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青年・謝花雲石

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雲石・謝花寛剛(1883年4月1日~1975年2月21日)
1911(明治44)年朝鮮に渡り、朝鮮総督府臨時土地調査局に務めるかたわら、海岡・金圭鎮に師事し王義之の書法を学ぶ。22年沖縄県庁に書記として務める。この頃「大本瑞祥会」に入会し「人は神意を実行する機関としてつくられたものであり、神の理想たる天国のすがたを地上に実現することが人生の目的であり使命である」ことを人生観にする。35年昭和神聖会沖縄支部相談役、戦後には大本琉球主会の会長を務めた。「日本に書き方はあっても書道はない」と言いきる。(1997年1月『近代日本社会運動史人物大事典』新城栄徳「謝花寛剛」)


謝花雲石・大本沖縄支部長


1972年 うりずん若夏社『LOGOS


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2009年6月9日『沖縄タイムス』「謝花雲石 戦前の書ー写真家山田實さんの兄保管」




昭和19年4月28日 雲石道人書「営州刺史・高使君・懿候碑」

泰山のはがきエッセイ
次第に寒くなってきました。今年もあとわずかです。
風邪などひかぬようお過ごしください。

 沖縄県庁の表札 
 来年は沖縄返還から四十年。新生沖縄県の発足に際しそのシンボルとして現在の輝石安山岩の沖縄県庁の表札が設置された。その表札の文字を揮毫したのは、今は亡き謝花雲石翁である。尚順、山城正忠とともに沖縄昭和の三筆と言われ、その正忠をして日本の五指に入ると畏敬させた雲石翁は、無欲一徹、九十三歳の生涯をひたすら書道研鑚に邁進した沖縄の誇る書道家である。
 揮毫を依頼した琉球政府最後の文書課長の故照屋栄一氏は、門札に雲石翁の雅号記載を進言所望した。ところが雲石翁は「沖縄県庁の表札は沖縄県民の合作だ」と言って聞き入れなかったと語っている。沖縄県復活は米軍の圧政にひるまず闘った県民みんなの努力の成果だからというのがその理由だ。そして、翁自らの思いを「葉和凄雨」の言葉に託したという。「葉は凄雨に和す―沖縄の木のように暴風雨は吹くにまかせよ。ひどい雨もやがて止み、雨に洗われた緑葉はまた輝く。復帰によってまた違った豪雨になろうが、その試練を沖縄の成長の糧にしよう」との意である。斎戒沐浴して一気に書いたという雲石翁の文字を、照屋課長は「石に彫ってみると、荒々しいというか、沖縄がこれからの荒波を乗り切る若さが表現されている」と評している。
 昨今の日本政府の問答無用とばかりの沖縄への対応を見るにつけ、沖縄県庁の表札にまつわるこうした事などをあらためて思い起こすのである。
(沖縄タイムス 茶飲み話 2011.12.10 掲載)





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1958年  食榮森神棚の扁額書ー謝花雲石/彫り知念善吉


2013年10月26日『琉球新報』

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2013年10月の山田實さん

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1995年6月12日『沖縄タイムス』



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〇2007年3月14日『沖縄タイムス』「湖城以恭の掛け軸発見」 
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〇1982年12月 天願俊貞『詩集・水底の光』オリジナル企画/天願俊貞『遺稿集・噴水の飛沫』角川書店