写真左から赤嶺昌樹氏、梅崎晴光氏(スポーツニッポン新聞社東京本社・専門委員)、石川和男氏


みどり風通信 「君はンマハラセーを知っているか?」
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首里には3つの馬場があった  〔首里八景の御料馬〕
龍潭松崎 ここはあまり知られていない。
 写真中央が「松崎」龍潭東畔からわずかに突き出たこの半島は往時、琉球松が覆いその後方に「松崎馬場」はあった。

松崎馬場 〔以下引用〕
 首里には王家(尚家)の御用馬場だった松崎馬場と崎山馬場の跡地がある。
松崎馬場は近世王朝時代、首里城北に位置する龍潭の東岸に設けられていた。冊封使をも てなす重陽の宴(ちょうようのえん・旧暦九月九日菊の節句)では龍潭に浮かべた爬竜船競漕 の観覧桟敷が置かれたという。馬場跡の碑文〈龍潭に突き出した一帯は松が植えられ、そこから松崎と名づけられた。1801年にこの地に国学が置かれた際、松崎前の路に木々が植えられ、一帯が整備された〉という。現在琉球王府の最高学府だった場所は、沖縄県立芸術大学の敷地となっている。残念ながら、馬にまつわる記録は見つからない。競馬の舞台ではなく琉球王朝による公式行事の会場として使用されたのだろう。〔引用ここまで〕
現在の松崎馬場跡とカジマヤーにある碑文

崎山馬場
   崎山馬場は歴代の琉球国王にこよなく愛された「馬揃え」の舞台、紛れもない競馬場である。
東西に325メートルの走路が延び、馬場の中央には石で仕切られたウサンシチ(国王が御座する御桟敷)馬場の周りには首里八景の一つに挙げられた蓬莱竹の生垣が肩先ほどの高 さで連なっていた。歴史家の新崎盛珍は『思出の沖縄』にこう記している。〈往時は、綺麗に刈り込んだ竹り←竹かんむりに離〈竹垣の意〉がずらりと両側にならび、その内から栴檀〈せんだん〉が瀟洒〈しょうしゃ〉たる姿を顕していた。

スタート地点の西端、「馬追いの尻」(ウマウィーヌチビ)そして東端ゴールの「馬追いの頭」(ウマウィーヌカラジ)を望む、今も付近の人達はそう呼ぶ。 私は、当初首里の3つの馬場を紹介しながらンマハラセーを語ろうと資料を集めたり、写真をを撮ったりしていた。そのさ中、ある『本』との衝撃的且つ運命的な出会いがあったのである。 『消えた琉球競馬』  梅崎晴光 著

石川和男「水彩画」