1899年1月20日ー勝海舟、旧主君徳川慶喜の10男・精(くわし/11歳)を養子婿に迎える

「勝海舟」2005年5月 新城良一・編『ビジュアル版 日本・琉球の文明開化ー異国船来航の系譜』天久海洋文学散歩会

1902年5月19日ー兒玉源太郎台湾総督、井上勝ら福岡丸にて来沖
同年1月に日英同盟条約調印。兒玉源太郎台湾総督(1875年にも来沖)、井上勝ら福岡丸にて来沖。那覇の潟原で那覇首里の小学校の運動会を見る。また首里を遊覧。風月楼で2区の有志及び各役所の高等官60名「歓迎会」。
児玉源太郎 こだまげんたろう
1852(嘉永5)~1906(明治39) 明治時代の陸軍軍人(大将)
徳山藩士児玉半九郎忠碩の長男。戊辰戦争に藩の献功隊士として参加。のち陸軍に入り、佐賀の乱・神風連の乱・西南戦争に従軍して頭角をあらわした。 1887(M20)陸大校長としてドイツの軍制・戦術の移入紹介につとめ、91ヨーロッパ視察。 92~98陸軍次官兼軍務局長、日清戦争で大本営参謀、功により男爵。96中将に昇進し、長州軍閥の1人として重きをなした。 98台湾総督。1900第4次伊藤内閣・桂内閣で陸相、一時内相と文相を兼任。 04大将に累進して日露戦争に出征し、満州軍総参謀長、戦功により子爵。06参謀総長に就任。南満州鉄道株式会社創立委員長。没後、伯爵。 (はてなキーワード)
日本の近代的交通網を整えた「鉄道の父」
井上 勝 ( いのうえ まさる ) ●天保14年(1843)-明治43年(1910)
勝は天保14年(1843)、藩士井上小豊後勝行の三男として、土原浜坊筋に生まれました。長崎でオランダ士官に兵学を学び、江戸では砲術を修行して、さらに箱館へ行って英国領事館員に英語を学びました。その後航海術習得のため、伊藤博文や井上馨らと英国へ密航してロンドン大学に留学し、鉱山学および鉄道の実業を研究して、明治元年(1868)に帰国しました。明治4年(1871)に鉱山頭兼鉄道頭となり、新橋―横浜間に日本最初の鉄道を開通させて以来、工部大輔・鉄道庁長官等を歴任して、全国各地の近代的交通網を整備しました。明治22年(1889)には、東京―神戸間の東海道線を全通させています。同43年(1910)に鉄道院顧問となり、欧州を視察しましたが、ロンドンで病死しました。享年68歳。
 墓は、沢庵和尚を開山として、寛永15年(1625)に3代将軍徳川家光によって創建された品川の東海寺墓地にありますが、ここはJR東海道線と山手線とが分岐するところとなっています。また東京駅頭には、大正3年(1914)に銅像が建てられ、戦時中の金属供出によって台座のみとなっていましたが、没後50周年の昭和34年(1959)に再び銅像が建てられました。(city.hagi.lg.jp)■ちなみに井上勝の娘は松方正義の9男義輔に嫁いでいる。松方の3男幸次郎(元川崎造船社長)は松方コレクションで知られる。

1910年3月9日ー勝精伯爵、農務省水産講習船「雲鷹丸」で来沖。岡雷平やまと新聞記者が同行
1911年6月8日 尚昌、神山政良、イギリス留学の途次サンフランシスコ着、安仁屋政修(沖縄県人会会長)らが出迎える。

1911年11月11日、ブール、シュワルツとともに来沖。→1991年1月 ①伊佐眞一『アール・ブール 人と時代』

1912年3月27日にポトマック公園で、ヘレン・タフト大統領夫人と珍田日本大使夫人によって桜(ソメイヨシノ種)が植えられた、という。桜の穂木は東京荒川の桜並木だが、台木は兵庫県東野村で育てたものという。詳しくはネット検索で見てほしい。最近、アメリカの首都は何処にあるかと検索したら前記の桜の話が出てきた。アメリカ合衆国の首都はワシントン・コロンビア特別区(Washington,District Of Columbia)で1790年7月16日に設立。


1913年2月2日ー琉球新報記者だった富川盛睦(ニューヨークで小橋川朝重撮影)

1913年 山田有登、大阪市聖バルナバ病院に勤務。→『沖縄県人録』(1937年)に「山田有登君は那覇市の出身。明治17年1月22日を以て生まれる。沖縄県立中学校を経て金沢医学専門学校に学び、明治42年同校を卒業するや、直ちに石川県立病院に勤務して研鑽を積み同44年6月に愛知県渥美郡田原病院に転じて更に其の蘊奥を極め、大正2年聘せられて大阪市聖バルナバ病院に勤務。同9年転じて久原鉱業経営の鉱山病院に勤務。同11年退職帰県して久米大道りに開業。昭和11年、那覇市に逓信診療所開設されると其の初代所長となり今日に至る。なお君は学生時代野球選手たりしだけに野球に趣味あり」とある。→2011年9月23日、以前から気になっていた天王寺の聖バルナバ病院をのぞく。受付で病院の案内パンフレットをもらう。それによると、同病院は1873年にアメリカ聖公会により派遣された宣教医師Henry Laningが大阪川口居留地に米国伝道会施療院を開設したのに始まる。1923年に川口から天王寺細工谷の現在地に移転しているから、写真家の山田實さんの父・有登は同病院に1913年から1920年まで勤務。その時の場所は川口ということになる。

□川口が貿易港として継続的発展をなしえなかったのは、安治川河口から約6km上流に位置する河川港であるため水深が浅く、大型船舶が入港出来なかったことによる。そのため、外国人貿易商は良港を有する神戸外国人居留地へと移住していった。彼らに代わってキリスト教各派の宣教師が定住して教会堂を建てて布教を行い、その一環として病院、学校を設立し経営を行った。平安女学院、プール学院、大阪女学院、桃山学院、立教学院、大阪信愛女学院といったミッションスクールや聖バルナバ病院等はこの地で創設されたのである。それら施設も高度な社会基盤が整備されるに従い、大阪の上町エリア(天王寺区・阿倍野区など)へ次々と移転して川口は衰退への道をたどることになる。対照的に大型外国船が集まるようになった神戸港は、1890年代には東洋最大の港へと拡大していった。(→ウィキペディア)

1914年5月9日『沖縄毎日新聞』伊波月城「日光浴ー新文明の先駆者たる北米合衆国の平民詩人ワルトホヰットマン②は3、40年これを実行したのである。・・・」
②ウォルター・ホイットマン はアメリカ合衆国の詩人、随筆家、ジャーナリスト、ヒューマニスト。超越主義から写実主義への過渡期を代表する人物の一人で、作品には両方の様相が取り込まれている。アメリカ文学において最も影響力の大きい作家の一人でもあり、しばしば「自由詩の父」と呼ばれる。→ ウィキペディア
1914年6月26日『沖縄毎日新聞』「粗枝大葉ー19世紀の偉大なるアメリカ人ワルト、ホイットマンは大いなる都会とは・・・・」

1915年8月ー前暁鐘社の野里朝淳がマウィ島カフルイ港で写真屋開業

1916年6月9日『琉球新報』平良生(在ロスアンゼルス)「米国通信」
1917年9月、山入端隣次郎、アメリカよりT型フォードを3台導入し沖縄自動車商会を開業、運転手は福井県出身の大宮孝太郎。大宮は沖縄県「運転手免許証」(大正6年10月8日発行)第一号である。12月、布哇沖縄海外協会(當山善真)『会報』□表紙「汎太平洋と布哇」、大城幸之一「沖縄県の疲弊と之が対応策」、比嘉静観「沖縄県救済策」、大田朝敷「沖縄本島巡講行脚」、新城北山「布哇沿岸の琉球民族」/沖縄県海外協会(又吉康和)『南鵬』第1巻第2号□大田朝敷「ハワイと沖縄の関係」
1917年11月23日『琉球新報』「64年前ペリーと琉球を経て浦賀に上陸したハーデー翁が17日来日」

名護朝助
慶応義塾入社名簿に/名護朝助 本籍地 沖縄県首里當蔵35 戸主 士族
              明治11年3月生 明治30年5月入社  証人 岸本賀昌
アメリカに渡米、10年余滞在
大正元年10月ー西洋料理「美理軒」(名護朝助経営、コック永田亀寿・元シュワルツ家コック)饒平名病院隣、一味亭跡に開業/11月ー『琉球新報』□食道楽君のピリケンの解釈は違っている。ピリケンとは福の神の意味で寺内総督にピリケンの名を冠したのは惑新聞が七福神の似顔を募った時、総督の三角頭が七福神の一つに及第したことがあるからピリケンのアダ名も蓋し之に出たのであろう。洋食屋の美理軒なるほど語呂はよくないが来る御客様を福の神と見立てたものであるとすれば語呂ぐらいは我慢が出来る。アテ字の美は美味の美、理は料理の理と見れば何れにしても結構じゃないか。

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1918(大正7)年3月の『琉球新報』広告/2006年9月『JTBパプリッシング』表紙

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左ー通天閣のビリケンさん/通天閣の見える右下にビリケンさんが見える

□通天閣の展望台で、真っ先に迎えてくれるのが、幸運の神様「ビリケン像」。
合格祈願・縁結びなどあらゆる願いを聞いてくれる、なんでもござれの福の神なんです。通天閣の「ビリケン」は、5階の展望台の立派な台座にちょこんと座っています。
笑っているのか怒っているのか。不思議な表情と、愛敬あるポーズが人気で、いつもお願いする人が絶えません。

ビリケン(BILLIKEN)は、1908年(明治41年)アメリカの女流美術家 フローレンス・プリッツという女性アーティストが、夢で見たユニークな神様をモデルに制作したものと伝えられています。トンガリ頭につりあがった目という、どこかしらユーモラスな姿は、たちまち「幸福のマスコット」「福の神」としてアメリカを始め世界中に大流行しました。
日本でも花柳界などで縁起物として愛されていました。

世界的な流行を受けて、1912年(明治45年)オープンした「新世界」の遊園地「ルナパーク(月の園)」では、さっそく「ビリケン堂」を造りビリケンを安置。これは大当たりし、新世界名物としてその名をとどろかせ、ビリケン饅頭やビリケン人形などのみやげ物まで作られました。また「福の神・ビリケン」を七福神に加え、「八福神めぐり」なども流行したと伝えられています。しかしビリケンは、ルナパークの閉鎖と共に行方不明になってしまいました。

オイルショックが去り、通天閣の灯が復活して新世界に活気がよみがえった1979年〈昭和54年〉、浪速文化の拠点をめざした「通天閣ふれあい広場(現・3階イベントホル)」ができました。その後、1980年(昭和55年3月30日)に新世界に馴染みの深い「ビリケン」の復活も決まりました。しかし、資料になるべき写真が見つからず。思案にくれている時、田村駒株式会社が版権を持っていることが判明。田村駒さんのご好意で、同社の「ビリケン」をもとに木彫で復元したのです。像の彫刻は伊丹市在住の安藤新平さん。(→通天閣)

1919年 宮城与徳、父与正の呼び寄せで渡米→1921年ー屋部憲傳、又吉淳、幸地新政らと「黎明会」結成。



フレデリック・クライスト・トランプは、ドイツ系アメリカ人の不動産開発業者・慈善家である。息子に実業家であり第45代アメリカ合衆国大統領であるドナルド・トランプ、娘にアメリカ合衆国連邦裁判所判事のマリアン・トランプ・バリーがいる。 フレッド・トランプは大工を始め、設計図を読み取る訓練を受けた。1920年には15歳で不動産業・建設業を始め、エリザベス・トランプ・アンド・サンという会社を母エリザベス・クライスト・トランプとともに設立する。母エリザベスは名義貸しをしたのではなく実質的な経営者であり、フレッドが21歳になるまでは小切手にサインするのは彼女の役割であった。→ウィキ

1921年5月1日 内間安瑆、カリフォルニヤ州ストックトンに生まれる。


2015年2月 展覧会記録『色彩と風のシンフォニー/内間安瑆の世界』沖縄県立博物館・美術館

1922年2月5日 デウィット・ウォレスは、第一次世界大戦で負った傷から回復する間に、多くの大衆雑誌の記事を要約した内容を含む雑誌のアイデアを思いついた。デウィットとカナダ生まれの妻ライラ・ウォレスは『リーダーズ・ダイジェスト』を創刊。→ウィキペディア

1922年3月10日 改造社招聘のサンガー夫人(女性解放運動家)サンフランシスコからの太洋丸で横浜着

1923年9月1日 関東大震災
1923年 仲吉良光、『東京日日新聞』を退社し渡米。ロサンゼルスで『羅府新報』記者

1924年3月 関西沖縄県人会機関誌『同胞』創刊号□京阪神地方に於ける県人の発展ー米国に於ける移民禁止の布告が発せられて以来は、其の過剰人口を専ら内地に送ることになって、今や京阪神地方だけでも約1万5千人以上を算する。
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〇1986年4月15日『沖縄タイムス』「『同胞』創刊号はガリ版刷り」
□移民問題と在米同胞ー米国の繁栄を語るものは、東部にニューヨークの雑踏と、中部にシカゴの煤煙市と、そして西部にオレンジの花馨るカリフォルニアの富源のあることを見落とすわけには行かぬ。そして、また米国の文明を語るものは、ニューヨークの女神像と、シカゴの黒人私刑事件と、太平洋沿岸の東洋人排斥の事実とを忘れてはならない。(略)カリフォルニアのこの発展をかほどまで迅速ならしめたものは、実に20万に近い支那人の労働者と、30年間血と汗をもって開拓した、30万に近い現存日本人の努力の結果とに他ならない。→1929年12月『世界地理風俗体系・第20巻・アメリカ合衆国(下)』新光社

1924年5月10日、ジョン・エドガー・フーヴァー司法省内の捜査局(Bureau of Investigation:BOI)の長官に任命。
○「2007年2月 マルク・デュガン 中平信也『FBIフーバー長官の呪い』文春文庫□貴族の出自を自慢していたジャクリーンの父親の祖先は、じつは無一文の入植者にすぎない。彼女の父親が金持ちになったことはたしかにあったが、財産は大恐慌の時に全て失われていた。人生に敗れた遊び人で、度重なる飲酒からアルコール中毒になり、その病状は結婚式で娘と腕を組むことができないほど深刻だった。ジャクリーンの母親はリー姓のフランス系アイルランド人だと公言していたが、実際はレヴィという姓のユダヤ人だった・・・

FBIフーバー長官の呪い (文春文庫) – 2007/2 /沖縄テレビ「奇跡体験!アンビリバボー:市民が窃盗団結成★FBIから極秘文書を盗み出せ」

1924年5月15日 アメリカ議会、排日移民法可決□7月1日「排日移民法」が実地される。
 
1926年9月30日、スタール(お札博士、シカゴ大学最初の人類学教授1858-1933)、九十九豊勝鹿屋中学校教諭と大球丸で来沖、鎌倉芳太郎の案内で尚侯爵邸、首里城などをみる。
□スタールの日本研究 [編集]スタールの日本研究の範囲はユニークかつ幅広く、アイヌ・松浦武四郎以外では、なぞなぞ・絵解き・ひな祭り・祭社の山車・河童信仰・納札・富士講・看板・達磨・碁・将棋・寒参りにまで及ぶ。特に納札に関してはマニアのレベルに達し、自分の作った納札(千社札)を日本各地への旅行に持ち歩き、神社仏閣に貼りまくった。この行為がスタールを「お札博士」と呼ばせ、日本の知人に親しまれた理由であった。彼の足跡は、東海道・四国・九州・東北に残され、富士山には5回も登山し、木曽御岳にも登っている。2回目に来日した時に帝大教授・坪井正五郎に世話してもらった駒込西片町の家を根拠地とし、集古会のメンバー(清水晴風・西澤仙湖・久留島武彦・淡島寒月・林若樹・山中共古)や、我楽他宗という関西のサークル(三田平凡寺)と接触し、蒐集品の交換や「東海道中膝栗毛」の輪講に参加している。親日家としてのスタールの面目は、本国アメリカで発揮される。1924年のアメリカ議会に提出されていた排日移民法案を批判し、日本人のみに適用される移民法は人道と建国の精神に反すると訴えた。1930年代に満州事変・上海事変を受けて日本へのアメリカの世論が硬化すると、一人で南部・中西部の諸州を巡回し日本の立場を極力弁護した。スタールの遺骨は、富士山麓須走口に埋葬されている。(→ウィキペデア)

1927年、アイルランド系ジョゼフ・ケネディ一家がアイルランドから密輸した酒を、マイヤーランスキー(ユダヤ系ロシア人。1920年代初期は、シーゲルと共に密輸ギャングのルイス・"ダッチ"・ゴールドバーグなどの元で酒の密輸トラックの武装ガードマンを務め、ニューヨークからシカゴまで酒を運んでいた。やがて他の密輸トラックを襲って酒を横取りし、非合法の酒取引所で転売して稼いだ。彼らを雇っていたフランク・コステロの紹介でアーノルド・ロススタインに認められ、自ら密輸ビジネスに参入した。ルチアーノらと酒輸送ネットワークの一員になり、規模を拡大したーウィキ)一家が強奪しようとボストン郊外で銃撃戦となり、11人余が死亡。関連〇「歴代アメリカ大統領の軌跡/第35代アメリカ合衆国大統領 ジョン・F・ケネディJohn Fitzgerald Kennedy 民主党-生没 1917年5月29日~1963年11月22日(46歳)」マサチューセッツ州ブルックラインで、アイルランド系移民の子孫、株取引や禁酒法時代に密造酒の製造で大儲けをした投資家のジョセフ・P・ケネディ・シニア(Joseph Patrick Kennedy, Sr.) の5番目の息子として生まれた。

1928年10月 伊波普猷、春洋丸でハワイ着、比嘉賀秀・当山哲夫らハワイ在住県人の招きによるもの。ハワイ各地で『沖縄よ何処へ』(後に『沖縄歴史物語』と題して刊行)をもとに沖縄歴史を講演。

1937年4月ーベッテルハイム孫娘ベス・ブラット女史
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 ドイツ系ロバート・アンスン・ハインラインは社会主義者のアプトン・シンクレアの活動に参加していた。1934年のカリフォルニア州知事選ではシンクレアが民主党の推薦を受けて立候補したため、熱心に選挙活動を行った。第二次世界大戦中、1943年から技術士官(航空工学)として海軍に復帰。アイザック・アシモフやL・スプレイグ・ディ=キャンプと共にペンシルベニア州のフィラデルフィア海軍造船所で働いた。

1939年6月 那覇の眞楽座で「ポパイの空中戦」「ポパイのS・О・S」上映

1926年『沖縄朝日新聞』2月10日/2月14日 尾上金城・作 相田杜里夫・画「連続漫画 女は国寶」



1939年6月 那覇の眞楽座で「ポパイの志願兵」

1939年11月 那覇の平和館で「漫画トーキー」(痛快なポパイ/可愛いぺティ)上映

フライシャー・スタジオ(Fleischer Studios, Inc.)は、ニューヨーク州ニューヨーク市ブロードウェイ1600番地で設立されたアニメーション制作会社に端を発するアメリカの企業。1921年にユダヤ系アメリカ人のマックス・フライシャーとデイブ・フライシャーのフライシャー兄弟により設立され、1942年1月にパラマウント映画に買収されるまで同兄弟により経営されていた。フライシャー・スタジオは初期のウォルト・ディズニー・プロダクション(後のウォルト・ディズニー・カンパニー)の最も重要な競争相手であり、『道化師ココ(英語版)』『ベティ・ブープ』『ポパイ』『スーパーマン』などのカートゥーン映画を制作した点で注目に値する.→ウイキペディァ


1956年5月9日『琉球新報』

1957年3月9日『琉球新報』「サザエさん」

1958年12月『琉球新報』
□映画が娯楽の王様だった1950年代。ディズニーに対抗して企画された日本初の本格カラー長篇アニメーション。中国に伝わる民話をもとに、白ヘビの化身である白娘(パイニャン)と恋人・許仙(シュウセン)の美しい愛の物語が紡がれる。声は森繁久彌と宮城まり子が一人十役を担当(!)。実際の俳優の演技を撮影して絵作りの参考にされたので恋人たちの一挙手一投足が実に繊細。動物も愛らしいが、パンダは当時なじみのない動物だったために作画スタッフは苦労したとか。50年の時を経た今見ても、風雅な絵と色合い、ファンタジックな音楽が素晴らしい。

1959年9月『琉球新報』


1960年2月『琉球新報』「少年猿飛佐助」
□「白蛇伝」に続く東映動画スタジオの長編漫画映画。ベニス国際映画祭児童映画部門グランプリ受賞。原作は檀一雄作の同名小説(読売新聞連載)。信濃の国の山里で山の動物たちを友達に佐助少年は、姉おゆうと二人で楽しく暮らしていた。ある日、子鹿のエリが大ワシにさらわれ、沼に投げ込まれてしまう。助けようと沼に飛び込んだ母鹿は、身代わりとして沼に棲む巨大な山椒魚のえじきに…。山椒魚は妖術使い“夜叉姫”の化身だった。佐助は仇討ちを決心し、妖術を打ち破る術を習得するため、戸隠山に住む仙人・戸沢白雲斎に弟子入りする。辛い修行に耐え、佐助は忍術の奥義をきわめる。そして3年ぶりに山を下りた佐助は、折りしも山賊を追う上田城の若殿・真田幸村と出会い、ともに山賊退治に向うことに。しかし、姉のおゆうを人質に取られ、佐助は山賊と手を組んだ夜叉姫に手が出せない。間一髪、幸村によっておゆうは救われ、夜叉姫と佐助は互いの術で対決する。


1964年3月 那覇の琉映本館で「白蛇伝」上映

1965年9月『琉球新報』「ポパイラーメン』