03/26: 那覇っ子 石川正通(1897年~1982年)②
1946年 極東国際軍事裁判(東京裁判)翻訳官、通訳官、調査官(キーナン検事と同居)、G・H・Q第八軍教育顧問(教育課長と学校視察)
石川正通□伊波先生は、戦後よく私の家に来れれた。ちょうど先生の東大の同期生の橋本進吉教授が私のすぐ隣で、同じ番地なんです。そして私の家のすぐ真ン前が児玉誉志夫なんだ。これは笹川良一と二人一緒でね。私の家からヤーナラビ(家並び)で、少ししか離れていない。あれがまだ世田谷の等々力に行く前ですね。で、児玉誉志夫と私は一緒に焼け出された。それから児玉の乾分やなんかが新橋駅の角の銀座通りで、テーブルなんか家具を売っていましてね。私は占領軍からいろいろ物が入るもんだから、何も貰わないで融通しておりましたがね。よく私の家に来たものだ。児玉君も、それから乾分たちも。(新城ーこの頃、浦崎永錫のところに、笹川良一が皇族が持っている美術品をバラバラにし売ろうと持ちかけてきた。断ったという)
石川正通□勝てる国敗れし国を裁くてふ/旗十一のたたずまいかな
アイフルバーガー第八軍司令官が日本刀をすべて鋳つぶして廃棄せよに、私は「日本の刀剣は世界に例を見ない美術品である」と身を賭して守り抜く。
1948年 順天堂医科大学教授(予科英語主任)
1949年 千葉商科大学講師
1954年 10月19日 『琉球新報』石川正通「ふりむん随筆(一)」~12月27日
1958年
1959年 2月10日 石川正通〇望遠郷ー神様よ!あなたは開店休業ですか あなたの1人子キリストの言葉 「カイザルの物はカイザルに返せ」 あれは公約ではなかったのですか 沖縄人のものは沖縄人に返して下さい 子供の時に歌った讃美歌 「神は愛なり」の余韻の美しさよ 愛の神を信じ神の愛を疑わない 心の清い沖縄人の祈りを御聞き下さい。(I God! Your words of Christ, the Son one of you I leave open "things Caesar returns to Caesar" what human Okinawa hymn was sung at the time of the child should be returned to the people of Okinawa do I was not a pledge is that "God is love," Please listen to us the prayer of Okinawan the pure in heart that does not doubt the love of God I believe in the love of God of the resonating beauty.)
1960年 1月『オキナワグラフ』「新春特話 正通の望遠郷ー東京裁判物語ー」
1960年 ラジオ沖縄で「正通放談」 石川正通〇私と沖縄ー大宅壮一君が琉球大学を八ミリ大学と、せいいっぱい高く評価したそうだが、人間というものは、自分の高さでしか物を計れないものだという生理的実存の自己暴露的放言として誠に興味深いものがある。八ミリ評論家に八ミリ大学と言われたのは、むしろ名誉である。気にすることはない。
1962年12月26日晩ー「石川正通氏歓迎短歌会」国際通り宮里医院ー前列右より伊波冬子、金城芳子、石川正通・夫人、上里堅蒲、宮里栄輝、松田賀哲/中列右より國吉有慶、比嘉俊成/後右より宮里浩司・夫人、國吉景祉、比嘉晴二郎、泉國夕照、國吉灰雨、石川正秋
1964年 順天堂大学教授を定年退職。国士舘大学教授
1966年 国際大学招聘で講義。琉球新報ホールで講演。
1969年
(渡嘉敷)澄子・石川正通夫妻
1976年 国士舘大学客員教授
1980年 尚学院大学受験科入学式にて講演
1980年 国士舘大学退職
1982年 5月20日那覇市名誉市民。12月2日 順天堂大学附属病院にて逝去
1985年3月 『石川正通追想集』
石川正通□伊波先生は、戦後よく私の家に来れれた。ちょうど先生の東大の同期生の橋本進吉教授が私のすぐ隣で、同じ番地なんです。そして私の家のすぐ真ン前が児玉誉志夫なんだ。これは笹川良一と二人一緒でね。私の家からヤーナラビ(家並び)で、少ししか離れていない。あれがまだ世田谷の等々力に行く前ですね。で、児玉誉志夫と私は一緒に焼け出された。それから児玉の乾分やなんかが新橋駅の角の銀座通りで、テーブルなんか家具を売っていましてね。私は占領軍からいろいろ物が入るもんだから、何も貰わないで融通しておりましたがね。よく私の家に来たものだ。児玉君も、それから乾分たちも。(新城ーこの頃、浦崎永錫のところに、笹川良一が皇族が持っている美術品をバラバラにし売ろうと持ちかけてきた。断ったという)
石川正通□勝てる国敗れし国を裁くてふ/旗十一のたたずまいかな
アイフルバーガー第八軍司令官が日本刀をすべて鋳つぶして廃棄せよに、私は「日本の刀剣は世界に例を見ない美術品である」と身を賭して守り抜く。
1948年 順天堂医科大学教授(予科英語主任)
1949年 千葉商科大学講師
1954年 10月19日 『琉球新報』石川正通「ふりむん随筆(一)」~12月27日
1958年
1959年 2月10日 石川正通〇望遠郷ー神様よ!あなたは開店休業ですか あなたの1人子キリストの言葉 「カイザルの物はカイザルに返せ」 あれは公約ではなかったのですか 沖縄人のものは沖縄人に返して下さい 子供の時に歌った讃美歌 「神は愛なり」の余韻の美しさよ 愛の神を信じ神の愛を疑わない 心の清い沖縄人の祈りを御聞き下さい。(I God! Your words of Christ, the Son one of you I leave open "things Caesar returns to Caesar" what human Okinawa hymn was sung at the time of the child should be returned to the people of Okinawa do I was not a pledge is that "God is love," Please listen to us the prayer of Okinawan the pure in heart that does not doubt the love of God I believe in the love of God of the resonating beauty.)
1960年 1月『オキナワグラフ』「新春特話 正通の望遠郷ー東京裁判物語ー」
1960年 ラジオ沖縄で「正通放談」 石川正通〇私と沖縄ー大宅壮一君が琉球大学を八ミリ大学と、せいいっぱい高く評価したそうだが、人間というものは、自分の高さでしか物を計れないものだという生理的実存の自己暴露的放言として誠に興味深いものがある。八ミリ評論家に八ミリ大学と言われたのは、むしろ名誉である。気にすることはない。
1962年12月26日晩ー「石川正通氏歓迎短歌会」国際通り宮里医院ー前列右より伊波冬子、金城芳子、石川正通・夫人、上里堅蒲、宮里栄輝、松田賀哲/中列右より國吉有慶、比嘉俊成/後右より宮里浩司・夫人、國吉景祉、比嘉晴二郎、泉國夕照、國吉灰雨、石川正秋
1964年 順天堂大学教授を定年退職。国士舘大学教授
1966年 国際大学招聘で講義。琉球新報ホールで講演。
1969年
(渡嘉敷)澄子・石川正通夫妻
1976年 国士舘大学客員教授
1980年 尚学院大学受験科入学式にて講演
1980年 国士舘大学退職
1982年 5月20日那覇市名誉市民。12月2日 順天堂大学附属病院にて逝去
1985年3月 『石川正通追想集』