1992年6月 『新生美術』10号<追慕・山元恵一・山田昌弘・浦崎永錫>
         □新城栄徳「浦崎永錫ー美を追求する人」

 1921年、浦崎永錫は上京し、川端画学校で藤島武二につき油絵を学びながら、検定で小学校教師の資格を取り、後に夜間の工業学校の美術教師となった。昼はヒマがあるので画学校や美術館に出入りした(田中穣『日本洋画の人脈』)。1931年、浦崎永錫は美術誌『美術界』を創刊する。これは後に大著『日本近代美術発達史ー明治編』として結実される。やがて図画教師を中心とする全国組織の美術団体「大潮会」を結成するなど、その一生は美を追求することに終始した。

 同号には古きよき美術放談として山里永吉と浦崎永錫の対談も転載されている。□浦崎永錫「ぼくが絵が好きになったのは、小さいころ若狭町の漆器屋の大見謝さんという人が、ランだとかタケだとかを実に美しく、どんどん描いているのをうっとり見とれていたもので、それが一つの刺戟になったのだと思うネ」、山里永吉「若狭町といえばそのころ沖縄の芸術家の出身地が実に多いんだ。比嘉華山、金城南海、親泊英繁、西銘生楽、渡嘉敷衣川、野津久保、渡嘉敷唯仁、それに浦崎永錫がそうだろう。古くは有名な彫刻家・田名宗経もそうだし、これは若狭町、漆器の影響だと思うな」、浦崎永錫「そうか、田名宗経も若狭町出身か、初耳だ。漆器の刺戟と、それに景色がいいことだろう。夕方になると、おとなも子供もいっぱい若狭町湾小に出て夕日に見とれていたものだ。ああいうことは若狭町以外にはあまりないヨ。西海岸だから夕日がことに美しい。-」



1987年4月 浦崎永錫 自宅書斎で

1975年ー「奥入瀬阿修羅の流れ」油絵40号

1983年ー「夢遊苑(山梨県牧丘町)」


1976年ー「花菖蒲」油絵100号



山岡萬之助監修『宇宙』4月号 浦島久(浦崎永錫)「奇蹟」□大正拾年三月。今上陛下が皇太子殿下の御時欧州御巡遊の砌り、南の孤島うるまの島にも其の御印跡を残された。丁度其の当時の出来事である。全島全県上へ下への大騒ぎで街道街道は修理せられ見苦しき建物は取り壊され、御巡道には綺麗な砂利が敷き積められた。要監視狂人には保護を加え、穏やかならざる思想の持主には相当の注意をすることを当局者は忘れなかった。狂犬は撲殺された。

(略)
その頃、私は組合教会に席を置いてあった。組合教会は県の思想界の権威であり、県立図書館長であった。文学士も居た。文学士の夢の研究を知って居たS医師は私に『文学士からそれを聞いたら姉の病気にも何か参考になるだろう』とのことだった。私には参考と言う言葉が直感的に姉の病をいやしてくれるものだとしか聞き取れなかった。夢の話は重に潜在意識に対する研究だった様に記憶して居る。

日本大学第3代総長
山岡 萬之助 (やまおか まんのすけ)1933.8〜46.1
明治9年(1876)長野県に生まれる。
明治32年(1899)日本法律学校を卒業し、判事検事登用試験に合格。
東京区裁判所判事などを経て、明治39年ドイツに留学。司法省行刑局長、内務省警保局長、
関東庁長官等を歴任。
昭和6年(1931)には東京弁護士会会長就任。
明治43年本学教授となり、その後、学監、理事、法文学部長、学長を経て昭和8年第3代総長、
12年には総裁就任。
大正から昭和への激動する時代の中で、社会の要請に対応して、人文・社会・芸術・工学・医学
・農学の多分野にわたる総合大学の基礎を確立した。
貴族院議員、法学博士。
昭和43年(1968)死去、92歳。


浦崎永錫(1900年11月19日~1991年8月29日)
浦崎永錫(1900年11月19日~1991年8月29日)
浦崎永錫
1900-1991 大正-昭和時代の美術史家。
明治33年11月19日生まれ。川端画学校でまなぶ。昭和6年雑誌「美術界」を刊行し,美術関係資料の収集,研究をすすめた。11年美術教育者のための美術団体大東会,12年大潮会を結成した。平成3年8月29日死去。90歳。沖縄県出身。著作に「日本近代美術発達史・明治篇」。(→コトバンク)

□元祖は富道寶浦添掟親雲上永道。祖父永芳。父永春、永錫は1男4女の3番目に生まれる。姉に具志堅カメ。

大潮会会長の浦崎永錫さんが亡くなられたとき私は、1992年6月発行の『新生美術』第10号に「美を追求する人」と題し追悼文を書いた。□1917年、沖縄県立一中の校友会誌『養秀』に嘉数能愛、山里永吉らと共にカットを寄せている者に浦崎永錫がいる。この中学生達は美術団体「丹青協会」に参加したり、図書館で美術誌を読んだり、東京から来沖した画伯達の道案内をしたりして、自然と東京の美術界の情報にも通じていた。1918年、浦崎永錫を中心とする若い画家達は丹青協会と意見を異にして自分達で那覇市公会堂を会場にし「自由絵画展」を開いた。翌年この会は「ふたば会」として発足。

1920年8月 那覇区公会堂「ふたば会第一会展」写真ー前列中央が山里永吉、その右が島袋寛平。中列左から鉢嶺、前中留吉、渡嘉敷唯選一人おいて知念積吉、浦崎永錫、饒平名、黒田。後列左から野津久保、新崎新太郎①


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那覇市公会堂


写真・1920年ー奥武山で右から高里ツル、島袋(島田)寛平、足立源一郎、(前中留吉)、浦崎永錫、(渡嘉敷唯選)

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 〇1923年3月 足立源一郎・小嶋貞三・辰巳利文『古美術行脚 大和』アルス◇明治末期以来とみに盛んになった泰西芸術の移植は、大戦の終結と共にさらに急激になった。殊に今春は仏蘭西人デルニース氏が近代フランス美術品数百点を将来展観したので、藝術を愛する人々は今更ながら藝術の自由と国境の無差別とを痛切に感じた。(略)彼等が常にその伝統を誇る如くに、吾々も誇るべき多くの祖先の偉業と伝統を保有しているのである。ただ惜しいことには、維新以来既に日浅しとにはあらねど、軍国のことに急にして今日まで彼等の如くに完備した美術館の設置を見ることなく、為に一般に折角の国粋に親しむ機会がなかったのである。大和が古美術の郷土であるとは皆人の知るところであって、奈良はさながらの一大美術館である。
 〇足立源一郎=大阪府大阪市南船場生まれ。京都市立絵画工芸専門学校(現:京都市立芸術大学)を卒業後、浅野忠に師事する。1914年〜1918年、1923年〜1926年の7年のパリへの渡欧を経て画家としての基礎を学ぶ。帰国後は小杉未醒、岸田劉生、木村荘八らと共に春陽会(1922年)を、石井鶴三らと共に日本山岳画協会(1936年)を設立した。また、山本鼎の農民美術運動にも協力している。1年の大半を北アルプスで過ごし、多数の山岳画を残した。1971年、最後の登山として長屏山へ登る。1973年、最終作『春の穂高岳』を仕上げ、3月31日に胃癌と老衰のため神奈川県鎌倉市の自宅で死去。→ウィキ
 ◇近代の『万葉集』に関わる地理的研究の嚆矢となった辰巳利文氏の業績について考察する。辰巳氏は、奈良県において、大正期から昭和初期にかけて活躍し、近代万葉研究の重要な分野として、地理研究を位置づけ、『大和万葉地理研究』等の著書、『奈良文化』の発行、「大和万葉夏季講座」の開催、『大和万葉古跡写真』の頒布など数々の仕事を手がけた。後に犬養孝氏の万葉集の風土的研究に継承されるなど、その功績は大きい。→垣見修司
 ◇小島貞三 1955『大和巡礼 : 史蹟と古美術』大和史蹟研究会/1955『悦びの日本史』大和歴史館研究会




2016年2月24日 おもろまち