島袋百恵 画「末吉麦門冬」

 麦門冬・末吉安恭は1886年5月に首里儀保で生まれた。沖縄師範附属小学校を卒業後の1902年上京した。杉浦重剛の日本中学や、神田の英語学校に通いながら演説会に行ったり、図書館で好きな本を読んで抜書きしたりして新しい知識を貪欲に求めた。1904年に一時帰郷し、名護真松と結婚。1905年再上京、弟の安持と同居。1906年、長男・安慶が生まれると帰郷。
 麦門冬(龍の鬚・ヤブラン藪蘭)とは俳号のことで、歌人として落紅、漢詩人として莫夢山人と色々と使い分けていた。麦門冬も身内(先祖)の毛鳳儀を1919年の『沖縄朝日新聞』に「王舅・池城毛公」として長期連載している。
 末吉麦門冬家は毛氏池城一門で、その始祖は新城親方安基、俗に<大新城>といい、トーナーは毛龍○<口+全>である。一門は八重山でも繁盛していて1928年9月の『先島朝日新聞』には「八重山毛氏一門の美挙 当地毛姓には本年大祖大新城親方の三百五十年忌に相当するを以って門族相図り記念運動場南の墓地に大祖の記念碑を建設し去る2日盛大に其の三百五十年祭を挙行せり」として毛姓・池城安伸の祭文まで記されている。



○往年、沖縄の芝居ファンを沸かせた】『大新城誠忠伝』の「チーグー(唖)王」は、尚元王のことで、古典音楽で座開きに歌われる、有名な「かぎやで風節」(御前風)は、忠臣大新城が、尚元王の即位の嬉しさを歌ったのだともいわれています。『中山世譜』蔡温本によれば、尚清王が重篤となったとき、三司官の毛龍○<口+全>(新城親方安基、いわゆる大新城)、和為美(国頭親方景明)、葛可昌(城間親方秀信)を枕元に呼び、世子尚元を立てて、よく補翼せよと遺命して、亡くなりました。果たしてー 尚清王が亡くなると、和為美と葛可昌の二人は尚清王の遺命に背いて、「世子尚元は病弱である。大伊江王子(尚鑑心)こそ、王位に就くべきである」と主張したのです。(与並 岳生 )


池城毛氏
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琉文手帖で末吉安恭を特集したとき、池城毛氏のすべて(残っているもの)の家譜を参考にしたことがある。氏集には、池城、美里、東風平、佐渡山、安里、譜久村、豊見山、末吉、比屋根、新城、眞境名、伊計、豊世嶺、太工廻、嘉陽、宇江城、冨名腰、屋部、上地、内間、徳田、根路銘、冝保、名嘉山、吉永、豊國、大湾、野村、野里、翁長、普久本、浜川、牧志、澤岻、眞志喜、上里、長嶺、嵩原、小波蔵、宮城、粟国、徳松、仲山、手登根、高宮城が見える。

□毛姓池城家
一世 安基 新城親方(アラグスィクウェーカタ) 
童名 小太郎金(シュタルガニ) 唐名 毛龍□
万暦五年丁丑(1577)旧四月二十九日卒 号 雲心
父 何人たるが知らず
母 儀保之大阿武志良礼
妹 名並びに生日忌日伝わらず 金氏具志頭親方能安の室
室 和氏浦添親方景明長女 号桂林
長男 安棟
長女 真鍋樽 すなわち 尚元王の夫人 前之東按司 生日伝わらず 万暦二十四丙申(1596)六月十二日卒 号梅嶺 神主は天界寺に奉安す
次男 安昔 南風掟親雲上→古波蔵家の元祖
外子 宮良親雲上 此の人二女あり 一女は先の大浜親雲上の妻、今の大浜親雲上の祖母なり 二女は八重山大阿母志良礼となる 先の石垣親雲上の妻 今の前石垣親雲上の祖母なり