戦時下の沖縄/仲本政基『新聞人の沖縄戦記ー壕の中で新聞を発行ー』仲本玲子

  右が仲本政基
1943年  仲本政基□私が沖縄新報の記者になったのは、昭和18年の10月であった。当時、沖縄は一県一紙になっており、琉球新報、沖縄朝日新聞、沖縄日報の3社が合併(昭和15年12月)してできたのが沖縄新報である。当時の社長は伊江朝助男爵で、専務が当真嗣合、常務が平尾喜一、総務局長兼編集局長が高嶺朝光、営業局長は親泊政博の各氏であった。工務局長はおらず、阿加嶺のターリーが工場長だったとおぼえている。編集局の陣容は、高嶺朝光氏の下に、外電関係整理が國吉眞哲氏、政経部に上地一史、仲泊良夫、与儀清三、座喜味盛良、勝連勇の諸氏、社会部は福地友珍、大城徳三(現在の牧港篤三)、友寄喜光、大山一夫の各氏が健筆をふるっていた。(略)私が入社した月に、ガダルカナルで奮戦した八重山与那国出身の大舛少尉が、寡兵よく敵にいどんで、壮烈な戦死をとげ、それが上聞に達して大尉に二階級特進したというニュースが入った。(略)沖縄中が大舛熱にとりつかれた。県立一中の小野教諭が「大舛大尉」と題して連載小説を書いた。さしえは画家の大城皓也氏がかいた。劇団も「大舛大尉」を各地で公演して大好評をあびた。私はこの大舛熱の過中にとびこんで、入社早々大舛大尉の記事ばかり書いていた。私の初記事は大舛大尉からはじまったのである。

(略)沖縄の様相は一変した。辻の遊廓も兵隊たちに占領されて、軍靴にふみにじられ、酔っぱらった将校が抜刀して往来にふんぞりかえる光景もみられた。往年の南国情緒ゆたかな辻のおもかげはすでになく、遊女もモンペをはいての接待で、すべてが戦時色にぬりつぶされていった。(略)そこで偶然にも大山一雄記者と会った。彼も末っ子を背負って、妻子をひきつれて郷里の大宜味村喜如嘉に非難するところだった。「仲本君、北部はどこかあてがあるのか」と彼がきいた。私は「ない」と答えた。すると大山記者は「喜如嘉にいっしょに行こう。あそこならなんとか君達家族の世話ができる」といった。私は地獄で仏に会った心地がした。「ぜひお願いします」と彼の温かい好意に感謝した。二日後に喜如嘉について、翌日二人は那覇に向かった。羽地につくと上地一史記者が来ていた。羽地は彼の郷里である。彼は万一の場合、北部で新聞を発行する準備のために来たという。

(略)時たま大政翼賛会の翁長助静や詩人の仲村渠致良がよく新聞社にやってきた。翼賛会は佐敷村に移動したとのことで、佐敷村からわざわざ「戦況はどうなっているか」と二人が2,3度かわるがわるに、あるいは二人いっしょに訪ねて来たりなどした。彼らは一泊して翌早朝佐敷に帰っていったが、来るときはいつも黒砂糖を忘れず、「陣中慰問だ」と全社員に黒砂糖をふるまっていた。弾の中をくぐってもってきた砂糖だけに大変ありがたかった。それに甘いものはこの時だけしか口にしたことはなかった。彼らが来るのが遠ざかると、「翁長さんや渠さんはいつ黒砂糖を持ってくるかなあ」と子どもみたいに大の男たちが黒砂糖を欲しがったりなどした。→1975年9月『那覇市史 戦時記録 資料篇第2巻中の6』

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新城栄徳宛、仲本政基ハガキ「先日はさっそくコピーを送っていただき誠に有難うございます。大変なつかしく拝見いたしました。また記事の中に昭和俳壇の選者比嘉時君洞さんの名前が出ており、これもなつかしく拝見いたしました。(略)」
□1928年9月9日『沖縄昭和新聞』



2007年2月 那覇市歴史博物館『戦後をたどるー「アメリカ世」から「ヤマトの世」へ』ー『那覇市史 通史篇第3巻(現代史)改題ー』琉球新報社□由井晶子「戦後沖縄の新聞発刊 米軍機制下で発行に苦闘」/新垣安子「那覇市民会館 芸能・音楽の発展に貢献」