1982年9月 沖縄の雑誌『青い海』116号 山口栄鉄「海外沖縄便りー幸地東風翁/移民一世の死」

2016年12月16日 バジル・ホール来琉200周年記念碑除幕式が、那覇市の泊緑地で開かれた。関係者が集まって記念碑の建立を祝い、今後も沖縄とイギリスなど、海外との交流が深まることを期待した。

写真左から渡口彦邦氏、宮城宏光氏

写真左から嘉数昇明氏、緒方修氏、山口栄鉄氏、安仁屋眞昭氏








2016年12月30日『琉球新報』 <金口木舌>バジル・ホールの碑の前で
 那覇市の泊外人墓地に「WM HARES」と記された古い墓がある。西洋人として初めてここに葬られた英国人水兵の墓だ。一度改修されたが「1816」の刻銘が建立年だ
▼200年前、琉球を訪れたバジル・ホール英艦隊一行の一員ウィリアム・ヘアーズが21歳で病死した。琉球側は泊の松林に埋葬し、豚をささげ、ウチカビを燃やした。手厚い葬儀に英国側は感銘を受けた
▼ホールは帰国後、約40日間の滞在を「朝鮮・琉球航海記」として出版し、美しい自然や穏やかで礼儀正しい琉球人を称賛した。本国への帰途、ナポレオンと会い「武器のない島がある」と報告し、彼を驚かせたという逸話は有名だ
▼ホールの本を読んで琉球を知ったペリーは37年後、那覇沖に姿を現す。「武器のない島」はその後、日本に組み込まれ、米国との戦場にまでなった。最悪の武器である核や化学兵器も置かれ、ベトナムや湾岸、イラク戦争への出撃基地と化した
▼西洋に初めて琉球を紹介したホールの功績をたたえる記念碑が今月建立された。場所は彼らが上陸した泊の公園だ
▼碑の前に立つ。日米からの外圧が増す中、理不尽な島の現状を考える。200年前、戦とは無縁だった島は、戦争好きな権力者に翻弄(ほんろう)されるようになった。平和外交を求め続けた先人たちの姿を思うと、未来を諦めるなとの声が聞こえる気がした。


2016年11月 山口栄鉄『チェンバレンの琉球・沖縄発見』芙蓉書房出版
2016年12月15日 ジュンク堂那覇店「チェンバレンの琉球・沖縄発見」発売記念 山口栄鉄さんトークイベント

写真左から、森本浩平ジュンク堂那覇店長、山口栄鉄氏、緒方修氏(東アジア共同体研究所 琉球・沖縄センター長)

山口栄鉄氏(左)、渡口彦邦氏

緒方修氏(東アジア共同体研究所 琉球・沖縄センター長)、山口栄鉄氏

山城智史氏(名桜大学)、上里佑子さん

写真左から、山口栄鉄氏、平澤公裕氏(芙蓉書房出版社長)、緒方修氏(東アジア共同体研究所 琉球・沖縄センター長)

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2012年11月 ヨーゼフ・クライナー/沖縄大学地域研究所編 『世界の沖縄学ー沖縄研究50年の歩みー』芙蓉書房出版
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1961年6月 沖縄研究会のメンバー、左から名嘉順一、ヨーゼフ・クライナー、比嘉政夫、中本正智

1962年1月4日『沖縄タイムス』

左ーヨーゼフ・クライナー氏、新城栄徳

2016年 ~11月9日 那覇市歴史博物館「バジル・ホール来琉200周年記念/ウランダーがやってきた!」

 琉球新報 2016年10月1日
英国の新聞に琉球人の手紙が掲載された。1818年10月2日付「ザ・モーニング・ポスト」だ。浜川仁沖縄キリスト教学院大教授が著書「クリフォード訪琉日記」(不二出版)で紹介している
▼「琉球の真栄平より、我が友イギリス人首長へ」「わたしはイギリス人のことを決して忘れません」「真栄平を、そして貴殿の琉球の友人たち皆を、お忘れめさるな」。真栄平とは、当時の「異国通事」真栄平房昭(ぼうしょう)のこととされる
▼200年前、英国艦隊が琉球を訪れ、約40日間滞在して測量などを行った。ライラ号艦長のバジル・ホールは帰国後、航海記を出版。琉球ブームが起き、真栄平の名前も広まった。その頃の記事だ
▼琉球で真栄平と親しく交流したクリフォードは、単語帳「琉球語彙(ごい)」を作った。琉球に親しみを持ち続け、後に伝道会を設立して琉球に宣教師ベッテルハイムを送った
▼記事に載った手紙は、ローマ字で琉球語を表記しているが、語順は英語のままだ。英文の単語を琉球語に置き換えただけに見える。浜川教授は、クリフォードが架空の手紙を作ったとみる。琉球への熱い思いの表明なのだと
▼那覇市歴史博物館「ウランダーがやってきた!」展会場にこの記事のコピーがある。極東に西欧列強が本格進出する第一歩となった航海。その後の歴史にも思いをはせ、手紙に向き合ってみてはどうだろう。









2016年9月3日~11月9日 那覇市歴史博物館「バジル・ホール来琉200周年記念/ウランダーがやってきた!



2016年9月11日14時~16時 ギャラリー文化講座 講師・浜川仁「琉球とイギリス~その出会いと、イメージのすれ違い~」

2016年10月19日『沖縄タイムス』「魚眼レンズー仲嶺絵里奈さん」