1966年2月7日『琉球新報』「現代大家沖縄写生会来沖画伯の顔ぶれ<1>ー有島生馬画伯①、東郷青児画伯②、中村琢二画伯」
有島生馬
洋画家・小説家。神奈川県生。小説家有島武郎の弟、里見弴の兄。名は壬生馬、別号に十月亭。東京外大卒。洋画を藤島武二に師事し、二科会を創立したが、抽象派に反発してのち一水会を創立した。「白樺」の創刊に加わり、小説には『蝙蝠の如く』『嘘の美』などがある。また翻訳・美術随筆にも腕をふるう。芸術院会員。文化功労者。昭和49年(1974)歿、91才。

1966年2月8日『琉球新報』「現代大家沖縄写生会来沖画伯の顔ぶれ<2>ー森田元子画伯、中村善策画伯、吉井淳二画伯③」

1966年2月、琉球新報の依頼で山田写真館の2階で、二科の東郷青児が琉装の宮平敏子さんをモデルにスケッチしているところを山田實さんが撮った。そのときの記念写真には、大城皓也、平良進、東郷青児、吉井淳二宮平敏子が写っている。お礼の東郷青児から山田さん宛のハガキがある。1986年1月24日『週刊レキオ』には東郷青児の絵、9月19日にはモデルの宮平さんの娘時代の写真が載っている。
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1966年2月16日、山田写真機店2階で山田實撮影。東郷青児を前に後右から宮平敏子、吉井淳二、平良進、大城皓也
②東郷青児
戦後のある日、有島生馬らと長野県に疎開していた東郷青児は列車で東京に向かった。戦前、軍部から「フランス文化の植民地」と云われて解散させられた二科会の再建を全国の有志に呼びかけるためだった。東郷は再建のためには、二科展覧会をお祭り騒ぎの見世物と、自らを風俗画の職人に堕落しているとの批判も無視。二科に写真、商業美術、マンガ部などを新設し二科を東郷調に近代化した。また日仏交流も促進した。東郷は「明治の藤島武二、大正の竹久夢二、この三代の三ジによって日本の洋画の人気は博している」と語り胸を張ったという。
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『吉井淳二自選展』1981年 毎日新聞社
③吉井淳二 よしい-じゅんじ
1904-2004 昭和-平成時代の洋画家。
明治37年3月6日生まれ。昭和元年「花と女」で二科展初入選,15年二科会会員となる。40年「水汲」などで芸術院賞。44年「浜辺の井戸」で二科展内閣総理大臣賞。51年芸術院会員。54年-平成10年二科会理事長。平成元年文化勲章。写実的な画風で,働く庶民の群像をえがいた作品で知られる。特別養護老人ホームを開園するなど社会福祉にもつくした。平成16年11月23日死去。100歳。鹿児島県出身。東京美術学校(現東京芸大)卒。(→コトバンク)


1966年2月9日『琉球新報』「現代大家沖縄写生会来沖画伯の顔ぶれ<3>ー水谷清画伯、島野重之画伯、田中繁吉画伯」
1966年2月10日『琉球新報』「現代大家沖縄写生会来沖画伯の顔ぶれ<4>ー荒谷直之介画伯、小堀進画伯、土田文雄画伯」

1966年2月11日『琉球新報』「現代大家沖縄写生会来沖画伯の顔ぶれ<5>ー楢原健三画伯、高野真実画伯、伊藤清永画伯④」
④伊藤清永は1911年(明治44)兵庫県下出石町下谷(しもたに)に生まれ、
日展と白日会を中心に活躍した文化勲章受章の洋画家です。 後年は、繊細な色線を無数に重ねて描き出される豊麗優美な裸婦像で知られています。 岡田三郎助の薫陶を受け、東京美術学校在学中の1933年第14回帝展に初出品、初入選。
1936年文展(文部省美術展)で選奨を受賞、白日会会員となり画家としての道を確立しました。
70年近い画業の中で、一貫して女性美の表現技法を追求し、温かみのある独自の画風を築いて見る人を魅了しています。2001年6月5日軽井沢のアトリエで制作後急逝し、製作中の「ばら」数点が絶筆作品となりました。→豊岡市立美術館-伊藤清永記念館



1966年2月12日『琉球新報』「現代大家沖縄写生会来沖画伯の顔ぶれ<6>ー藤本東一良画伯⑤,成井弘画伯、浦崎永錫画伯」
⑤藤本東一良 ふじもと-とういちりょう
1913-1998 昭和-平成時代の洋画家。
大正2年6月27日生まれ。昭和14年光風会でF氏賞を受賞し,21年会員。日展で21年,22年連続特選,56年「五月のコート・ダジュール」で文部大臣賞。平成5年「展望台のユーカリ」で芸術院恩賜賞,同年芸術院会員となる。明快な色調で海の風景をえがく。平成10年9月17日死去。85歳。静岡県出身。東京美術学校(現東京芸大)卒。→コトバンク

1966年2月16日『琉球新報』「有島生馬氏ら来沖 写生旅行の大家17人」
1966年2月17日『琉球新報』「いちばん”悲しい日〟現代大家沖縄写生会戦跡地で感無量」
1966年2月19日『琉球新報』「沖縄を描くー有島生馬、東郷青児」
1966年2月21日『琉球新報』「沖縄をとらえる 現代大家沖縄写生会(1)高野真実」
1966年2月22日『琉球新報』「沖縄をとらえる 現代大家沖縄写生会(2)森田元子」
1966年2月22日『琉球新報』「沖縄をとらえる 現代大家沖縄写生会(3)吉井淳二」

1966年2月24日『琉球新報』「沖縄をとらえる 現代大家沖縄写生会(4)有島生馬」
1966年2月25日『琉球新報』「沖縄をとらえる 現代大家沖縄写生会(5)荒谷直之介⑥」

1966年2月26日『琉球新報』「沖縄をとらえる 現代大家沖縄写生会(6)土田文雄」

1966年2月26日『琉球新報』「”いい仕事ができた〟沖縄写生会の画伯帰る」
1966年2月28日『琉球新報』「沖縄をとらえる 現代大家沖縄写生会(7)田中繁吉⑦」
⑦田中繁吉ー日本画家。明治31年(1898)福岡県生。東美校卒。藤島武二に師事する。創元会常任委員・日展参与。東京住。

1966年3月1日『琉球新報』「沖縄の風物 現代大家洋画展ー荒谷直之介⑧、森田元子⑨、有島生馬、楢原健三、中村琢二、土田文雄⑨、浦崎永錫、藤本東一」/沖縄をとらえる 現代大家沖縄写生会(8)小堀進」


荒谷直之介 あらたに-なおのすけ
1902-1994 大正-平成時代の洋画家。
明治35年5月11日生まれ。葵橋洋画研究所で黒田清輝らにまなぶ。光風会,日本水彩画会に出品。昭和15年昭和洋画奨励賞。同年水彩連盟を創立。18年みづゑ賞。21年一水会会員となる。日展評議員,参与をつとめる。平成6年2月18日死去。91歳。富山県出身。作品に「三人の像」「憩う裸婦」など。 →コトバンク

 ⑧土田文雄 つちだ-ふみお
1901-1973 大正-昭和時代の洋画家。
明治34年2月22日生まれ。大正7年川端画学校にはいり,藤島武二に師事する。10年院展に初入選。梅原竜三郎に傾倒して,15年から国画創作協会展に出品し,昭和18年国画会会員となる。29年武蔵野美大教授。昭和48年2月22日死去。72歳。山形県出身。米沢中学卒。作品に「海浜の朝」など。 →コトバンク

⑨森田元子ー昭和期の洋画家 女子美術大学教授。 生年明治36(1903)年2月11日 没年昭和44(1969)年8月12日 出生地東京・青山 学歴〔年〕女子美術専門学校洋画科〔大正13年〕卒 主な受賞名〔年〕岡田賞〔昭和21年〕「婦人像」 経歴岡田三郎助に師事して室内女性像を数多く描き、昭和2年に官展初入選後、官展系画家として地歩を固めた。女子美在学中に「主婦の友」の表紙懸賞に入賞、川端康成、大岡昇平、源氏鶏太らの現代もの新聞小説の挿絵も担当。また女子美大教授として後進の女性画家を育てた。→コトバンク

1966年3月3日『琉球新報』「沖縄をとらえる 現代大家沖縄写生会(9)成井弘」
1966年3月4日『琉球新報』「沖縄をとらえる 現代大家沖縄写生会 中村琢二」

1966年3月7日『琉球新報』「沖縄をとらえる 現代大家沖縄写生会(11)島野重之」
1966年3月8日『琉球新報』「沖縄をとらえる 現代大家沖縄写生会(12)楢原健三」
1966年3月9日『琉球新報』「沖縄をとらえる 現代大家沖縄写生会(13)藤本東一良」
1966年3月10日『琉球新報』「沖縄をとらえる 現代大家沖縄写生会(14)伊藤清永」

1966年3月11日『琉球新報』「沖縄をとらえる 現代大家沖縄写生会(15)水谷清」


1966年3月3日『琉球新報』現代大家沖縄写生会の産婆役ー浦崎永錫□複雑な人間関係の画壇事情にもくわしい。各美術団体の代表者格そろって、取材旅行ーという初の試みであった「現代大家沖縄写生会」も、浦崎氏の美術界での政治的力量のほどを示したものといえる。那覇市出身、六十五歳。



若狭/1974年7月 浦崎永錫『日本近代美術発達史[明治篇]』 東京美術

1987年4月 浦崎永錫 自宅書斎で


1974年7月 浦崎永錫『日本近代美術発達史[明治篇]』 東京美術

1992年6月 『新生美術』10号<追慕・山元恵一・山田昌弘・浦崎永錫>
         □新城栄徳「浦崎永錫ー美を追求する人」

 1921年、浦崎永錫は上京し、川端画学校で藤島武二につき油絵を学びながら、検定で小学校教師の資格を取り、後に夜間の工業学校の美術教師となった。昼はヒマがあるので画学校や美術館に出入りした(田中穣『日本洋画の人脈』)。1931年、浦崎永錫は美術誌『美術界』を創刊する。これは後に大著『日本近代美術発達史ー明治編』として結実される。やがて図画教師を中心とする全国組織の美術団体「大潮会」を結成するなど、その一生は美を追求することに終始した。

 同号には古きよき美術放談として山里永吉と浦崎永錫の対談も転載されている。□浦崎永錫「ぼくが絵が好きになったのは、小さいころ若狭町の漆器屋の大見謝さんという人が、ランだとかタケだとかを実に美しく、どんどん描いているのをうっとり見とれていたもので、それが一つの刺戟になったのだと思うネ」、山里永吉「若狭町といえばそのころ沖縄の芸術家の出身地が実に多いんだ。比嘉華山、金城南海、親泊英繁、西銘生楽、渡嘉敷衣川、野津久保、渡嘉敷唯仁、それに浦崎永錫がそうだろう。古くは有名な彫刻家・田名宗経もそうだし、これは若狭町、漆器の影響だと思うな」、浦崎永錫「そうか、田名宗経も若狭町出身か、初耳だ。漆器の刺戟と、それに景色がいいことだろう。夕方になると、おとなも子供もいっぱい若狭町湾小に出て夕日に見とれていたものだ。ああいうことは若狭町以外にはあまりないヨ。西海岸だから夕日がことに美しい。-」



山岡萬之助監修『宇宙』4月号 浦島久(浦崎永錫)「奇蹟」□大正拾年三月。今上陛下が皇太子殿下の御時欧州御巡遊の砌り、南の孤島うるまの島にも其の御印跡を残された。丁度其の当時の出来事である。全島全県上へ下への大騒ぎで街道街道は修理せられ見苦しき建物は取り壊され、御巡道には綺麗な砂利が敷き積められた。要監視狂人には保護を加え、穏やかならざる思想の持主には相当の注意をすることを当局者は忘れなかった。狂犬は撲殺された。

(略)
その頃、私は組合教会に席を置いてあった。組合教会は県の思想界の権威であり、県立図書館長であった。文学士も居た。文学士の夢の研究を知って居たS医師は私に『文学士からそれを聞いたら姉の病気にも何か参考になるだろう』とのことだった。私には参考と言う言葉が直感的に姉の病をいやしてくれるものだとしか聞き取れなかった。夢の話は重に潜在意識に対する研究だった様に記憶して居る。

日本大学第3代総長
山岡 萬之助 (やまおか まんのすけ)1933.8〜46.1
明治9年(1876)長野県に生まれる。
明治32年(1899)日本法律学校を卒業し、判事検事登用試験に合格。
東京区裁判所判事などを経て、明治39年ドイツに留学。司法省行刑局長、内務省警保局長、
関東庁長官等を歴任。
昭和6年(1931)には東京弁護士会会長就任。
明治43年本学教授となり、その後、学監、理事、法文学部長、学長を経て昭和8年第3代総長、
12年には総裁就任。
大正から昭和への激動する時代の中で、社会の要請に対応して、人文・社会・芸術・工学・医学
・農学の多分野にわたる総合大学の基礎を確立した。
貴族院議員、法学博士。
昭和43年(1968)死去、92歳。


1986年 『太平洋展』
1889年に小山正太郎、浅井忠らによって結成された明治美術会は、白馬会の独立などで勢力が衰え、1901年に解散したが、ヨーロッパから帰国した同会の新進作家、吉田博、満谷国四郎、中川八郎、丸山晩霞、有吉秀太(永地秀太) らを中心に、石川寅治、都鳥英喜、木下藤次郎、渡部審也 らが会務委員となり、明治美術会の後身として「太平洋画会」が結成された。1902年1月、第1回展を上野公園5号館で開催する。第2回展は、小杉未醒、石井柏亭、高村真夫らが出品。第3回展は、フランス留学から1904年に帰国した鹿子木孟郎が出品。第5回展には、フランス留学から1905年に帰国した中村不折が出品するに及んで、白馬会に対する洋画界の二大潮流を形成するに至った。→ウィキペディア


1992年6月 『新生美術』10号□新城栄徳「浦崎永錫ー美を追求する人」/1986年 『太平洋展』浦崎喜代「美を追求する人」

1966年2月、琉球新報の依頼で山田写真館の2階で、二科の東郷青児が琉装の宮平敏子さんをモデルにスケッチしているところを山田實さんが撮った。そのときの記念写真には、大城皓也、平良進、東郷青児、吉井淳二宮平敏子が写っている。お礼の東郷青児から山田さん宛のハガキがある。1986年1月24日『週刊レキオ』には東郷青児の絵、9月19日にはモデルの宮平さんの娘時代の写真が載っている。
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1966年2月16日、山田写真機店2階で山田實撮影。東郷青児を前に後右から宮平敏子、吉井淳二、平良進、大城皓也
東郷青児
戦後のある日、有島生馬らと長野県に疎開していた東郷青児は列車で東京に向かった。戦前、軍部から「フランス文化の植民地」と云われて解散させられた二科会の再建を全国の有志に呼びかけるためだった。東郷は再建のためには、二科展覧会をお祭り騒ぎの見世物と、自らを風俗画の職人に堕落しているとの批判も無視。二科に写真、商業美術、マンガ部などを新設し二科を東郷調に近代化した。また日仏交流も促進した。東郷は「明治の藤島武二、大正の竹久夢二、この三代の三ジによって日本の洋画の人気は博している」と語り胸を張ったという。
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1986年1月『週刊レキオ』№43「沖縄のモナリザー東郷青児画伯の『琉髪』はいま、どこに」
1986年9月『週刊レキオ』№77「沖縄のモナリザがみつかりましたよー東郷青児画伯の琉髪美人画のゆくえ


2016年2月24日 おもろまち