦後はPT船大工、МGメスホールコック、『八重山文化誌』記者。現在前記場所にて代書業をなす。年3月、那覇市会議員に立候補し惜敗。比嘉和志のペンネームで雑文を書く。であった。
 終わりに乞わるるままに『沖縄婦人之友』に忌憚のない希望を述べてみたい。沖縄の出版界の現状として、枕の代用にするような数百頁の雑誌をつくることは無理な話である。・・・・とすれば頁を少なくして質でゆくほかはない。同時に特色を持たせることが必要である。しからば『沖縄婦人之友』の特色をどこに置くか?という問題であるが、これには私は漫画(現在もやっているが)と婦人、子どもの読物に重点をおくことだと思う。漫画は立派なニュースであり、社会評論であり目に訴える読物として高く評価してよい。婦人子どもには最初に飛びつくのは漫画である。
1954年『向姓仲吉家之家譜』沖縄婦人之友社

1976年5月ー『政経情報』創刊/編集発行・兼次佐一 発行所・政経情報社(那覇市古波蔵)


1976年5月『政経情報』創刊号□「伊波普猷生誕百年記念 おもろと沖縄学の父」、沖映演劇「那覇大綱挽き基金募集特別公演・裁判劇女よ強くあれ」
1976年6月『政経情報』№2
1976年8月『政経情報』№3□「浜比嘉出身の彫刻家(金城実)本土で大気炎」「沖縄ヒューム管工業所・仲本幸智」
1976年9月『政経情報』№4□「小佐野賢治の摩手 沖縄にも延びていた」「沖縄電力の発電所建設に地元民反対」「NHK受信料徴収率最下位の沖縄」「天災と人災ー中国の地震と玉城村の陥落」
1976年10月『政経情報』№5□「毛主席の死を悼む」「防衛施設庁の態度」を糾弾せよ」、「安里徳仁ー米寿を迎えて」「(有)嘉栄産業・赤嶺嘉栄」
1976年11月『政経情報』№6□「海洋博の犠牲・琉海倒産」「大阪商人 生肉牛輸入」「国会議事堂のトラパーチンを切った粟国太郎翁の話」「暴力による組合弾圧(オリオンビール)」、島庄吉「関東地区における北山会 8年ぶりに復活ー平光雄、上間実、春山国生(夫人は岸本賀昌の二女とよ)、宮城栄昌」→№12島庄吉「うちなーんちゅ物語」
1976年12月『政経情報』№7
1977年1月『政経情報』№8
1977年2月『政経情報』№9□「観光立県に奇抜な着想が欲しい」「大阪のロンボックチーム優勝(平岡行秀)」
1977年4月『政経情報』№10□「集団就職の少年少女を守れ(がじまる会)」、屋良朝四郎「努力格差を是正せよ」「大阪便り」、仲井真元楷「狂歌雑記」、安里徳仁「琉歌」
1977年5月『政経情報』№11□「「大阪で沖縄の観光物産展/がじゅまる会総会/金城実氏の解放会館彫塑」

» Read More