○琉球の泡盛は何時の頃より醸造せしか記録の微すべきなけれども、薩摩に齎らされしは天正十三年四月なりとす。薩人伊地知季安①著南聘紀考に「二十九日琉使祖庭、導信房、訪観貞第、為尚永王饋織物二端、大平布十端、焼酒一器、己亦進織物十端、竹心香、蝋燭二十挺、焼酒一器」とあり、其の以前には焼酒の名なきのみならず、更に島津義久が諸臣を集め聯歌の会を催し「飲之焼酒莫不珍賞焉」と云ふことあればなり。泡盛の琉球にて醸造を創めたるもこれより遠き以前のことにあらざるべし。焼酒が今云ふ泡盛のことなるは勿論なり。

①伊地知季安 いじち-すえやす
1782-1867 江戸時代後期の武士。
天明2年4月11日生まれ。薩摩(さつま)鹿児島藩士。文化5年藩の政変,近思録崩れで遠島となり,ゆるされたのち鹿児島で謹慎中に藩の史料を収集,おおくの著作をあらわした。嘉永(かえい)5年記録奉行,のち用人。その仕事は「薩藩旧記雑録」で有名。慶応3年8月3日死去。86歳。本姓は伊勢。初名は季彬(すえひで)。字(あざな)は子静。通称は小十郎。号は潜隠。 →コトバンク

  国立文楽劇場の資料展示室をのぞいたことがある。三味線の歴史の説明に「三味線は、永禄年間(1558-1570)琉球から大阪の堺港に渡来したといわれ、型は三弦の蛇皮胴のものであったと推定されます」とあった。近代以前の琉球ロマンはおいおい後述するとして、ここでは「さまよへる琉球人」のイメージがつきまとう近代における琉球人の歩みを抽象的ではなく具体的に述べることとする。

○1918年9月1日 『日本及日本人』麦生(末吉安恭)「琉球三味線に就いて」
東儀鐵笛氏は嘗て三味線が琉球より渡来せしといふ旧説は真っ赤な嘘にて、慶長の頃には琉球にてもまだ用をなさざりし様なりと云はれたり、(日本及日本人548号参照)非三味線渡来説には如何なる有力なる憑■あるや知らずと雖も、慶長の頃には琉球でもまだ用をなさざりとは真っ赤な嘘にて、定西法師伝、御先祖記(松屋筆記引抄)等にも明らかなるが、琉球の記録に依れば、喜安日記慶長十五年四月十六日川内新田八幡に参詣の條にて「静に法施参らせ人々三絃の秘曲を弾しかば、宮中もすみわたり、誠に面白かりければ、神明も感激に堪ずやおぼしけん」とあり、薩摩三界まで三味線を携へ行ける程なれば、本国に於いて今だ用をなさざりしとは云ひ雖し。・・・・


写真ー小橋川朝重



1913年2月2日ー琉球新報記者だった富川盛睦(小橋川朝重撮影)
1922年9月15日『沖縄タイムス』広告「出張写真開業ー那覇市山下町1-22 小橋川朝重」

1924年2月 沖縄県立沖縄図書館『琉球史料目録』


麦門冬と南村・小橋川朝明



1921年6月18日『沖縄タイムス』小橋川南村(大阪)「黨弊打破と人物本位論 多数黨を監視するは県民の義務」

1933年4月『沖縄教育』沖縄県教育会(島袋源一郎)印刷・向春商会印刷部(小橋川朝明)
小橋川南村「春のこころ」
○われも、また/老にけるかや/つくろひて/人にもの言ふ/昨日今日かな□折々は、/子供のやうに屋根裏に/登りて空を/眺めたりする□神の子よ、生れずあらば/かくまでに/物思ふ身に/あらざらましを(乳児紀逝く)□大聲に、/わめき狂はば/このこころ/癒えなんと思ひ/海濱に行く

2004年『沖縄県図書館協会誌』弟8号 新城栄徳
○私は南村・小橋川朝明の子息・朝二氏から話を聞き『近代日本社会運動史人物大事典』(1997年)の小橋川朝明について「琉球王府絵師・向元瑚や、琉歌人・小橋川朝昇を祖に持つだけあって、『沖縄毎日新聞』記者の時、『スバル』『創作』などに歌を投稿し文芸・美術評論もやる」と記した。麦門冬は南村に対し親友以上の関係を作ろうと、その兄・小橋川朝重の息子と自分の妹を結婚させた。が、この若い夫婦、我が儘育ちゆえ喧嘩ばかり。すぐ別れた。慌てた麦門冬、南村に「こんなことで僕らの友情は変わらない」と念を押した。麦門冬が水死したときの追悼式案内に南村は名を連ねているが、追悼文は書いていない。それだけ悲痛に暮れた。後に家族に「親友は持つものではない」と云うたという。


写真左からー麦門冬・末吉安恭、儀間泉南、小橋川朝重、真境名安興



 1898年、那覇の喜屋武元持が酒造原材料仕入部を大阪に設置。小嶺幸之は大阪の漆商鳴神孫七と特約し製漆販売を開始、小嶺は後に広運社の常務になる。教育家・高良隣徳は滋賀師範学校教諭から奈良県立中学校教諭として赴任。1899年4月、在阪の銀行、商船会社、商店などの沖縄に縁故がある人たちが集う懇親会が大阪西長堀の岸松館で開かれた。

1914年3月『琉球新報』「沖縄屋旅館」

 1920年8月7日の『沖縄時事新報』に大田朝敷が「三旬の旅行」と題して「私が大阪滞在中に阪神在住の県人会の催しがあって私も隣席したが座中の面々は弁護士金城善助、福紡の社員久手堅憲喜、安部商店員糸満盛保、日本郵船会社員佐久間正文、同神戸支店詰久場真照、沢井商店員渡久山朝康、高田商店員真栄田之璟、三光商店前城真一、互光商会古波津一、三井銀行神戸支店詰比嘉良篤、池田商店員小橋川南村、諸氏の外に富川盛勇、宮城安吉、豊見城朝昴、知念宏和等の諸君及び慶応義塾の学生幸地朝績君も隣席して居た」と記した。大田は続けて「会合の場所は神戸加納町なる比嘉良篤君の宅で、茶菓を前にして思い思いの話の中に濃やかな情話が溢れて愉快此の上もない。県地では兄弟穡に鬩いて、外侮を招くばかりだが、県外での県人同士の親しみは又格別である。東京と云ひ阪神と云ひ、県の青年が段々発展して行くのは、私は衷心より嬉しく思う。願わくば諸君の将来に幸あれ」と記している。
大田朝敷には『太田朝敷選集』全3巻がある。下巻に1923年、東恩納寛惇へ宛てた書簡がある。それには大田は「私は近頃本県を見るについて以前とは少しく違った見地から見ています即ち日本帝国の一地方と云うようり寧ろ民族的団体と云う見地です国民の頭から民族的差別観念を消して仕舞うことは吾々に取っては頗る重要な問題だと考えて居ります」とヤマト人の沖縄差別を嗅ぎとって東恩納にその研究(差別)を要望している。また大田は1934年の『琉球新報』に「方言禁止の制札が建てられるのは、私は本県人として聊か侮辱を感ぜざるを得ない」とも書いている。