2016年1月24日 ニッコールクラブ沖縄支部「第51回 写真展」会員に囲まれた山田實さん(旗の後)


中山良哲氏と作品「路地のヒーロー」「路地の哀愁」



写真/1969年8月 東松照明『OKINAWA沖縄OKINAWA』



東松照明の本

東松照明 とうまつ-しょうめい
1930- 昭和後期-平成時代の写真家。
昭和5年1月16日生まれ。昭和29-31年岩波写真文庫のスタッフ。34年奈良原一高らとVIVOを結成。社会派カメラマンとして戦後の日本を記録し,次世代の写真家に影響をあたえた。50年日本写真協会年度賞。51年毎日芸術賞,芸術選奨。平成11年日本芸術大賞。愛知県出身。愛知大卒。本名は照明(てるあき)。写真集に「太陽の鉛筆」「光る風―沖縄」など。(→コトバンク)

私が東松照明作品に出会ったのは1969年3月発行の『血と薔薇』(澁澤龍彦編集)所載「楽屋」であった。同誌には当然ながら澁澤の魔道の先達・稲垣足穂も執筆している。
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右が東松照明氏、新城栄徳/左が東松照明氏、新城栄徳


2012年9月11日「山田實展」で左が東松照明氏、山田實さん〈/b>

2011年9月 『東松照明と沖縄ー太陽へのラブレター』沖縄県立博物館・美術館
7日午後4時、山田實さんのところに行くと新報・タイムスの記者が東松さんの思い出を聞いていた。

2015年12月17日『週刊ほーむぷらざ』「夫の遺志を継ぎ技術も次世代にー写真家・東松照明を支え、後進の育成も 東松泰子さん」
東松照明(2012年12月14日午後0時50分、肺炎のため那覇市の病院で死去)


2016年8月16日~21日 那覇市民ギャラリー「東松照明ー新編 太陽の鉛筆」主催・フォトネシア沖縄



2016年8月16日 写真左から東松泰子さん、東松照明像、新城栄徳



1969年8月 東松照明『OKINAWA沖縄OKINAWA』


2016年8月16日 泊小学校近郊






 山田實家は平氏で大宗は建基山田筑登之有興である。平氏は数家がある。當間銭で知られる當間重陳系統、藍染めを伝えた善済入道景陳系統などで、何れも薩摩系統である。山田家の家譜の一世有興のところに「父薩州山田正左衛門有昌、母浦添間切宮城村金城筑登之親雲上女呉勢、室南風原間切津嘉山村仲里仁也女蒲戸、長男有保」と記されている。山田實さんは有興から数えて7世にあたる。1909年の『琉球新報』に出てくる奥武山琉歌会の連絡所になっている山田有度は5世である。有度の歌「旅にをる間やしらてやりしちもつれなさや夢の夜夜に通て」。6世の有勲の歌「野辺の若草の美代の春風にさそはれてなひく色の美さ」。

山田家6世有晋は1904年9月、日露戦争で遼陽付近にて敵弾を受け翌日に戦死。那覇市天尊廟で葬儀が行われた。「名誉の戦死者」第1号であった。05年の日露講和条約でロシアは南満州鉄道を日本に割譲した。06年6月に日本は国策会社「南満州鉄道株式会社」を設立した。山田さんは1941年に明治大学を卒業。日産土木株式会社に入社、満州勤務となる。44年に関東軍に入隊させられた。45年、シベリア奥地の抑留で原生林伐採という過酷な重労働と飢餓の苦難を2年間強いられた。

その抑留の体験を山田さんは「最初500人が抑留され10月から雪解けの5日までバタバタと98名が死にました。話をするのも嫌だけど死んだ人は小屋の外でカチンカチンに凍っている。そのままですよ。ちょっと後ろのほうに丘があって、そこの丘の上に登って指名された兵隊が『埋めろ』と命令を受けるわけです。なんたって凍土ですから、1人の人間を埋めるだけの穴でも一週間かかって死体が入るくらいの穴が掘れた。食事は朝、昼、晩スープがメイドインU.S.Aですよ。配給のお砂糖も煙草もメイドインU.S.Aだった」と証言された。捕虜虐待がアメリカとソ連の合意であったことに驚く。

山田實さんは1931年に天妃小学校を卒業し沖縄県立第二中学校に入学した。そして比嘉景常が指導する樹緑会へ入会する。画家の具志堅以徳氏は1930年の『みどり』に樹緑会概況を書いている。「大正11年、初めて二中樹緑会なるものが創立せられ絵画展を開催していたが第4回後の大正15年、大正天皇崩御遊ばされ展覧会中止のやむなきに至り、久しく停滞していたが昭和3年御大典を期して再生し第5回展を那覇尋常高等小学校で8月7日から10日まで開催し当時沈滞していた沖縄画壇に大なる刺激をあたえた。昭和3年の5回展は実に二中樹緑会の復興期にして、その間会員諸君の努力は大なるものがあった。殊に比嘉(景常)先生、卒業生名渡山愛順氏の御親切な御指導は当時の樹緑会にとって暗夜の羅針盤であった」と記した。

続けて「第6回展は昭和4年1月1日から新築の明視堂マーケット楼上で開会し出品点数数百点を突破し、樹緑会の基礎くを一段と強固ならしめた。当時の樹緑評に、((沖縄)朝日新聞の篠原勇氏「樹緑会は昨夏尋常高等小学校で相当見応えある絵画展を開催し、その後半年にも満たない此の新春随分伸びのある収穫を見せた絵画展を開催したことは、その真面目さと熱を見せただけでも嬉しい。画家の生活態度は多分にデカダン的な所があり、またはそうでなくてはならぬ様に考えられたりして兎に角鼻持ちのならぬことも多いものだが、樹緑会は温和で上品で気取らず寧ろ内気だと思われる。その点反感なく懐かしめるのである。そして若々しく力強く無邪気で肉のはちきれそうな感がする」。

「第7回展は昭和4年8月22日から26日まで那覇尋常高等小学校の新校舎で華々しく開催し、此れまた沖縄画壇を風靡した。夏休み前から作品募集のポスターを出し、此の炎熱にもいとわず諸君の努力により展覧会前までには多くの佳作が集っていたことは首脳部として愉快に思った。然るに会場のことで会員の意見が合わず終に下旬となったことは残念である。会員はよく一致協力して私事を捨てて会のため努力して欲しい。最初は応募作品全部を発表することであったが額縁会場の都合により入選を決定し発表することにした。会場は7室で第1室より第3室までは水彩、第4室デッサン、第5室、6、7室に油絵の部で総点数数百十点、開会中、知名の方々が来観され盛会であった。殊に2日目に山里永吉氏、南風原朝光氏が来られて御批評があった。」

「第8回展は昭和5年1月2日より4日まで那覇尋常高等小学校で開催す。昨年よりぶっ通し奮闘し新春をよそに働いたお蔭に無事2日より開会す。第1室より3室まではみずえ、第4室が油絵とし総点数82点で厳選しミッシリと味わうことの出来る小さな有意義な展覧会であった。2日目は吉田学務部長御一家御来観下され会員一同恐縮した。最期に御親切な校長・与儀喜明氏に深く謝意を表す。樹緑会は学校にある額縁幕が不足で30余の水彩額縁と幕を一高女から借りるがこれは会員の不便であり、同時に大きい仕事である。向こうの校友会にもすまないと思う」とある。


沖縄県立博物館・美術館
ゴールデンウィークイベント「Chiri(チリ)でちぎり絵」【5月4日(日)・5日(月祝)】
館から出る、期限切れのポスター・チラシ【Chiri(チリ)】を材料に、博物館常設展示物と関連したイラストが描かれた台紙へ「ちぎり絵」をしよう!作品はお持ち帰りできます。



2014年5月4日