文化人類学者・西村眞次
1909年10月21日ー眞次長男・朝日太郎、牛込区新小川町にて生まれる。
1931年4月ー西村眞次『人類性文化史』武侠社
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1935年9月 西村眞次『史的素描』章華社

1942年4月ー西村眞次『萬葉集の文化史的研究』東京堂
1942年8月ー西村眞次『大東亜共栄圏』博文館出版
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1946年5月ー西村朝日太郎、国立国会図書館創立事務を担当。
1957年11月ー西村朝日太郎、バンコクの第9回太平洋学術会議に出席。帰途タイ沿岸の漁労文化を調査。沖縄八重山の漁労文化も調査。
1966年2月ー西村朝日太郎、早稲田大学より米国セントルイス市のワシントン大学へ客員教授として赴任。
1988年5月ー西村朝日太郎、新城栄徳宛手紙「岸畑久吉氏早大文学部の主事を永らく勤めていた方で小生にとっても懐かしい方です」



 西村眞次ー三重県宇治山田市(伊勢市)出身。西村九三・のぶ子の二男。号を酔夢。尋常小学校卒業後、大阪で仕事をしながら中等教育を勉学。 少年・青年雑誌に多くの投稿文が採用され、『少年文集』『中学世界』などに掲載される。上京し、新声社(新潮社の前身)や博文館で編集業務に従事。1903(M36)東京専門学校(早稲田大学)文学部に入学し、坪内逍遙に師事。'05大学卒業し、兵役に就き日露戦争に応召し中国戦線に出征。 除隊後、従軍経験を執筆し『血汗』を発表するなど作家として活動。'07東京朝日新聞社の記者を経て、'09冨山房に入社し、大町桂月の雑誌『学生』の編集者として関係した。'18(T7)母校の早稲田大学文学部講師に招かれ、日本史や人類学を講じ、28(S3)史学科主任教授となり早稲田史学科の基礎をつくった。また、早稲田大学第一高等学院でも日本史の講座を担当。→「歴史が眠る多磨霊園」


1936年8月 『短歌研究』第5巻第8号 西村眞次「啄木君の憶ひ出」

1936年10月 『冨山房五十年』冨山房


冨山房 小野梓が設立した「東洋館書店」の後進。/冨山房社主坂本嘉治馬

 大町桂月


『學生』表紙/市河三喜

  光用穆の早稲田の同級の友人に白石実三(1886-1937)がいる。白石が冨山房の雑誌「学生」の編輯に加わったのは大正2年のことであった。「学生」は中学生を対象にした月刊誌で、大町桂月(1869-1925)主筆、編集人西村眞次(1879-1943)の態勢で明治43年5月から発行されていた。発刊の経緯は、博文館を辞めて浪々の身であった桂月の経済を心配した東京日日新聞社長千頭清臣(チカミキヨオミ、1856-1916)が冨山房社主坂本嘉治馬(1866-1938)に相談して創刊させたというものである。桂月は巻頭言と随筆を毎号欠かさず大正7年5月の休刊まで載せている。編輯の実務は西村が仕切り、毎年9月に増刊号を出すことを売り物にしていた。明治43 年から順に、「ナポレオン号」「世界動物園」(明治44 年は一周年記念号として5月発行)「郷土偉人号」「世界偉人号」「立志号」「名所旧蹟号」「世界不思議号」「世界第一号」の8冊がそれである。第7巻第10号(大正5年9月15日)の「世界不思議号」に「人魚と海坊主と七頭蛇」を載せているのは箕作元八(ミツクリゲンパチ、1862-1919)である。→「東京人形倶楽部あかさたな漫筆」


1932年 「大言海ー文献集ー」冨山房


 1959年6月 岡野他家夫『日本出版文化史』春歩堂。1954年12月 岡野他家夫『出版文化史Ⅰ』室町書房/1976年6月復刊発行 岡野他家夫明治文学研究文献総覧『』冨山房

岡野他家夫(おかの たけお、1901年8月14日-1989年11月6日)は、書誌学者。 富山県出身。東京生まれ。初名は智山。筆名は丘竹之介、井荻房主人。東京帝国大学中退。東京帝大図書館司書。明治文学や出版文化の書誌学・文献学的研究を行う。のち日本大学教授。→ウィキ