1922年4月22日『沖縄タイムス』に莫夢生(末吉安恭)が「詫遊は神舞」と題し次のように書いている。□私は宮古の神舞は(沖縄)本島の上代にあった詫遊の神舞と同じものであると云った。即ち神舞に出づる女人達の扮装の異形なるは袋中のいわゆる龍宮様ではないか。龍宮との関係も宮古の伝説にはよく現れている。あるいはまた宮古の「あやぐ」もこれから出たものであろうとも思う。(沖縄)本島内にある「しのぐ」も、その由来するところはここにあるのではないかと思うのである。


さらに私は詫遊の遊と云うのに舞踊の意味のあることを考えさせられるのである。琉球語の「あそび」と云うことは、唄をうたい、舞うことを意味することは誰もよく知っているとおりである。「あやぐ」を交遊と書くのも村芝居をあそびと云うのも、その意味を現したものの一つである。琉歌に 遊びかとまうきやる踊りがどもうきやる歌もうたえらで遊でたぼれ とある遊びはすなわちこの遊びである。 春や花ごとに色まさりまさりでかけやうおしつれて眺め遊ば の遊びは遊賞の意で、それと前者とは違うのであるが、 とりの伊平屋島や浮やがて見ゆる遊で浮やがる我玉黄金 の遊びはたしかに舞踊でなければ意味をなさぬ。琉球語の遊びと云う言葉は二様の意味があり、舞踊の意味が本源的のものであろうと思う。


(略)
今日の演劇舞踊の起源は神前にて足ふみととろかし神懸りして舞う神舞であることは、各民族に共通するものであるからだ。歌舞伎の元祖といわるる出雲の阿国ももとは巫女であったと云うのである。巫女から歌舞伎の生まれたのは卵から鶏の生まれたそれに近いものではなかろうか。しかして神事と舞踊との関係が最も著しく現れているものは琉球のものであるから日本の古代を研究するにも、琉球□他のものが参考になると同じくまたその舞踊も大切な研究資料ではあるまいかと思うのである。



成道寺(じょうどうじ)について
 大阪市のほぼ中央に位置し、大阪城より南へ三十分、「大坂冬の陣」に真田幸村が陣を張ったところで有名な真田山という上町台地の一番高い  寺町の一角に成道寺はあります。
この成道寺は今から四百年まえ、江戸時代の慶長十六年(1611年) 二月、弁蓮社良定袋中上人によって開創されました。
 その後、宝暦十一年(1761年)六月、大破した堂宇を第十一世郁湛上人が自財を投じて再建しましたが、昭和二十年(1945年)三月、戦災により焼 失し、同二十八年(1953年)に現本堂が再建されました。
 なお、御本尊阿弥陀如来坐像(御身丈九十五センチメートル)と山門は戦災による難をのがれ、現在に至っています。
 当成道寺は大阪唯一の袋中上人開基の寺であり、創建当初から鎮守として主夜天尊が安置され、盗難除の霊験あらたかなので、今日に至るまで参拝者が絶えたことがありません。(成道寺)

袋中上人
 袋中上人は江戸時代前期の浄土宗の学僧です。上人のご生涯は文字どおり、阿弥陀佛におまかせした念佛専修の生活で、布教と著作に専念さ れた在野の学僧です。
 上人は沖縄のエイサーの生みの親としても有名です。上人は念仏をこの地に広めるために、節や振りを付けた「念仏踊り」で民衆にも分り易く説い ていきました。この念仏踊りが後にエイサーに発展していったと言われています。
袋中上人のご生涯
 天文二十一年(1552年)奥州岩城郡(今の福島県)に袋中上人はお生まれになられた。
 七歳のころ叔父の天蓮社のお寺に送られた。上人は賢明で九歳の頃には三経一論(三経(三部経):無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経、一論:往  生論、浄土宗のよりどころとなる経論)の他、多数の経論を暗誦していたそうです。
 上人十四歳、永禄八年(1565年)出家し法名袋中を授かった。齢二十歳のとき大沢の円通寺へ行って大乗円頓戒を受けられ、重ねて比叡山で受  戒なされた。
 上人二十五の春、武蔵の三縁山(東京、芝の増上寺)に入って、勉学に励まれた。宗祖の法流と白旗派の口伝とをすべて伝授され、浄土門を極め られた。その後成徳寺の住職となられた。
 上人五十二歳のとき中国へわたって法を得たいとおもわれ、まず琉球へ渡られた。中国へ渡ろうとなされたが渡ることはできなかった。このとき琉 球の国王は上人の徳を慕って、深く帰依した。そこで、上人を城外の桂林寺の住職とした。琉球には三年間滞在なされた。
 慶長十一年(1606年)帰国し、その後京都三条の壇王法林寺を再興し、東山五条に袋中庵を建立なされた。
 寛永十六年(1639年)正月二十一日享年八十八歳で入滅なされた。