2016年2月 『月刊琉球』比嘉克博「神々の後裔たちー元祖志向の精神史ー」
2016年2月 『月刊琉球』№32 比嘉克博「神々の後裔たちー元祖志向の精神史ー」(1)
2016年3月 『月刊琉球』№33 比嘉克博「神々の後裔たちー元祖志向の精神史ー」(2)
2016年4月 『月刊琉球』№34 比嘉克博「神々の後裔たちー元祖志向の精神史ー」(3)

 大宜味朝徳の『南島』第4号(1933年)に上原美津子(沖縄日日新聞元記者)が清明祭と題して「琉球人は祖先崇拝の民族です」と書いている。琉球学の巨人・東恩納寛惇は祖先崇拝を「現在の殺風景な世態に寛容の情味を注ぎ込み、世界平和の基盤をつくるものとも云える」と書き、系図については「男系を本旨とし、女系には及んでいない。その欠点を補う」ものに内系図(編集本)があると記している。

先日、写真家の山田實氏から山田一門の山田有銘編集『霊前備忘録』(1930年)を借りた。前記の内系図の一種である。平姓家譜から説きおこし、新聞の死亡広告を貼り付けた系図補遺、拝所の読谷残波岬、屋敷や庭園、位牌、墓所などを図示、着色されビジュアルだ。實氏の父有登は医者で、兄の有勝は詩人。洋画家の有邦、社会福祉の有昴、社会運動家の有幹、教育者の有功などが山田一門から出ている。

漢那憲和の家系については那覇市歴史資料室が出している『那覇市史』「家譜資料(4)那覇・泊系」の人名索引で、憲和の父や祖父の経歴、昴氏であることが分かる。憲和の婿兄弟の神山政良の東氏では、昴氏が同門だという伝えもある。先日、中野利子さんと松居州子さん(憲和の孫)が見えられ同門の憲一郎作成「昴姓世系図」と「戸籍謄本」を恵まれた。これで憲和の母親の旧姓が玉那覇と分かる。





東恩納家系図

東恩納寛惇自筆履歴書


公的機関が作成した東恩納寛惇の経歴書

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写真上右ー1901年1月4日東京神田小川町・写真館美影堂(中村董)で沖縄中学校の同級生たち前の右から東恩納寛惇、崎浜秀主、国吉真徳、伊波興旺、後列右から赤嶺武太、小嶺幸慶、与那覇政敷。

写真中ー福州において東恩納寛惇が発見した5代目祖先の墓碑。その右ー1901年5月13日熊本市下通町上村嘉久次郎・写真裏に「地上の友なる国吉真徳大兄へー寛惇」

写真下ー1933年12月に東恩納寛惇が安南および福建より持ち帰った三味線、昭和会館に寄贈した。(1)ヤマト、(2)琉球、(3)安南、(4)安南


1933年12月ー東恩納寛惇は一中時代の同級生の比嘉盛珍(元内務省土木技師)、島袋慶福(陸軍少尉)、漢那憲英(海外協会)、崎浜秀主(商校長)、糸数青盛(那覇市税務課)、及び旧友の照屋那覇市長、島袋二高女校長、志喜屋二中校長、胡屋一中校長、當間那覇市助役、城間恒淳、千原成悟、山田有登、古波倉博士、新嘉喜倫篤らの諸氏と、久米蔡氏堂に立ち寄り仲良くカメラに収まって後、波の上医院のよ平名さんの案内で那覇でも1,2位を争うという自慢のよ平名家の庭で談話に耽った。


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寛惇が『童景集』を瀬長佳奈と甥の鈴木亨に贈ったもの。



東恩納寛惇賞パーティで/写真左から、高良倉吉氏、新城栄徳、孫薇さん、大城立裕・美枝子御夫妻、三木健氏