01/23: 1967年2月25日 第九回文春講演会(講師/黒岩重吾・梶山季之・加藤芳郎)
1967年2月25日 第9回文春講演会(講師/黒岩重吾①・梶山季之②・加藤芳郎)
①黒岩重吾くろいわじゅうご[生]1924.2.25. 大阪[没]2003.3.7. 西宮
小説家。同志社大学に学び,在学中,学徒動員で出征,ソ満国境で敗戦を迎えた。さまざまな職業を転々としたのち,同人誌『近代説話』に参加,『背徳のメス』 (1960) で直木賞を受け,作家として認められた。→コトバンク
大森実 おおもり-みのる
1922-2010 昭和後期-平成時代のジャーナリスト。
大正11年1月13日生まれ。昭和20年毎日新聞大阪本社に入社。ニューヨーク支局長,ワシントン支局長をへて,37年外信部長。ベトナム戦争報道「泥と炎のインドシナ」の記事が駐日アメリカ大使から抗議をうけ,41年退社。42年「東京オブザーバー」紙を創刊したが,45年廃刊。のちアメリカにすんで活動。平成22年3月26日死去。88歳。兵庫県出身。神戸高商卒。著作に「国際事件記者」「戦後秘史」など。→コトバンク
月刊「噂」──昭和30年代後半~40年代の代表的な流行作家である梶山季之が、自身で経費を負担して発行しつづけた月刊誌である。「噂」は、文壇の知られざる話題を紹介し、マスコミ批評をいちはやく手がけるなど、後の出版界に多大な影響を与えた。
梶山季之 かじやま-としゆき
1930-1975 昭和時代後期の小説家。
昭和5年1月2日朝鮮京城生まれ。ルポライターとなり,「週刊文春」でトップ屋として活躍。昭和37年産業スパイ小説「黒の試走車」で文壇にデビュー。推理小説,風俗小説,時代小説などの分野におおくの作品を発表した。昭和50年5月11日死去。45歳。広島高師卒。作品はほかに「赤いダイヤ」「李朝残影」など。→コトバンク
③加藤芳郎かとうよしろう[生]1925.6.25. 東京,代々幡[没]2006.1.6. 東京,新宿
まんが家。14歳でまんが家を志して東京府立第六中学校夜間部在学中から各誌に投稿を続け,1941年近藤日出造編集の月刊誌『漫画』に投稿し 1等となる。太平洋戦争時は川端画学校に学ぶが中国に出征,戦後は東京都公園緑地課に勤めながらまんがを描き,1947年に独立。 →コトバンク
1971年12月 古山高麗雄(作家)来沖
古山高麗雄ふるやまこまお
[生]1920.8.6. 朝鮮,新義州[没]2002.3.11. 神奈川,相模原
作家。朝鮮新義州で父佐十郎は開業医で宮城県出身。母みとしは大分県出身。独特な強い我の持ち主として育つ。第2次世界大戦中の 1942年に召集され,アジア各国を転戦したが虚弱なためしばしば行軍で脱落した。この戦争体験から厭世観にとらわれ,小説を書くことで自己を回復していった。1948年5月ー(財)日本映画教育協会に就職。1950年5月ー河出書房入社。1958年ー教育出版株式会社嘱託。1962年2月ー株式会社芸術生活社入社、『藝術生活』編集に従事。1967年10月ー『季刊芸術』編集。
PL教団:沿革
1916年(大正5年)- 御嶽教徳光大教会が立教[注 2]。初代教祖は御木徳一。
1928年(昭和3年)- 扶桑教に転属、扶桑教人道徳光教会と称す。
1931年(昭和6年)- 扶桑教ひとのみち教会と改称。
1934年(昭和9年)10月27日 - 1,008畳敷の大広間を有する鉄筋3階建の施設を仮本殿として大阪府中河内郡布施町(現・東大阪市)永和に建設。落成式には7万人の信徒が訪れた[2]。
1936年(昭和11年)- 御木徳近、二代教祖を継承。
1937年(昭和12年)- 天照大神・教育ニ関スル勅語の解釈の違いから不敬罪を問われ、当局の弾圧によって解散させられる。
1946年(昭和21年)- 御木徳近が扶桑教ひとのみち教会を引き継ぐ形で、佐賀県鳥栖市にてPL教団を立教。
1949年(昭和24年)- 本部を静岡県清水市(現・静岡市清水区)へ移転。
1953年(昭和28年)
大阪府富田林市の現在地に教団本部建設の鍬入式。後にこの地を聖地とする。
この年の教祖祭にて初めて花火を打ち上げる。
新日本宗教団体連合会発足。本教団も加盟。御木徳近が初代理事長に就任。
1955年(昭和30年)- 聖地に仮本殿完成、本部神霊を遷座。以後、大本庁と称する。PL学園高等学校開校。以後、中学校・小学校・幼稚園・衛生看護専門学校を順次開校。
1959年(昭和34年)- 大本庁に正殿完成。→ウィキ
『藝術生活』
1974年9月 古山高麗雄『プレオー8の夜明け』講談社文庫
1998年8月 『春秋』№401 古山高麗雄「編集者冥利の生活」
1999年11月 『本の話』古山高麗雄「もう死んでんよか」
①黒岩重吾くろいわじゅうご[生]1924.2.25. 大阪[没]2003.3.7. 西宮
小説家。同志社大学に学び,在学中,学徒動員で出征,ソ満国境で敗戦を迎えた。さまざまな職業を転々としたのち,同人誌『近代説話』に参加,『背徳のメス』 (1960) で直木賞を受け,作家として認められた。→コトバンク
大森実 おおもり-みのる
1922-2010 昭和後期-平成時代のジャーナリスト。
大正11年1月13日生まれ。昭和20年毎日新聞大阪本社に入社。ニューヨーク支局長,ワシントン支局長をへて,37年外信部長。ベトナム戦争報道「泥と炎のインドシナ」の記事が駐日アメリカ大使から抗議をうけ,41年退社。42年「東京オブザーバー」紙を創刊したが,45年廃刊。のちアメリカにすんで活動。平成22年3月26日死去。88歳。兵庫県出身。神戸高商卒。著作に「国際事件記者」「戦後秘史」など。→コトバンク
月刊「噂」──昭和30年代後半~40年代の代表的な流行作家である梶山季之が、自身で経費を負担して発行しつづけた月刊誌である。「噂」は、文壇の知られざる話題を紹介し、マスコミ批評をいちはやく手がけるなど、後の出版界に多大な影響を与えた。
梶山季之 かじやま-としゆき
1930-1975 昭和時代後期の小説家。
昭和5年1月2日朝鮮京城生まれ。ルポライターとなり,「週刊文春」でトップ屋として活躍。昭和37年産業スパイ小説「黒の試走車」で文壇にデビュー。推理小説,風俗小説,時代小説などの分野におおくの作品を発表した。昭和50年5月11日死去。45歳。広島高師卒。作品はほかに「赤いダイヤ」「李朝残影」など。→コトバンク
③加藤芳郎かとうよしろう[生]1925.6.25. 東京,代々幡[没]2006.1.6. 東京,新宿
まんが家。14歳でまんが家を志して東京府立第六中学校夜間部在学中から各誌に投稿を続け,1941年近藤日出造編集の月刊誌『漫画』に投稿し 1等となる。太平洋戦争時は川端画学校に学ぶが中国に出征,戦後は東京都公園緑地課に勤めながらまんがを描き,1947年に独立。 →コトバンク
1971年12月 古山高麗雄(作家)来沖
古山高麗雄ふるやまこまお
[生]1920.8.6. 朝鮮,新義州[没]2002.3.11. 神奈川,相模原
作家。朝鮮新義州で父佐十郎は開業医で宮城県出身。母みとしは大分県出身。独特な強い我の持ち主として育つ。第2次世界大戦中の 1942年に召集され,アジア各国を転戦したが虚弱なためしばしば行軍で脱落した。この戦争体験から厭世観にとらわれ,小説を書くことで自己を回復していった。1948年5月ー(財)日本映画教育協会に就職。1950年5月ー河出書房入社。1958年ー教育出版株式会社嘱託。1962年2月ー株式会社芸術生活社入社、『藝術生活』編集に従事。1967年10月ー『季刊芸術』編集。
PL教団:沿革
1916年(大正5年)- 御嶽教徳光大教会が立教[注 2]。初代教祖は御木徳一。
1928年(昭和3年)- 扶桑教に転属、扶桑教人道徳光教会と称す。
1931年(昭和6年)- 扶桑教ひとのみち教会と改称。
1934年(昭和9年)10月27日 - 1,008畳敷の大広間を有する鉄筋3階建の施設を仮本殿として大阪府中河内郡布施町(現・東大阪市)永和に建設。落成式には7万人の信徒が訪れた[2]。
1936年(昭和11年)- 御木徳近、二代教祖を継承。
1937年(昭和12年)- 天照大神・教育ニ関スル勅語の解釈の違いから不敬罪を問われ、当局の弾圧によって解散させられる。
1946年(昭和21年)- 御木徳近が扶桑教ひとのみち教会を引き継ぐ形で、佐賀県鳥栖市にてPL教団を立教。
1949年(昭和24年)- 本部を静岡県清水市(現・静岡市清水区)へ移転。
1953年(昭和28年)
大阪府富田林市の現在地に教団本部建設の鍬入式。後にこの地を聖地とする。
この年の教祖祭にて初めて花火を打ち上げる。
新日本宗教団体連合会発足。本教団も加盟。御木徳近が初代理事長に就任。
1955年(昭和30年)- 聖地に仮本殿完成、本部神霊を遷座。以後、大本庁と称する。PL学園高等学校開校。以後、中学校・小学校・幼稚園・衛生看護専門学校を順次開校。
1959年(昭和34年)- 大本庁に正殿完成。→ウィキ
『藝術生活』
1974年9月 古山高麗雄『プレオー8の夜明け』講談社文庫
1998年8月 『春秋』№401 古山高麗雄「編集者冥利の生活」
1999年11月 『本の話』古山高麗雄「もう死んでんよか」