写真左から赤嶺昌樹氏、梅崎晴光氏(スポーツニッポン新聞社東京本社・専門委員)、石川和男氏

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『みどり風通信』[僕のふるさとの山は 運玉森ウンタマモリ(西原)」
 運玉森は71年前、沖縄戦で焼き尽くされました。 運玉森は(北海道の部隊が守備をしていましたが多くの人が戦死しました。 「北海道の塔」は西原町字翁長にあります。沖縄戦で首里の32軍の司令部を中心に北に向かい西のウイング(翼)がシュガーローフ(新都心)であり、東のウイング(翼)が吾が運玉森だったのです。

 20年前、山火事で戦後何度目かの火事がありました。僕が38歳の頃でした。「かわいそうにな~」 と思うならばもう一度、木を植えよう! という、 平凡、且つ非凡な考えが芽生えました。沖縄の在来の木々7~8種を植えました。5年計画で1200本の植樹を敢行しました。 西原と与那原の少年・少女達と・・・ 僕の力強い友人達・・・。最終年には「運玉植林隊」は120人にもなりました子ども達の父母が参加したからです・・・


右ー左が石川和男氏

阿波連本啓氏が死去/琉舞の伝承・創作に功績 2001年1月14日 『琉球新報』
戦前戦後を通じて精力的に琉球舞踊の保存伝承と創作に情熱を傾けた阿波連本流啓扇会家元、阿波連本啓(あはれん・ほんけい)氏が13日午後4時37分、虚血性心疾患のため那覇市立病院で死去した。97歳。那覇市首里出身。自宅は那覇市首里山川町一ノ17。告別式は16日午後3時から4時、那覇市首里寒川町一ノ二、安国寺で。喪主は長男本勇(ほんゆう)氏。

本啓さんは13歳の時、御冠船踊りの伝承者・川平里之子親雲上朝美に師事。以来、80年余にわたって琉舞の道を歩んできた。創作舞踊の分野で大きな功績を残した。作品数は50演目を超える。戦前の無声映画時代、松竹の専属役者として活動した時期もある。

出身地の首里をこよなく愛し、首里の庶民の古い風俗も創作の主題にした。
1996年、93歳の高齢で芸歴75周年記念公演を開催。軽快な動きで八つの創作を上演し、大勢のファンを魅了した。主な作品に「築城」「郷土子守歌」「桃売り乙女」「鏡」「綱引き」などがある。92年県文化功労賞、96年に第32回新報賞を受賞した


2016-11-29 石川和男氏、あけみ

みどり風通信 「君はンマハラセーを知っているか?」
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首里には3つの馬場があった  〔首里八景の御料馬〕
龍潭松崎 ここはあまり知られていない。
 写真中央が「松崎」龍潭東畔からわずかに突き出たこの半島は往時、琉球松が覆いその後方に「松崎馬場」はあった。

松崎馬場 〔以下引用〕
 首里には王家(尚家)の御用馬場だった松崎馬場と崎山馬場の跡地がある。
松崎馬場は近世王朝時代、首里城北に位置する龍潭の東岸に設けられていた。冊封使をも てなす重陽の宴(ちょうようのえん・旧暦九月九日菊の節句)では龍潭に浮かべた爬竜船競漕 の観覧桟敷が置かれたという。馬場跡の碑文〈龍潭に突き出した一帯は松が植えられ、そこから松崎と名づけられた。1801年にこの地に国学が置かれた際、松崎前の路に木々が植えられ、一帯が整備された〉という。現在琉球王府の最高学府だった場所は、沖縄県立芸術大学の敷地となっている。残念ながら、馬にまつわる記録は見つからない。競馬の舞台ではなく琉球王朝による公式行事の会場として使用されたのだろう。〔引用ここまで〕
現在の松崎馬場跡とカジマヤーにある碑文

崎山馬場
   崎山馬場は歴代の琉球国王にこよなく愛された「馬揃え」の舞台、紛れもない競馬場である。
東西に325メートルの走路が延び、馬場の中央には石で仕切られたウサンシチ(国王が御座する御桟敷)馬場の周りには首里八景の一つに挙げられた蓬莱竹の生垣が肩先ほどの高 さで連なっていた。歴史家の新崎盛珍は『思出の沖縄』にこう記している。〈往時は、綺麗に刈り込んだ竹り←竹かんむりに離〈竹垣の意〉がずらりと両側にならび、その内から栴檀〈せんだん〉が瀟洒〈しょうしゃ〉たる姿を顕していた。

スタート地点の西端、「馬追いの尻」(ウマウィーヌチビ)そして東端ゴールの「馬追いの頭」(ウマウィーヌカラジ)を望む、今も付近の人達はそう呼ぶ。 私は、当初首里の3つの馬場を紹介しながらンマハラセーを語ろうと資料を集めたり、写真をを撮ったりしていた。そのさ中、ある『本』との衝撃的且つ運命的な出会いがあったのである。 『消えた琉球競馬』  梅崎晴光 著

石川和男「水彩画」