1916(大正5)年10月16日『琉球新報』文展出品『琉球の女』尚昌令夫人の作ー殿様芸術家の名をほしいままにしている小笠原長幹伯の令妹。今年3月学習を卒業する迄は学校の方で洋画家の岡野榮氏③を師として主として生物(ママ)の写生をやっておられた、卒業後は専ら満谷國四郎氏について研究していた・・・」


満谷国四郎「榕樹ノ下」1919年ー帝国美術院第1回美術展覧会出品

1939年11月ー『歴程』山之口貘「満谷氏の『榕樹の蔭』と藤田氏の『琉球美人』」


満谷国四郎 墓(多磨墓地)島袋和幸撮影

満谷国四郎-洋画家。岡山県生。はじめ二世五姓田芳柳に、のち小山正太郎に師事。吉田博らと大平洋画会を創立、海外の博覧会や文展に活躍する。のち大原孫三郎の後援を得てパリへ留学、褐色系を基調とした初期の画風から後期印象派の影響を受けた画風へと一変する。晩年は対象の平面的処理と豊かな色彩により装飾性の強い画風を確立した。帝国美術院会員。昭和11年(1936)歿、63才。 →コトバンク