2017年3月 沖縄県立博物館・美術館『山元恵一展 まなざしのシュルレアリスム』


2017年2月8日沖縄県立博物館・美術館で左から新城栄徳、板橋区立美術館の弘中智子さん、豊見山愛さん

1956年2月 金城唯恭 編『新沖縄文化史』郷土誌研究会□山元恵一「古琉球の絵画」
1957年3月『琉球新報』森英夫「夢いつわらず」(画・山元恵一)
1957年3月『琉球新報』森英夫嘉陽安男「異本 運玉義留」(画・龍界寺惠=山元惠一)

写真前列右端が山元恵一


1972年9月 『琉球の文化~歴史・民俗・考古・美術・工芸・音楽・舞踊・演劇・文学の総合誌~』琉球文化社



1993年10月 『山元恵一作品集』那覇市文化振興課
星雅彦「山元恵一の軌跡」/「作品図版」/「俳句と随筆」/「山元恵一写真アルバム」/「山元恵一年譜」/「山元恵一作品目録」

1955年3月12日ー沖縄タイムス主催「芸術祭」ゴッホ劇、現代版「中城若松」

1955年3月ー写真向かって右から 前列 大城皓也、大嶺信一、安次嶺金正、安谷屋正義 後列 大城貞成、南風原朝光、島田寛平、榎本政治、大嶺政寛、豊平良顕、山元恵一 南風原朝保


2016年3月19日~4月17日 沖縄県立博物館・美術館「パブロ・ピカソ『ゲルニカ タピスリ』沖縄特別展」

 1973年4月14日『沖縄タイムス』山元恵一○パブロ・ピカソが8日、南仏ムージャンの画室でなくなられた。世紀の巨匠がついにその偉大な生涯を閉じられた。91歳という高齢で、世界中の芸術家が悲しんでいるだろう。カメレオンのように画風の変わる作家ともいわれた。父もマラガの州立工芸学校の美術教師で、ピカソは14歳から無類の天才ぶりを発揮しはじめた。パリに出た頃ロートレックの影響をうけ、次にグレゴの影響をうけながら有名な青の時代(23歳頃まで)、赤の時代(35歳位まで)、つづいてマチスと会い野獣派(フォーヴ)の時代が始まる。日本の萬鉄五郎らも影響をうける。翌年ブラックに会い28歳頃から立体派の時代が始まる。この運動はイタリーに入ってマリネッティらの未来派運動、ドイツ、ロシアの表現派。青騎派(ミュヘン)の運動には自身も加わる。フランスでは立体派と並んでピュリズム(ル・コルヴィジェの名で建築家でもあったジジャンヌレの主唱)、レジエ等の力動派」(エモーショナリズム)、音楽主義(アンリ・ヴァランシ)等20世紀初のこれらの一連の新運動はピカソとブラックの立体派宣言に端を発したものと言っても過言ではない。(略)1930年頃からシュール・レアリズムの一連の作品を残し、ピカシズムと呼ばれる。眼が顔の片側に集まる例のデフォルマシオンの時代が始まる。「ゲルニカ」まで続いていく。
 8日は私はタイムス・ホールの「現代の幻想絵画展」を見た。福沢一郎先生の「牧神とニンフ」の大作がいきなり眼にとびこんで来る。美しい。福沢先生も日本に於けるシュール・レアリズムの最初の紹介者の一人である。私は東京に出た翌年、春鳥会で偶然この展示会を見た。エルンストの灰色の中のオレンジの線の抽象的な作品を忘れることが出来ない。(略)香月泰男兄も2期先輩である。古沢岩美、麻生三郎氏らも池袋では、色々歓談したものである。それで今回の催しに非常な感激を覚えたのだが、引き続いて翌日ピカソの訃報である。何とも落ちつかない。


1973年4月 沖縄=タイムス主催 後援=朝日新聞社


福沢一郎「牧神とニンフ」


古沢岩美「コルドバの朝の幻想」


麻生三郎「ある群像」


香月泰男「業火」
1973年4月12日『沖縄タイムス』城間喜宏「『幻想絵画展』を見て<1>懐かしい出会い 福沢一郎『牧神とニンフ』」
1973年4月13日『沖縄タイムス』安次嶺金正「『幻想絵画展』を見て<2>すばらしい展覧会」
1973年4月15日『沖縄タイムス』安次富長昭「幻想絵画展への招待ー幻想絵画展が示す現代絵画の一つの方向」

1973年4月23日『沖縄タイムス』山元惠一「大ピカソ展」


1973年4月24日~5月6日 沖縄三越「大ピカソ展」

 兪氏 元祖は平安座親雲上重明7世川平親雲上惠直支流5子兪廷器川平筑登之親雲上惠孝。その9世惠英が山口姓。10世の惠典が山元姓になる。12世恵易の長男が惠孝で、次男の惠順が山元恵一の父。



1937年9月 『沖縄県人事録』沖縄朝日新聞社「山元恵孝」「山元恵順」

大正2年 1913年 丑年 うし ー5月13日 那覇西村で山元恵一生まれる
1910年  山之口貘、那覇の甲辰尋常小学校入学

1918年 縄県立第二中学校卒業生ー島田寛平

1919年

1920年  山元恵一、那覇の甲辰尋常小学校入学
1922年  山之口貘、豊多摩郡戸塚町の諏訪神社裏に下宿し日本美術学校に入学。入学式のとき南風原朝光に会う。1ヵ月で同校退学。
1924年  沖縄県立第二中学校卒業生ー新垣金次郎、池宮城秀意、稲嶺一郎、大浜皓、????宮城昇、比嘉賀秀、国場公憲、池間栄三、名渡山愛順
1925年  沖縄県立第二中学校卒業生ー宮城清市、永丘智行(饒平名)、冨名腰尚武、慶留間知高、山口重勲(許田)


写真ー後列右端が山田有勝/女の子の後が山元恵一、その左が當山堅三
1927年  山元恵一、沖縄県立第二中学校入学

二中樹緑会ー前列右3人目が山元恵一。後がOB、大嶺政寛、名渡山愛順らがいる。

1931年  山元恵一、沖縄県立第二中学校卒業 同期生ー西村菊雄、八木明徳、山田有勝、又吉康哉、南風原英佳、与那原良規

1933年  山元恵一、東京美術学校入学


1933年  

右側の下から2番目に山元恵一の名がある。
郡山市立美術館 展覧会:グループ〈貌〉とその時代展 会期:2000年11月11日~2001年1月14日
グループ「貌(ぼう)」は、1937年(昭和12年)東京美術学校油画科在籍中の学生が、国外のシュルレアリスム運動に触発されて結成した昭和8年入学の同期生中心のグループ。メンバーは、鎌田正蔵、杉全直、加藤太郎、高橋善八、杉原正巳、山本占太郎、福留五郎、日向裕、石原寿市、山元恵一、白瀧彰彦、若松光一郎→Weblio辞書


1934年 東京神田の東京堂「沖縄美術協会」展ー後列左から渡嘉敷唯信(?)・新川唯盛・仲嶺康輝・西村菊雄 前列左から 兼城賢章・南風原朝光・大城皓也・山元恵一

山元恵一1935年

1938年  山元恵一、東京美術学校卒業。宮森俊三の紹介で東宝映画(トーキーシステムの開発を行う写真化学研究所(Photo Chemical Laboratory、通称 PCLは、1937年関連会社JOと合併)にて円谷栄二の下でしばらくアルバイト。同年12月、東京市役所勤務の大浜信恭(大浜信泉弟で作家志望)の紹介で東京市厚生局勤務。これ以降、東京では殆ど絵を描く時間がなかった。


1939年

1941年  山元恵一、沖縄県立第二中学校美術教師

1942年11月前列右から二人目が山元恵一

1944年  渡嘉敷唯信、東宝撮影所特撮合成美術部入所
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山田有登①郁子夫妻(写真家・山田實さん両親)、山元恵一宅を訪ねる


①1937年9月 『沖縄県人事録』沖縄朝日新聞社「山田有登」





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1995年11月 『彷書月刊』123号「特集・名古屋モダニズム」


1987年12月 現代風俗研究会『ノスタルジック・タウン 現代風俗❜87』リブロポート
亀山巌資料
1962年4月、PL内部向け機関誌『芸術生活』が総合芸術雑誌として創刊された。私の手元に残っているものは1971年4月号で特集<エロスの妖光/コレクター>、古沢岩美の画、稲垣足穂「菫色のANUS」、横尾忠則「イラストレーター休業日記」「ダリが描いたピカソの肖像画」、映画沖縄列島の東陽一監督などが載っている。→1973年1月『芸術生活』は特集<ファンタジー・マップ>、目次絵は藤本蒼、土方巽の暗黒舞踊が紹介されている。1974年8月号は特集<さしえの黄金時代>。

2013年9月24日 十貫瀬橋近くでー詩人・星雅彦氏


稲垣足穂資料