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沖縄島ー沖縄島は、沖縄県を構成する160の島の中で最大の島であり、また東シナ海と太平洋の間に位置する南西諸島においても最大の島である。 ウィキペディア

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与那覇岳ー与那覇岳は、沖縄県国頭郡国頭村字奥間・字比地に位置する山である。 沖縄海岸国定公園内にある沖縄本島最高峰で、標高は503メートル。ただし、その隣の498メートルのピークに三角点があり、こちらを山頂のように見なす向きもある。 ウィキペディア


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知念(ちねん)半島から久高島を望む/久高島展望ーさやか・ひより


久高島ー知念(ちねん)半島の東約5kmに位置し、周囲7.75kmの小さな島です。琉球開びゃくの祖アマミキヨが天から降りて最初につくったとされている島で、五穀発祥の地、神の島と呼ばれています。また、歴代の琉球国王は久高島参詣を欠かすことはありませんでした。久高島には、12年に1度、午年に行なわれる祭事・イザイホーに代表されるように神秘的な祭事がそのまま残っているため、民俗的に貴重な島として注目されています。→ 神の島 久高島 | 南城市公式Webサイト

2011年6月20日ー『沖縄の軌跡』(島袋和幸 〒124-0011 葛飾区四つ木4-18-10 電話:03-3695-9276『沖縄の軌跡』75号目次<神の島・久高島>ティミグスク チマリヤーの唐船模型 唐船・進貢船の鷹の目
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写真「クボウぬウタキ」【今帰仁間切今帰仁村のクボウヌウタキ】この御嶽(ウタキ)は国レベルのウタキと位置づけている。『琉球国由来記』(1713年)では、今帰仁巫(ノロ)の崇所とされる。本来、三十三君の一人今帰仁阿応理屋恵の崇所ではなかったか。『琉球国由来記』が編纂された頃、今帰仁阿応理屋恵は今帰仁監守(今帰仁按司)が首里に引き揚げていた時期、あるいは廃止されていた時期でもあり、今帰仁阿応理屋恵が今帰仁に居住していた時は、今帰仁阿応理屋恵の祭祀場としていたと見られる。勿論、祭祀に今帰仁ノロや村の神人や間切役人や村人たちの参加があったであろう。→今帰仁村歴史文化センター

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アスムイ/辺戸
国頭村辺戸の安須森(アスムイ)
安須森はよく知られた御嶽(ウタキ)の一つである。安須森は『中山世鑑』に「国頭に辺戸の安須森、次に今鬼神のカナヒヤブ、次に知念森、斎場嶽、藪薩の浦原、次に玉城アマツヅ、次に久高コバウ嶽、次に首里森、真玉森、次に島々国々の嶽々、森々を造った」とする森の一つである。国頭村辺戸にあり、沖縄本島最北端の辺戸にある森(御嶽)である。この御嶽は辺戸の村(ムラ)の御嶽とは性格を異にしている。琉球国(クニ)レベルの御嶽に村(ムラ)レベルの祭祀が被さった御嶽である。辺戸には集落と関わる御嶽が別にある。ただし『琉球国由来記』(1713年)頃にはレベルの異なる御嶽が混合した形で祭祀が行われている。→今帰仁村歴史文化センター


後列左から赤嶺昌樹氏、平良知二氏、屋部憲氏。前左から金城美奈子さん、國吉貴奈さん


後列左から國吉貴奈さん、平良知二氏、屋部憲氏、金城美奈子さん、前が赤嶺昌樹氏


後列左から赤嶺昌樹氏、平良知二氏、屋部憲氏、前左から仲里なぎささん、國吉貴奈さん


青山恵昭 2020年2月4日 神々が宿ると言われる辺戸岳=黄金森=安須杜を望みました。振り返ると水平線上には与論島が浮かんでいました。

□栄喜久元
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1960年10月ー『与論島の民謡と生活』/1964年12月ー『奄美大島 与論島の民俗』

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伊波普猷愛用の机、着物、旅行カバン


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左ー新城栄徳、仲松弥秀氏(真喜志康徳・撮影)

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左ー新城栄徳、宮里朝光氏(末吉安允・撮影)