2016年4月5日ー大城慧氏(沖縄県立博物館・美術館指定管理者「沖縄美ら島財団」統括)、持っているのは『琉球の文化』5号

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2000年8月 『琉球・尚氏のすべて』新人物往来社□大城慧「尚氏関係史跡事典」/ 執筆者略歴 大城慧=1951年 沖縄県生まれ。別府大学文学部史学科卒業。現在、沖縄県立博物館学芸課長。論文「沖縄の鉄」(『稲と鉄』所収 日本民俗文化体系三)。「沖縄の鉄器と鉄棒」(『沖縄文化』第六八号)ほか。/1974年5月 沖縄の雑誌『琉球の文化』第五号 大城慧「与那部落のウンジャミ」

○2000年12月17日『沖縄タイムス』新城栄徳「書評・『琉球・尚氏のすべて』」□本書を読み、私なりに解釈すると、十一世紀の琉球に按司(あじ)たちが出現し対立抗争を続け、十四世紀に中山察度、南山承察度、北山怕尼芝(はにし)の按司たちが相次いで明朝に進貢し交易時代の幕開けとなった。十五世紀前半に佐敷の巴志によって統一国家「琉球国」が成立したといわれる。その六代・尚泰久の時代には日本貿易が拡大され仏教王国としても栄えた。そして世子でもない重臣・金丸が後に尚円王となり、その子・尚真の時代に中央集権制「琉球国」が生まれた。
 そして七代・尚寧のときに、薩摩の島津家久が徳川家康の許可を得て琉球出兵した結果、薩摩藩支配下の「琉球国」となった。その中にあって近世琉球への新たな転換を目指したのが尚質、尚貞王を支えた摂政・羽地朝秀の時代。尚敬王を支えた久米村の蔡温の時代には、諸書が編集され王国の主体性の確認と確立に寄与した。清朝から久米村の程順則の持ち帰った『六諭衍義』が日本に広まり、玉城朝薫の「組踊」が生まれるなど新たな琉球の文化が展開した。
 薩摩・長州藩による明治維新で大日本(だいにっぽん)帝国に「琉球国」が「琉球藩」として編入され最後の王・尚泰で琉球王朝は解体され、後「沖縄県」となった。全国的に新たに政治、文化の東京集中化が加速される中、沖縄も編者・喜舎場一隆氏の言うところの地理的宿命から辺境となってしまった。・・・

1974年5月ー『琉球の文化』第五号<沖縄戦と終戦直後の生活>
琉球文化社(編集発行人・大城精徳)本社〒那覇市牧志町1-944-6 編集局〒902那覇市安里425丸清ビル2階
関西連絡所ー大阪市東淀川区西中島町5-62青い海出版社内(新城栄徳)
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1981年4月 沖縄の雑誌『青い海』5月号 №102号 大城慧「沖縄県下の発掘状況」


尚ファミリー
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写真右ー尚昌、百子夫人①

1916(大正5)年9月13日『琉球新報』「文展制作ー中川八郎『高山の月』」(写真)/「18の閨秀作家ー中條百合子」
1916(大正5)年10月4日『琉球新報』「院展出品ー小杉未醒『南島』」(写真)
1916(大正5)年10月15日『琉球新報』「竣工近き知事官舎」(写真)

1916(大正5)年10月16日『琉球新報』文展出品『琉球の女』尚昌令夫人の作ー殿様芸術家の名をほしいままにしている小笠原長幹伯の令妹。今年3月学習を卒業する迄は学校の方で洋画家の岡野榮氏③を師として主として生物(ママ)の写生をやっておられた、卒業後は専ら満谷國四郎氏について研究していた・・・」

1916(大正5)年12月11日『琉球新報』「夏目漱石氏逝く」

①伯爵・旧小倉藩主小笠原長幹妹、姉に津軽照子②。小倉藩は、譜代15万石、1632年1867年、に小笠原忠真が入封して約240年間支配したが、幕末、新式銃の長州軍と戦い敗北、長州と和議し田川郡香春に政庁移転、香春藩とした。1867年、藩主忠幹が没すると忠忱が家督相続し戊辰戦争では奥羽に派兵。1869年、藩庁を京都郡豊津に移転、豊津藩とした。忠忱が貴族院議員在職中に没すると長男長幹が襲爵。長幹は彫刻、園芸、音楽らの多方面に趣味をもち、とくに彫刻は朝倉文夫に師事、文展にしばしば入選した。→千田稔『華族総覧』講談社現代新書2009年7月

②津軽照子ー歌人。旧姓小笠原。伯爵小笠原長忱の娘。東京生。華族女学校卒。佐佐木信綱の竹柏会に入会、児山敬一と『短歌表現』を創刊、戦後『文芸心』と改題、創刊に拠り口語自由律の新短歌運動に尽くす。歌集に『野の道』『秋・現実』等がある。昭和47年(1972)歿、85才。 →コトバンク

③岡野榮ー明治13(1880)年4月~昭和17(1942)年3月21日 出身地東京赤坂 学歴〔年〕東京美術学校西洋画科卒
経歴ー女子学習院などで教鞭を執る傍ら油絵に精進。明治44年中沢弘光らと光風会を創立。明治末より児童出版物の挿絵を手がけた。巌谷小波文による絵本叢書「日本一ノ画噺」などに優れたものがある。→コトバンク

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写真下段左に津軽照子『うら紙草子』→弘前藩は外様10万石、1590年に津軽為信が豊臣秀吉に本領安堵されて以来約280年間津軽家が支配した。維新期当主の津軽承昭は細川藩主斉護4男で、妻は近衛忠熙の娘。後は近衛家次男の英麿が相続。妻が照子で、32歳のときに夫英麿と死別。→千田稔『華族総覧』講談社現代新書2009年7月

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漢口領事館に尚昌・百子夫妻を迎えて、右から田場外務書記、中野英光漢口駐在武官、外間政恒東亜興栄漢口出張所、津軽照子


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