10/16: 1965年10月 浦崎純『消えた沖縄県』沖縄遺族連合会青年部/沖縄時事出版社/沖縄グラフ東京支社
祖国復帰こそ慰霊の道
沖縄戦がはじまった頃、軍司令部から県庁に入った情報は、防衛作戦は首里をあくまで最後の拠点として戦うというものであった。島田知事が県庁を首里に移動したり、職員の生命を守る防空壕を司令部の南面にあたる真和志村繁多川に構築させたのも、軍官一体となって連携を密にして沖縄戦を戦い抜く態勢をかためるためであった。それが5月4日敢行された我が軍の総攻撃の失敗で、大本営は 沖縄は日本本土なり、寸地の残る限り後退善闘すべしー との作戦を司令したと伝えられた。戦線を南部に拡げることで、住民の犠牲がさらに大きくなることに強い不満を軍にぶっつけていた島田知事も、大本営の直接命令とあっては反対のもっていきようもなく、悲憤の涙をのみながら、やむなく自らも南端にさがり、やがて軍の指定した知念、玉城地域へ住民の避難誘導を挺身隊に命じたのであった。(略)
沖縄戦はこのように避けられる犠牲を避けようとせず、逆に既定計画を変更して住民の犠牲を増大した結果になったが、一体この償いは何をもってなされたであろうか?ー二十七度線で民族を南と北に引き裂いたまま二十年も放っとく 償いどころか、無残にも住民の意思は無視されて、さらにもう一つの十字架を背負わされたのである。沖縄は、4月28日を「屈辱の日」、6月23日を「慰霊の日」と定めて沖縄の悲劇と悲運をかみしめ、そこから民族の悲願である祖国復帰への決意を新たにしている。沖縄に草むす9万の日本軍将兵と10万を越える殉国の英霊は、かつて敵国であった米軍にいまなお支配されている現状に痛恨の涙を流しているであろう。
講師報酬も相当なものだろうが、その場で国会議員がその講師に「文化人がマスコミのスポンサーに圧力をかけろ」ということまで提案し促している。 このそそのかし行為と講師報酬との額はあらためてと問うべきだろう。国会議員の地位利用ではないか。これは明らかな憲法違反、マスコミ産業への業務妨害教唆行為というべきものだからだ。
直接、政権が表だってやれないことを、報酬をもらっている国会議員が報酬を払って影響ある文化人や民間人にいう。これは、安倍首相のいう、言論の自由というものではない。ましてや、安陪応援団、それも側近中の側近たちの国会議員の勉強会だ。その内容を知ったら、直ちに確認しこれをたしなめるのが派閥の長であり、一国の宰相たるものの政治責任ではないか。 臣下の暴走を止めきれない。注意やたしなめもしない。
関係ないというだけでなく、お得意の言論の自由まで持ち出すに至ってはのではむしろこれをあおっているといわれても、当然なことになる。 まさに、自由と民主主義を掲げる、自由民主党のそのものの危機ではないか。今、安倍総裁・首相の、宰相たる器が問われれている。安陪は、いかにも軽い。それだけに危険で幼稚な宰相である。こういうものが現代のファシズムの特徴なのだろう。安保法制が出来たら、一挙に軍事ファシズムとなるのは必定である。自民、公明も一体どうするのか、自由と民主主義のまさに正念場である。
1945年 親泊政博、熊本で『内報』発行
1945年12月の沖縄人連盟発足記事が『内報』に見える。沖縄人連盟機関紙として『自由沖縄』が比嘉春潮を中心として、東京で創刊される。
日本政府は内務次官通牒にもとづいて、九州地方総監府副参事官北栄造に、沖縄県内政部長兼任を発令して沖縄県知事代理官の職務を行わせたが、兼任といっても実際は沖縄県の仕事に専従させていた。北内政部長は、沖縄県事務所規程を設け、総監府内に臨時に沖縄県事務所をおくとともに、東京、大阪、熊本、宮崎、鹿児島にそれぞれ出先機関を設けた。ところで沖縄県事務所は、戦時中の沖縄からの引き揚げ者をはじめ、終戦後の内外地からの復員者、引き揚げ者など、戦争との関連で本土に居住しなければならなくなった県人のための臨時の行政機関であったから、沖縄の現地に対しては、なんらの権限も及ぶものではなかった。
(略)
九州に散在していた引き揚げ者は、たいてい寒村僻地にいて郷土の情報に飢えていた。肉親縁者の消息に接する機会もなく、占領後は交通断絶によって郷里とは完全に隔絶されていた。北内政部長は、当時熊本にあって『内報』を発行して好評を博していた前沖縄新報社取締役・親泊政博氏を福岡に招き、県の援助による新聞発行を要請したところ親泊氏はこれを引き受け、昭和21年1月『沖縄新民報』創刊号を発行した。□→1965年10月 浦崎純『消えた沖縄県』沖縄グラフ東京支社
親泊政博(1898年4月18日~1963年4月10日)
左から川平朝申、親泊政博
戦前の沖縄新聞社の名経営者と言われた人物に琉球新報の山口全則、沖縄朝日新聞の座安盛徳、沖縄日報の親泊政博が居る。
1957年11月ー上里良徳『沖縄人名事典』
宮崎県資料(那覇市歴史博物館所蔵)