先生との初めての出会いは、先生常宿のホテルの部屋でした。当時、既に陶芸界の重鎮でしたので、若造だった私は興奮気味でした。先生は開口一番「君は、今の陶芸家たちをどうして作家と呼ぶのか知ってるか」と聞かれましたが、分かりません、と答えると、「今の陶芸家は一寸売れ出すとすぐ、窯より先に家を作るだろう。だから作家と云うのだ」と破顔一笑された。なるほど、有田の陶工の家は皆、立派なものだ。先生は「俺は家がボロボロだからホテル住まいだよ。そのかわり窯は日本一だ」。この初対面で私は先生に惚れ込んで仕舞ったのです。

○加藤 唐九郎は陶芸家、また陶磁史研究家。愛知県東春日井郡水野村出身。桃山時代の陶芸の研究と再現に努めたが、永仁の壺事件で行った捏造により、無形文化財の資格を失った。事件後は作陶に専念した。建築物と陶磁器の組み合わせ陶壁を創出。陶壁は唐九郎による造語。 →ウィキペディア


2016年10月 城谷一草「春秋庵雑筆」③< 南大東島の石と黒木の勾玉>
 写真は勾玉です。この素材は、南大東島の石と三線の棹に使う黒木です。二つとも、沖縄特産で先述の石は模様がとても美しいのです。黒木は木材で最も堅く、勾玉には最適だと思います。この二つの素材にもっと注目してほしいものです。

○勾玉(まがたま、曲玉とも表記)は、先史・古代の日本における装身具の一つである。祭祀にも用いられたと言われるが、詳細は分からない。語の初出は『記紀』で、『古事記』には「曲玉」、『日本書紀』には「勾玉」の表記が見られる。語源は「曲っている玉」から来ているという説が有力である。日本本土では、現在まで神社等でお守りとして販売されているが、沖縄ではノロ(祝女)の祭具として使用され、現代もその伝統が受け継がれている。古琉球時代(14世紀 - 16世紀)の遺構からは、玉製以外にも金製や陶製の勾玉が出土している。→ウィキペディア

2016年10月 城谷一草「春秋庵雑筆」④< 夢二のキャラメル>
 明治の末から大正にかけて、叙情の世界を展開した”竹久夢二〟の女性は、明治末に発刊された平塚らいてうの雑誌『青踏』の新しい女と共に、新時代の夢を、そして憧れや哀愁が描かれた時代でした。夢二の代表作「黒船屋」は、現代人にも美しく映りますが、当時の日本は軍国主義に突き進んでいった情勢でしたが、大正ロマンという幕も張りだしていましたので今から思えば奇妙な時代だったと思います。
 
夢二がデザインしたキャラメルの箱が大阪のペンフレンドから送られてきました。
  
2016年10月 城谷一草「春秋庵雑筆」⑤< 陶印に思う>
 趣味の一つに、陶印作りがあります。粘土は腐るものではないから年中家に準備している。焼成は親しい窯に依頼し焼いて貰っている。陶印は手紙や日記などに捺して楽しむ印、遊印です。あくまでも趣味の世界のもので無趣味の人には無価値です。私は陶印クラブみたいなものを作りたいと思っています。


城谷一草「作品」


2016年11月14日 写真左からー城谷陽くん、城谷一草さん、新城栄徳

2016年10月 城谷一草「春秋庵雑筆」①< 立花隆「都庁伏魔殿 」文春11月号を読んで
 思えば、東京都民は3代の知事に裏切られたのです。日本国中何処の選挙民も穏和で正直者の選挙で、市町村議会議員から国会議員に到るまで、愚劣な政治家に騙され裏切られてきたものです。築地の豊洲移転問題が決定された当時の知事、石原慎太郎氏は「都庁は伏魔殿(ふくまでん)」と云ったが、1965年、第1代の安井知事の頃から汚職の巣窟、伏魔殿が出来ている。64年、文芸春秋社に入社した立花隆氏の初仕事は、この伏魔殿の取材だった。田中角栄のロッキード事件と、この伏魔殿を一連の流れとして今回の豊洲移転問題。

 石原、猪瀬直樹、舛添要一の3氏ともに此の伏魔殿の主になったものの何一つ改革出来なかった。立花隆氏が今回の豊洲移転問題を如何見ているのか、国民はこの人の動きを期待していると思う。立花氏は小池百合子との接触は無かったと言いながらも、1992年、細川護熙の日本新党に参加して政治家としてスタートした彼女を見て、独自の政治スタイルで日本の政治を面白くして行くだろうと述べている。『文藝春秋』の立花氏の救世軍的発言は、日本中に増築中の伏魔殿の壊滅に大いなる力になるものと信じています。○城谷翁は長崎生まれの89歳、いつも長崎生まれの立花隆を気にしている。

○1998年3月 『立花隆のすべて』文藝春秋