05/03: 沖縄戦と日本軍「慰安婦」
2019年9月13日『毎日新聞』危機である。国際芸術祭「あいちトリエンナーレ」で、慰安婦問題を象徴する少女像などを展示した企画展「表現の不自由展・その後」が中止された一件だ。表現・言論の自由が脅かされる現実もさることながら、「慰安婦問題はデマ」という発言が飛び交う世相も相当に深刻だ。慰安婦問題研究の先駆者、吉見義明・中央大名誉教授に聞いた。【吉井理記】
驚きました。 大阪市の松井一郎市長のことです。「慰安婦問題は完全なデマなんだから。軍が関与して強制連行はなかったわけだから。それは一報を報じた朝日新聞自体が誤報と謝罪しているわけだから」(8月5日、記者団に)と発言しました。名古屋市の河村たかし市長も「強制連行し、アジア各地の女性を連れ去ったというのは事実と違う」(8月5日、記者会見)と言っている。 事実認識が間違っているし、慰安婦問題とは何か、分かっているとは思えない発言です。
朝日新聞が2014年に「誤報」としたのは、戦時中の労使組織「労務報国会」の職員だった吉田清治氏(00年死去)の「軍隊とともに朝鮮(現韓国)の済州島で慰安婦狩りをした」という証言に基づく報道のみです。 私自身、慰安婦の徴募などへの日本軍の深い関与を史料で裏付けた1992年の「従軍慰安婦資料集」(大月書店)の解説でも、95年の「従軍慰安婦」(岩波新書)でも、最初から吉田証言は採用していません。
一部の誤りを取り上げ、慰安婦問題全体をもなかったことにするのは、歴史修正主義者の典型的な言説です。
沖縄戦と日本軍「慰安婦」
那覇市歴史博物館に遊びに行き「2012年度・展覧会のご案内」を貰った。5月のところには「あれから40年~OKINAWAから沖縄へ~」がある。問題は次の「特別企画 沖縄戦と『慰安婦』展」である。あたかも沖縄県のカジノチジ周辺が「沖縄戦隠蔽」にピリピリ神経を尖らしているところに油をそそぐようなもので歴史博物館としては英断だと思ったが学芸員に聞くと、県の沖縄戦隠蔽問題が出る大分前、那覇市総務部平和交流・男女参画課と沖縄戦と日本軍「慰安婦」展実行委員会(高里鈴代代表)から博物館に展示場を申し込んだという。早速に沖縄戦隠蔽の県のほうから「どんな展示内容か」と問い合わせがあったが、学芸員は歴史的に意義があることなので貸したという。とにかく女性たちが動いていることが分かった。沖縄県は県内外から批判されると「慰安婦」「日本軍の住民虐殺」を削り専門家から批判された。下記のように県と同様ニコンサロンでも写真展がカルト右派により中止に追い込まれている。
「写真展ができなかった場合、東京でストリート写真展でも開きます」 日本、名古屋で制作活動をしている写真作家アン・セホン(41)氏は怒りが収まらないようだった。 彼は来月26日から7月9日まで東京、新宿の展示場「ニコンサロン」で写真展を開く予定だった。 展示される作品はアン氏が2001年から2005年まで7回にかけて中国を訪問し、撮影した朝鮮族元従軍慰安婦のおばあさんたちの写真38点だった。昨年12月、審査委員5人で構成された主催側選定委員会の審査で作品性を認められ展示が決定した。
だが、カメラメーカーであるニコンが運営する「ニコンサロン」側関係者は22日、アン氏に電話をかけてきて「展示が中止になった、理由は明かせない」と一方的に通知した。ニコン側は「名古屋に行って謝罪したい」と話しているが、アン氏は「単に謝罪のためになら来る必要はない。写真展を予定通り開催してほしい」と要求した。 ニコン側の突然の写真展中止は日本の右翼勢力による圧迫に屈服した結果だと思われる。アン氏の展示会が差し迫るとインターネット掲示板などには「歴史ねつ造に加担する売国行為だ」「外国の一方的な主張を代弁していいのか」などの非難コメントが相次いだ。 写真展中止に対してニコン側は「写真展開催と関連して(右翼勢力などから)抗議があったことは事実だが、中止は諸般事項を総合的に考慮して判断したこと」とだけ明らかにした。(中央日報)
□「ニコンサロン」は、ニコン創立50周年を記念して1968年1月に銀座三丁目に開設された、写真文化の普及・向上を目的とする写真展示場です。開設記念となる第1回写真展「木村伊兵衛の眼」を開催以来、写真の展示や講演会の開催など、多くの写真家・写真愛好家の方々に写真活動の場を提供してきました。その後1971年6月に「新宿ニコンサロン」、1974年3月には「大阪ニコンサロン」を開設、より幅広い写真活動の場として活用されています。プロ・アマの壁を取り払い、企業戦略に影響されず、あらゆる分野の優れた作品の展示場として写真展本来の姿を追求する「ニコンサロン」。(ニコンも企業だからカルト右派には弱い)
「従軍慰安婦」資料
1984年12月 沖縄エッセイストクラブ『群星』山川泰邦「従軍慰安婦狩り出しの裏話」
【日本人慰安婦の話~橋下“維新の会”は聞け 美輪明宏】(2013年6月のライブドアニュースより)
今日はですね、橋下さんが発言しちゃって問題になっております、従軍慰安婦問題。あれは若い方はトンチンカンで、何の話だか全然お分かりにならないんじゃないかと思いますね。10代後半20代30代の方なども。従軍慰安婦というのはもう60年以上前の、つまり半世紀以上前の第2次大戦の戦争中のお話でしょう。これでいろんなメディアが昔を語るという、終戦記念日に近くなると、よく昔の焼け跡だとか兵隊さんの話とか色々なものを聞いて、爆撃でやられた話とか、そういった人たちを取材した話ができますでしょう。でも従軍慰安婦の人たちというのは、直の話を聞けないんですよね。そして聞けるのは大体、韓国と中国の従軍慰安婦の人ばかりが取り上げられますけれども、日本人の従軍慰安婦の人たちもいたんですよ。いっぱいいたんです。でもそういった人たちは何故取り上げないのかといったら、その人たちが、もう酷い目に遭ったんですね。
まず、私が何故そんなことを知っているかと言いますと、終戦後にその人たちが満州、つまり今の中国から引き揚げてきたんですね。引き揚げてきて私長崎でございましょう、長崎には丸山遊郭という有名な、女郎さん遊女たちがいて売春する、そういう街があったんですね。坂本龍馬なども遊んでいたような有名な所ですね、日本の3大遊郭という。これが、戦争中に遊興の場所というのはカフェやバーも遊郭もみんな閉店させられて全部が商売営業停止になったんですよ。そしてその人たちは行き場が無くなったんですね。
その人たちはどういう人たちが遊女になっているかというと、主に、人身売買が当たり前になっていた時代でしたから。貧しい農家の娘さんとか、貧しい家の子供たちが、自分が売られていけばお父さんもお母さんも弟たちも飢え死にしないで済むからといって、女衒(ぜげん)と言われる人買いの人に話をしてもらって遊郭に身を売られて、身を売っていったんですね。一家の犠牲になっている貧しいお嬢さんたちが多かったんです。閉鎖されて行き場が無くなった時に、軍の出先機関で大政翼賛会(たいせいよくさんかい)という組織があったんです。そこの人に声をかけられて、満州に良い仕事があるぞ。カフェとか遊郭があるから、そっちへ行って稼げばいいということで、そして喜んでそちらへ行ってみたらなんと、話が違って従軍慰安婦だったというんですね。
従軍慰安婦というのは街ならその街にずっと居着いて遊郭にいて、そして男の人たちの相手をするというだけではなくて、従軍慰安婦の人たちは「従軍」と言いますでしょう、軍に従うと書いてあって第一線を付いて周るんですね。そして筵(むしろ)みたいなものを敷いて、筵みたいなものを立てて、コーリャンという麦よりももっと不味い穀物で作った真っ黒いおにぎりですけれど、私も長崎で食べたことがありますけれど、食べられた物じゃないです。それを枕元に置いて食べながら、表には兵隊たちが木札をもってズラリと並んで、それを一人ひとり相手をして。そして鉄砲の練習をさせられて、敵が来たら身守るためといって銃の練習をさせられて、敵が押し寄せてきますでしょう、馬賊(ばぞく)とか匪賊(ひぞく)とか。そうすると兵隊と一緒に戦うんですって。
戦って流れ弾に当たって死んだら、今度は日本婦人がそういうことをしていたというと恥になるからといって、モンペやなにかを脱がされて支那(しな)服に着替えさせられて、そして放り出されるんですって。そして埋めてももらえない、焼いてももらえない、野ざらし雨ざらし。山犬の食い荒らすままになっていて。そして終戦後引き揚げてくるときに、まず軍人の将校たちと家族がトラックに乗って逃げて、自分たちは置いてきぼりになったんですって。他の移民団、開拓団の人たちと一緒になって、命からがら引き揚げてきて村に帰ったら、村の恥さらしとか面汚しとか言われて。そして家へ帰ったら、自分はお父さんお母さん、一家のために売られて行ったのに、「お前のやっていたことが世間様に知られたら、家の恥になる、出て行ってくれ。」と。
もうそれはどこに恨みを持っていったらいいのか、それは悲憤慷慨(ひふんこうがい)ですね。それを行き場所が無いから、自分が従軍慰安婦だったというのを隠しているんですよ。だから日本人の従軍慰安婦は一人も出てきませんでしょう。そういう事情があるんですね。そして女郎屋さんが再開して進駐軍の兵隊たち相手に遊郭が復活したんですよ。日本人は出入り禁止で、進駐軍だけのセックスの処理として遊郭がまた再開して、そこで働いていたんですね、また戻ってきて。そこでも内地の女郎さんには白い目で見られて、さんざん馬鹿にされて、ところが3人の人たちはバラバラに引き揚げてバラバラのところにいたのだけれども仲良くなって、それでいろんな思い出話をするんです。それを私は脇でじっと聞いていて「はぁー、どんなに辛いことだろう。」と思ったんですね。
それで私はもうものすごく頭に来ちゃって、義憤(ぎふん)に駆られて「祖国と女たち」という歌を作って。今度のコンサートでも歌いますけれど。みんな政府や右翼の人たちが怖くてその歌を歌わないし言いもしませんけれど、やはりそれはその人たちの供養のためにも表に出してあげることが必要だと思います。ですからその辺を橋下さんは何にも知らないで、それで軽々しくあんなことを言ったり、また沖縄の兵隊たちも風俗を利用してやってくださいと、あんなことを言うべきじゃないんですよ。一遍であの人のことを大嫌いになりました。ですから、もっと人間には尊厳があるということを、維新の会の人たちはもっと知るべきだと思います。
驚きました。 大阪市の松井一郎市長のことです。「慰安婦問題は完全なデマなんだから。軍が関与して強制連行はなかったわけだから。それは一報を報じた朝日新聞自体が誤報と謝罪しているわけだから」(8月5日、記者団に)と発言しました。名古屋市の河村たかし市長も「強制連行し、アジア各地の女性を連れ去ったというのは事実と違う」(8月5日、記者会見)と言っている。 事実認識が間違っているし、慰安婦問題とは何か、分かっているとは思えない発言です。
朝日新聞が2014年に「誤報」としたのは、戦時中の労使組織「労務報国会」の職員だった吉田清治氏(00年死去)の「軍隊とともに朝鮮(現韓国)の済州島で慰安婦狩りをした」という証言に基づく報道のみです。 私自身、慰安婦の徴募などへの日本軍の深い関与を史料で裏付けた1992年の「従軍慰安婦資料集」(大月書店)の解説でも、95年の「従軍慰安婦」(岩波新書)でも、最初から吉田証言は採用していません。
一部の誤りを取り上げ、慰安婦問題全体をもなかったことにするのは、歴史修正主義者の典型的な言説です。
沖縄戦と日本軍「慰安婦」
那覇市歴史博物館に遊びに行き「2012年度・展覧会のご案内」を貰った。5月のところには「あれから40年~OKINAWAから沖縄へ~」がある。問題は次の「特別企画 沖縄戦と『慰安婦』展」である。あたかも沖縄県のカジノチジ周辺が「沖縄戦隠蔽」にピリピリ神経を尖らしているところに油をそそぐようなもので歴史博物館としては英断だと思ったが学芸員に聞くと、県の沖縄戦隠蔽問題が出る大分前、那覇市総務部平和交流・男女参画課と沖縄戦と日本軍「慰安婦」展実行委員会(高里鈴代代表)から博物館に展示場を申し込んだという。早速に沖縄戦隠蔽の県のほうから「どんな展示内容か」と問い合わせがあったが、学芸員は歴史的に意義があることなので貸したという。とにかく女性たちが動いていることが分かった。沖縄県は県内外から批判されると「慰安婦」「日本軍の住民虐殺」を削り専門家から批判された。下記のように県と同様ニコンサロンでも写真展がカルト右派により中止に追い込まれている。
「写真展ができなかった場合、東京でストリート写真展でも開きます」 日本、名古屋で制作活動をしている写真作家アン・セホン(41)氏は怒りが収まらないようだった。 彼は来月26日から7月9日まで東京、新宿の展示場「ニコンサロン」で写真展を開く予定だった。 展示される作品はアン氏が2001年から2005年まで7回にかけて中国を訪問し、撮影した朝鮮族元従軍慰安婦のおばあさんたちの写真38点だった。昨年12月、審査委員5人で構成された主催側選定委員会の審査で作品性を認められ展示が決定した。
だが、カメラメーカーであるニコンが運営する「ニコンサロン」側関係者は22日、アン氏に電話をかけてきて「展示が中止になった、理由は明かせない」と一方的に通知した。ニコン側は「名古屋に行って謝罪したい」と話しているが、アン氏は「単に謝罪のためになら来る必要はない。写真展を予定通り開催してほしい」と要求した。 ニコン側の突然の写真展中止は日本の右翼勢力による圧迫に屈服した結果だと思われる。アン氏の展示会が差し迫るとインターネット掲示板などには「歴史ねつ造に加担する売国行為だ」「外国の一方的な主張を代弁していいのか」などの非難コメントが相次いだ。 写真展中止に対してニコン側は「写真展開催と関連して(右翼勢力などから)抗議があったことは事実だが、中止は諸般事項を総合的に考慮して判断したこと」とだけ明らかにした。(中央日報)
□「ニコンサロン」は、ニコン創立50周年を記念して1968年1月に銀座三丁目に開設された、写真文化の普及・向上を目的とする写真展示場です。開設記念となる第1回写真展「木村伊兵衛の眼」を開催以来、写真の展示や講演会の開催など、多くの写真家・写真愛好家の方々に写真活動の場を提供してきました。その後1971年6月に「新宿ニコンサロン」、1974年3月には「大阪ニコンサロン」を開設、より幅広い写真活動の場として活用されています。プロ・アマの壁を取り払い、企業戦略に影響されず、あらゆる分野の優れた作品の展示場として写真展本来の姿を追求する「ニコンサロン」。(ニコンも企業だからカルト右派には弱い)
「従軍慰安婦」資料
1984年12月 沖縄エッセイストクラブ『群星』山川泰邦「従軍慰安婦狩り出しの裏話」
【日本人慰安婦の話~橋下“維新の会”は聞け 美輪明宏】(2013年6月のライブドアニュースより)
今日はですね、橋下さんが発言しちゃって問題になっております、従軍慰安婦問題。あれは若い方はトンチンカンで、何の話だか全然お分かりにならないんじゃないかと思いますね。10代後半20代30代の方なども。従軍慰安婦というのはもう60年以上前の、つまり半世紀以上前の第2次大戦の戦争中のお話でしょう。これでいろんなメディアが昔を語るという、終戦記念日に近くなると、よく昔の焼け跡だとか兵隊さんの話とか色々なものを聞いて、爆撃でやられた話とか、そういった人たちを取材した話ができますでしょう。でも従軍慰安婦の人たちというのは、直の話を聞けないんですよね。そして聞けるのは大体、韓国と中国の従軍慰安婦の人ばかりが取り上げられますけれども、日本人の従軍慰安婦の人たちもいたんですよ。いっぱいいたんです。でもそういった人たちは何故取り上げないのかといったら、その人たちが、もう酷い目に遭ったんですね。
まず、私が何故そんなことを知っているかと言いますと、終戦後にその人たちが満州、つまり今の中国から引き揚げてきたんですね。引き揚げてきて私長崎でございましょう、長崎には丸山遊郭という有名な、女郎さん遊女たちがいて売春する、そういう街があったんですね。坂本龍馬なども遊んでいたような有名な所ですね、日本の3大遊郭という。これが、戦争中に遊興の場所というのはカフェやバーも遊郭もみんな閉店させられて全部が商売営業停止になったんですよ。そしてその人たちは行き場が無くなったんですね。
その人たちはどういう人たちが遊女になっているかというと、主に、人身売買が当たり前になっていた時代でしたから。貧しい農家の娘さんとか、貧しい家の子供たちが、自分が売られていけばお父さんもお母さんも弟たちも飢え死にしないで済むからといって、女衒(ぜげん)と言われる人買いの人に話をしてもらって遊郭に身を売られて、身を売っていったんですね。一家の犠牲になっている貧しいお嬢さんたちが多かったんです。閉鎖されて行き場が無くなった時に、軍の出先機関で大政翼賛会(たいせいよくさんかい)という組織があったんです。そこの人に声をかけられて、満州に良い仕事があるぞ。カフェとか遊郭があるから、そっちへ行って稼げばいいということで、そして喜んでそちらへ行ってみたらなんと、話が違って従軍慰安婦だったというんですね。
従軍慰安婦というのは街ならその街にずっと居着いて遊郭にいて、そして男の人たちの相手をするというだけではなくて、従軍慰安婦の人たちは「従軍」と言いますでしょう、軍に従うと書いてあって第一線を付いて周るんですね。そして筵(むしろ)みたいなものを敷いて、筵みたいなものを立てて、コーリャンという麦よりももっと不味い穀物で作った真っ黒いおにぎりですけれど、私も長崎で食べたことがありますけれど、食べられた物じゃないです。それを枕元に置いて食べながら、表には兵隊たちが木札をもってズラリと並んで、それを一人ひとり相手をして。そして鉄砲の練習をさせられて、敵が来たら身守るためといって銃の練習をさせられて、敵が押し寄せてきますでしょう、馬賊(ばぞく)とか匪賊(ひぞく)とか。そうすると兵隊と一緒に戦うんですって。
戦って流れ弾に当たって死んだら、今度は日本婦人がそういうことをしていたというと恥になるからといって、モンペやなにかを脱がされて支那(しな)服に着替えさせられて、そして放り出されるんですって。そして埋めてももらえない、焼いてももらえない、野ざらし雨ざらし。山犬の食い荒らすままになっていて。そして終戦後引き揚げてくるときに、まず軍人の将校たちと家族がトラックに乗って逃げて、自分たちは置いてきぼりになったんですって。他の移民団、開拓団の人たちと一緒になって、命からがら引き揚げてきて村に帰ったら、村の恥さらしとか面汚しとか言われて。そして家へ帰ったら、自分はお父さんお母さん、一家のために売られて行ったのに、「お前のやっていたことが世間様に知られたら、家の恥になる、出て行ってくれ。」と。
もうそれはどこに恨みを持っていったらいいのか、それは悲憤慷慨(ひふんこうがい)ですね。それを行き場所が無いから、自分が従軍慰安婦だったというのを隠しているんですよ。だから日本人の従軍慰安婦は一人も出てきませんでしょう。そういう事情があるんですね。そして女郎屋さんが再開して進駐軍の兵隊たち相手に遊郭が復活したんですよ。日本人は出入り禁止で、進駐軍だけのセックスの処理として遊郭がまた再開して、そこで働いていたんですね、また戻ってきて。そこでも内地の女郎さんには白い目で見られて、さんざん馬鹿にされて、ところが3人の人たちはバラバラに引き揚げてバラバラのところにいたのだけれども仲良くなって、それでいろんな思い出話をするんです。それを私は脇でじっと聞いていて「はぁー、どんなに辛いことだろう。」と思ったんですね。
それで私はもうものすごく頭に来ちゃって、義憤(ぎふん)に駆られて「祖国と女たち」という歌を作って。今度のコンサートでも歌いますけれど。みんな政府や右翼の人たちが怖くてその歌を歌わないし言いもしませんけれど、やはりそれはその人たちの供養のためにも表に出してあげることが必要だと思います。ですからその辺を橋下さんは何にも知らないで、それで軽々しくあんなことを言ったり、また沖縄の兵隊たちも風俗を利用してやってくださいと、あんなことを言うべきじゃないんですよ。一遍であの人のことを大嫌いになりました。ですから、もっと人間には尊厳があるということを、維新の会の人たちはもっと知るべきだと思います。