06/22: 鎌倉芳太郎①
鎌倉芳太郎年譜
1898年10月19日 鎌倉芳太郎、香川県本田郡氷上村字長生(上の紫矢印)に生まれる。父宇一、母ワイの長男
1811年3月 鎌倉芳太郎、平井尋常小学校を卒業
1913年3月ー鎌倉芳太郎、白山高等小学校を卒業。
1913年4月ー鎌倉芳太郎、香川県師範学校本科第1部入学。この頃 江村晴三郎(東京美術学校日本画卒業・白山高等女学校教諭)の知遇を得て日本画の技法を学ぶ。在学中は同郷出身で竹内梄鳳門下の穴吹香村に運筆や写生法を学ぶ。また中央美術社発行の日本画講義録により、結城素明、松岡映丘、鏑木清芳、安田靫彦の写生、臨模、色彩技法等を学ぶ。
○英語教師の小原國芳①の影響を受ける。
①おばらくによし【小原国芳】 1887‐1977(明治20‐昭和52)
な役割を果たした。その学校経営事業の手腕も抜群で,大正末期には成城小学校を都心の牛込から郊外の砧村に移し,そこに成城学園を中心とした学園都市をつくった。29年には,東京町田に玉川学園を創設,33年以後は成城を離れてもっぱら玉川学園での教育経営に力を注ぎ,ここを国際的にも注目をあびるすぐれた総合学園とした。 (コトバンク)
1918年4月ー東京美術学校図画師範科に入学。在学中、日本画は結城素明教授、平田松堂教授②、洋画は田辺至助教授、彫塑は水谷鉄也教授、沼田一雅教授、書道は岡田起作講師、東洋美術史は大村西崖教授③、西洋美術史は矢代幸雄教授④、色彩学は菅原教造講師より学ぶ。ゲーテの色彩論に興味をもつ。
②平田松堂 ひらた-しょうどう
1882-1971 明治-昭和時代の日本画家。
明治15年2月2日生まれ。平田東助(とうすけ)の長男。ちなみに東助の実兄は伊東祐順(伊東忠太の父)。松下正治の父(1940年4月22日 - 松下幸之助の娘、松下幸子と結婚し、松下電器産業・現・パナソニックに入社)。川合玉堂(かわい-ぎょくどう)に師事。明治40年第1回文展に「ゆく秋」が入選。大正10年母校東京美術学校(現東京芸大)の教授。大日本図画手工協会会長などもつとめた。昭和46年6月9日死去。88歳。東京出身。本名は栄二。作品はほかに「小鳥の声」「群芳競妍」など。(コトバンク参照)
③おおむらせいがい【大村西崖】 1868‐1927(明治1‐昭和2)
東洋美術史家。静岡県に生まれる。1893年東京美術学校彫刻科を卒業。1902年母校の教授となり,東洋美術史を講ずる。06年審美書院の設立に加わり,《東洋美術大観》15冊,《真美大観》《東瀛(とうえい)珠光》《支那美術史彫塑編》など,中国美術史の図録,研究書を刊行・執筆して,中国美術史研究に大きな足跡を残した。後年の《密教発達志》は帝国学士院賞を受賞。また,晩年,フェノロサ,岡倉天心が排撃した文人画の復興を主張して,白井雨山らと又玄社を結成した。 (コトバンク)
④やしろゆきお【矢代幸雄】 1890‐1975(明治23‐昭和50)
美術史家。横浜市生れ。1921年渡欧し,ロンドン留学を経てフィレンツェのベレンソンのもとで修業。師に学んだ様式批判的方法と世紀末的唯美主義の融合した立場から,日本人としてはほとんど唯一の英文美術史の大著《サンドロ・ボッティチェリ》(全3巻)を著す(ロンドン,1925,邦訳1977)。25年の帰国後は主として日本・東洋美術を対象とし,《日本美術の特質》(1943),《水墨画》(1969)などを著すとともに,欧文の論文や海外での講義を通じて,日本・東洋美術の海外への紹介につとめた。 (コトバンク)
1918年8月8日ー財団法人・啓明会創立
赤星弥之助①の子で永くアメリカなどに留学した赤星鐵馬②が同郷の牧野伸顕に相談して寄附金・壹百萬圓で1918年8月8日創立。初代理事長に平山成信③。2代目が大久保利武であった。伊東忠太をはじめ鎌倉芳太郎、田辺尚雄、岡村金太郎、池野成一郎、鳥居龍蔵などが援助を受けた。
①赤星弥之助 あかぼし-やのすけ
1853-1904 明治時代の実業家。
嘉永(かえい)6年生まれ。磯長孫四郎(生家は代々天文方で、磯永孫四郎は儒学者)の子で赤星家の養子となる。東京にでて,金貸し業その他の事業に関係し財をなした。明治37年12月19日死去。52歳。薩摩(さつま)(鹿児島県)出身。兄に□長澤 鼎(ながさわ かなえ、本名:磯永彦輔、1852年 - 1934年3月1日)は江戸時代の薩摩藩士。薩摩国出身。13歳の時藩命でイギリスに留学し、後にカリフォルニアに渡り「カリフォルニアのワイン王」「葡萄王」「バロン・ナガサワ」と呼ばれる。(→コトバンク)
②赤星鐵馬
1883年(明治16年)1月11日 - 1951年(昭和26年)11月9日)は、日本の実業家である。大正銀行頭取。
1901年(明治34年) 東京中学卒。
渡米。ロレンスビル(Lawrence Bill)高校、ペンシルベニア大学卒。
1910年(明治43年) 帰国。
1917年 (大正6年) 父・弥之助死去に伴い、保有していた美術コレクションを売却。後に国宝となった物件が多数含まれた事から『赤星家売立』と呼ばれた。
1918年(大正7年)8月8日 財団法人啓明会設立。
1925年(大正14年) 芦ノ湖へブラックバスを移入。(→ウィキペディア)
③平山成信 ひらやま-なりのぶ
1854-1929 明治-大正時代の官僚。
嘉永(かえい)7年11月6日生まれ。平山省斎の養子。第1次松方内閣の書記官長,枢密院書記官長,大蔵省官房長などを歴任。帝国女子専門学校(現相模女子大)校長,日本赤十字社社長をつとめる。帝展の創設につくした。貴族院議員,枢密顧問官。昭和4年9月25日死去。76歳。江戸出身。本姓は竹村。(→コトバンク)
1921年3月 東京美術学校図画師範科を卒業。奈良古美術見学。唐招提寺で開山鑑真和上が「阿児奈波」に漂着したことを知る。4月、文部省より沖縄県に出向を命ぜられ、沖縄県女子師範学校教諭兼沖縄県立高等女学校教諭に任ぜられる。/東京美術学校同期には米須秀亀(西洋画科)、野津唯尹(日本画科)が居た。翌年には我部政達、嘉数能愛、平田善吉、古謝景明も居た。
鎌倉芳太郎、首里の座間味家に
□向姓ー尚清王弟王子尚垣北谷王子朝里9世向榮大宜味按司朝季次男也 小宗 10世・朝三 和宇慶親雲上ー11世・朝傑 =10世・朝良(父・朝良)ー11世・朝記(健)ー12世・朝鎮(正)・・・・・座間味朝佳 ツル-座間味朝雄
1922年4月 鎌倉芳太郎、東京美術学校研究科(美術史研究室)入学。琉球研究資料を正木直彦校長に提出、同校長の紹介により、東京帝国大学伊東忠太教授の指導を受け、研究を続行する。
9」月 関東大震災のため東京を離れ、三カ月間ほど、奈良、京都の古美術の研究に従事する。
1924年3月25日『鹿児島新聞』「取壊す首里城」
1924年4月4日『鹿児島新聞』「首里正殿は保存」
4月ー鎌倉芳太郎、伊東忠太博士と共同研究の名義で、財団法人啓明会より琉球芸術調査事業のため、一カ年間金3千円の補助を受ける。以降2回追加補助を受け、合計1万円となる。鎌倉芳太郎、東京美術学校助手(美術史研究室勤務)として、沖縄県に出張。首里市の援助により、同市役所(高嶺朝教市長)内に写真暗室を設備し、尚侯爵家、その他首里、那覇の名家の所蔵品を調査、撮影。首里城正殿その他の歴史的建造物については、伊東忠太博士の希望により国宝指定のための参考資料として、これらを撮影する。その他、文献、各種資料の調査のため、尚侯爵家文庫、沖縄県立沖縄図書館、御殿、殿内等各家を歴訪する。工芸資料中の染色は、旧首里王府所属の紺屋を捜究し、型紙、染手本等を蒐集する。一カ年に、写真(四ッ切・キャビネ判)千五百点、実物資料三千点に及ぶ。
1924-4
1924- 伊東忠太『琉球紀行』□聞くところによれば日本リーバー・ブラザース株式会社の取締役ジョン・ガスビー氏は英国博物館に送付する目的で、琉球陶器其の他の工芸品を買収の為め琉球に渡り、数千金を投じて古代陶器を買い入れたが、彼は東洋に於ける最も生きたる作品だと激賞し、以前は四五十銭位で売買した古陶器を数十圓で買い集めたそうである。鎌倉芳太郎君も負けずに蒐集しておられるから、稀有の珍品をみすみす外人に奪われることはあるまいと思うが、結局金の競争になるので、聊か心細い感がある。
1925-2-18 『沖縄朝日新聞』「来る28日、古琉球芸術の粋を一堂に陳列して 首里市教育部会が一般公開ー鎌倉芳太郎氏苦心の撮影になる」
1925(大正14)年
9月5日ー東京美術学校で啓明会主催「琉球芸術展覧会」「琉球講演会」「琉球舞台」(登リ口説、カラヤ節、前ノ濱節、童謡踊、千鳥節、萬歳、コテイ節、八重瀬萬歳、ハトマ節、天川節)
12月ー『啓明会第十五回講演集』□東恩納寛惇「琉球史概説」、柳田國男「南島研究の現状」、伊波普猷「古琉球の歌謡に就きて」、鎌倉芳太郎「琉球美術工芸に就きて」、伊東忠太「琉球芸術の性質」、山内盛彬「琉球音楽に就きて
12月ー啓明会『財団法人啓明会創立十年記念会図録』□「第一部 琉球」
1925-9月30日『沖縄朝日新聞』おた「琉球展を観るー9月7日の午後、東京美術学校の大講堂には琉球の舞踊が琉球音楽の伴奏の下に独自な情調と気分を醸しつつ行われていた・・・・」
1925年3月 鎌倉芳太郎、東京美術学校美術史研究室に帰校す。
9月 東京美術学校において、財団法人啓明会主催の琉球芸術展覧会並びに講演会が開催される。鎌倉芳太郎「琉球工芸に就きて」を講演。
12月 『財団法人啓明会第15回講演集』鎌倉芳太郎「琉球工芸に就きて」
1926年4月 鎌倉芳太郎、再度前事業継続のため、沖縄島を中心にして、奄美大島、宮古島、八重山諸島を調査する。この間、琉球王府紺屋の大宗家沢岻家より、型紙、染手本等の実物資料を譲り受け、同家において、紅型の型置及び顔料色差法を実地に演習、会得する。
1926ー10 『沖縄教育』(國吉眞哲)鎌倉春熈「琉球神座考断章」
1927年
9月 鎌倉芳太郎、八重山より台湾に渡って調査旅行し、上海を経て帰国、東京美術学校に帰校す。正木直彦校長担当の「東洋絵画史」講座のため、有給助手となる。
1927-10 『沖縄教育』165号 鎌倉芳太郎「私立琉球炭鉱尋常小学校参観紀」、小原國芳(成城学園主事)「教育道」
1928-12 『東洋工藝集粋』
『財団法人啓明会創立10年記念講演集』鎌倉芳太郎「琉球染色に就きて」
1928年 『財団法人 啓明会創立10年記念会図録』「東洋工藝集醉」
1929年8月 『芸苑巡礼』伊東忠太・鎌倉芳太郎「琉球に於ける日秀上人造像考」巧芸社
1930年1月20日~28日ー東京三越4階西館で「琉球展覧会」○ホール催物 講演 東恩納寛惇「琉球の歴史と地理に就て」/鎌倉芳太郎「琉球の文化に就て」
1930-10 鎌倉芳太郎共著『東洋美術史』玉川学園出版部
1931-7 『財団法人啓明会第41回講演集』
1931年 結城素明『東京美術家墓所考』 巧芸社 (鎌倉編)
(粟国恭子所蔵)
1932年12月 鎌倉芳太郎『南畫と北畫』玉川文庫
1933年4月 鎌倉芳太郎、東京美術学校にて「東洋絵画史」講座を担当。8月ー沖縄県那覇市天尊廟において、『歴代宝案』を調査し、理研陽光印画紙を用いて複写本を作る。
れきだいほうあん【歴代宝案】
琉球王国の外交文書を集めたもの。第1~3集,約250冊からなる膨大な記録。1424年(尚巴志王代)から1867年(尚泰王代)まで440年余に及ぶ文書が含まれ,全文漢文で記されている。17世紀末から18世紀初期,前後3回にわたって首里王府の手で編集された。内容は対中国関係(明・清2代)のものが大半を占めるが,中世(古琉球)のものには朝鮮をはじめ,シャム,マラッカ,ジャワ,スマトラ,アンナンなど東南アジア諸国関係のものもあり,琉球王国の対外交流の範囲とその内容を知ることができる。(コトバンク)
1934-3 『南画鑑賞』第3巻第3号 鎌倉芳太郎「醒斎先生語録を読みて」
1935-1 『財団法人啓明会第48回講演集』
1936-6 『南画鑑賞』第5巻第6号 鎌倉芳太郎「将来の画祖たる覚悟」
1936-12 宇宿捷(宮内省図書寮)来沖
1936年12月から翌年1月 鎌倉芳太郎、琉球の城址で古陶器を発掘。
1936年 結城素明『東京美術家墓所誌』 (鎌倉編)
1937-1 鎌倉芳太郎、沖縄県に赴き、首里城、浦添城、照屋城跡等、各所を発掘調査。
1937年1月 帝室博物館『琉球風俗品陳列目録』
1937-7 宇宿捷『琉球と薩摩の文化展覧会目録』
○鎌倉芳太郎「時双紙」「赤絵小皿」「赤絵小鉢」「赤絵焼酎入」「女子用簪」「上着」
1937ー10 伊東忠太・鎌倉芳太郎『南海古陶瓷』寳雲舎 (山尾 薫明 資料)
11 笠森傳繁『日本文化最近二十年誌』(啓明会二十年記念誌)財団法人・啓明会事務所ー麹町区丸の内1-6東京海上ビルディング
1938年3月1日 『琉球新報』金関丈夫「南海古陶瓷 伊東忠太・鎌倉芳太郎氏著」
1938年4月 『茶わん』「茶わん倶楽部の南海古陶磁展観ー岡野繁蔵夷(イ)氏蒐蔵に集る興奮」 鎌倉芳太郎「琉球紅型と柄鏡」
(イ)岡野繁蔵(明治27~昭和50)は、青島村に生まれました。小学校卒業後、育英学校に進み、卒業後は丸十運送店で働きながら独学し大正2年同志と修養団青島支部を創設し、大正4年東洋商会に就職、インドネシアのスマトラ島で働きました。同8年には資金援助を受けて単独「大信洋行」を興し、昭和2年(1927)頃より南洋における雑貨貿易業の一位にまで成長しました。その取扱品目は、陶磁器・ガラス製品・エナメル製品・綿布製品・蚊取り線香・薬品・ゴム製品など取扱総品種45㈹種類にのぼるといわれています。 しかし、日中戦争と第2次世界大戦の激化により前途に見切りをつけ、昭和18年に店舗を閉じて日本に引き上げました。その後昭和22年の第23回衆議院議員選挙に出馬して当選、中央政界にも乗り出しました。→「瀬戸川流域の歴史(郷土の先駆者達の巻)」
□山尾 薫明
【略歴】
1903年 香川県高松市に生まれる
1926年 東京美術学校在学中に帝国美術院第7回美術展へ入選
1927年 東京美術学校卒業
1932-34年 仏・伊に留学、サロン・ドートンヌに出品
1935-40年 東インド諸島で原始芸術の研究
1941年 二科会会友
1945年 二科会会員
1961-66年 レバノン、シリア、イラン、エジプト、ギリシャの古代美術の研究
1979年 二科会理事
1999年 逝去
山尾薫明は色彩の画家である。初期の頃から色を操る審美眼に長け、踊るような色彩 の作品を多数制作した。佐伯祐三の作品に憧れながらも、初期にヨーロッパを訪れ描 いた作品は、軽やかで明快なものである。帰国途中で立ち寄った南国の、目にも鮮やかな燃える色彩に心を奪われた山尾は、そ の後、民族芸術にインスピレーションを得て彼独特のスタイルを確立させていく。原 住民の生活や風習、宗教といったプリミティブな題材を描いた作品は、まるで楽園回 帰を思わせる神秘的なものだ。この一連の作品もまた、色の躍動感にあふれている。 後年は簡素化された形態や、中近東からギリシャに至るまで研究・蒐集した古代美術 の図柄や文様などを取り入れながら、精神性を追い求めるような作品を描いている。 山尾は画家としてだけでなく、東洋・西洋古美術の優れた研究家であり、また蒐集家 でもあった。第二次世界大戦中、山本発次郎コレクションを戦火から避難させ、今日 見られる佐伯祐三の作品を守り抜いた人物でもある。(ProBidJP)
1938-4 『茶わん』第86号 鎌倉芳太郎「琉球紅型と柄鏡」
1938-7 『茶わん』第89号 鎌倉芳太郎「絵画鑑賞講座(1)」
1938-8 『茶わん』第90号 鎌倉芳太郎「絵画鑑賞講座(2)」
1938-9 『茶わん』第91号 鎌倉芳太郎「絵画鑑賞講座(3)」
1939年2月 鎌倉芳太郎長女・恭子生まれる。
1940-7 『茶わん』第114号 鎌倉芳太郎「安南染付雑考」
(粟国恭子所蔵)
1943-9 鎌倉芳太郎『東洋の彫刻』大雅堂
1945年3月 鎌倉芳太郎、自宅戦災に遇い、蔵書三千点及び東洋美術史研究資料全部を焼失。但し、琉球芸術資料(数千点)は東京美術学校文庫保管のため焼失を免れる。これが琉球染色の本格的研究の契機となる。
糸満市字米須にある香川県の「讃岐の奉公塔」
1898年10月19日 鎌倉芳太郎、香川県本田郡氷上村字長生(上の紫矢印)に生まれる。父宇一、母ワイの長男
1811年3月 鎌倉芳太郎、平井尋常小学校を卒業
1913年3月ー鎌倉芳太郎、白山高等小学校を卒業。
1913年4月ー鎌倉芳太郎、香川県師範学校本科第1部入学。この頃 江村晴三郎(東京美術学校日本画卒業・白山高等女学校教諭)の知遇を得て日本画の技法を学ぶ。在学中は同郷出身で竹内梄鳳門下の穴吹香村に運筆や写生法を学ぶ。また中央美術社発行の日本画講義録により、結城素明、松岡映丘、鏑木清芳、安田靫彦の写生、臨模、色彩技法等を学ぶ。
○英語教師の小原國芳①の影響を受ける。
①おばらくによし【小原国芳】 1887‐1977(明治20‐昭和52)
な役割を果たした。その学校経営事業の手腕も抜群で,大正末期には成城小学校を都心の牛込から郊外の砧村に移し,そこに成城学園を中心とした学園都市をつくった。29年には,東京町田に玉川学園を創設,33年以後は成城を離れてもっぱら玉川学園での教育経営に力を注ぎ,ここを国際的にも注目をあびるすぐれた総合学園とした。 (コトバンク)
1918年4月ー東京美術学校図画師範科に入学。在学中、日本画は結城素明教授、平田松堂教授②、洋画は田辺至助教授、彫塑は水谷鉄也教授、沼田一雅教授、書道は岡田起作講師、東洋美術史は大村西崖教授③、西洋美術史は矢代幸雄教授④、色彩学は菅原教造講師より学ぶ。ゲーテの色彩論に興味をもつ。
②平田松堂 ひらた-しょうどう
1882-1971 明治-昭和時代の日本画家。
明治15年2月2日生まれ。平田東助(とうすけ)の長男。ちなみに東助の実兄は伊東祐順(伊東忠太の父)。松下正治の父(1940年4月22日 - 松下幸之助の娘、松下幸子と結婚し、松下電器産業・現・パナソニックに入社)。川合玉堂(かわい-ぎょくどう)に師事。明治40年第1回文展に「ゆく秋」が入選。大正10年母校東京美術学校(現東京芸大)の教授。大日本図画手工協会会長などもつとめた。昭和46年6月9日死去。88歳。東京出身。本名は栄二。作品はほかに「小鳥の声」「群芳競妍」など。(コトバンク参照)
③おおむらせいがい【大村西崖】 1868‐1927(明治1‐昭和2)
東洋美術史家。静岡県に生まれる。1893年東京美術学校彫刻科を卒業。1902年母校の教授となり,東洋美術史を講ずる。06年審美書院の設立に加わり,《東洋美術大観》15冊,《真美大観》《東瀛(とうえい)珠光》《支那美術史彫塑編》など,中国美術史の図録,研究書を刊行・執筆して,中国美術史研究に大きな足跡を残した。後年の《密教発達志》は帝国学士院賞を受賞。また,晩年,フェノロサ,岡倉天心が排撃した文人画の復興を主張して,白井雨山らと又玄社を結成した。 (コトバンク)
④やしろゆきお【矢代幸雄】 1890‐1975(明治23‐昭和50)
美術史家。横浜市生れ。1921年渡欧し,ロンドン留学を経てフィレンツェのベレンソンのもとで修業。師に学んだ様式批判的方法と世紀末的唯美主義の融合した立場から,日本人としてはほとんど唯一の英文美術史の大著《サンドロ・ボッティチェリ》(全3巻)を著す(ロンドン,1925,邦訳1977)。25年の帰国後は主として日本・東洋美術を対象とし,《日本美術の特質》(1943),《水墨画》(1969)などを著すとともに,欧文の論文や海外での講義を通じて,日本・東洋美術の海外への紹介につとめた。 (コトバンク)
1918年8月8日ー財団法人・啓明会創立
赤星弥之助①の子で永くアメリカなどに留学した赤星鐵馬②が同郷の牧野伸顕に相談して寄附金・壹百萬圓で1918年8月8日創立。初代理事長に平山成信③。2代目が大久保利武であった。伊東忠太をはじめ鎌倉芳太郎、田辺尚雄、岡村金太郎、池野成一郎、鳥居龍蔵などが援助を受けた。
①赤星弥之助 あかぼし-やのすけ
1853-1904 明治時代の実業家。
嘉永(かえい)6年生まれ。磯長孫四郎(生家は代々天文方で、磯永孫四郎は儒学者)の子で赤星家の養子となる。東京にでて,金貸し業その他の事業に関係し財をなした。明治37年12月19日死去。52歳。薩摩(さつま)(鹿児島県)出身。兄に□長澤 鼎(ながさわ かなえ、本名:磯永彦輔、1852年 - 1934年3月1日)は江戸時代の薩摩藩士。薩摩国出身。13歳の時藩命でイギリスに留学し、後にカリフォルニアに渡り「カリフォルニアのワイン王」「葡萄王」「バロン・ナガサワ」と呼ばれる。(→コトバンク)
②赤星鐵馬
1883年(明治16年)1月11日 - 1951年(昭和26年)11月9日)は、日本の実業家である。大正銀行頭取。
1901年(明治34年) 東京中学卒。
渡米。ロレンスビル(Lawrence Bill)高校、ペンシルベニア大学卒。
1910年(明治43年) 帰国。
1917年 (大正6年) 父・弥之助死去に伴い、保有していた美術コレクションを売却。後に国宝となった物件が多数含まれた事から『赤星家売立』と呼ばれた。
1918年(大正7年)8月8日 財団法人啓明会設立。
1925年(大正14年) 芦ノ湖へブラックバスを移入。(→ウィキペディア)
③平山成信 ひらやま-なりのぶ
1854-1929 明治-大正時代の官僚。
嘉永(かえい)7年11月6日生まれ。平山省斎の養子。第1次松方内閣の書記官長,枢密院書記官長,大蔵省官房長などを歴任。帝国女子専門学校(現相模女子大)校長,日本赤十字社社長をつとめる。帝展の創設につくした。貴族院議員,枢密顧問官。昭和4年9月25日死去。76歳。江戸出身。本姓は竹村。(→コトバンク)
1921年3月 東京美術学校図画師範科を卒業。奈良古美術見学。唐招提寺で開山鑑真和上が「阿児奈波」に漂着したことを知る。4月、文部省より沖縄県に出向を命ぜられ、沖縄県女子師範学校教諭兼沖縄県立高等女学校教諭に任ぜられる。/東京美術学校同期には米須秀亀(西洋画科)、野津唯尹(日本画科)が居た。翌年には我部政達、嘉数能愛、平田善吉、古謝景明も居た。
鎌倉芳太郎、首里の座間味家に
□向姓ー尚清王弟王子尚垣北谷王子朝里9世向榮大宜味按司朝季次男也 小宗 10世・朝三 和宇慶親雲上ー11世・朝傑 =10世・朝良(父・朝良)ー11世・朝記(健)ー12世・朝鎮(正)・・・・・座間味朝佳 ツル-座間味朝雄
1922年4月 鎌倉芳太郎、東京美術学校研究科(美術史研究室)入学。琉球研究資料を正木直彦校長に提出、同校長の紹介により、東京帝国大学伊東忠太教授の指導を受け、研究を続行する。
9」月 関東大震災のため東京を離れ、三カ月間ほど、奈良、京都の古美術の研究に従事する。
1924年3月25日『鹿児島新聞』「取壊す首里城」
1924年4月4日『鹿児島新聞』「首里正殿は保存」
4月ー鎌倉芳太郎、伊東忠太博士と共同研究の名義で、財団法人啓明会より琉球芸術調査事業のため、一カ年間金3千円の補助を受ける。以降2回追加補助を受け、合計1万円となる。鎌倉芳太郎、東京美術学校助手(美術史研究室勤務)として、沖縄県に出張。首里市の援助により、同市役所(高嶺朝教市長)内に写真暗室を設備し、尚侯爵家、その他首里、那覇の名家の所蔵品を調査、撮影。首里城正殿その他の歴史的建造物については、伊東忠太博士の希望により国宝指定のための参考資料として、これらを撮影する。その他、文献、各種資料の調査のため、尚侯爵家文庫、沖縄県立沖縄図書館、御殿、殿内等各家を歴訪する。工芸資料中の染色は、旧首里王府所属の紺屋を捜究し、型紙、染手本等を蒐集する。一カ年に、写真(四ッ切・キャビネ判)千五百点、実物資料三千点に及ぶ。
1924-4
1924- 伊東忠太『琉球紀行』□聞くところによれば日本リーバー・ブラザース株式会社の取締役ジョン・ガスビー氏は英国博物館に送付する目的で、琉球陶器其の他の工芸品を買収の為め琉球に渡り、数千金を投じて古代陶器を買い入れたが、彼は東洋に於ける最も生きたる作品だと激賞し、以前は四五十銭位で売買した古陶器を数十圓で買い集めたそうである。鎌倉芳太郎君も負けずに蒐集しておられるから、稀有の珍品をみすみす外人に奪われることはあるまいと思うが、結局金の競争になるので、聊か心細い感がある。
1925-2-18 『沖縄朝日新聞』「来る28日、古琉球芸術の粋を一堂に陳列して 首里市教育部会が一般公開ー鎌倉芳太郎氏苦心の撮影になる」
1925(大正14)年
9月5日ー東京美術学校で啓明会主催「琉球芸術展覧会」「琉球講演会」「琉球舞台」(登リ口説、カラヤ節、前ノ濱節、童謡踊、千鳥節、萬歳、コテイ節、八重瀬萬歳、ハトマ節、天川節)
12月ー『啓明会第十五回講演集』□東恩納寛惇「琉球史概説」、柳田國男「南島研究の現状」、伊波普猷「古琉球の歌謡に就きて」、鎌倉芳太郎「琉球美術工芸に就きて」、伊東忠太「琉球芸術の性質」、山内盛彬「琉球音楽に就きて
12月ー啓明会『財団法人啓明会創立十年記念会図録』□「第一部 琉球」
1925-9月30日『沖縄朝日新聞』おた「琉球展を観るー9月7日の午後、東京美術学校の大講堂には琉球の舞踊が琉球音楽の伴奏の下に独自な情調と気分を醸しつつ行われていた・・・・」
1925年3月 鎌倉芳太郎、東京美術学校美術史研究室に帰校す。
9月 東京美術学校において、財団法人啓明会主催の琉球芸術展覧会並びに講演会が開催される。鎌倉芳太郎「琉球工芸に就きて」を講演。
12月 『財団法人啓明会第15回講演集』鎌倉芳太郎「琉球工芸に就きて」
1926年4月 鎌倉芳太郎、再度前事業継続のため、沖縄島を中心にして、奄美大島、宮古島、八重山諸島を調査する。この間、琉球王府紺屋の大宗家沢岻家より、型紙、染手本等の実物資料を譲り受け、同家において、紅型の型置及び顔料色差法を実地に演習、会得する。
1926ー10 『沖縄教育』(國吉眞哲)鎌倉春熈「琉球神座考断章」
1927年
9月 鎌倉芳太郎、八重山より台湾に渡って調査旅行し、上海を経て帰国、東京美術学校に帰校す。正木直彦校長担当の「東洋絵画史」講座のため、有給助手となる。
1927-10 『沖縄教育』165号 鎌倉芳太郎「私立琉球炭鉱尋常小学校参観紀」、小原國芳(成城学園主事)「教育道」
1928-12 『東洋工藝集粋』
『財団法人啓明会創立10年記念講演集』鎌倉芳太郎「琉球染色に就きて」
1928年 『財団法人 啓明会創立10年記念会図録』「東洋工藝集醉」
1929年8月 『芸苑巡礼』伊東忠太・鎌倉芳太郎「琉球に於ける日秀上人造像考」巧芸社
1930年1月20日~28日ー東京三越4階西館で「琉球展覧会」○ホール催物 講演 東恩納寛惇「琉球の歴史と地理に就て」/鎌倉芳太郎「琉球の文化に就て」
1930-10 鎌倉芳太郎共著『東洋美術史』玉川学園出版部
1931-7 『財団法人啓明会第41回講演集』
1931年 結城素明『東京美術家墓所考』 巧芸社 (鎌倉編)
(粟国恭子所蔵)
1932年12月 鎌倉芳太郎『南畫と北畫』玉川文庫
1933年4月 鎌倉芳太郎、東京美術学校にて「東洋絵画史」講座を担当。8月ー沖縄県那覇市天尊廟において、『歴代宝案』を調査し、理研陽光印画紙を用いて複写本を作る。
れきだいほうあん【歴代宝案】
琉球王国の外交文書を集めたもの。第1~3集,約250冊からなる膨大な記録。1424年(尚巴志王代)から1867年(尚泰王代)まで440年余に及ぶ文書が含まれ,全文漢文で記されている。17世紀末から18世紀初期,前後3回にわたって首里王府の手で編集された。内容は対中国関係(明・清2代)のものが大半を占めるが,中世(古琉球)のものには朝鮮をはじめ,シャム,マラッカ,ジャワ,スマトラ,アンナンなど東南アジア諸国関係のものもあり,琉球王国の対外交流の範囲とその内容を知ることができる。(コトバンク)
1934-3 『南画鑑賞』第3巻第3号 鎌倉芳太郎「醒斎先生語録を読みて」
1935-1 『財団法人啓明会第48回講演集』
1936-6 『南画鑑賞』第5巻第6号 鎌倉芳太郎「将来の画祖たる覚悟」
1936-12 宇宿捷(宮内省図書寮)来沖
1936年12月から翌年1月 鎌倉芳太郎、琉球の城址で古陶器を発掘。
1936年 結城素明『東京美術家墓所誌』 (鎌倉編)
1937-1 鎌倉芳太郎、沖縄県に赴き、首里城、浦添城、照屋城跡等、各所を発掘調査。
1937年1月 帝室博物館『琉球風俗品陳列目録』
1937-7 宇宿捷『琉球と薩摩の文化展覧会目録』
○鎌倉芳太郎「時双紙」「赤絵小皿」「赤絵小鉢」「赤絵焼酎入」「女子用簪」「上着」
1937ー10 伊東忠太・鎌倉芳太郎『南海古陶瓷』寳雲舎 (山尾 薫明 資料)
11 笠森傳繁『日本文化最近二十年誌』(啓明会二十年記念誌)財団法人・啓明会事務所ー麹町区丸の内1-6東京海上ビルディング
1938年3月1日 『琉球新報』金関丈夫「南海古陶瓷 伊東忠太・鎌倉芳太郎氏著」
1938年4月 『茶わん』「茶わん倶楽部の南海古陶磁展観ー岡野繁蔵夷(イ)氏蒐蔵に集る興奮」 鎌倉芳太郎「琉球紅型と柄鏡」
(イ)岡野繁蔵(明治27~昭和50)は、青島村に生まれました。小学校卒業後、育英学校に進み、卒業後は丸十運送店で働きながら独学し大正2年同志と修養団青島支部を創設し、大正4年東洋商会に就職、インドネシアのスマトラ島で働きました。同8年には資金援助を受けて単独「大信洋行」を興し、昭和2年(1927)頃より南洋における雑貨貿易業の一位にまで成長しました。その取扱品目は、陶磁器・ガラス製品・エナメル製品・綿布製品・蚊取り線香・薬品・ゴム製品など取扱総品種45㈹種類にのぼるといわれています。 しかし、日中戦争と第2次世界大戦の激化により前途に見切りをつけ、昭和18年に店舗を閉じて日本に引き上げました。その後昭和22年の第23回衆議院議員選挙に出馬して当選、中央政界にも乗り出しました。→「瀬戸川流域の歴史(郷土の先駆者達の巻)」
□山尾 薫明
【略歴】
1903年 香川県高松市に生まれる
1926年 東京美術学校在学中に帝国美術院第7回美術展へ入選
1927年 東京美術学校卒業
1932-34年 仏・伊に留学、サロン・ドートンヌに出品
1935-40年 東インド諸島で原始芸術の研究
1941年 二科会会友
1945年 二科会会員
1961-66年 レバノン、シリア、イラン、エジプト、ギリシャの古代美術の研究
1979年 二科会理事
1999年 逝去
山尾薫明は色彩の画家である。初期の頃から色を操る審美眼に長け、踊るような色彩 の作品を多数制作した。佐伯祐三の作品に憧れながらも、初期にヨーロッパを訪れ描 いた作品は、軽やかで明快なものである。帰国途中で立ち寄った南国の、目にも鮮やかな燃える色彩に心を奪われた山尾は、そ の後、民族芸術にインスピレーションを得て彼独特のスタイルを確立させていく。原 住民の生活や風習、宗教といったプリミティブな題材を描いた作品は、まるで楽園回 帰を思わせる神秘的なものだ。この一連の作品もまた、色の躍動感にあふれている。 後年は簡素化された形態や、中近東からギリシャに至るまで研究・蒐集した古代美術 の図柄や文様などを取り入れながら、精神性を追い求めるような作品を描いている。 山尾は画家としてだけでなく、東洋・西洋古美術の優れた研究家であり、また蒐集家 でもあった。第二次世界大戦中、山本発次郎コレクションを戦火から避難させ、今日 見られる佐伯祐三の作品を守り抜いた人物でもある。(ProBidJP)
1938-4 『茶わん』第86号 鎌倉芳太郎「琉球紅型と柄鏡」
1938-7 『茶わん』第89号 鎌倉芳太郎「絵画鑑賞講座(1)」
1938-8 『茶わん』第90号 鎌倉芳太郎「絵画鑑賞講座(2)」
1938-9 『茶わん』第91号 鎌倉芳太郎「絵画鑑賞講座(3)」
1939年2月 鎌倉芳太郎長女・恭子生まれる。
1940-7 『茶わん』第114号 鎌倉芳太郎「安南染付雑考」
(粟国恭子所蔵)
1943-9 鎌倉芳太郎『東洋の彫刻』大雅堂
1945年3月 鎌倉芳太郎、自宅戦災に遇い、蔵書三千点及び東洋美術史研究資料全部を焼失。但し、琉球芸術資料(数千点)は東京美術学校文庫保管のため焼失を免れる。これが琉球染色の本格的研究の契機となる。
糸満市字米須にある香川県の「讃岐の奉公塔」